春がきた。
いや実際の季節は冬であり、吹き抜ける寒風が手足を痺れさせ、鏑丸も心なしか動き鈍く絡みついてくるような、そんな日だったのだが──
それでも伊黒小芭内は、その日、間違いなく春を見た。
「煉獄」
「む! どうした伊黒、お前が訪ねてくるとは珍しいな!」
煉獄杏寿郎は、いつもと変わらぬ晴れやかな笑顔で伊黒を出迎えた。彼の態度には裏表がなく、どこまでもまっすぐで温かい。まさしく炎のようなこの男を伊黒は悪からず思っている。だが、今日の本題は彼ではなかった。
「お前に用があるわけじゃない」
「そうか! では何故」
「用があるのは、彼女についてだ」
「彼女とは?」
「それを聞くために、ここに来た」
炎柱の稽古場では煉獄の継子がひとり、鍛錬に励んでいる。煉獄の下で稽古に励み、ついこの間、入隊したばかりという、新入りも新入りであった。先日ひとつの任務を終えて、次の任務を待つ間、炎柱の屋敷に逗留しているらしい。
「彼女の名は?」
「何故そんなことを聞く?」
「名は」
追及されたとて、答えるべき言葉を伊黒は持ち得ていない。いいから早く答えろと圧をかける。煉獄は何度か瞬きした。
「甘露寺だ。甘露寺蜜璃という」
かんろじみつり。伊黒は舌先で転がすようにその名を頭に刻み込んだ。
基礎鍛錬として延々と木刀を振る彼女の、しなやかな動きを見つめる。桜色から若草色へ色鮮やかに移り変わる髪が、猫のしっぽのようにふわふわと揺れている。
……空を切る木刀の音が妙に重い。
「煉獄。あの木刀、通常のものではないだろう。何を仕込んでいる?」
「うむ、よく気づいた! あれは甘露寺用に誂えた特別な木刀だ。中に石を入れて重くしてある」
「中に石を入れて重くしてある?」
「そうだ!」
そうだ、じゃない。なにを自信満々にしているのかさっぱりわからないが、木刀に石を仕込むなど馬鹿のすることではないか。それをあんな細腕に持たせて。
細腕に。
しかし甘露寺はその細腕で、苦もなく木刀を振るっているのであった。
なんとしなやかな動きだろう。ただでさえまっすぐな木刀に石を含ませて、それらはすべて剛であるのに、彼女の太刀筋は柔らかい。それは威力が低いという意味ではない。全身を使って刀を振るう姿の美しさ。晒された真っ白な素足が躍動する。人目に堂々と晒された豊満な胸がたゆんと跳ねる。
「九百九十八。九百九十九。千! 終わりっ! 煉獄さん、私、走り込みにいってきます!」
「ああ待て甘露寺! 紹介したい男がいる!」
「えっ?」
「は?」
息ひとつ乱さず駆け出そうとした甘露寺は、煉獄に呼ばれて足を止めた。何かしら何かしら、ぱたぱた駆け寄ってくる娘からは、やはり春のにおいがする。
伊黒を視界に収めた甘露寺は、頬をぽっと紅潮させた。かわいい。
「甘露寺、この男は伊黒小芭内。蛇柱だ!」
「まあ! 蛇柱さまだったの?」
いっぱいに開かれた新芽の色をした瞳が、太陽の光をきらきらと受け止めて、まるで木漏れ日のように輝いている。
「甘露寺蜜璃です。あの、その、よろしくおねがいします……!」
甘やかな、まろい声が鼓膜をなでる。下げられた頭のまんなかに伸びる、白いつむじが愛らしい。
「ああ」
やはり春であったと伊黒は思った。とくとくと鼓動を感じる。かじかんだ指先にまで血が巡る。
目が覚めるようだった。
「よろしく、甘露寺」
春の日差しに包まれたように、彼女はこんなにもあたたかい。