「んぐ」
ざく、と音がした。口の中一杯に鉄臭さが広がる。まったく迂闊であった。無意識に気が抜けていたのかもしれない。甘露寺の食べっぷりに見惚れていたなど言い訳にもならない。反省しなくてはなるまい。自省と痛みに顔を歪めた伊黒を気にかけて、甘露寺が食事の手を止める。
「伊黒さん、どうしたの?」
若草色の鮮やかな瞳が覗き込む。甘露寺は今日もとびきりかわいい。少しだけ首を傾げる様は百点満点だ。それはそれとして、伊黒は己の間抜けを好いた相手に伝えられるほど素直な性格はしていない。顔の前で緩く手を振る。
「いや……気にするな。大したことじゃない」
しかし捻くれた見栄など結局のところ脆いもので、
「でも、なんだか変な顔をしているわ」
と甘露寺が顔を曇らせれば観念せざるを得なかった。鏑丸が呆れたようにくるりと首周りを一周し、頭を後ろに向ける。伊黒はどうにもばつの悪い心地で白状する。
「頬を噛んでしまった」
「まあ大変! 大丈夫? どうしましょう、お薬をぬらなくっちゃ!?」
「いや、待て、大丈夫だ。大丈夫だ甘露寺。この程度、すぐに塞がる」
見るからに慌て始めた甘露寺を、内心で慌てる伊黒が宥める。たかだかこの程度のことで大騒ぎされては、沽券にかかわる、色々と。
「問題ない。甘露寺、一旦落ち着こう」
「でも伊黒さん」
「やや鉄臭く塩辛いが、それだけだ。ほら、味覚も正常に働いているだろう」
「だけど、ああ、伊黒さん、お口を開けて!」
「は?」
ね! とかわいい顔で詰め寄られて、伊黒の頭は真っ白になった。甘露寺の手が伸び、白魚の指が包帯を引っ張る。──待ってくれ。腹の底が冷える。この布の下を、見せるわけには。甘露寺、制止の声はしかし甘露寺を止めるには不十分であった。
包帯が緩む。口元が露になる。ああ。伊黒は悲鳴を覚悟し、罵声を待った。
けれども甘露寺は、ただひとこと、
「伊黒さん、あーん!」
と、言うばかりであった。気圧され、呆気にとられて、口を開ける。甘露寺がその中を真剣な眼差しで覗く。頬の内側からじわじわと流れる血が唾液と混じりゆく様が、甘露寺の瞳に映っている。
「ああ、きっとここよね、真っ赤にめくれて、とても痛そう……しのぶちゃんからもらった、外傷用の軟膏があるの、それをつけたらきっとすぐに治るわ!」
「いやそれは。粘膜に塗布して平気かどうかは、とても怪しいと思う」
「あっあっ、そうよね、そうだわ、そうよね……」
甘露寺はしおしおと身を引き、恥ずかしそうに頬を両手で覆った。
伊黒はそのままの顔で口を閉ざした。伊黒だって相当恥ずかしかったし、それ以上に動揺していた。ただ、顔に出ないだけだ。気づかないふりをしているのか、あるいは本気で気づいていないのか、さだかではないが──伊黒は包帯を元通りに留めなおす。
周囲がにわかに騒がしい気がするのは、いまの伊黒の自意識が過剰になっているせいだけではあるまい。反応から察するに、外側から伊黒の顔を見た者はいないようだが……それが、むしろ、いたたまれない。
甘露寺は、自分がどういう目で見られているのか、それによりどう思われているか、どうにも鈍いところがある。うら若き乙女が、男の口の中を覗いて赤面するなど。意味がわからなすぎるがゆえに、奇妙な親密さを感じさせるようで、却って羞恥を煽る。
会話が途絶えた昼食の席に、微妙な気まずさが満ちる。
打破したかったらしい甘露寺が、狼狽えながら言葉を発した。
「……おいしい?」
「……おいしくは……ないな」
気まずさは、振り払えなかった。