「ひ……ぁ……ァ、」
甘露寺の苦しげな喘ぎが、かすかに、けれども確かに耳に届いて、伊黒の意識は覚醒した。あまりに情けないことだが、不覚をとった。植物を自在に操る下弦の鬼。飛んできた巨木を避けきれず、直撃して意識を飛ばした。こんなことをしている場合ではない。甘露寺。甘露寺は。
思考より早く飛び起きようとして、両の手のひらに激痛がはしった。見れば、植物の棘が鋭い杭となって骨を貫通し、地面に伊黒を縫いとめている。鏑丸が懸命に杭に巻き付いているが、蛇の力では抜けるはずもない。刀は折れ、近くの幹に突き刺さっていた。
視線を巡らせる。上空に、甘露寺がいた。太い蔦に、ぎりぎりと締め上げられている。強制的に手を開かされたようで、彼女のために誂えられた柔らかくしなる刀は地面に落ちていた。
いやらしい顔をニィと歪めて、鬼が笑う。
「いやはや、これはまた上等な獲物……」
「う、うぅ、ぅ~~……ッ」
甘露寺が顔を赤くしながら呻いている。苦しげな、押し潰された肺から溢れる息に音がついたような声だ。懸命に身をよじるたび、蔦がより力を増す。ぎしぎしと引き攣れるような音がする。粘こく糸を引く血色の舌が、裂けた口より這い出でて、甘露寺の頬をねっとりと舐める。
「ひ、」
「これほど極上な娘が鬼殺にいるとは、なんたる僥倖。あな嬉しや……」
陶酔し、恍惚とした声色で鬼がのたまう。べろりと甘露寺のやわい頬を舐めあげた鬼は、次いで甘露寺の瞳を深く覗き込んだ。細い蔓が伸び、甘露寺の瞼を開かせる。
「素晴らしきはこの瞳……雪解野より顔を出す瑞々しい蕗の薹のごとき鮮やかさ……喰らえばさぞかし美味かろうなァ」
「あ、あ、やだッ」
舌先が、甘露寺の瞳に近づいていく。甘露寺が怯え、小さな悲鳴を上げる。身を竦ませて逃げようとするが、鬼は彼女を離さない。
伊黒の脳は、そのときにはとうに煮え立っていた。拘束された甘露寺を見つけたその瞬間から全身は怒りに支配されていたが、あの汚らしい生物が、甘露寺の細い身体を苛み、締め上げ、あまつさえ穢れた舌で舐めあげたのを見て、伊黒の堪忍袋は優に百はぶち切れて、もはや繊維すら残っていない有様であった。
「ぐ、うぅ、ううう……ッ!!」
呼吸を整え、全身に力を巡らせる。力任せに引き抜こうとして、激痛に呻きが漏れる。
伊黒は、鬼殺隊員の中でも非力な部類である。力ではなく技で鬼を斬り、これまで命を繋いできた。己に煉獄や宇髄ほども力があったらば。この程度の杭など難なく引き抜けたであろうに。頭に過ぎる惨めたらしい思考を振り払う。
力がなくとも。痛みが走ろうとも。
やらねばならぬ。殺さねばならぬ。
守らねばならぬ。
抜けろ。抜けろ。
抜けろ!
ぶちぶちッ、と肉が裂け、骨の砕ける音がして、伊黒の両手が軽くなる。瞬間、伊黒は強く地面を蹴り、蔦を駆け上った。今まさに甘露寺の瞳を分不相応にも舐ろうとしていた下弦の鬼は、しかしそちらに夢中で、既に無力化したと思い込んでいた男の動きに気がつくのが一歩遅れた。
「貴様ごときが、」
這い寄った蛇が空を舞う。
「甘露寺に触れるな!!」
全体重と助走の勢いの乗った見事な跳び蹴りが、鬼の横っ面を撃ち抜いた。
「ぐべらッ」
鬼が潰れた鳴き声をあげる。無論、腐っても下弦、この程度で弱るほど脆くはない。しかしながら、血鬼術の効力を弱めるには十分なほどの衝撃だった。
「伊黒さん!」
「甘露寺、首を!」
「はいッ! ン~~~~……ッ!!」
甘露寺が唸りながら全身に力を籠める。ギシ、ギシギシ、鈍い音がする。強烈な打撃を食らって空を落ちる鬼はそれを見て、無駄な抵抗と断じたことだろう。植物とはしなやかで強いもの。若い娘の抵抗で破れるわけがない。
そうとも其れは常識として正しい認識である。
だが鬼が対峙していた娘は、他ならぬ甘露寺であったのだ。
常人の捌倍の密度を持つ筋肉が収縮する。決意と覚悟が彼女を突き動かす。蔦は瞬く間に甲高い悲鳴を上げ、ついに無残にも引き裂かれた。
「甘露寺!」
自由を得た猫が跳ぶ。一足先に着地した伊黒は、気合でもって甘露寺の刀を掴み、空へ放った。木々を蹴って進む甘露寺が、それを受け取り、愕然と目を見開く鬼へ飛び込みながら、一閃。
しなやかな刀身が夜を斬る。
鬼の頸が、ごろりと闇へ転がった。