甘露寺が風邪を引いた。
報せを受けた伊黒は、そのとき請け負っていた任務を伊黒史上最速に届く勢いで片付け、その足で蝶屋敷へ急行した。鎹烏が報せを伝えに参じてから、伊黒が屋敷へ到着するまで、僅か半日もかからなかった。
「どういうことだ」
「どうもこうも、そのままですよ。甘露寺さんが風邪を引かれたんです」
胡蝶しのぶは、物騒な表情で飛び込んできた伊黒を平然とあしらった。伊黒に文を出したのは他ならぬ胡蝶である。甘露寺に頼まれて、彼への手紙を代筆したのだ。そのため、予想よりずっと早い来訪に驚きはしたが、どうせすぐ来るだろうと思ってはいたのだった。
「彼女が先日、任務で訪れた村に、流行り病が蔓延しておりまして」
「何故そんな場所に甘露寺を行かせた。対策はさせていったんだろうな」
「行ってみて初めてわかったことですよ。対策も何もありません」
伊黒の顔がみるみる険しくなっていくので、胡蝶はそっと息を吐いた。事前の調査が甘かったことは確かであって、責められるべきではあるけれども、今それを言っても始まらない。この件については隠の者たちに報告済なので、今後は改められることだろう。
伊黒とて、その程度のことを理解していないはずもあるまいに。この男は甘露寺が関わると、途端に頭の螺子が緩むのだ。
「幸い、命に係わるような病ではありませんでしたから、彼女にはしばらくこちらに逗留してもらうことになりました。責任をもってきちんと看病しますから、安心してくださいな」
言いながら胡蝶は、小さな盆に水差しと薬包を並べた。それを持って立ち上がったところで、しばし押し黙っていた蛇の鋭い眼差しに射貫かれる。
「それは、甘露寺のものだな」
「はあ……よくわかりますね」
誰も甘露寺のための薬だなんて言っていないのに、と呆れている間に、伊黒は胡蝶の手から盆を奪い取っていた。
「俺が持っていく」
「は? ちょっと伊黒さん? だめですよ、甘露寺さんの病はうつるんです。不用意に近づいて、あなたまで罹患してしまっては」
「お前も条件は同じだろう」
胡蝶は口を閉ざした。言いたいことはあったが、いま言うべきことではなかったし、何よりぎょろりと胡蝶をねめつける目が、反論は一切聞かぬと語っていた。
「空気を介してうつる病なら、口を覆っている俺の方が看病に適している。だいたい俺は、甘露寺の見舞いにきたんだ。邪魔をされる謂れはない」
「ああもう、わかりました。好きになさってください」
胡蝶はもはや諦めて、どうか仕事を増やすようなことだけはしないでくださいね、と言った。
甘露寺は蝶屋敷の離れに敷かれた布団の中で、朦朧と天井を見つめていた。頭がぼんやりとする。こんなに熱が出たのはいつぶりだろう。甘露寺は、とにかく健康なこどもであったから、体調を崩すことも滅多になかった。胡蝶は、きっとすぐ治ります、と言っていたが、どうにも心細くて仕方がない。ずきんずきんと鼓動に合わせて関節が痛む。なおるかしら。ずっと痛いままだったらどうしよう。
「──甘露寺」
なんだか泣きたくなってきたところに、予想もしていなかった人の声が聞こえて、甘露寺は思わず飛び起きた。
「い、伊黒さん!? あう」
「……すまない、驚かせた。大丈夫か?」
あまりに勢いをつけたものだから、反動で身体がひどく軋んだ。痛みに呻く甘露寺のそばに、伊黒がそっと腰を下ろす。甘露寺は体内から襲い来る痛みに耐えながら、恐る恐る伊黒を見る。
「伊黒さん……あの、ど、どうして?」
柱のくせに風邪を引いてしまった不甲斐ない己を叱りにきたのだと甘露寺は覚悟をしていたのだが、予想に反して、伊黒の声は穏やかで優しかった。
「風邪を引いたというから、見舞いに来たんだ。薬を持ってきた。飲めそうか?」
「あ……うん、飲めるわ」
差し出された水差しに、甘露寺の胸がきゅんと高鳴る。薬は苦くて粒が大きく、飲み込むのが少し辛かったが、ときめきの勢いで飲み込めた。伊黒が何気ない仕草で、甘露寺の手から水差しと薬包袋を預かった。
「あとは、ゆっくり休むといい。大丈夫だ、すぐによくなる」
「うん……伊黒さん、ありがとう」
再び布団に横たわった甘露寺の額を、伊黒の手のひらがそっと覆った。伊黒の手はひんやりとしていて、気持ちが良かった。
その手が離れてしまうのが、どうにも寂しくてならない。
甘露寺は咄嗟に伊黒の手を両手で掴んでいた。
「……甘露寺?」
「あっ……あの、ええと、」
伊黒は目を丸くしている。甘露寺は慌てて、焦って、けれども手を離すのは嫌で、懸命に引き留めるための言葉を探す。偽りを述べる余裕はなかった。そもそもからして甘露寺は、誤魔化すのが苦手な性分だ。
「私、なんだかいま、心細くて、だから、伊黒さん」
まっすぐな蛇の目を見つめ返しながら、甘露寺は、結局素直にお願いする他になかった。
「そばにいてもらっても、いい?」
今度こそ怒られるだろうか。呆れられるだろうか。柱がこんな甘えたことを言っていては駄目だろうという自覚は甘露寺にもある。おろおろとする甘露寺の手の中で、伊黒の手首より伝わる脈拍がその律動を早めたことに、甘露寺は気づかなかった。
「…………わかった」
だからもちろん甘露寺は、そうねだられた伊黒の顔が、耳まで真っ赤に染まっていたことも知らない。
そのときの甘露寺は、伊黒が怒らず、呆れず、手を振りほどかないでいてくれたことが嬉しくて、胸がいっぱいだったのだ。
さて翌日、甘露寺の風邪はすっかり完治した。甘露寺の肉体は、まさしく頑健そのものであった。しかしそうはいかなかったのが伊黒である。甘露寺の風邪菌をその身に受けた伊黒は見事に蝶屋敷の仕事を増やし、狼狽える甘露寺の懸命かつ大味な看病を受けながら、胡蝶に散々説教されたという。