傍に置いていた己の刀に手を伸ばした甘露寺は、あっ、と声をあげた。柄のところに
どうしよう。
甘露寺は、蟷螂があまり得意ではない。できれば触りたくないが、鞘を持って刀を振り回すのは流石に危ない。そんなことをしてうっかり怪我でもしてしまったら、さすがに恥ずかしすぎる。以前もこういうことがあって、そのときは胡蝶に助けを求めたのだけど。蟷螂を取ってください、なんてお願いを、胡蝶は嫌な顔ひとつせず引き受けてくれた。虫、苦手なんですね、と言われて赤面したのが懐かしい。触るのがちょっと怖くて、という甘露寺の言い訳を、胡蝶はそうでしたかと笑って聞いてくれた。
しかしここに胡蝶はいない。自分ひとりで何とかしなくてはならない。放っておいたらどこかへ行ってくれないかしら、淡い期待を込めて半刻ほどそわそわと待ってみた。しかし蟷螂は一向に動かない。完全に待ちの姿勢に入ってしまっている。
こうなったら、もう覚悟を決めるしかないだろう。甘露寺は苦い気持ちになりながら、ふうっ、と深く呼吸をする。
恐る恐る、手を伸ばす。
甘露寺は昔から力が強かった。そして幼い頃は、その力に無自覚であった。家族はよく食べよく動く甘露寺を受け入れてくれていたし、恋を知らない甘露寺の世界はそこで完結していたからだ。
ある日、甘露寺は、道端に伸びた背高の草に、蟷螂が乗っているのを見た。しゅっと鋭い鎌を構える凛々しい姿は、甘露寺の目にもとても目新しく映った。もっとよく見たくて甘露寺は、それを手に取ってみようとした。親指と、人差し指で、ちょんと摘んで、
ぐしゃ。
甘露寺の指の間で、蟷螂が奇妙な形に歪んだ。細長い身体が胴より折れて、翅がばらりと広がって。もぞもぞと動いていた鎌も足も、すぐに動かなくなった。
甘露寺は、大声で泣いた。こんなつもりじゃなかったのに。ちょっと見たかっただけなのに。ころしてしまった。しなせてしまった!
「甘露寺?」
甘露寺は、はっと顔を上げた。見れば伊黒が、開け放たれた縁側より、刀を前に狼狽える甘露寺を見ている。
「どうかしたのか」
「あっ、ええと」
心底から心配そうに伊黒に問われ、甘露寺は焦った。見られてしまった、恥ずかしい。こんな情けないところを。顔を赤らめる甘露寺を置いて、伊黒は刀に目をやった。甘露寺の大仰な動きに反応し、戦闘態勢に入っている蟷螂を見る。
「虫が苦手なのか?」
「そっ、そうじゃないのだけど、その」
あのときから随分時間が経って、甘露寺はもうすっかり大人だ。自分の力が常識を逸していることも、その加減の仕方も、きちんとわかっている。それでも、あの日、命をすり潰してしまった生々しい感触は指先に残ったままだ。
もし、また間違えてしまったらどうしよう。
「また、潰してしまったら……って、思って」
本当は、虫だけのことではない。甘露寺の胸には、常にそんな不安がほんの少し漂っていて、普段は見ないふりをしているだけだ。自分の特異体質と二十年近く付き合ってきて、自分は自分だと胸を張って生きて、居場所も正しく見つけているけれど、でも。
「大丈夫だ」
思考を、伊黒が遮った。靴を脱ぎ、屋敷内に上がった伊黒が、甘露寺のそばに腰を下ろす。そうして、甘露寺が蟷螂に向けて伸ばしていた手に、伊黒自身の手を重ねた。
「いっ、伊黒さん!?」
「大丈夫だ、甘露寺。普段通りやればいい」
突然の接触に、甘露寺の胸がきゅんと高鳴る。伊黒は優しい力でもって甘露寺の手を蟷螂の背へ導いた。ごくやわらかな力が甘露寺を押す。力加減を教えてくれている。
やさしく。やわらかく。
普段通りに。
大丈夫。
きっとできる。
甘露寺は、そうっと、蟷螂をつまんだ。
──今度は、潰れなかった。
「~~~~ッ、伊黒さん、ありがとう!」
蟷螂を庭に放った甘露寺は、高鳴る胸をそのままに、勢いに任せて伊黒に抱き着いた。
驚いたのは伊黒である。伊黒としては、甘露寺に己の手を重ねることすら相当緊張して、一大決心が必要だったというのに。甘露寺ときたら、その距離を一瞬にして詰めてくるから堪らない。
「私、ちゃんとできたわ! 伊黒さんのおかげよ、ありがとう!」
突如として身に降りかかった数多の感覚──突進の勢いによる衝撃、押しつけられた柔らかな乳房の感触、耳元に感じる息遣い、これもしや自分のにおいが甘露寺に伝わってるんじゃないか──等々、その情報量に伊黒はひねりつぶされた。時間にして五秒も経っていなかった。
伊黒は、己の意識が遠のいていくのを感じた。
「えっ、伊黒さん? 伊黒さ……伊黒さーん!?」
甘露寺の悲鳴が、うららかな午後に響き渡った。