あれから、どれぐらいの時間そうしていたのだろう。もう時間という概念すら忘れそうなほどに心はやつれきっていた。しばらく学校にも行っていない。いや、行く気などなれるはずもない。
だって、行ったら思い出してしまうから。
ぼんやりと辺りを見渡す。灯りは開け放たれたカーテンがそのままの窓から差し込むオレンジ色の夕日とわずかに輝く星光り、いつもの場所に腰掛けて英雄はただただ、まるで抜け殻のようにそこから見える景色を虚空をみるような瞳で映す。そこに、もはや人間の生気というものは感じられるかどうかが疑問である。
ドアの開く音がした。その音にようやく初めて自分の躰が何かに反応した気がする。
――――ただいま。
聞こえてきた、愛おしい声。ずっと聞きたいと、その笑顔を見たいと思っていたひとの存在を認知して英雄は弾かれたように飛び出す。
「マミ!」
でも、そこにいたのは巴マミではなくて。自分のクラスメートである鹿目まどかだったことに気が付くこと、その間約5秒。人の、しかも友人の存在を認知するにはこの距離では時間が掛かり過ぎである。変わり果てた英雄の様子に、まどかは酷く戸惑い、また脅えもしていた。
「あ、あの…部屋にいったらいなくて…それで、もしかしたらって・・・・」
「・・・・ごめん。心配かけて」
ようやく絞り出した声でそう労うと、まどかは首を振った。
「そんなこと、当たり前だよ。だってヒデ君、友達だもん・・・・」
「そうか・・・・ありがとう。とりあえず、上がってくれ」
ここで立ち話もナンだ、とようやくまともに動き始めた思考回路でゆっくりと物事を順に整理していく。電気もつけずにいたため、辺りはすっかり暗い雰囲気で満ちている。その部屋の空気は、すこしだけあの結界の中に似ている、とまどかは思い、それがイヤで部屋の灯りをつけた。
「ヒデ君、顔…いったいどれだけ食べてないの!?」
まどかが思わずそう声を大きくしてしまうほどに、英雄の顔はやつれていた。おそらく、あの時からずっとここにいたのかもしれない。それを物語るかのように頬には赤黒い斑点と、手にも同様なものが付いている。まどかの声に振り返った英雄は自分にできる精一杯の空元気で笑顔を作るが、それも正直精神が正常な者が見たらトラウマになりそうなほどに、彼の笑みは歪んでいた。だがまどかはその笑顔を見て脅えることはしない。心から心配そうにして英雄の頬に手をそっと添える。あまりにも痛々しい姿に目じりに涙を浮かべ、まどかは英雄を見上げた。
「…わからない。ずっと、ここにいたから」
「そんな…あれから、学校を休んでた期間の一週間、ずっと!?」
まどかの言葉を聞き、あぁ、そんなに経ったのか。時が経つのは早いななどと悠長に思う。それさえも、今の英雄にとっては心底どうでもいいことだろうが。
英雄が頷く。
「食欲なくって・・・・」
「自分で作って食べる…って、そんなこと、できないよね・・・・」
英雄の家事、主に炊事方面は壊滅的だったのを思い出して尻すぼみになりながら言う。見てわかる通り、自炊する気力などまったくないことは火を見るより明らかなのはわかる。それで出た言葉で、けっして英雄をバカにするような意味合いは一切ない。でも、そんなことしか言えなかった自分が心底腹立たしいとまどかはあきれ果てる。
ふいに、英雄が口を開いた。
「…この前、マミに言われたよ。〝私がいなくなったら、ご飯どうするの?〟って。・・・・まさか、こんな風になるなんてな」
皮肉に呟く。それに俯いていた顔を上げれば、そこには涙を流す英雄の姿が。
「…今日、俺がアイツに料理倣う約束してたんだ。偶には交代でやってみないかって。俺、手先不器用だろ?だから遠慮したんだけどさ…それをマミってば、無理やりにでもやらせようとすんだぜ。彼奴そういうとこ頑固でな。・・・・今日も、本当は・・・・みんなを、呼んで・・・・晩飯、一緒に・・・・食べようって・・・・!」
いたたまれなくなったまどかは、考えもなしに英雄を抱きしめる。身長差があったが、それも英雄が膝を着いている体勢のおかげで身長は今はまどかの方が高い。その為、今はまどかでも彼を包むことができた。
あんなにも笑顔で、不器用で、時々口の悪かった彼が、今こうしてたった一人の女の子のために涙を流し、心を病んでいる。それがまどかにはとても美しく、そして・・・・残酷に見えた。
「彼奴、ホントに嬉しそうにしてたんだ。もしかしたら、後輩ができるかもって。でも、こんなのって・・・・こんなことで全部、無くなっちまうなんて・・・・そんなの、あんまりだろ・・・・ッ!?」
そこからは、まるで言葉にならない。一生懸命紡ごうとしても、嗚咽を堪えるので精一杯でうまくでてこない。やがて我慢の限界がきたのか、英雄はまどかの腕の中で大声をあげて泣きじゃぐる。幼い子供が、出稼ぎにでる母親に行かないでと駄々をこねるがごとく、力いっぱいにまどかの制服を握りしめて。多少の痛みはあるものの、それでもまどかは拒むことはせずただ優しく、哀れな少年の頭をなで続けた。
「大丈夫だよ」などと、無責任なことを、言い聞かせながら。
◆
それからどれぐらいたっただろうか。ようやく落ち着きを取り戻した英雄に「場所を変えよう」と提案し、今は人気の少ない公園のベンチにいる。水道水で濡らしたハンカチを手にせめて血だけでもとまどかは英雄の頬に当てる。が、それを英雄は拒み、まったく取り繕うとしてくれない。気持ちはわかるが、そのままだとあらぬ誤解を招くのでその拒絶も振り切ってまどかは頬についた血だけをふき取る。それでも、長時間そのままにされた赤い斑点は取れることはなく服に付く沁みのように英雄の頬に僅かに残った。
「…ヒデ君。その、クラスのみんなが心配してたよ?さやかちゃんも、仁美ちゃんも、それから中沢君も。みんな、どうしたのかって」
「…あぁ。悪い」
反応を見る限り、もはや何を言っても無駄だろうと諦めかける。が、ここで自分が退いたらそれこそ彼は一生このままになりかねないと自分を叱咤激励して言葉を探す。無力ながらも、たとえ無責任でも、それがあるのとないのとでは心の持ちようも違ってくる。
それが、英雄から学んだまどかなりの落ち込んでいる人の励まし方だった。が、今はそれもなんの役にも立たない。しかしそれでもやるしかないと一生懸命になって言葉を探る。
「あら、まどかさん。それに、英雄さんも・・・・」
聞きなれた声に顔をあげれば、そこには志筑仁美の姿が。いいところへ来てくれたと事情を説明すると、仁美は何かを考える仕草をした後、閃いたように手を叩いて自分たちの手を取りおもむろにどこかへと歩き出した。
「落ち込んでいるときにはいいものがありますの。まどかさんも是非ご一緒してください。〝きっと、天国にも行けちゃいますわ〟」
そう笑顔を浮かべる仁美。そんな名案があったのかと期待するまどかだが、進んでいくうちに違和感を覚えてくる。進行方向、おそらく目的地を一緒にする人達なのだろうか。さっから行き交う人達の姿を見ていると妙な不安に駆り立てられる。まるで・・・・そう。生気を抜かれたみたいに誰もが無気力なのだ。それを見ていて、ある結論にたどり着く。
こんなことを、以前も見たことがある。
それは、マミに連れられて魔女退治の体験ツアーに行った時のこと。〝魔女の口付〟という、一種の催眠術に当てられた女性の、あのなにもかもに絶望したような顔が目に浮かび、あの時の雰囲気と今の雰囲気が酷似していることに気が付く。そこでハッとなって仁美に掴んでいる腕を振りほどこうとするも、予想以上の力の強さにビクともしない。
いや、むしろこれは人間の、しかも女の子の出せるような腕力ではないとすぐに気づく。やはり仁美は――――いや、ここにいる人たちは全員魔女の口付を受けている!
だがそうわかったところで自分にはどうしようもない。魔法少女になればこんなものどということはないのだろうが、今はQBもいないし、自分に出来ることなど何一つありはしない。またしても無力感に襲われるまどか。と、急に今まで強く握られていた腕が解放された。冷静になっていく思考で辺りの状況に目を向けると、今いる場所はどうやらどこかの工場跡地らしい。近代都市計画の進む見滝原では割とよく目にする建物だ。
ざっと見渡しても、年齢も性別もバラバラ。共通しているのは全ての人からまるで生気が感じられないということだけ。
「・・・・っ、なにこの臭い…?」
鼻の奥にツンとくるかのような臭いにまどかは顔を顰める。見て見ると、そこにはバケツが一つおいてあり、何かを注いでいっている。目を凝らしてそれをよく見るとそれは――――理科の実験でも使ったことのある、劇薬だ。名前は忘れたが、その使用用量を無視して大量に用いればどうなるか。たしかあの薬が発生させるのは、強烈な悪臭と中毒性の高いガスだったはず、とまどかは思い出し、それに気が付くとすぐさま行動にでた。新たに薬品が注がれる前にバケツを持ち上げる。もうすでに随分と大量に注がれたようでだいぶ重かったが、それでもやるしかないとまどかは自分にだせる精一杯の腕力でそのバケツを放り投げた。
火事場の馬鹿力、ということわざがあったはず。そんなことはあまり信じないまどかだが、それもあるんだとまるで他人事のように思いながら窓ガラスを割って投げ捨てられたバケツを見届ける。素早く踵をかえし、こんどは英雄の手をとって駆けだす。まだ魔女の結界がない内に早くここから離れなければと走る。が、それも無駄だといわんばかりに扉がしまる。
「そんな・・・・!」
直後、魔女の結界が展開されてしまい、いよいよ脱出不可能に。絶対絶命の中、さらに追い打ちをかけるかのように魔女が現れる。
空間がぐにゃりと捻じれ、歪んだと思ったらこんどは引力がなくなり足場がふわりと浮かぶ。もはや上下左右の判断もつかめないまま、まどかは恐怖する。そこへさらにこの魔女の攻撃方法ともいうべき精神攻撃がまどかへと向けられた。
脳内から引き出される、マミの最期。そして、それを受けての壊れてしまったような英雄の姿。自分が魔法少女になっていればおそらくこんなことにはならなかっただろう、うじうじとしていつまでも躊躇っていたからこんなことになってしまったと自分を責めてような感情の流れに、まどかは個を保てなくなるまでに追いつめられてしまう。
「ヒデ君・・・・!」
名前を呼ぶ少年は、依然失意のどん底にあった。