長い夢を見てた気がする。
すごくすごく、長い夢だ。
「……泣いてるのか」
壁を背もたれに、本を読んでた平山が言った。
部屋が赤い。窓から差す夕陽のせいだろう。畳も布団もちゃぶ台も、この四畳半の何もかもが赤黒い。彼女ははっとした。夕陽の赤色に、何故か血を連想したのだ。妙な夢の影響だろうか。
「……、泣いてないよ。なんで」
「いや、気のせいならいい。なんでだろうな、一瞬泣いてんのかと思った」
「煙草とってほしい」
もぞもぞと布団の中を転がりながら、彼女はそう手を差し出した。寝すぎたのだろうか、まだ頭がぼんやりとする。「ほらよ」と平山がメンソールを寄越してくれた。
「ありがとう」
「ああ」
しゅ、とマッチを擦る。独特の香りと共に煙が登る。どれくらい眠っていたのか。なにか、大切なことがあった気がした。
「……もしかして私、うなされてた?」
「いや、寝息もなかった。死んでるみたいだったぞ、お前」
言いながら平山は、読みかけの本に栞を挟んでパタリと閉じた。〝死んでるみたい〟……その言葉が、厭な生々しさでまとわりつく。
夢の内容は覚えていない。ただ、なにか大切なものがあった気がする。
それが思い出せなくて、奇妙なもやが心の中に燻っていた。
「死んでるみたいって、なにそれ」
彼女は笑った。寝汗がじっとり背中にシャツが張り付いて、それがひどく心地悪い。
今年ももう夏なのだ。
梅雨は明け、蝉も徐々に騒々しさを増してくる。あと数時間で七月も終わり、日本はやがて一年で最も暑い季節を迎える。
彼女は夏が好きだった。
日差しの眩しさも、長い日向も、溶けてしまいそうな気温や熱風も。だけど今年は……いや、今ばかりは、謎の焦燥感が胸の奥を重くした。
窓の外では、空が赤と青紫を混ぜ合わせている。
「なんの本、それ」
先ほどまで彼が読んでた、小さなそれを彼女が尋ねた。小難しいタイトルだ。著者は知らない。
「ああ……面白いって勧められたんだ。まだ途中だけどな」
小説を読まない彼女がそんなことを尋ねだすから、平山は淡い微笑を浮かべた。紙の側面から突き出た栞が、夕陽に色濃い影を引いてる。
「どんな話?」
細く煙を登らせて、彼女は髪をかきあげた。寝起きの怠さは未だに抜けない。
「ああ、……ちょっと待ってろ。麦茶持ってきてやる」
彼女の様子に何かを察して、平山はやんわりそう言うけれど、彼女は首を左右へ振った。指先が彼の裾を持つ。
「いい。後でいいから」
何故か今は、この穏やかな時に彼の話を聞きたいのだ。それ以外の全てを抹消的に思えるくらいに。
「そんなの後でいいから」彼女は言う。煙草の灰が長くなる。
「変な奴だな。お前小説とか興味あったか」
彼の眉が、不思議そうな弧を描いた。その切れ長の瞳から、彼女は目が離せない。目を離したら、この煙のように平山が揺らいでしまう気がした。
……どうしてこんなに、今日に限って夕陽が赤く光っているのか。
小説に興味がある訳ではないのだ。話題なんざどうだっていい。ただ、話していたいのだ。話を聞いていたい、なんでもいいから。声を聞きたいだけかもしれない。だけどそこに、明確な理由は見つからないけど。
「珍しいな。……なんというか、まだ中盤で展開はわからないが、切ない話だ。お前『親殺しのパラドックス』ってわかるか」
聞いたことのない言葉だった。
だが「親殺し」とはなんとも物騒な響きでないか。彼女は眉を少し寄せ、「猟奇的な話なの?」と彼に問うた。
平山が読書を好むのは知っていたけど、そのような傾向のものに手を出したことはなかったはずだ。やたらに難しい単語の並ぶ教本じみたものであったり、歴史ものや著名人についてのものや、あるいは小説にしろ穏やかなストーリーがその大概だ。時折推理小説も読むようだけど。
「違う」
平山は笑った。「親殺しのパラドックス」は猟奇的なものではないし、親を殺すような陰鬱なストーリーを指すものでもない。
「SFだ」そう彼は続けてくれたが、そもそも彼女にはSFが何かもよくわかっていなかった。
「……まあ、簡単に言うとだな、過去にタイムスリップする。主人公の少女は不幸な出来事で家族が悲惨な目に遭うんだ。だから過去に戻ってその原因を取り除くことで、悲しい運命を変えようとする。そういう話だ」
「……?じゃあなんで親を殺すの?」
「いや、殺すわけじゃない」
「今『殺し』って言ったじゃん」
話がよくわからなくって、彼女は混乱しているようだった。
それが微笑ましいのだろうか。平山は複雑な顔をしたが、その眼差しは暖かい。
「つまりな……」と律儀に説明しようとする。面倒見の良い性格の片鱗だろうか。
「お前が……そうだな。過去に行くとする。自分が生まれる前の、お前の母親がガキの時代にタイムスリップしたとするだろ?」
「うん」
「そこで、自分の母親を殺すことが出来るか?」
「えっ」
彼女は面喰らう。質問の意図がわからないのだ。
「殺せるか」と問われれば、子供を、まして母となる人殺すなど倫理的には出来やしない。
だが物理的にはどうであろうか。相手は非力な子供で、自分は大人なのだ。力量差を考えたなら可能だろう。結論は「そんなことしないけど、可能か不可能かならば〝可能〟」であった。
彼女の答えに、平山は薄っすらと目を細くする。
「でもな」
続く言葉がそれだった。
「母親を殺したら、お前、生まれて来ないだろ」
「……あ、うん。そうだ」
「それだと、〝母親を殺す人間〟も生まれて来ないよな?」
「…………確かに」
「なら、殺す人間が居ないんだから、母親はすくすく成長して大人になる。結果お前が生まれる。
ここでもう一回聞くぞ。お前が過去に行けたとして『母親を殺すことが出来るのか?』」
〝母親から生まれた子供〟が、〝母親がその子供を産むより前の時間軸〟において、〝母親を殺すこと〟ができるのか。
つまり「ある人が時間を遡って、血の繋がった母が父と出会う前に殺してしまったらどうなるか」というのがこの質問の本質だ。殺せばタイムスリップした本人も生まれてこないことになる。従って存在しない者が時間を遡ることはできず、結果母を殺すこともできないから母は死なずに父と出会う。そして生まれた子供が過去に戻って母を殺す。このように堂々巡りになるという理論的なパラドックスが、「親殺しのパラドックス」と呼ばれるものだ。
「難しくてよくわかんない。結局それってどうなるの」
「それは誰にもわからねえよ。今読んでる小説も、ちょうどそんな状態で先が気になってる」
平山はそう言って笑ってた。
……………………
どうして今、こんなことを思い出しているのだろうか。
八月。真夏の夜の真っ只中にありながら、だのにその空間は肌寒い。
理由は単純だ。……〝遺体が腐ったりしないように〟
赤みのない頬に指を滑らせて、霊安室に眠る彼の名前を小さく呟く。
「平山……なにしてんの」
彼女は喉が渇いてた。上手く言葉を紡げずに、乾燥に喉と舌が貼っついちまいそうになる。
平山は瞼を閉じたまま、微塵にも動くことはない。
「平山」
……失血死だった。彼女に報せを寄越したのは安岡だ。八月二日の夜に〝発見〟されたと言われた時から、もう息をしてないのはわかってた。警察は生きていれば〝保護〟という。〝発見〟は……遺体に用いられる表現なのだ。
「平山ってば」
肩を揺する手が乱暴になる。決して寝起きの悪くなかった平山が、これだけ呼んでも身体を揺すっても目覚めない。
触れた肌は冷たくて、無機物のように硬かった。
「平山ってば」
ずっと一緒だと言ってたはずだ。永遠がないと理解はしていた。
ずっと一緒にいたとしても、いつか死が二人を別つとわかってた。
でもそれは……もっと先の未来と思っていたのだ。
皺だらけでよぼよぼになってから、穏やかな日だと何の根拠もないのに信じていたのに。なのに、なんだこれは。どうして彼はこんなに綺麗に亡くなってるのか。最後に見た寝顔と何も変わらないのだ。
例えば事故かなにかでぐちゃぐちゃに壊れた身体だったら、もっと上手く飲み込めたのか。左腕に残る注射針の痕を見て、彼女の理性が割れそうになる。〝これ〟が死因だなんて、どうしたら受け入れて生きてくことが出来るのだろう。
「ばか」
声が掠れて、まるで他人のもののようだった。
「ばか」
暗い部屋で、もう一度彼女はそう言った。