気が付けば九月を過ぎていた。この夏をどうやって過ごしていたのか、彼女はあまり覚えていない。
目を開けばすっかり見慣れた天井がある。何も変わらない光景だ。夏が終わっても暑さはちっとも緩まない。おかげで今朝も寝汗がシャツを貼り付かせ、じっとりした不快感の中で夢から覚めた。
そうだ、今朝だって何も変わらない。平山が骨になってしまったこと以外は、いつも通りの朝なのだ。
あれだけ人をチビだの華奢だの言ってた彼が、赤子より小さな壺の中に収まっている。もう彼女より、平山の方がずっと小さく軽かった。
わかったこともある。
安岡は律儀に連絡をくれたのだ。平山を殺したのが誰なのか。何故なのか。わかっていながら、何故逮捕出来ないのか。
「平山、煙草取って欲しい」
骨壷に彼女は言ってみる。当たり前だが返事はなく、煙草が寄越されることもない。彼女は暫しぼーっとした後、ふっと皮肉な笑みを浮かべた。
わかってる。わかってるのだ。
〝なにしてんだろ〟……そんな言葉がじんわり浮かぶ。また少し絶望が胸に広がっただけ。なんの意味もない行動だった。
涙は止まらないと思った。だが予想外にも、涙はあまり流れなかった。
放心して、現実感も殆ど掴めず、自分をまるで他人のように感じるばかりの時間が過ぎる。
平山の死を報せられても、遺体を見ても、葬儀が執り行われる間もずっと。そのせいで印象が残っていない。ただ無性に大声で叫び、トチ狂ったみたいに暴れたくなる瞬間が増えた。理由はわからない。
初めて大泣きしたのは、「平山だ」と骨壷を渡された時だった。今まで泣かなかった分が纏めて押し寄せてしまったように、大粒の雫がいつまでも止めどなく溢れ出た。鼻水も出た。多分顔は酷い有様だったろう。
膝の力がストンと抜けて、そのせいでしゃがんだまま立ち上がれずに、彼女は小さく身体を丸めて泣き続けてた。骨壷を抱いて、子供のような嗚咽だった。
ひたすらわぁわぁと泣きじゃくって繰り返すのだ。〝ひらやまが、骨になっちゃった〟
安岡が悲痛な顔をして、黙って肩にジャケットを羽織らせてくれたけど、そのお礼も忘れてた。
もう今日が、九月の何日なのかも覚えていない。彼女は再び目を閉じる。何日か前、安岡がここに来た。
「ちゃんと食ってるのか」
「……そうめん」
「……だけか」
そんな乾ききった会話をした後、重たい沈黙の時間が過ぎる。安岡は言いたいことがあるようだけど、同時にそれを言葉にしたものか迷っているようにも見えた。
「あー」だの「ええとな」だの何度か口籠っては、煙草ばかり消費してゆく。不毛なだけの時間のあとに、平山のスーツを見ながら言われた。
「引越した方がいいんじゃねえのか、ここは……」
何故、とは尋ねなかった。彼女はただ、短く「やだよ」と言うだけだ。
帰り際に安岡は言った。
「例の奴、鷲巣は……もういない。アカギが、……いや」
「……」
「……まあ、もう、いねえ。それを今日は言いに来たんだ」
それを聞いても、彼女の心は凍ったままだ。
「だから?」
平山を殺した男が、まあ「どうにか」なったらしい。それでも、胸がスッとすることもなきゃ、礼を言う気分すらも起こらなかった。心底、「だからどうしたんだ」と思った。それきり、安岡が連絡を寄越すこともなきゃ、ここに現れることもなかった。
置き去りにされた彼の遺品が、まだ希望を捨てさせなかった。ひょっこり帰って来そうなくらいに、何かもかもが「そのまま」なのだ。
人間は弱い。希望が無ければ生きていけないと誰かが言ってた。
彼女は思う。同時に、絶望がなければ死ねもしないと。
幸せな頃と何一つ変わらない世界にいるのに、ただ、平山だけが存在しない。誰かが「もう平山には二度と会えない」と納得させてくれたなら、もう少しマシに生きてくことが出来るのだろうか。それとも後追い自殺する気にでもなるのか。彼女自身、わからなかった。
やがてラジオから曲が流れる。気がつきゃ今日も夕暮れ時だ。流行りの歌が部屋に響いて、彼女はまた心が沈む。
蝉の声は聞かなくなったが、夏の香りはまだまだ色濃い。時折吹く風は湿気を孕んで生暖かく、運動していなくとも汗をかく日も少なくない。ほんの少し前までは、これから訪れる夏に胸を躍らせていた。暑い暑いと転げ回って、道すがらすれ違うラムネ屋から一本買って彼と分けたし、渓流に遊びに行こうなんて話もした。そうだ、映画を見る約束もした。商店街の福引きでチケットが当たったのだ。
大好きな夏だった。だけど今年は、八月の記憶が曖昧だった。
目の前には、平山の読みかけだった小説がある。あの日から栞の位置は変わらない。この小説の結末を、永遠に平山は知り得ないのだ。
……なんだっけ。そうだ、親殺しのパラドックス。平山が小難しい話をしてくれたのだ。
この本の主人公は、無事に過去を変えられたのか。幸せな未来に辿り着く事が出来たのだろうか。時間を遡るとは魔法のような話だが、平山はこれをファンタジーでなくSFだと言う。定義はよくわかっていない。サイエンス・フィクションだったか、どこぞの漫画家は「少し・不思議」だと言っただとか。
彼女は小説に手を伸ばす。骨壷に、本の続きを読んでやるために。
タイムスリップやらタイムマシンやら、それが具体的に何を指すのかなどわからない。だからきっと、この話を彼女が心底理解することなど出来ないだろう。それでも読もうと開くのは、結末を知りたがった彼に聞かせてやるためだ。平山は「続きが気になる」と言っていたから。
縦に敷き詰められた文字列は、日がな読書とは無縁な彼女の気力をごっそり削った。まだ一行目すら読んでないのに、残りの頁数に目眩を覚える。
……すごいな、平山は。こんなのを集中して何冊も読むのだから。タイムマシンがどうというなら、彼女には猫型ロボットの方がいい。だけどこれは〝平山のために〟読むものだからと、彼女はゆっくり息を吸う。パッと見にも難しい漢字だらけだ。明朝体の文字というのも取っ付きにくい。だけど、彼の知りたがった結末なのだ。
『ジェニーはポット〝M18-Ⅱ〟に乗り込んだ。真空中の光速よりも速い速度で信号を伝え、人に転送することの出来る装置だ。
相対性理論による時間の遅れを利用するためのこの発明は、既存の……』
ここまで読んで彼女の頭が煙を吹いた。
相対性理論とはどういうことだ。それが有名な理論と知ってはいても、具体的にどのようなものかは知らない。だが時間を遡るという彼女にとってはファンタジックな現象に、まさか物理学の話が出るなど思わなんだ。
「平山……なんてもん読んでんの。こんなん『不思議な機械』でいいじゃない」
物理学だろうが魔法だろうが、結局これはフィクションなのだ。ならば「不思議な機械」や「未来の発明」で片付けてしまえばいいのに、わざわざこんな説明を挟むから彼女の脳内が疑問符で埋まる。
しかし同時に、だから平山が「面白い」と言ったのだと理解した。きっと原因不明の超常現象やら、漠然と未来科学だのという話なら、平山は手に取ったりしなかった。こう、どこか理論的だったり理屈っぽいものを、平山が好むと知っていた。
「特殊相対性理論……?慣性系……。すごい、日本語なのに全く理解出来ない。逆に凄い。なんだこりゃ」
もっとこう、小説というのは予備知識なしに人間ドラマを楽しむだけのものだと思っていたのに。
彼女は思う。やはり自分には猫型ロボットくらいが丁度いい。理論も理屈もなく「不思議な道具と不思議な現象」だけでいいのに。
ああでもこれは……平山の為に読むものだから。だから、理解出来なくても読むべきなのだ。幽霊は本を捲ったりなど出来ないだろうから。
そこまで考えて彼女は思った。そもそも幽霊なんて信じてないのに、こんなふうに拘るのは矛盾してると。
結局のところ、自身を納得させるきっかけが欲しいだけかもしれない。
「……駄目、頭痛い。ちょっと休憩……」
まだほんの少ししか読んでないのに、未知の知識に頭が沸騰しちまっている。慣性って、電車が止まるとき身体が進行方向に前のめりになるアレじゃなかったか。どうしてそれが時間を超えるのか、頭の良いやつの理屈が本気でわからない。わからなすぎて目眩すらしてきたようだ。彼女は前髪をぐしゃぐしゃと引っ掻いて、混乱しきった頭を冷やそうと煙草を手に取る。
平山が生きていたら、平山はわかりやすく説明してくれただろうか。彼女はまた皮肉に笑って、ゆっくり煙を吐き出した。
瞬間、視界が歪んだ、ような気がして……────
……………………
長い夢を見てた気がする。
すごくすごく、長い夢だ。
「……泣いてるのか」
壁を背もたれに、本を読んでた平山が言った。
部屋が赤い。窓から差す夕陽のせいだろう。畳も布団もちゃぶ台も、この四畳半の何もかもが赤黒い。彼女ははっとした。夕陽の赤色に、何故か血を連想したのだ。妙な夢の影響だろうか。
「……、泣いてないよ。なんで」
「いや、気のせいならいい。なんでだろうな、一瞬泣いてんのかと思った」
「煙草とってほしい」
もぞもぞと布団の中を転がりながら、彼女はそう手を差し出した。寝すぎたのだろうか、まだ頭がぼんやりとする。「ほらよ」と平山がメンソールを渡してくれた。
「ありがとう」
「ああ」
しゅ、とマッチを擦る。独特の香りと共に煙が登る。どれくらい眠っていたのか。なにか、大切なことがあった気がした。
「……もしかして私、うなされてた?」
「いや、寝息もなかった。死んでるみたいだったぞ、お前」
言いながら平山は、読みかけの本に栞を挟んでパタリと閉じた。〝死んでるみたい〟……その言葉が、厭な生々しさでまとわりつく。
「死んでるみたいって、なにそれ」
彼女は笑った。寝汗がじっとり背中にシャツが張り付いて、それがひどく心地悪い。
梅雨は明け、蝉も徐々に騒々しさを増してる。あと数日で七月も終わり、日本はやがて一年で最も暑い季節を迎える。
「ねえそれ、タイムスリップがどうのって本?」
先ほどまで彼が読んでた、小さなそれを彼女が尋ねた。小難しいタイトルだ。著者は知らない。
「ああ……よく知ってるな」
小説を読まない彼女がそんなことを言いだすから、平山は淡い微笑を浮かべた。紙の側面から突き出た栞が、夕陽に色濃い影を引いてる。
「……なんでだろ。ねえ平山、特殊相対性理論ってなに。ちょっと読んだけど、本気で意味わからない」
細く煙を登らせて、彼女は髪をかきあげた。寝起きの怠さは未だに抜けない。
「……?お前いつの間に読んだんだ?」
「あれ、いつだったかな。忘れた」
「変な奴だな。お前こういうの興味あったか」
彼の眉が、不思議そうな弧を描いた。その切れ長の瞳から、彼女は目が離せない。目を離したら、この煙のように平山が揺らいでしまう気がした。
……どうしてこんなに、今日に限って夕陽が赤く光っているのか。言いようのないそれは不安というより恐怖に近い。
「珍しいな。……特殊相対性理論っていうのは、加減速や重力の影響を考慮しない相対性理論のことだ」
「……ごめん全くわからない。もうちょっと五才くらいでもわかる次元で」
「五才ってなんだよ」
平山は笑った。だけど面倒くさがらず、どう噛み砕いた説明をしようか思案している。
補足するように彼女は続けた。
「相対性理論ってのが、どうしてタイムスリップになるのか知りたいんだ」
平山が益々不思議そうな顔をする。こんな話を、かつてしたことがなかったからだ。だが不思議さより興味の方向性が重なったことが嬉しいようで、やがて平山は朗らかに笑った。
「どっから説明したもんだろうな。そもそも相対性理論ってなんだかわかってるのか?」
「いや、それすら知らない」
「じゃあそこからな。
相対性理論の前提には『光速度不変の法則』というのが……」
「…………それ五才児に理解できる?」
「……ん、だな。悪い。じゃあもう少し掻い摘む」
平山の読んでる小説は、主人公の少女がタイムスリップして未来を変える物語だ。だがどういう訳かそれに相対性理論が飛び出して来て、彼女は面喰らってる。
「あー……そうだな」
唸るように平山は言った。
「相対性理論によれば、超光速での移動手段さえあれば過去に戻るタイムマシンが作れることになる」
「超光速?」
「すっげえわかりやすく言うと、光より速く移動出来れば過去に行ける」
「なるほど」
「言っとくがいくつか前提条件があるからな」
これは例だが、高速移動する宇宙船と地球上には時間の流れに違いが生じる。地球から見れば「宇宙船の時間が遅れ」ており、逆に「宇宙船から見た時間も遅れ」が生じる。何故時間が遅れるかというと、先程述べた高速度不変の法則によるものだ。
相対性理論における〝時間〟とは「慣性系によって流れ方が違う」という結果を受け入れているため、「宇宙船と地球で、お互いに相手の時間が遅れる」ことは矛盾しない。
「……大丈夫か」
「知恵熱出そう」
「……おいおい」
平山は不思議に思う。いつもなら、きっと彼女は「もういいや難しい」と布団に逃げてしまうだろう。だのに頭からプスプスと煙を出しながらも、必死に理解しようとするのだ。
「どうしたんだお前、タイムスリップでもしたいのか」
冗談めかして平山は笑った。だけど彼女は笑わずに、真剣な顔で彼を見る。
「うん。したい」
いよいよもって様子が変で、平山も訝しげになってゆく。なんで、彼女は真剣なのだろうか。空が赤と青紫を混ぜ合わせ、幻想的な夕陽を放つ。
人が過去に戻りたい理由は一つだ。
〝未来を変えたいから〟
もう一度やり直したい何かがなければ、どうしてそんなことを望むのだろう。
「まぁ……夢はあるよな」
「夢?」
「不可能だろ、実際」
「特殊相対性理論とか、光のナントカの法則とかで、出来るんじゃないの?」
「『光速度不変の法則』な。
現実にタイムマシンは、今の技術じゃ無理だろう。二つ大きな問題がある」
一つは〝因果律〟だと平山は言う。原因があって結果があるという、いわば世の中の常識だ。因果律が崩壊したら、既存の物理理論はすべて役に立たなくなってしまうだろう。よって、絶対的に覆らない原則だった。
「また難しい単語出てきた……」
「難しいか。……そうだな、有名な例だと『親殺しのパラドックス』っていうのがあるが……」
瞬間、彼女は奇妙な既視感に鼓動を速める。
〝親殺しのパラドックス〟……その言葉を知っている。
「それ、『タイムマシンで過去に戻って、自分の母親を殺せるか?』ってやつ」
かつてこの話をしたことがある。予知夢でも見たような感覚だ。
「お、よく知ってるな。そうだ」
正解だ、と彼は言う。
「ちょうどこの小説もそういうシーンなんだ。パラドックスにぶつかって、どうしたもんか足掻いてる」
閉じた本を見て平山は笑った。栞を差す赤い夕陽は、徐々に影の面積を広げる。
「どうなるの?」
「読んで見なきゃわからねえよ」
「小説じゃなくて。実際に、因果律が崩壊したら」
「え……」
目の前の道路を行き交う自転車が、チリチリと忙しなくベルを鳴らした。カラスの鳴く声。夜の気配。煙草の灰が長くなる。
どうしてこんなにも、この話題に喰らい付くのか。彼女は自分でも曖昧なまま、ひたすら説明を求めるのだ。
知りたかった。そして聞けなくなってしまった。そんな後悔のせいだろうか。どこか夢見心地のような感覚がある。
「……それこそ未知だろ。極端な話宇宙が終わるなんて説もある。多重世界とかパラレルワールドだとかをよく聞くが……まあ、実際にはわからねえよな」
「多重世界?」
「シュレディンガーの猫って聞いたことないか」
ぼんっ、と自らの頭が茹だったような音が聞こえた……ような気がする。キャパシティーを越えたのだろうか。
相対性理論だとか、因果律とか、かと思えば多重世界だと。ああ、平山という男は日頃からこんなに小難しい事ばかり考えたりしてるのだろうか。
耳から煙があがるくらいに、頭の中が煮えちまった。回線がショートした機械というのは、存外こんな気持ちなのかもしれない。
「……お前本当にどうしたんだ」
「わかんないよ馬鹿、多重世界って猫なの?シュレディンガーって品種?平山の馬鹿」
「……いや、品種ではない」
「じゃあなんの猫なの……」
よくタイムトラベルものを題材とした映画や本でも耳にする言葉だ。過去の干渉により変化した未来とは、別の平行世界あるというもの。この説ならば、因果律の崩壊を防ぐことが出来るという。
上手く飲み込めない彼女の頭を、平山はぽんぽんと優しく叩く。
「そんなに興味あるのかよ」
その笑顔が優しくて、なのに酷く儚くて、不意に彼女は泣きそうになる。
「興味あるよ」
「……わかった」
面倒だとか、自分で調べろだとか、そんなことを彼は言わない。いつまでも終わらない彼女の「なんで」と「どうして」に、優しい眼差しで付き合ってくれる。
「シュレディンガーの猫ってのは……」
必死に彼の知識を吸収してゆく。だけどその動機すら、彼女はよくわからないのに。
……………………
「熱っ……」
指先に熱を齎したのは、火をつけた煙草の灰がフィルターまで及んだためだ。
何をしていたのだったっけ。いつの間にかぼーっとするあまり曖昧になった記憶を探る。
目の前には灰皿と骨壷、それに栞を挟んだ本があった。内容が難しすぎるから、結局一頁も進まないまま休憩を挟んでしまったものだ。相対性理論がどうのこうのという、タイムスリップする少女の話。
急いて彼女は煙草を皿に押し潰す。頭が妙にクラクラとした。意識を手放したつもりはないが、長い眠りから覚めたような感覚があるのだ。
……いや、あるいは本当に夢だったのかもしれない。人は目を開けたまま眠ることもあるという。
小説の中身があまりに難解なものだから、生きてるうちに聞けばよかったと強く思った。それで、こんな夢を見たのだろう。たった一、二ヶ月前だ。だのにあまりに懐かしい。
「……にしても、シュレディンガーの猫って。夢なのに平山らしいなあ」
ふ、と口元が思わず緩む。夢なのに妙にはっきり覚えてる。なんでこんな話になったのかといえば、過去へのタイムスリップは因果律を崩壊させるからどうのこうのと平山が言い出したのだ。これを回避する説が多重世界……いわゆるパラレルワールドで、「シュレディンガーの猫」で有名な量子論の話になって……
「……あれ」
ぱち。ぱち。
ゆっくりまばたきを繰り返す。
「…………夢……?」
思わず自らの両腕を見た。特に意味も理由もないのに。
明らかにおかしかった。
夢なら……「自分の知らない知識」を得るはずがない。
記憶があるのだ。平山が丁寧に教えてくれた。問題はこの記憶が「夢の記憶」か「現実の記憶」かということにある。
思い出せ。思い出せ。彼女は自分に繰り返す。
人間は一度見たものは決して忘れたりしないという。わからなくなるのは忘れたのではなく〝思い出せなくなる〟だけ。これも平山が教えてくれた。
「ハサミをどこにしまったか思い出せなくても、ハサミの存在が消えるわけじゃないだろ」かつて彼はそう言った。記憶とはそういうものなのだと。ならば思い出せるはずなのだ。
「シュレディンガーの猫は……開けた瞬間に観測者の世界がどちらかの世界に決定する……多重世界で、……量子力学を批判するために、…………」
平山が教えくれた言葉を、彼女は途切れ途切れに復唱してく。
知らない。知らなかった事だ。なのに〝今〟知っている。
夢では、その人の普段は抑圧されて意識していない願望などが如実に現れるケースが多いとされる。ならば確かに平山に会いたいのも時間を戻したいのも、小説に通じる知識を欲しがったことすら全ては彼女の願望だ。これが夢の範疇を逸脱したことであると思うのは、やはり有るはずのない知識を得てる事実のせいだ。
聞いたことのない歌を夢で覚えるなど出来ないし、作れない料理のレシピを夢で学ぶことも出来やしない。夢の世界というものは、「今ある知識」だけでしか構成することができないのだ。出来ない……はずなのだ。
「なんで私……知ってるんだ?」
わからない。わからないことばかりだ。
知ってるのは平山が教えてくれたからで、教えてくれたのは尋ねたから。ならば何故尋ねたのか。ここがおかしい。
〝平山が死んでしまった世界で、聞いとけば良かったと後悔したから〟
夢と呼ぶには生々し過ぎる記憶の中で、彼女はひたすら質問を続ける。平山はわかりやすい言葉を選び、律儀に彼女の質問に付き合う。この記憶はなんなのだろう。
彼女はちゃぶ台の本を手に取った。栞の頁をそうっと開く。
「…………!!」
最初の一文に背中の産毛が逆立った。
頁が、変わっていたのだ。