ゆっくり湯に浸かったのはいつぶりだろうか。平山の死は、生活のあらゆるものを無気力にした。その結果飯も身嗜みも蔑ろな有体で、久方ぶりにまじまじと見た鏡の中は悲惨なものだ。ドス黒いくまと痩けた頬はミイラみたいで、ボサボサの髪もまた酷い。
「我ながらすんごいな、これは」
彼女はそう苦笑しながら、浴槽で膝を抱えてた。
熱い湯にとっぷり浸かれば、混乱も幾分落ち着いてくる。
夢か現実か定かでない、鮮明な記憶が悩みの種だ。それだけなら幻覚や妄想と強引に片付けられただろうか。どうしても説明出来ない事があるのだ。
〝何故、栞を挟んだ頁が変化したのだろうか〟
無意識に自らが頁をめくり、栞を挟み直したのでは断じてない。それはあり得ないと言い切れる。
では何が起きたのかと、これだけがどうあっても説明つかず、しかし非現実的なものを受け入れるならば仮説が立った。
……あれが夢でなく現実ならば、読書を中段させて平山に解説を尋ねた時間があったことになる。一晩中語らった。結果として平山の「本を読む時間」が削られて、栞の位置が変化したのではなかろうか。
ゆっくり、何度も何度も確認をした。だが間違いなく小説の頁は変わっていたのだ。
この仮説を肯定するなら、それは過去への干渉だ。逆にいうなら、当時の時間軸に未来からの干渉が起こったことになる。
これが何を意味してるのか、彼女は上手く飲み込めない。まさかタイムスリップではと勘繰るものの、それは自らの中の既存のイメージとはかなり異なるものであったし、原因もまるでわからない。
結局一人で考え込んでもこれ以上の答えは導けないと悟って、外出の準備にいそしんでいる。彼女は超能力者ではないし、魔法を使えるわけでもない。そして現代科学を超越した、時空を超えるマシンも当然持ってなかった。だからこそ白昼夢に似ながら現実に作用を及ぼすこの現象に、果てしない疑問が浮かぶのだ。
……………………
「相対性理論だと……?」
「うん。わかる?」
「わかるわけねぇだろ……」
安岡は苦い顔をした。彼女が自ら訪れて、聞きたいことがあると呼び出した時、安岡は「立ち直ってくれたのか」と希望を抱いた。しかしながら用件が予想の斜め上なものだから、どう解釈したものだかわからない。
「そういうのは……アレだ、理系で頭の良い奴でもなきゃわからねえよ」
「誰?理系の頭良いのって」
「……うーん……」
真っ先に浮かんだのは平山だ。だが平山はもうこの世にはいない人間なのだ。では他に誰がいるのか。南郷、石川……赤木……共通の知り合いを順に浮かべていくけれど、その誰もがしっくり来ない。赤木は確かに頭が良いが、理論だのってのは違うだろうし。
「……悪いが」
歯切れ悪く安岡は言う。彼女は「そっか」と言うだけだった。
・ ・ ・
ふらふらと力ない足取りで、目的もなく彼女は河川敷を訪れた。また日が暮れる。夏より幾分柔らかくなった赤い光は、季節の変わり目を思わせた。
そうだ。もう夏は……終わったのに。彼女はゆっくり息を吸い込む。千切れた雲が西に流れる様を細目で眺めて、この世界のどこにもいない人を求めた。
目を閉じれば色褪せない思い出があまりに多過ぎて、いいようのない悲しみに呑まれてしまいたくなる。無意識に膝を抱いていた。河川敷の川は穏やかに流れては、西の水平線に太陽をつっぷり飲み込んでいる。ここにもよく訪れた。土手の芝生が気持ちの良い場所だった。
どうして。
どうして七月の最後の夜に、何も手を打つことなく、平山を見送ってしまったのか。背中を薄闇がうっすら濡らす。
それこそ時間が戻るとしたら、全力で彼を引き留めたのに。
「いってらっしゃい」そう気の無い挨拶を眠気眼でしたっきり、平山は二度と戻らなかった。世界がこんなに悲しく変わってしまうなど、微塵も考えなかったのだ。
「……なにがシュレディンガーの猫だよ。世界は〝今〟しかないじゃない」
ぽつりと呟く。答える人はどこにも居らず、ただ風ばかりが吹いていた。