〝女は博打を子宮で打つんだ〟
酒飲みだった祖父が赤ら顔で言ったことを、天貴史は今でもよく覚えてる。
子宮とは何か知っている。ガキを作るところだ。だがその器官で博打を打つってのがどういう意味か、いまいちわかりかねていた。にもかかわらずハッキリと印象に残っているのは、なにかその言葉に特異なものを感じたから……なのかもしれない。
「ねーちゃんよ、何してんだ」
投げた石が川の表面を跳ねてゆく。なるたけ平坦な形を選ぶのがコツだった。西に続く河原に向かって投げた小石は、やがて赤い夕日の中へと沈んで消えた。
「見てわかんないの」
見るからにチビなその女は、伸びた影と不釣り合いなほど小さく華奢だ。ガキと大差ない小柄さなのに、ガキに見えないのは口に咥えた煙草のせいか。夕暮れ時の色濃くなったコントラストが、独特の叙情を思わせた。
「わかんねー。なんもしてないように見えるぜ」
「わかってんじゃない。なんもしてないんだよ」
女は天のことを見もしなかった。ただ沈む太陽を眺めるばかりだ。その横顔が不機嫌そうで、それでいてひどくつまらなそうで、伸ばした背筋が微動だにしないのが切なくなる。
「あんた小学生だろ。なんか用なの」
紅い唇が煙を吐き出す。横顔は睫毛の長さが際立っている。ガキと形容されるに十分な幼さの天の目には、十九か二十そこいらの彼女が大人に映った。
「ねーちゃんどっか痛いんだろ」
天貴史は同級生と比較した時、飛び抜けて力が強かった。喧嘩じゃ上級生にも負けたことないし、学年二つくらい上に勘違いされるくらい背も高い。故に悪ガキだの不良だのと〝怖い〟イメージを持たれがちだが、実際には面倒見の良い性格をしてる。それに剽軽な側面も持っていた。
そんな天貴史の目に映る彼女は、見目麗しさや特異な雰囲気のその理由より、無表情の中に閉じ込めた痛みが気になる存在に思われたのだ。
「……〝痛い〟?怪我なんかしてないよ、誰かと人違いしてない?」
「してねえ」
「帰りなって。痛くない」
風が吹いたら足場の芝がさざめいた。もうすぐ日が沈みきる。そうしたらこの辺りは真っ暗になる。なのに何故、この女は帰る気配を微塵も見せない。闇が怖くないのだろうか。
「なんでねーちゃんは帰らないんだ」
足元に程よい形の小石を見つけ、水平になるよう放り投げる。慣れた所作で手首を捻れば、小石はまた川の表面をぴょんぴょん跳ねた。波紋が重なりながら伸びてゆくから、まるで小石の足跡みたいだ。赤い川に、そんな輪っかがいくつも浮かび、短い時間で消えてゆく。
彼女は西へ跳ねる石を見て、やがて短くなった煙草を消した。煙の匂いだけが残ってる。
白い指が草を掻き分け、やがて真ん丸い石を摘んで見せた。……〝あ、これは駄目だ〟……天貴史はすぐに思った。そんな丸々としたやつじゃ上手くいかない。川の上を跳ねさせるなら、投げるなら平たい形が有利だった。少なくとも天を初めとする子供の世界観の中では、それが絶対の法則なのだ。
彼女の肘から先が水平になる。石の握り方が独特だった。手首が残像を残して振るわれる。
「あ」
天の喉から、落ちた声は間抜けになった。
石が。
それは跳ねるというよりまるで水面を滑るようにして、飛沫もなくどこまでも西へ消えてゆくのだ。歪な形の波紋が揺らめき、しかし水の音は響かない。魔法のようだと天は思った。あんなに丸っこい石なのに、飛ばすのに不向きなはずのそれが、天の自己最長記録を容易く塗り替えて彼方へ消える。
「すっげえ」
「昔河川敷沿いに住んでた。河原での遊びはガキの頃にさんざんやったよ。コツがある」
特異げにグーパーする指は、やはり小さいが女の細さとしなやかさで蠢いた。だがこの綺麗な女に天が抱くのは恋でもなけりゃ欲でもなく、純粋かつシンプルな興味ばかりだ。〝すっげえ、魔法みたいだ。あんな形の石を、一体どうやったらあんなに遠くへやれたのか〟
天は聞きたがったけど、彼女は二本目の煙草を口に咥えて、煙をゆっくり吐き出した。
「駄目、負けたろ」
「え、」
「あんたのより、私の投げた石のが遠くへ行った。あんたの負け。負けた奴は勝った奴のいうこと聞くもんだ、家へ帰りなよ、家族がいるだろ」
家族のありがたみを諭そうとしたのか、単にガキを煩わしく思っただけか……彼女の真意はわからなかった。ただその時になって初めて彼女は天を見たのだ。玉のように白い肌、血みたいに紅い唇と、緑なす黒髪が揺れている。大きな瞳に天の顔が写り込む。
「なんだ……教えてくれねんだ。本当に魔法使いかよ」
クク……、と彼女の喉がくぐもった。
「残念」それから彼女はそう続ける。魔法なんて使えないのだ。
「はずれだよ。魔法使いじゃなくって博打打ちだ。魔法ね……使えればよかったんだけどさ」
彼女はくつくつ笑っていたけど、やはり少し寂しそうな瞳に見えた。
日が、沈む。辺りが暗くなるほどに、白い彼女が黒くなる。後引くような赤い光が逆光になり、天の視界を細くした。
咥え煙草の立ち昇る煙のその奥で、迫る闇より黒い瞳がきらきら光る。
……この女が、〝子宮で博打を打つ〟奴なのか。
天は漠然と、そんなことを考えた。
……………………
どう考えても愚かなことは、例えばあの奇妙な記憶が本当に過去への干渉だったとして、なぜ八月一日の悲劇を止めなかったのかということだ。
情けなくも夢でも見てるものだと思っていたし、そもそも「未来から干渉してる」など考えつきもしなかったのだ。今思えば夢と呼ぶにはあまりに出来過ぎた世界にいたのに。
……いや、〝居た〟というのは語弊がある。実際、彼女はその世界に移動したというわけではなかった。あるのは記憶だけで、リアルタイムの体験ではない。「こういうことがあった」という回想だけが、現実との差異なくこびりつくのだ。
だから彼女は、「何気なく過ごした七月の終わり」と、「相対性理論について平山に尋ねた七月の終わり」の、二通りの記憶を持っていることになる。二つの世界をあたかも経験したかのような、結果だけが頭の中に残っていたのだ。
どうしたらもう一度過去に干渉できるのだろう。
彼女の考えることがそれだった。もう一度同じことが出来たなら、平山が鷲巣のもとに行くのを断固として阻止できるのに。
「大事な勝負がある。朝までかかるだろうが、ちゃんと帰ってくるから」……彼がそう言って出て行った日に、死の分岐路にあったことなど知り得なかった。結果として馬鹿みたいに見送って、連続する過去は悲しい今に至らせた。
一言でいい。「行かないで」と言えたのならば、未来はきっと変わっていたのに。
彼女は必死に考える。どうしたらもう一度…………
「……本」
あ、と間抜けな声が落ちる。
本だ。あの時、本を読んだ。その結果あの白昼夢を体験したのだ。
どっかで聞いたような話じゃないか。特定の場所や行動が、タイムスリップの引き金になるお約束のような現象だ。馬鹿馬鹿しいがあえて言うなら、あの本に過去に干渉する未知の秘密があるかもしれない。
顔を上げれば辺りはすっかり暗くなっている。
「あの本、小説…………」
あれをもう一度読み上げたなら。もしかしたら。もしかしたなら。
彼女は即座に立ち上がり、駆け足に家への帰路につく。
平山が、死んだりしない未来をどうしても掴みたいのだ。たとえそれが、狂人と呼ばれる努力であろうと厭わなかった。
河川敷の芝生がさわさわ揺れている。なだらかな丘を駆け下りて、細い道路に飛び出した時、その横顔がヘッドライトに照らされた。
ヒールがアスファルトを指す音がする。
「え」
クラクションの音が聞こえた。真っ白いバンが、飛び出した彼女の体躯を真横に捉えていたのだ。
……………………
長い夢を見てた気がする。
すごくすごく、長い夢だ。
「……泣いてるのか」
壁を背もたれに、本を読んでた平山が言った。
部屋が赤い。窓から差す夕陽のせいだろう。畳も布団もちゃぶ台も、この四畳半の何もかもが赤黒い。
彼女ははっとした。夕陽の赤色に、何故か血を連想したのだ。妙な夢の影響だろうか。
「……、あれ、夕方」
「ああ。お前随分よく寝てた」
言いながら平山は、読みかけの本に栞を挟んでパタリと閉じた。
夢の内容は覚えていない。ただ、なにか大切なものがあった気がする。
それが思い出せなくて、奇妙なもやが心の中に燻っていた。寝汗がじっとり背中にシャツが張り付いて、それがひどく心地悪い。
今年ももう夏なのだ。
梅雨は明け、蝉も徐々に騒々しさを増してくる。あと数時間で七月も終わり、日本はやがて一年で最も暑い季節を迎える。
「それ、相対性理論がどうのって、タイムスリップの話?」
先ほどまで彼が読んでた、小さなそれを彼女が尋ねた。小難しいタイトルだ。著者は知らない。
「ああ……なんだ、読んだことあるのか。夢があるよな」
平山は淡い微笑を浮かべた。紙の側面から突き出た栞が、夕陽に色濃い影を引いてる。
「なんだっけ、タイムマシン。因果律となんかで実際に作れないって……」
細く煙を登らせて、彼女は髪をかきあげた。寝起きの怠さは未だに抜けない。
「詳しいな。因果律と相対性理論だ」
「……?相対性理論によると作れるみたいなこと言ってなかった?あれ……時間の遅れがどうのって」
彼女は混乱してるようだった。「すっげえわかりやすく言うと、光より速く移動できれば過去に行ける」……確か平山はそう言った筈だ。
「……?俺がそう言ったのか?」
彼の眉が、不思議そうな弧を描いた。その切れ長の瞳から、彼女は目が離せない。目を離したら、この煙のように平山が揺らいでしまう気がした。
「言ったよ。……あれ、言った、はず。平山から聞いた気がする」
言いようのないそれは不安というより恐怖に近い。いつ、聞いたのだろう。彼女はそれがわからないのだ。
いつの記憶かわからない。ただ確かにそういう事実があったものだと認識してる。上手く表現出来ない感覚だった。例えるなら予知夢を見て、それが的中した瞬間のよう。
この〝記憶〟がどこから来るのか、彼女自身定かでないのだ。
「まぁ、アレだ。その通りだ。相対性理論でいうと、光より速く移動できれば過去に行ける。実際にはいくつか前提条件がいるけどな。
だけどこれも相対性理論になるが、質量のある物体は光より速く移動できない」
「???
なにそれ。相対性理論によるとできるってことが、相対性理論によって出来ない??」
またこんがらがってきた。
そう感じた瞬間に、新たな疑問符が頭を覆う。
〝また〟ってなんだ……?
既視感が確かにあるというのに、そんな経験をしたことはない。頭の中で確信してる出来事は、しかし明確な過去を持ってなかった。彼女は、未経験のことを経験してる記憶があるのだ。
「厳密に言うと少し違う。相対性理論が否定してるのは〝質量のある物体〟が光より速く移動出来ないってことだ」
「じゃあその本の主人公はどうやって過去に行ってるの?」
「ああ、これはフィクションだからな。舞台が近未来で、人間が光より速く移動するための装置が発明されたってことになってるんだ」
それを聞いて、彼女は何故か落胆をする。だったら、やはり実際に人間は過去に行くことなど不可能でないか……と。
彼女がしょんぼりとした顔をするから、平山は益々不思議そうな顔になる。
「なんでガッカリしてるんだよ。お前タイムスリップでもしたいのか」
「うん?したいよ」
「なんでだ?」
「あれ……なんでだろう」
わからなかった。わからないのに、過去に干渉したいという感情が、頭の中にこびりつく。
そうだ。正体不明の衝動がある。
「……質量のない物体ってなに?空気にすら質量あるのに……」
彼女の視線が下へと落ちる。頭の中に意思が投下されたのだ。それが誰の意思なのか、どこから来たのかもわからないまま、衝動だけを駆り立てた。
「……なんだろうな。俺だって専門家じゃねえんだから……」
「ゆーれい?」
平山がプッと吹き出した。
「幽霊ってお前」
そう可笑しいと笑ってる。幽霊を信じてないのだろう。彼女もあまり信じてない。けれど幽霊が実在するとしたならば、確かに質量はなさそうだった。
「幽霊が有りならなんでも有りになっちまうだろ。魂とか思考とか、そんなもんがバンバン過去に飛べるってのか」
それこそSFでなくファンタジーだ。平山はそう言って、煙草を咥えて火をつける。気が付けば夕陽は沈んでいた。
「笑わないでよ」
「悪い。ああ、でも面白いと思うぜ。予知だの正夢だのってのが、未来の自分が送ってきた記憶の欠片だったとかな。ファンタジックだが、物理学では否定できない。確かに質量がないからな」
穏やかな時間の流れに思えた。
彼女は何気なく「幽霊」と言ったけど、平山の発想には至らなかった。なるほど過去に身体ごと跳ぶことは出来ないけれど、思考や記憶だけならば飛ばせるかもしれないのか。
「まあ、そういうもんが実在するなら……だが」
平山の一言が水を差す。確かに思考はそれ単体として存在してるとは限らないし、医学的には単なる脳内信号だからだ。
それでも人間には根拠不明の〝予感〟や〝勘〟が備わってるのも確かだし、正夢を見る人だっている。ああいうものが、未来の自分が「あの時ああしてればよかった」という思念や記憶を送り込んだものだとしたなら、これで中々夢の広がる話じゃないか。
麻雀のどっち切り問題でミスった未来の自分が後悔して、無意識に過去へ思考を送ったとする。過去の自分はその思考をキャッチして、漠然と「こっちは嫌な予感がする」とでも感じるのだろうか。実現したら麻雀で無敗になれそうだ。いや、競馬でも、パチンコでも。
「ところで」
平山が煙草の灰をゆっくり落とす。
外には月が薄らうかび、昼間と打って変わった涼やかな夜風が吹いていた。網戸越しのカーテンがひらひらと靡いてる。
「その……明日なんだが」
平山につられるように、彼女も二本目の煙草に火を付けた。四畳半の天井に、二本の煙が昇ってく。
いつもなら夕飯にしているところだ。その日の食卓はわかってた。昨日煮物を多めに作っておいたから、今夜もきっとそれだろう。
平山はいつも、煮物は一晩置いた方が美味いと言ってる。主婦みたいだ。彼女は家事が得手ではなくて、こと料理においては彼の方がずうっと上手い。だから……いつの間にか食事は平山の作ることが大半となった。
「うん、明日なに?」
窓の外を見て彼女は思った。
やはり平山は頭が良い。質量がなければ過去に行ける可能性があるなんて、考えたこともなかったのだ。
ああ、でももう一つ問題があった筈だ。因果律。これを崩壊させちゃ駄目なんだって、そんな話もあった気がする。
「おい、聞いてるのか」
「聞いてるよ」
「……たく」
彼と二人で寛ぐ今が、永遠に続いて行けばいいのに。
不意に彼女は、そう思った。
「明日、大きな勝負がある。朝までかかるだろうが、ちゃんと帰ってくるから……。なあ、その、欲しいものとかあれば、考えておけよ。なんだっていい」
彼女は手から煙草を落とした。
「あ」
「お、おい馬鹿!」
「ごめ……わ、」
「うわっ、畳焦げてるじゃねえか!大丈夫か、火傷してねえか」
急いて落ちた煙草を拾いあげ、そのまま灰皿に押し付ける。畳は小さく点のような焦げがある。
「おい」彼が呼ぶ。彼女は放心しちまっていた。
「……え」
「どうしたんだ」
「だ、だめ。平山」
「は……?」
よくない予感がする。
「駄目」もう一度彼女は言った。行っては駄目だ。
頭の中に次々と映像が流れ出す。開かれないドア。一人の食事。ゴミや洗濯物が大して溜まりもしないのは、それが一人分だからだろうか。あまり食べないせいかもしれない、食欲の無さも〝覚えて〟る。カートンで買った彼の煙草が、戸棚の中でいつまでも減らない。だから灰皿には彼女のメンソールばかりが山になる。
室内の、ぞっとするほどの静寂に胸が悲鳴を上げていた。だのに表面上の彼女は人形みたいに変化しない。彼がいつまでも帰ってこない。帰ってこなかったのだ。
この記憶はなんだろう。フラッシュバックする映像は全て、かつて見たことのないものだった。しかし強烈な既視感がある。
……そうだ。花弁が落ちてた。彼女はそれを目で追った。花弁はやがて台所のフローリングから畳の上に続いてく。その先にあるものは……
「写真と、花と、…………」
なんだ?これは。
彼女は自らの頭を抱えた。それは紛れもなく仏壇なのだ。平山の遺影を確かに見ていた。帰って来なかった。彼女はそれを〝知っている〟
「平山、駄目。駄目、行っちゃ駄目。絶対に駄目」
「おい、どうしたんだ。とりあえず落ち着……」
「駄目、絶対行かないで」
今日という日に奇妙な既視感が続いてる。それは予感の域を出なくとも、確信するに十分過ぎた。ここで彼を行かせたら、どのような未来になるのか〝知っている〟のだ。予知能力とでもいうのだろうか。彼女にはよくわからない。よくわからずとも、「駄目だ」ということだけはよくわかる。
「急にどうしたんだ。ほら、とりあえず麦茶飲め。落ち着けよ、そんなに行くのが嫌だってのか……?」
彼女はかつてこのような我儘を言ったことがない。平山は訝しげな顔をする。
彼女は「何故駄目なのか」理由も説明出来ないままに、壊れたみたいにひたすら「行かないで」と繰り返していた。