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突如、視界がヘッドライトに眩む。間近に迫る車の風圧と、鼓膜を横殴りにするクラクション。いつのまに車道をふらついてたのか。ぼーっとするあまり気が付かなかった。
ヤバイ────そう感じるいとまもないその刹那、強い力に後ろ手を掴まれて、彼女の身体が歩道側へと引き戻される。
間一髪で車は鼻先を通過した。すれ違いにギョッとした顔をした運転手が、去り際に「前見ろバカヤロウ」と罵声を残す。
「なにしてんだ、あんた」
背中から、よく知る声が、幾ばくか焦燥したようにそう言った。
「あ、あかぎ……」
道路に飛び出した彼女を引き寄せ、交通事故を防いだのはアカギだった。
「なにしてんだって聞いてんだけど。安岡さんが妙な事言ってたけど、さすがに柄じゃないんじゃない」
半ば引きずるように河川敷に連れ戻される。アカギは至って冷静で、口調も淡々としたものだった。だが言葉尻が妙に冷たく、その態度には仄かな呆れと怒りが混じる。
「……」
「なんとか言ったら」
「…………なんとか」
途端、アカギが深くため息を吐く。彼女はまじまじとその顔を見て、ようやっとアカギの言わんとすることを理解した。
自殺だと……勘違いさせてしまったらしい。
「……ち、違う。そういうんじゃない。急いでただけ。それで車……見てなかった……」
アカギの表情は変わらなかった。信じたのかどうかもわからない。そのまま重たい沈黙になる。
────ああ、でも、今のはどういうことなのだろうか。
たった今見た白昼夢のことを、彼女は整理しようと思考する。
先ず過去への干渉に小説がキーではないかと予測したけど、どうやらそれは間違いだった。唐突にまた白昼夢にも似た感覚は訪れたけど、小説には触れてすらいない。なら、一体なにが原因なのか……
「……で?」
「……『で?』ってなに。私は、うっ……」
と、目眩がした。また〝アレ〟だ。知らなかった過去の記憶が流れ込んでくる。
あの夜……「行っちゃ駄目、行かないで」とこれでもかって食い下がって、かつてない制止に平山は面喰らってた……そんな記憶が。
それで。それからどうしたのだっけ。思い出せる筈だ、なにせほんの一、二ヶ月前のことである。
────……急にどうしたんだ。ほら、とりあえず麦茶飲め。落ち着けよ、そんなに行くのが嫌だってのか……?
平山はそう言いやんわりと引き剥がそうとしていた。
それで、それから────
あれで過去が変わったならば、平山は今頃部屋で帰りを待っていてくれてる筈だ。だけど……不意に涙腺が痛みを覚えた。
〝駄目だ、変わってない〟
答えを告げたのも自分の記憶だ。変わることなく彼女は霊安室で平山に会い、やがて骨壷を受け取り、悲しみに明け暮れた日々を迎えた。あれだけ制止したというのに、平山は鷲巣の元に行ったのだ。
〝わかった、お前がそこまで言うのなら行くのはやめる。なんだよ、まだ不安なのか。大丈夫だ、大丈夫だから…………〟
そう言ったのに、真夜中に目を覚ました時に、平山の姿はどこにもなかった。そこから先は……同じだ。
彼女は蹲ったまま、ひたすら絶望に心が軋む音を聞いてた。
深夜、怖いくらいに静まり返った部屋の中。隣で寝息を立ててる筈の平山の姿はどこにもなく、触れた布団は冷たくなってた。布団を離れて、時間が経ってる証拠だろう。
トイレにも居ない、風呂でもない。恐怖に心が割れそうで、泣きながら彼の名前を呼んだ。返事がない。焦燥する。混乱しながら玄関を飛び出し、平山を追いかけようとした。
そこでふと気づくのだ、平山が何処にいるのか知らない。
勢い余ってアスファルトに躓いた。派手にこけて、膝から血が落ちていた。痛みを感じる暇もなかった。ただ、真っ黒いアスファルトに散った自分の血が、あまりにも不気味に見えたのだ。
「アカギ!!」
目の前の男を呼ぶ声が、無意識に叫びのようになる。
そうだ……〝どこに行ったのかわからなかった〟のだ。
「…………なに」
「アカギ、鷲巣……鷲巣巌と、血抜き麻雀したとこ、連れてって……!」
「…………今から?」
アカギは嫌そうな顔をした。
……………………
頼むからチキンランでお釈迦になんぞしてくれるなよ。
石川はそう言って、渋々川田組の車を貸し与えてくれた。こうもすぐに応じてくれようというのだから、アカギの力の凄さを実感せざるを得ない。
彼女は助手席で、流れる景色を眺めてた。もう随分と、木々が立ち並ぶばかりの退屈な景色ばかりが続いてる。
「……やっぱり」
彼女は座椅子に靴を脱ぎ、膝を抱えるように座ってる。捲り上げたボトムの裾から、傷跡のある膝を見た。
転んだ時に派手に血を撒き散らした、あの時の怪我はかさぶたとなって残ってる。無かったものだ。してなかったはずの怪我をしている。やはり白昼夢は妄想でなく、過去に干渉してたのだろう。
彼女はもう、「何故こんなことが起こるのか」を考えるのはやめていた。起こることは起こるのだ。なら、目的は一つだけだった。
「アカギ……あんたどうして、さっき河川敷にいたの」
「昼間、安岡さんから連絡があった。あんたがナントカ理論がどうのって、わけわかんないって」
「…………もしかして、それでうちに来るとこだったの?」
河川敷は、彼女の家のすぐ裏だった。様子を見に家に向かっている途中、よく似た人影がフラフラ歩いてるのを見かけたが、唐突に道路に走り出すから驚いた────とアカギは言った。
案の定車に轢かれかけて、かと思えば鷲巣邸に連れていけと言われ、まったく迷惑この上ないとも。
「アカギ……ごめん」
「今更だな」
運転席の窓が僅かな隙間を開けて、煙草の煙を逃がしてく。彼女は必死に、その道順を叩き込んでた。
ここにもう一度来なければならない。平山が死んでしまったあの夜に。
「……過去を、変えたくてさ」
彼女はぽつりと言った。
アカギはすんと鼻を鳴らすが、馬鹿にしたりはしなかった。
「ふうん」
「でも質量のあるものは時間を超えたり出来ないんだって」
「へえ」
気の無い返事だ。彼女とてそれに腹を立てたりはしないけど。
「あとね、仮に過去に行けたとしても、因果律の問題があるんだって。難しいよ」
タイム・パラドックスと呼ばれるものだ。有名な「親殺しのパラドックス」には、実に様々な例がある。
タイムマシンに乗って過去に行き、タイムマシンの発明者を殺せるか。過去の自分を殺せるか。解決策のない堂々巡りの状態を指し、結論と呼べるものにたどり着けないことである。
これが生じると因果律が崩壊するから、やはり過去に干渉するのは不可能なのだと……全て平山の受け売りだった。
「なに考えてるんだか……」
クク……とアカギが喉をくぐもらす。笑っていた。
「結論出てるじゃない」
「……え」
「タイム・パラドックス、起こせないんでしょ。冷静になりなよ。『凡夫が死んだ未来からあんたが過去に飛んで、凡夫を助ける。凡夫が助かったらあんたが過去に行く理由も消えるから、未来から助けに来る者もおらず、結果として凡夫は助けられない』……あんたの言ってること要約すると、こういうことじゃない」
「……あ」
「まあ、気の済むまでやったらいいんじゃない。死ぬよりはいい」
「だから……さっきのは自殺じゃないってば……」
凡夫は助けられない。アカギの言葉がぐるぐる回る。助けても、助けられないのだ。
彼女は膝の傷跡を見た。
だったら……この怪我にどんな意味があったのだろうか。未来を変えられないというなら、何故過去に干渉出来たのだろうか。それなら最初から、「そんなことできるわけない」で良かったのに。
「…………泣いてるのか」
「……うるさい、うるさいよ、アカギ」
だったら、何故してもなかった怪我の傷跡ができているのか。些細だけれど、未来は変わっているというのに。こんなどうでもいいことは変えられて、平山だけが救えないというのなら、それは絶望が更に色濃くなるだけじゃないか。
「うるさい……」
「はいはい」
ぐうの音も出ないほど、アカギの言葉は正論だった。仮に過去で平山の死を止められたって、自分の生きる〝今〟に平山は戻って来ないのだ。結果として、やはり平山は死んでしまうのだろう。なら何度も過去の白昼夢を見て、何を成せばいいというのか。
……何度も?
不意に、また新たな疑問が浮かび上がった。〝何度もって、何度目だろう〟
初めてでないのはわかる。だが何回目だか覚えていない。最初の変化はなんだったろうか。最新の記録しか残っていない。
鈍い頭痛が通り過ぎた。記憶は無くなったりしない、ただ、しまった場所を思い出せなくなるだけ。平山はそう言っていた。では、これより前に過去へ干渉した記憶たちは、どこに仕舞われてしまったのか。
……ヤバイ。
彼女は思う。こんな短期間に、こんな大切な事を忘れてしまうはずがないのだ。
まさか……〝記憶は上書きされる〟のだろうか。
過去が二つあっていい筈がないから。修正されてる?だけど誰が修正などするのだろう。
「ブツブツ言ってるとこ悪いけど」
やがて車は、大仰な門の前に停止した。かつてアカギと鷲巣が戦った場所だ。だけどもう、鷲巣巌はここにはいない。
「着いたよ」
アカギが、無機質な目で外を見ている。
…………………
ここが、平山の死んだ場所なのか。
先ず思うことがそれだった。鷲巣巌はもう居ない。それは平山亡き後に、アカギのつけた決着だ。
番地は……。ここは何県何市のどこなのだろう。メモはきっと意味がない。頭で覚えて、記憶として送るしかない。だけど、それに本当に意味はあるのか……たった今、因果律は覆せないとアカギに納得させられたのだ。この情報を過去に送れたとして、それは意味あることなのだろうか。
嫌味なほど立派な門構えの先には、絢爛さを詰めたような本邸がある。
ここに白服の部下を召使いのように並ばせて、さながら鷲巣は王だった。何もかもを手に入れた昭和の帝王は、しかし魔物に堕ち人を殺した。八月一日……あれが終わりの始まりだった。
「アカギ……因果律って知ってたの」
縋るような声になる。涙がまた目尻に溜まった。
「いや……あんたがこんな話をするまで、聞いたこともなかった」
〝過程があるから結果がある〟……あらゆる物理学の根本であり、そうと肯定しなければ世界の成り立ちを否定するほどの常識だ。
林檎が欠けたのは「食べた」からだ。
怪我をしたのは「転んだ」からだ。
こんな些細な出来事でさえ、因果律というものは存在している。
……既に起きてしまったことを変えたい時、どうやったらいいんだろう。
平山が死んだ。
鷲巣に「負けた」から「死んだ」のだ。
無人となったその邸を、彼女は強く強く睨みつける。何かが掴めそうで掴めない、もどかしさがあったのだ。
「…………眠い」
運転席で背伸びをしながらアカギは言った。
「寝るから、帰る時起こして」
「……、帰り運転するよ」
「……悪いけど、交通事故じゃ死にたくねぇな」
「なんだと」
カチンとくるもの言いだったが、アカギに口論する気はないらしい。座席をリクライニングさせ、さっさと背中を向けられたのだ。
「…………アカギめ」
彼女はぽつりと呟いた。
……………………
バタフライ効果というものがある。平山から聞いた話だ。カオス理論の寓意的な言い換えであり、定義の一部を指す言葉だそうだ。
簡潔に言うならば〝ブラジルの一匹の蝶の羽ばたきは、テキサスで竜巻を起こすのか〟
彼女の場合はこの説明ではよく理解出来ず、再三平山に簡単な例を求めることになったけど。
「ほら、ピタゴラスイッチとかドミノとか……ああいうのって最初の一つはすごく小さなものだろう。だけど最終的には大層なもんになる。あんな感じだ。
違うのはピタゴラスイッチは計算されたものだが、バタフライ効果は偶然の結果ってところだな」
なるほど、と言いつつやはり飲み込めない。すると平山は苦笑して、「寝坊したら恋人ができるとかな」と例え話を始めてくれた。
「……?寝坊?」
「母親が寝坊して、起こしてもらえなかった娘も一緒に寝坊して、食パン咥えて学校まで走ってたら曲がり角で転校生の男の子とぶつかる。……で、ベタベタだろ。ぶつかった少年と少女は恋に落ち、大人になって結婚してガキを産んだ。母親の寝坊っていう何気ない出来事が、数年後の娘の人生に大きな変化を与えたんだよ」
「それがバタフライ効果なら、世の中の出会い全部バタフライ効果じゃん」
「だからそれが因果律なんだろ」
なんだか哲学みたいだと彼女は笑ったが、平山はその通りと言う。物理学や量子力学というものは、突き詰めれば哲学的になり得るらしい。
〝ブラジルの一匹の蝶の羽ばたきは、テキサスで竜巻を起こすのか〟
結論はこうだ。様々な乱数の重なりにより、テキサスの竜巻になる可能性はある。偶然とは、そういうものだと。
頭の良い奴の考えることはわからない。彼女はしみじみそう思ったものだった。
空は、星が綺麗だ。
彼女は車外に出て座ってた。咥え煙草で空を見上げて、幾千の星を眺めてる。車の中では、アカギが穏やかに眠ってた。
こんなに世界は平和であるのに、平山はもうどこにもいない。ならば目の前の美しさに、なんの意味があるのだろう。気を抜けば頬に溢れる涙も、見る人がいなきゃ隠そうとも思わない。だから涙も拭わずに、いつまでも空を眺めてる。
思い出すのは平山との出会いであった。あの出会いも、因果律の一つであるのか。数年前だ、こんなふうに、じっとり暑い夜だった。
当時……平山がアカギの偽をするより更に遡る頃のこと。彼女は麻雀の腕に自信があって、無鉄砲に賭場を荒らして回ってた。
そこに後ろ盾など存在はせず、傍目に見りゃあかなり危なっかしいものだったらしい。世の中をナメてなかったといえば嘘になるけど、事実それまで負け無しだったものだから、まがいなりにも自信があった。好き放題したものだった。誰かが、そんな彼女を跳ね馬のようだと呼んでいた。
だがある日、調子に乗った彼女に、ついにあらくれ者が腰を上げてしまったのだ。どんなに博打が打てたって、彼女は武道の達人じゃない。無骨な暴力を前にした時、出来ることは何もなかった。
そこに平山は割り込んだ。
自分一人で逃げればいいのに、危険を犯して助けに手を伸ばしたのだ。黒服を数人殴った後に、「捕まれ」って手を伸ばしてくれた。
その手を掴んだら、一緒に逃げてくれたのだ。あの日、平山が救ってくれた。一人ではどうにもならない窮地から、身を呈して守ってくれた。あれからずっと一緒に居たのだ。
因果律。バタフライ効果……カオス理論。難しいことばかりだ。
彼女は自分のめちゃくちゃな仮説を信じていた。きっと相対性理論による時間の遅れを利用して、質量のない自らの記憶は過去の自分へ送られたのだ。
これは実体なきタイムスリップだ。身体でも意識でもない、記憶だけが時を越えてく。そして過去の自分が〝予感〟するのだ、今という、絶望の未来を。
……次にあの白昼夢が訪れたなら、伝えることは二つに絞ろう。
平山を行かせたら死んでしまうこと。
平山が向かった鷲巣邸はどこにあるのか。
そして、平山が死ぬ前に鷲巣を倒してしまえばいいのだ。そうしたらきっと、未来は変わるはずだから。
〝凡夫が死んだ未来からあんたが過去に飛んで、凡夫を助ける。凡夫が助かったらあんたが過去に行く理由も消えるから、未来から助けに来る者もおらず、結果として凡夫は助けられない〟
アカギの言葉がこびりつく。
だけどそれは、やってみなくちゃわからないのだ。
アカギが正しかったとしたって、この無防な努力をやめられない。
悲しい未来を変えるために、過去に戻って別の分岐路に進んでくなど、さんざフィクションの世界で使い古されたストーリーじゃないか。
そもそも何を引き金に白昼夢は始まるのだろう。それすら定かになってない今、方法もチャンスも無限であるとは限らないのだ。
涙が止まらない。こんな……中途半端は希望に縋って、無力な両手は一体何が出来るのだろう。
この夜は、あまりに苦しい。
……………………
結局朝になってしまった。
白くなった空の下でも、鷲巣邸は相変わらず仰々しい。欠伸で目尻に涙を溜めたアカギは、「よく寝た」と言って背筋を伸ばした。もう帰るのだ、あの町に。
「アカギ……連れてきてくれてありがとう」
「気……済んだ?」
「まだわからない。でもありがとう」
彼女が素直に礼を言うから、アカギは意外そうな顔をした。
「珍しいね」
そう寝起きの一服をしながら言う。彼女は言い返さなかった。
「寝なよ。ついたら起こす」
「…………ありがとう」
彼女は静かに目を閉じた。
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部屋について先ず目につくのは畳の焦げだ。ちょうど煙草の形で黒くなったその箇所は、確実にかつてはなかったものだ。
どうしてここが焦げているのかも知っている。彼女が動揺のあまり煙草を落として、その結果焦げてしまったのだ。
膝の怪我といい、この焦げといい、確実に過去は変化している。
「バタフライ効果……」
彼女は呟く。些細な変化しか起こせなかった。既に悟ったのだ。〝今の〟自分が与えられる影響では、とても些細な変化しか起こせないこと。
だけどバタフライ効果がある。その些細ななにかが、きっと未来を変える可能性になるかもしれない。
次に白昼夢が訪れたなら、今度こそ……そう彼女は強く誓った。