「夏ってさあ、蚊取り線香の匂い。そういうイメージなんだ。だから線香ってだけで、やっぱり夏の匂いって思う」
彼女は白い煙を吐いた。同じ煙なのに、煙草と線香じゃ随分違う。
こないだと同じ河川敷の、全く同じ場所に彼女はいた。「なんで」と天は言う。彼女は小鼻をスンと鳴らして、「あんたから線香の匂いがする」と指差した。
天には心当たりがあった。昼間、ちょっくら寺に悪さをしに行ったのだ。小学生の、お決まりの遊びの一つに過ぎない。あそこの線香が服に匂いを残したのだろう。
「で、なに。また来たのあんた」
「あんたって名前じゃないよ、俺」
「……じゃあなに」
「……素人のたけし軍団相手に本気でホームランかっとばしちゃう、ヤクルトの大杉です」
「………………」
「………………」
「……大杉か」
「……あー……あー、ねーちゃん、こないだ自分が勝ったって言ったろ」
「うん、言ったね。そんなことよりもう日が暮れるだろ、暗くなる前に帰りなよ」
彼女は相変わらず天貴史を子供のように扱った。……まあ、事実子供であるけれど。歳を聞きはしなかったけど、凡そは目測でわかるものなのだ。
天は適当な石を二つ拾って、そのうちの一つを彼女に差し出す。
「もう一回だ」
そう言えば、彼女はようやっと彼を見た。
きっと自信でもあるのだろう。この間と同じフォームで彼女の肘から先が水平になる。一秒後に、ヒュン、と風を切る音がした。石はやはり、川を跳ねて彼方まで飛ぶ。飛距離は前回よりも長いものだった。
「俺の番な」
天は大きく振りかぶって、頭上高く石を放った。
「あ」
彼女が言う。赤い空に浮かぶ飛行機雲に沿うようにして、綺麗な弧を描いて石が飛ぶ。
それは水面を一度も跳ねることはなく、ただ、遠くの向こう岸へと落ちた。
「俺のが遠くに飛ばせたろ」
天は得意げにそう言った。
遠くに飛ばせた方が勝ち。だけど方法は定めなかった。水面を跳ねさせるなんて、そんな規約を明確に定めちゃいないのだ。
ずるい、と言われるだろうか。彼女の顔を覗き込む。
しかしその表情は、むしろ清々しいと言わんばかりに笑っていた。ずるいなんて欠片も感じてないように。
「確かに!あんた博打が上手いじゃないか」
彼女がけらけら笑うから、やはりこの女は博徒なのだと天は思った。
…………
彼女はもう、天に「帰れ」とは言わなかった。敗者は勝者の意に沿うのが鉄則なのだ。例えそれが小学生であったとしても、些細な勝負に過ぎなくっても。
「博打なんかしちゃいけません」「喧嘩なんかしちゃいけません」「勉強しなさい」「そんなことは子供が知らなくてもいいことです」天に大人が言うことなんて、大概がこの四つのどれかだ。
世間一般に不良爺と言われた祖父も、一昨年に亡くなってしまった。
「子宮で博打?」
「うん。あんたは子宮で博打、打てるのか」
女の博徒ってのはそういうものだと聞いたのだ。意味のわかりかねたその言葉を、天は彼女に問いかける。太陽が川の果てに沈んでゆくのを眺めながら。
遠くに響く豆腐屋のラッパ。排気ガスを撒き散らす車のエンジン音。猫が喧嘩をする鳴き声。間も無くこの町に夜が来る。まるで彼女は、それを待っているようだった。
「どうだろうね」
風がさわさわ揺れていた。虫の声が小さくなってく。東から押し寄せる藍色の空は、子供を受け入れない大人の世界の境界線だ。あれが空を覆ったら、門限の緩い天の家も流石に怒り出す頃だろう。今はそれが惜しいのだ。
「そいつは、〝女だけの感覚〟って比喩じゃないの。子宮は男にはないでしょう」
「女の感覚?」
「多分ね」
風が夜を連れてくる。既に街灯が明かりをぽつりぽつりとつけてく。
「女だけの感覚って、あんまりハッキリしたもんじゃないよなあ。んなもん、本当にあんのかよ」
「……あんじゃない。昔っからね、世界中の男たちが口を揃えて似たようなことを言ったんだ。『女の考えることはわからない』ってね」
「なんだそれ。いるかもしれないだろ、こう、パッと理解してくれるような……」
「そうだね。そんな奴がいたら、きっと好きになるんだよ」
やがて一番星が顔を出す。女は尻の土埃を手で払い、遠目に灯ったネオンを睨んだ。
「……あんたは、帰らないんだな」
天がぽつりと溢したら、彼女は「行きたい時間がある」と笑って返した。
────きっともうすぐ〝アレ〟が来る。それだけがわかる。こんな、黄昏の終わる頃だったと。
……………………
夢を見てた気がする。
すごくすごく、長い夢だ。
「……泣いてるのか」
壁を背もたれに、本を読んでた平山が言った。
部屋が赤い。窓から差す夕陽のせいだろう。畳も布団もちゃぶ台も、この四畳半の何もかもが赤黒い。
彼女ははっとした。夕陽の赤色に、何故か血を連想したのだ。妙な夢の影響だろうか。
「……、泣いてない。今、何日?」
「気のせいか、泣いてるみたいに見えた。今日は七月三十一日だが」
「そっか……ありがとう」
「ああ」
しゅ、とマッチを擦る。独特の香りと共に煙が登る。どれくらい眠っていたのか。なにか、大切なことがある気がしてる。予知能力でもあったのだろうか、それは予感でありながら、予感の域を逸脱する程の確信だった。
彼女は、行かなければならない場所がある。
「……もしかして私、うなされてた?」
「いや、寝息もなかった。死んでるみたいだったぞ、お前」
言いながら平山は、読みかけの本に栞を挟んでパタリと閉じた。〝死んでるみたい〟……その言葉が、厭な生々しさでまとわりつく。
夢の内容は覚えていない。ただ、正体不明の衝動だった。
「死んでるみたいって、なにそれ」
彼女は笑った。寝汗がじっとり背中にシャツが張り付いて、それがひどく心地悪い。
今年ももう夏なのだ。
窓の外では、空が赤と青紫を混ぜ合わせている。
「平山……因果律って、一度起こったらもう変わらないのかな」
先ほどまで彼が読んでた、小さなそれを彼女が尋ねた。小難しいタイトルだ。著者は知らない。
「ん……?本の話か?お前いつの間に読んでたんだ?」
「……気になってさ」
「珍しいな」
小説を読まない彼女がそんなことを尋ねだすから、平山は淡い微笑を浮かべた。紙の側面から突き出た栞が、夕陽に色濃い影を引いてる。
「因果律か……」
彼の眉が、複雑そうに顰められた。その切れ長の瞳から、彼女は目が離せない。目を離したら、この煙のように平山が揺らいでしまうような気がしてる。
「タイム・パラドックスの話だろ?〝経過〟を変えられるかもしれないが、〝結果〟を変えたら因果律が崩壊する」
「じゃあどうしようもない?」
「いや……乱数があるだろ、物事には」
カオス理論みたいなもんだ。平山はそう笑った。
また小難しいことを言うから、彼女は口を尖らせる。まったく平山の頭には何が詰まっているのだろう。相対性理論だの、光速度不変の法則だの、バタフライ効果やシュレディンガーの猫。……で、今度はカオス理論や乱数か。
「……何ソレ。五……」
「はいはい。五歳でもわかるように、だろ」
「うん」
空がどんどん暗くなる。雲の流れが速まったような錯覚をした。網戸越しに風がカーテンをはためかせ、一瞬彼の顔を隠す。
堪らず彼女は平山の手を握ってみせた。その拍子に煙草が落ちて、畳を小さく焦がしてしまう。
「わっ、馬鹿……なにしてるんだ、火傷してないか」
「あ、ごめ……」
「急にどうした。ああ、いい、触るな。俺がやるから」
焦げだ畳に既視感がある。嫌な兆しに思えてしまった。
「どうした、らしくないんじゃないか」
「ごめん」
「いや……怒ってはいない。火傷してないか」
平気。彼女は言った。畳に滲む黒い焦げ跡が、無性に恐怖を駆り立てる。きっとそれは、今ある悪い予感や正体不明の衝動と、同じ場所から来るものだろう。
「……ごめん。けど、話す間、手ぇ繋いでていい?」
「……?構わないが、どうした。珍しい」
「お願い」
「ああ……」
やんわりと握る掌には、確かな体温が存在していた。暖かいし、握り締めれば返ってくる握力がある。それだけで、どうして泣きたくなるのだろうか。
「おい……」
「平気だから。その、乱数?それについて、話してよ」
不覚にも言葉尻が震えてしまう。それでも、彼の話を聞きたくって仕方がない。できるだけたくさん話したかった。話し方も、声も、その抑制すら、平山だけのものなのだ。記憶にきちんと刻んでおきたい。そんな気持ちの夜だった。
「乱数っていうのは……簡単に言うとサイコロを投げるみたいなもんだ。一から六まで、どれが出るかはわからない。ランダムだろ」
「……?それがどう、因果律に関係するの?」
「うーん……そうだな。サイコロを振るとする。で、例えば三が出たとしよう。ここでタイムスリップして、サイコロを振る前に戻る。またサイコロを振った時、同じく三が出ると思うか?」
このサイコロを振るのが、例えばコンピューターだったなら、三が出るかもしれない。だが振るのは生身の人間だ。補足するように平山は言った。
「前提として、平行世界はパラレルワールドは存在しない。これが有りになら、何でも有りになるからな」
彼女は頭をまた捻る。三が出る前に戻るが、それは三が出た結果と同じ時間軸の話だ。パラレルワールドがないというなら。
「三が出ると思うか?」
わからない。わからないが、同じ時間を繰り返してる以上、それは三なのではないか。平山は淡く笑ってみせた。
「もし何度繰り返しても三しか出ないのなら、物事は全て運命のようなもので決まっていて、変えられないことになる。運否天賦のサイコロさえ、最初から三にしかならないんだ。ジャンケンだろうがなんだろうが、偶然もなにもかもひっくるめて〝最初から定まった〟運命ってことになるだろうな。なぜなら〝今この瞬間〟が、最初の一巡目の世界である証拠がない」
……それは、なんだか虚しい話でないか。偶然や、或いは意図した選択全てが、「何故そう至るのか」という過程とは無関係に定まってるなど。それは突き詰めていけば思考の否定だ。偶然を否定することが、そんなに恐ろしいことなど思わなかった。
くじ引きを引く前から当たりかハズレか決まってて、サイコロを振る前から出る目が決まり、ジャンケンも最初から勝者が決まってる。予知能力がないからそれを「ランダム」と呼ぶだけ。……嫌な話だ。
「嫌だろ?」
「うん、嫌だ」
「俺もだ。だから乱数は存在すると信じるし、その乱数だけは既存の因果律を作り変えうる要素になると思ってる。過程が、変わるからな」
平山は推理小説や刑事ドラマを見る時は、犯人や犯行手口を推理しながら読む人間だ。だからきっと今手にとってた小説も、結末を予測しながら読んでいる。
主人公の少女はタイム・パラドックスにぶち当たり、その壁を越えるべくため試行錯誤してるという。話のエンディングはまだわからない。
だが平山は言うのだ。必然を越えていけるのは偶然だけだと。乱数は因果律に囚われない。そうして運命を否定するのだ。それが悲しいものなら尚更に。
「バタフライ効果とか?」
「ああ、よく知ってるな。それもカオス理論の一つだ。些細な変化が将来的に大きな変化に増幅するかもしれない。多分そういうのも、乱数の中にあるんだろう」
だから博打というのは面白いし、人は未来に希望を抱く。
「さっきの質問な……そういう訳で、俺は〝サイコロの出る目は変わる〟と思う」
繋いだ手を絡め合わせて、彼女はゆっくりと頷いた。確かに……だったら彼女も、乱数を信じようと決める。偶然を否定したら、二度と未来は変わらないからだ。
「あれ、でもシュレディンガーの猫って、パラレルワールドがあるって話じゃなかったっけ?」
青酸ガス発生装置とともに猫を箱に入れ、一時間後に猫が生きてるか死んでるかというのがシュレディンガーの猫と呼ばれる提題だ。
量子力学に則れば箱の中に状態が二つあったら二つの世界があることになる。厳密にはコペンハーゲン解釈であり、昔は「猫が生きてるか死んでるかわからずとも、現実には生死は定まっている」と思われていた。しかしその説に矛盾が見つかったために、このような解釈になったと言われるものである。
「ああ、箱の中に世界が二つあるってのだろ。あれはシュレディンガーが量子力学を批判するために出した例だぞ?」
「ん?量子力学でパラレルワールドはあるって話じゃなくて?いや量子力学もよくわかってないんだけどさ」
「ああ、よく勘違いされるんだ。あれはシュレディンガーがパラレルワールドを証明してるんじゃない。『量子力学によると、箱の中にパラレルワールドが存在することになってしまうぞ。おかしいだろ?』って批判するために出した例だ」
「……知らなかった」
本当に何でも知っている。この頭の良い恋人を彼女は失いたくなくて、きっと今尚心に警報を鳴らし続けてる。正体不明の予感を信じるくらいに。
「話は変わるが、」
唐突に話題を遮って、改まるように平山が言う。
途端、彼女の鼓動が速まった。酷く陰鬱で、同時に泣き叫びたいような、言いようのない感情が内側から溢れて来る。
「……なに」
「ああ。明日なんだが、……その、少し大きな勝負がある」
……〝これだ〟
彼女は確信する。謎の焦燥も、嫌な予感も、全ては〝これ〟に起因してると。無意識に固く唾を飲む。
「朝までかかるだろうが、ちゃんと帰ってくるから……。そうだ、何か欲しいものないか。考えとけよ」
目眩がした。悲しい映像が────記憶か、或いは既視感が頭に浮かぶ。知らない未来であるはずなのに、確かに経験したかのように明確に。時間軸が前後したかのような矛盾があるのに、気のせいとは思えなかった。もう「嫌な予感」という次元にないのだ。
「行かないで。行ったら駄目」
口論になるのではと思った。こんな言い方をするのなら、きっと大事な用事だろう。それを頭ごなしに駄目というなら、温厚な彼でも気分を害するかもしれない。
それでも、絶対に退いてはいけないのだと彼女は思う。最悪縄で縛り倒してしまってでも、明日の「大きな勝負」とやらを止めなければならないと。
「本当に外せないんだ。悪いが────」
「駄目。理由なんか聞かない。絶対やだ」
喧嘩になっても、それで嫌われても、絶対に阻止しなければいけないことだ。
じゃなきゃ嫌な予感が現実になる。平山の死んだ未来に行き着いてしまう。だったら、今嫌われた方がずっといいのだ。
「…………そんなに嫌なのか」
だが意想外なことに、平山は怒ったりはしなかった。ゆっくり息を吐き出して、冷静な眼差しで尋ねてくる。
「うん」
「……わかった。お前がそこまで言うのなら、行…」
「嘘つき」
お前がそこまで言うのなら行かない。それが嘘だと〝知っている〟
そう言って油断させといて、眠った頃に行ってしまうつもりだと、それすら彼女は〝知っていた〟
冷たくなった布団も、絶望するような深夜の空気も記憶にあるのだ。
「嘘つき。私のこと眠らせて行くんでしょう。寝ないからね。しがみついてでも止めるから」
「何言ってるんだ」
「鷲巣んとこ行っちゃ駄目。平山……行かないで、行ったら死んじゃう。私追うよ、場所だってわかる。住所知ってるから」
瞬間、平山が目を見開いた。見る見る顔色が青くなり、それは何か……驚愕と呼ぶには絶望の色によく似てる。
「平山?ねぇ、平山」
唇は震えていた。
彼は何か言おうとして、しかし上手く言葉に出来ないようで、空気だけが漏れてくる。平山の唇が「え」の形で止まってた。やがてそこから、ため息が漏れる。
黒目は隠す気のない動揺を浮かべ、やがて諦めにも似たまばたきの後、光が消えた。
もしや自分は、なにか禁忌に触れたのだろうか。唐突に恐怖が背中を這った。
……どうして、平山は泣きそうなんだろう。
「悪い。……きっと俺のせいだ」
ようやっと単語を成す声は、縋るように震えてた。
なにを、彼は謝っているのだろう。
「二、三回前から、なにか妙だと思っていたが……。俺が、多分お前を引っ張り込んだ。……本当にすまない」
紡がれる言葉が要領を得ず、彼女の混乱が深くなる。
「なに。ねぇ、平山、なんのこと?」
「……たのむ、正直に答えてくれないか」
生きることは、きっとそれだけで素晴らしい。誰かが言っていた。〝あなたが死にたいと思った今日は、誰かがどうしても生きられなかった明日なのだ〟と。
命とは尊く、人生とは価値があり、世界は平等に回ってる。そんな美徳は、もう反吐が出るほど聞き飽きてきた。
生きることは素晴らしい。例え平山が居なくとも、彼女には唯一無二の人生がある。
それでも、その価値が世界にあったとしても……全てを投げ打つことも厭わないほど、取り返したい人がいるのだ。
だから彼女は全力で平山を止めるし、叶わなければ鷲巣を刺し殺すと決めた。
だのに今の、平山の言葉は彼女の根底を揺るがしたのだ。
「お前……俺が死んだ未来を知ってるんだろう」