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◇
数年後。
ジョゼは自宅兼仕事場に
机には色とりどりの絵の具や画材が並び、ジョゼの手によって、幻想的な風景や人物が独特のタッチで描き込まれる。
その様子を興味深そうに眺める幼い子どもは、絵本作家の仕事の邪魔をすまいと──もっと言えば、母の作る絵本の、その第一の読者になろうと、静かに作業を見守ってくれている。足が動かないジョゼの作業机は、それほどの高さがあるわけではない。そのため、娘は母の肩越しに、生み出されていく幻想的な絵画の生誕を、見守ることができるのだ。
「もうちょいでお仕事も終わりやから、もう少し待っててな」
「うん!」
たどたどしいながらも元気に応答する様すら愛おしくて、自分と同じ髪質の、海のように柔らく波うつ黒髪を撫でてあげた。
くすぐったそうに微笑む
作業を再開して数分、最後の一筆をはしらせ、納得の首肯をひとつ落とす。
細かい推敲と修正は後でいい。ジョゼは仕事中いい子にしていた娘を、これでもかと抱き締め褒めちぎってやる。
「ええ子にしとったなー。待たせてごめんやで。もうおやつの時間やんな?」
「うんっ! それから、えほん! えほんもよんでなー!」
「はいはい。今日は何がええ? 花菜ちゃんのとこで借りたのもあるけど?」
「うーん……おかあちゃんのえほん!」
「ちょ、もう何度目やねん」
「なんどめもええねん!」
読み聞かせの約束をとりつけた娘はえへへと笑い、上機嫌な表情と跳躍で、母親の胸に飛びついた。
それをしようがなしに一旦引き離して、作業部屋からキッチンに向かうべく車椅子に乗り込む。サガンの愛読書も膝の上に乗せて。
バリアフリーの行き届いた平屋の一軒家は全体的に広く、室内を車椅子で動くのにも申し分ない。
家用と外出用とに車椅子を使いわける生活にも、ここ数年で慣れたものだ。
幼い少女は、母の足が動かないことなどまるで気にするでもなく、むしろそれを手助けしたい様子で歩調を合わせる。どうにも娘は、出来ればジョゼの車椅子を押そうとしてくれるのだが、年齢が年齢なために、その気持ちだけいただくしかない。
それに、その役目を負うひとは、もはや決まって久しい。
「あ、ゆきち!」
長年の同居人たる黒猫が、エサをねだるような図々しい視線でジョゼ
娘は走りだし、諭吉の身体を抱き上げ、モフモフの毛並みを父がするのを真似るように堪能した。
諭吉はいやがることもなかったが、ひょいと身を翻して、エサ皿のあるキャットウォークの方へと
「諭吉にもオヤツやっといてや」
「うん!」
娘は母の言う通り、猫用のオヤツをしまった戸棚に向かった。少量のカリカリをエサ皿に加え、諭吉が満足そうに鳴くのを聞いて頬を緩める。
一方のジョゼは、ダイニングテーブルに
車椅子でのキッチン作業も手慣れたものだ。あっという間にお茶の用意を整える。四角いトレーに並んだフタつき茶器と、これまたフタつきのコップには娘の大好きなジュースが注がれる。
さらにジョゼは、娘と夫が共に大好きなプリンを、冷蔵庫から取り出した。
ふと、諭吉の世話を終え、ダイニングの絵本棚でジョゼ著作の絵本を物色していた娘が、母を呼ぶ。
「──なあなあ、おかあちゃん!」
「んー? どないしたん?」
「こん“しおり”、なんなんー?」
絵本をテーブルに並べた娘が手に持って示したのは、経年劣化で少し色あせた、手作りの栞だった。
押し花のように平たくされ、ラミネイト加工された紙片に貼りついているのは、新緑色の植物だけ。
ジョゼは当時を思い出しながら薄い微笑を浮かべ、逆に問い返してみる。
「なんやと思う、それ?」
「んー、よつばの、くろーばー? でも、こっちのはっぱはまるっこい? くろーばーのと、かたちちゃうよ?」
ジョゼの笑みがこぼれた。
娘の間違え方に、当時の彼を思い出さずにはいられない。
サガンのハードカバーの書籍をテーブルにおいたジョゼが、お気に入りのページに挟んでいたものに対し、娘は興味をひかれてしまったようだ。
一枚程度であれば気にも留めなかったろうが、探してみると同じものが複数見つかって、好奇心を大いにくすぐられたとみえる。
「それなー、昔おとうちゃんがなー」
ジョゼが懐かしそうに語り始めた時、玄関の方から開錠音と帰宅を告げる声が聞こえる。
「ただいまー」
「おとうちゃん!!」
娘は栞を手にしたまま、父の出迎えに走った。
「きょうのおやつなー、おとうちゃんのすきなもんやでー、なー、なんやとおもうー?」という娘に、父親が靴を脱ぎつつ嬉しそうに頷いているのが目に見えるようだ。
ふと、父が娘の手に握る栞に気づく声が。
娘はジョゼにぶつけたものと同じ疑問を口にする。父親は照れたような口調で応えた。
「それ、とうさんが昔とってきた、“クローバー”と“カタバミ”っていう植物」
「おなじのやないの? おんなじはっぱのかずやのに?」
「うん。なんか違うんだって。──ああ、これ探すの本当に苦労したなー」
当時のことをぶつくさ言う夫であるが、その声色には暗いものなど一切なかった。
ダイニングにティーセットとジュース、そして三人分のプリンを運ぶジョゼ。
ほどなくして、娘を肩に担いだ鈴川家の大黒柱が、ダイニングに姿を現す。
「ただいま、かあさん」
「おかえり、お
妻は微笑み、夫もまた微笑みを返す。
二人は娘の目の前だろうと慣れたように、どちらからともなく抱擁を交わす。
そして、互いの耳元で
「ただいま、ジョゼ」
「おかえり、
おしまい
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