魔法少女まどか☆マギカ 《円環の理》――この世界に幸あれ 作:ぞ!
彼女の話をしよう。
自分のことが大嫌いだった彼女の話だ。
彼女は魔女に魅入られた。
けれどその失われるはずだった命を『彼女』に救われた。
憧れた。好きになった。いつも一緒にいたいと思った。
けれど。
『彼女』はいなくなった。
だから、彼女は願ったのだ。
ソレを知って、白い小動物の姿を取った悪魔に魂を売って。
――願ったのだ。
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「間一髪ってところね。もう大丈夫よ。あとは私に任せなさい」
――そうしてまた、彼女は繰り返している。
終わりのない永遠の円環の中を、回り続けている。
もはや疑似人格との境も曖昧になった彼女は、繰り返し続けている。
鹿目まどかは、繰り返しているのだ。
「暁美ほむらです。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた彼女の顔に、微笑みは浮かんでいない。
凍り付いたような無表情だけ。
とうとう、彼女は笑い方さえも忘れてしまった。
あの無邪気な笑みを浮かべていた女の子が、こんな姿に成り果ててしまった。
「…………」
「あれ、どうして、わたし、泣いてるんだろうね?」
忘れたはずの涙が、無意識に流れ出た。
もう、どちらが表でどちらが裏なのかも分からなくなっている。
自己暗示が解けかかっている。
終わりが、近い。
この円環の終わりが。
でもそんなこと、有ってはならないのだ。
自分の絶望でこの世界を終わらせてはならない。
だから彼女は呟く。
胸の中で必死に言い続ける。
この世界に幸あれ。
そんな彼女の姿を、暁美ほむらは表情を浮かべることもなく、じっと見つめていた。驚きもせず、じっと、見つめていたのだ。
力が、安定しない。
ソウルジェムの濁りが止まらない。
暁美ほむらがループを繰り返すたび因果の糸の収束によって、有り得ないほど高まり続けた鹿目まどかの力。
蓄積したほむらの願いの重さ。
押し潰されそうなほどの祈り。
まどかにできるのは、それを必死に押さえつけることだけ。器用にコントロールする術など、とうに失っていた。
それでも前回までは『あの子』の姿と声を模倣するぐらいの芸当は出来ていた。
ほんの少し解放したその力で、インキュベーターの母星を脅かすといったことも可能だった。
そうやってインキュベーターを従わせ、それだけの力を持った彼女が魔女化せず大人しく退場する代わりに、少なくとも鹿目まどかが存在する間は魔法少女の秘密を守らせ、彼女たちに干渉しないという強制的な契約を交わした。
しかしそれも、もはやできなくなりつつあった。
この世界に幸あれ。
この世界に幸あれ。
この世界が幸せでありますように。
必死に自分に言い聞かせ、夜空を駆ける。
不味い。
時間がない。
このままでは、間に合わない。
――見覚えのあるマンション。
その姿は見えている。
見えているのに。
その視線の先で、『彼女』が落ちている。
髪の毛を風に乱れさせ、落下している。
「タレカ……ちゃん……!」
タレカ。
七篠タレカ。
繰り返す暁美ほむらの行動を監視するときに偶然見つけ、助けた、魔女に魅入られた少女。
自分のことを堕天使様と呼び、慕うようになった少女。
言葉だけではほむらが止まらないと気付き、やむにやまれず実力行使に出ようとしたころだったから、承諾を得てその姿と声、そして名前を貸してもらった彼女。
『名無しの誰か』という本来の鹿目まどかにぴったりの名を持っていたから、はじめはそれだけの関係のつもりにしようと思っていたのに、次第に情が移ってしまった彼女。
彼女はいつだって様々な魔女に魅入られる。もっとも早く危機に陥るのはこのタイミングで、最も遅い場合はワルプルギスの夜の直前であったりした。
暁美ほむらとはまた別の意味で目を離せない少女。
もしかしたらそれまでも、まどかが気付かなかっただけで意識していないところで魔女の呪いから助けてきたのかもしれない彼女。
そんな彼女が、知って以来、知らないふりをすることもできず、ずっと助け続けてきた彼女が、
「アア……アアアアァァァァ」
どれだけ祈りの言葉を吐き出しても安定しない力は、彼女をそこまで辿り着かせられなかった。
七篠タレカの身体は、地面に衝突した。
「――間一髪、ってところかしら」
衝突したはずだったのに、いつの間にか、そこには優しく地面に横たえられた七篠タレカの姿。
そしてそのそばに。
「ほむら……ちゃん……?」
ここに居るはずのない暁美ほむらが、立っていた。
呆然としてしまう。
どうして?
これまで彼女がこの場に居合わせたことは一度もない。
なかったはずなのに。
いや、いまはそれよりも――
「あ、え、えと、ほ、ほむらちゃん、ありがとう! 偶然見つけてさ、あやうく間に合わないところだったよ!」
「…………」
「さすだねほむらちゃん! カッコ良かったよ! いまのも時間停止なんでしょ?」
「…………」
「いいなぁ、わたしも、そんな力が欲しかったなぁ」
近づいて、笑顔を作って、明るい声を作って、語って。
そうしながら、かがみ込んでタレカの顔を覗き込む。
茫洋とした彼女の目が、一瞬まどかの顔を捉えたような気がした。
「――……――……?」
むにゃむにゃと寝言のようなものを呟いて目を閉じる彼女に、思わず頬が緩んでしまう。
きっと今回の彼女にはほむらの姿が『堕天使様』に見えたことだろう。
それは少し寂しいけれど、彼女が生きているのならそれだけで十分だ。
どのみち、もう彼女の名や姿を借りている余裕はなさそうだったから、きっとこれで良かったのだろう。
(あなたの前で、お姉さんぶって振る舞うの、けっこう楽しかったよ)
最後にそっと頬を撫でて、立ち上がる。
そうして。
そうして。
そうして。
――そうして。
「ほむら、ちゃん?」
静かに涙を流す暁美ほむらの姿を、まどかは目にした。
「あなたが、七篠タレカだったのね……まどか」
――円環の終わりが、また少し、近づいた。
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そうして、再び彼女は時を繰り返した。
病院のベッドで目覚めた彼女は、限界まで見開かれた眼で、その白い天井を睨み据えた。
その瞳には雑多な感情が入り交じり、一体彼女が如何なる思いを抱いているのか外からは判別がつかない。
やがてシーツをはね除けてベッドから飛び降りた彼女は、枕元の眼鏡を手に取り掛けると無言のまま廊下に出た。
力強い足取りで洗面台まで辿り着いた彼女は片手で眼鏡を外すと、もう一方の手に持った紫色の宝玉――ソウルジェムを額に近づけた。
魔力が彼女の身体を巡り、その身体を健常な状態のそれへと作り替える。
次いで縛られていたリボンを外し、三つ編みにされていた髪の毛を解放する。
そのままじっと鏡越しの己の姿を見つめていた彼女は、しばらくして顔を俯かせる。
小さく肩を震わせて、唇を強く噛みしめた。
「……まどか」
暁美ほむらは、小さく、その名を呟いた。
予定もなにも繰り上げて、関係者の迷惑も顧みず即日退院を果たした彼女は、鹿目まどかの通う、やがて自分も転入することになる学校へとやってきていた。
授業中であり、人気のあるはずのない屋上に佇んだ彼女は、向かいの校舎の一室に視線をとばしている。
しばらくすればそこで授業を学ぶことになるだろう転入先の教室、その席のひとつにひとりの少女が腰を下ろしていた。
どこか影のある表情で、教師の話を聞いている彼女。
鹿目まどか。
「…………」
表情を消し去ったほむらはその姿を目に焼き付けるように見続けている。
授業が終わり、昼食になり、また授業になり、放課後になる。
そしてまどかは下校する。
ひとり。
誰と会話することもなく、始終顔を俯かせて寂しそうにしていた彼女は、やはりひとりぼっちのまま、帰ってゆく。
「…………」
なにかを堪えるように喉を震わせて、しかしほむらは決して表情を露わにすることはなかった。
無言で彼女の後を追い続ける。
ひとり暮らしのマンションに帰宅したまどかは、ひとり買い物に出かけ、ひとり夕食を済ませると、ひとりぼんやりした顔でテレビを見て、やがてひとり床についた。
「…………」
その翌日のことだ。
昨日と同じようにひとりで日中を過ごした彼女は、下校途中に魔女の結界に入り込んでしまった。
そして、使い魔に襲われた。
咄嗟に助けに入ろうとする身体を意思の力で抑えつけたほむらの視線の先で、まどかは金色の髪の少女に窮地を救われる。
その瞬間だ。
ざわり、と鹿目まどかの雰囲気が変質した。
決してそれが表に出ることはないが、それでも長い間彼女を見続けてきたほむらには分かった。
それまで鹿目まどかであったものは、その刹那に、なにか別のものへと転じたのだ。
「まどか」
堪える。堪える。震える身体を押さえつけ、その衝動に必死に耐える。
暁美ほむらは鹿目まどかを観察し続ける。
さらにその翌日のことだ。
鹿目まどかの雰囲気は前日までとがらりと変わっていた。
別人かと見紛うほどに明るくなっていた。
それは暁美ほむらの知る鹿目まどかと相違ない。
最初は戸惑っていたクラスメイトだったが、それでも嫌味のない彼女の明るさに惹かれてか、すぐに受け入れはじめた。
中でも良く話しているのは、美樹さやかと志筑仁美の二人である。
そして昼休み。
屋上で昨夜自身を助けた上級生と待ち合わせたまどかは、輝くような笑顔でなにかを告げ、それを聞いた上級生――巴マミは大声を上げて泣き出した。
背を丸めて顔を覆う彼女を、まどかは優しく抱きしめる。
ほむらは見た。
まどかもまたどうしてか、微笑みを浮かべながら泣きそうな顔をしているのを。
「まどか」
心臓が潰れてしまいそうなほどの痛みを感じて、ほむらは胸元を強く押さえつける。
まるで万力で心臓を締め付けられているようなその痛みに、過去の記憶が想起され、ますますひどくなる。
それは、失恋の痛みに似ていたかもしれなかった。
数日後、暁美ほむらは鹿目まどかのクラスに転入する。
「暁美ほむらです。よろしくお願いします」
無表情を、必死の無表情を形作るほむらは、『彼女』を見つめる。
「あれ、どうして、わたし、泣いてるんだろうね?」
壊れたような笑みを浮かべ、涙を流す『彼女』を、見つめるのだ。
――そうして、暁美ほむらはその場に立っていた。
ただの少女である七篠タレカ。
彼女を助けようとした鹿目まどか。
誰かを彷彿とさせる黒く濁りかけている桃色の魔力光を纏っていた鹿目まどか。
一瞬感じ取れた、宇宙さえ凌駕するかもしれないほどの力を秘めた鹿目まどか。
答えは出ていたのだ。
絶望に満ちた微笑みで、絶望に満ちた瞳で、絶望に満ちた言葉を語りかけてきたあのときの鹿目まどかを目にした瞬間から。
誰かと全く同一の、暗黒に染まったドレスを身に纏い誰かが呟いていたあの言葉を、彼女が口にしたときから。
「あなたが、七篠タレカだったのね……まどか」
もう、堪えきれない。堪えきれるわけがない。
ほむらの目から、涙がとめどなく溢れでる。
「……そっかぁ。とうとうバレちゃったかぁ」
ほむらの言葉を聞いた瞬間、すとんと彼女の顔からあらゆる表情が消えていた。
いつかタワーの屋上で七篠タレカが浮かべていたような、空虚に満ちた茫洋とした顔。
「クラスのみんなには、内緒だよっ」
戯けたようでありながら、何の感情も浮かんでいない不出来な笑みを浮かべて、まどかはそんな言葉を口にした。
フラッシュバックのようにほむらの脳裏に蘇るあのときの光景。
はじめて鹿目まどかという魔法少女の姿を目にしたときの光景。
「う……ああ……ああああアアアアアアアァァァァァァァァァ」
そこに、『彼女』がいた。
憧れて、好きになって、彼女に守られる自分ではなく彼女を守る自分になりたいと思った始まりの『彼女』が、そこにいた。
変わり果てた姿ではあったけれど、たしかにそれはあのときの『鹿目まどか』であったのだ。
涙で前が見えない。
なにもかもが滲んで、見えやしない。
両手で顔を覆った。
地面に膝をつき、悲鳴のような泣き声を上げ続ける。
「どうしてッ! どうしてまどかがッ! どうしてそんな、そんなになるまで、どうしてぇ……!」
今なら分かる。
どうして七篠タレカが、ついには暴力を振るうまでに暁美ほむらのことを諦めさせようとしたのか。
『こう』なる前に止めたかったのだ。
『こう』なる前に救いたかったのだ。
自分が今感じている想いの何十倍もの想いで、この優しすぎる彼女は、どれだけの心の痛みを隠して自分を殴って蹴って、痛めつけたのだろう。
それでも諦めない馬鹿な暁美ほむらを見て、あまつさえ『自分』を救うために力を貸せなどと口にする様を見て、なにを思ったのだろうか。
決まっている。
ついに耐えきれなくなったあの『鹿目まどか』が、それを教えてくれた。
「ごめん、ごめんなさいまどかぁ……私が、私が馬鹿なことばっかりしたから、だから、あんな、あんな、魔女に、あんな姿に……」
「そっか……どうも一ループ以上に力が増していると思ったら、もう、わたしは絶望しちゃったんだね。そっかぁ……」
大きく、本当に大きく溜め息を吐く。
「でも、それでもほむらちゃんは諦めないんだ……」
「ひっ」
まどかの声に責めるような響きは一切なかったというのに、ほむらは身体を竦ませる。
顔をあげることができない。
きっとまどかは怒っている。
前回のまどかのどうしようもなく後ろ向きな決意も、世界を終わらせてしまうほどの大きな絶望も、全てほむらはなかったことにしてしまったのだ。
繰り返してしまったのだ。
許される、はずがない。
「ほんと、しょうがないなぁ、ほむらちゃんは」
まどかの声は予想以上に近くで聞こえた。それにほむらが何かの反応を返すよりも前に、身体が柔らかな人の温もりに包まれる。
「まど、か……?」
「うん」
「おこって、ないの?」
「……うん。だってほむらちゃん、わたしのこと、助けたかっただけなんでしょ? なのに……怒れるはず、ないよ」
「まどかぁ」
また涙が溢れてしまう。
まどかの胸元に顔を押しつけて、ほむらは泣き続ける。
「すくい、たかったの」
「うん」
「わたしたちがどういう存在かって、わかっても、それでも、すくいたかったの」
「うん」
「でもほんとは、ほんとはね」
「うん」
「わたしが、救われたかったの」
「……うん」
「まどかをたすけて、わたしが報われて、それで、ありがとうって、笑顔で、いってもらいたかったの」
もうほむらは自分でも何を口にしているのか分からなかった。
救いたい。
救うことで救われたい。
まどかの笑顔が見たい。
報われたい。
ぐちゃぐちゃの頭はほむらの中に溜め込まれていたあらゆるものを吐きだし続けた。
「そっかぁ……」
それを聞き終えたまどかは、ゆっくりとほむらの髪を梳きながら穏やかな声で呟いた。
「ねぇ、ほむらちゃん」
肩を押されてまどかから離されたほむらは、自然、彼女の顔を目にすることになった。
泣きはらした目で見上げるまどかの顔には、
「いままで、ありがとう、ほむらちゃん」
空虚さなんてどこにもない、
「本当はね、わたしもうれしかったんだよ。馬鹿だなぁって自分でもおもうけど、泣きたくなるぐらい、うれしかったんだ」
穏やかさと優しさに満ちた、
「絶望しちゃいたくなるぐらい、うれしかったんだ」
『鹿目まどか』の微笑みが、あったのだ。
「ぅぅぁぁあああーーーーーーーーーーーー!」
この時、暁美ほむらは、たしかに報われたのだ。
鹿目まどかは少しも救われてなどいなかったけれど。
なにも変わってなどいなかったけれど。
それでも、たしかに、彼女は、この瞬間救われていたのだ。
そして暁美ほむらは、鹿目まどかの物語を聞くことになる。
永遠の幸福を望んだ少女の、成り果てるまでの長い長い物語を。
奇跡の確率など初めからゼロだったのだという、本当に救いようがない絶望の物語を。
「ねぇ……まどか……」
「なに、ほむらちゃん」
ふたり手を繋いで、地面に寝転がり、夜空を見上げる。
どれぐらいそうしていただろうか。
永遠にも思える長い時を経て、やがて、ほむらはぽつりと言った。
「私たち、このまま二人で、怪物になって……こんな世界、何もかもメチャクチャにしちゃおっか? 嫌なことも、悲しいことも、ぜんぶ無かったことにしちゃえるぐらい、壊して、壊して、壊しまくってさ……そうして、また初めからやり直して、永遠に楽しい日々を続けるの。いまなら、それはそれで、良いと思えるよ」
「…………」
「まどかが永遠に救われないのなら、私も永遠に救われないままでいい。だから、まどか――まどか?」
ほむらは、彼女の様子がおかしいことに気付き、視線をそちらに向けた。
まどかは微笑みながら、ほむらの手を見ていた。
「えっ……と、まど、か?」
ゆっくりとその甲を撫でている。
手の甲。
ほむらのソウルジェムがはめ込まれている手の、甲。
――ぞっとほむらの全身が粟立った。
「ッまど――」
「もういい。もういいんだよ、ほむらちゃん」
慌てて手を引こうとしたが、凄まじい力で握られた手首はぴくりとも動かない。
咄嗟に時間停止を使おうとするが、その瞬間、全身に走った激痛に集中を乱される。
「ぐ――ぁぁぁっ!」
「長い間魔法少女をやっているとね、こういうこともできるようになるんだよ」
その痛みにほむらは覚えがあった。
「ソウルジェムに直接痛みを与えるの。わたしたち、結局のところ普通の女の子だから、痛みを感じたらまともに戦うこともできないんだよ。キュゥべえの言うとおりだよね」
「まどかぁ! お願い、お願いだから――」
「ほむらちゃん、ごめんね。もう、ぜったいにこんな目にはあわせないから」
まどかの手が桃色に輝き出す。
力を秘めたそれが、ほむらのソウルジェムを照らし出す。
「大丈夫、もうしばらくは、わたしも持つと思うから。今のあなたに出会えたおかげで、もう少し頑張れると思うから」
「やめて、まどかぁ! そんなことしたら、そんなことしたら、また、まどかがひとりになっちゃうじゃない!」
「……それで、いいんだよ」
決して演技ではない微笑み。
けれどどこか悲しみまじりの笑み。
「ほむらちゃんは、魔法少女なんかになるべきじゃなかったんだ」
そうして、
鹿目まどかは、
暁美ほむらの、
ソウルジェムを、
「まどかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
…………。
《この世界に幸あれ》
世界が、文字通りの意味で、震撼した。
「…………な」
「…………そんな」
暁美ほむらのソウルジェムは砕かれていない。
だがそんなことなどすでに些末な問題でしかなかったのだ。
彼女らは愕然とソレを見上げていた。
空。
夜空。
闇夜が、まるで稲妻のようにひび割れていた。
夜空の闇よりなお深い、暗黒の亀裂線。
それは一瞬ごとに拡大していき、やがて、砕け散った。
『青』。
夜空の中に、青がある。
夜空の中に、青空があった。
砕け散った空間のその向こうには、まるで真昼のごとき青空が広がっていた。
「……まさ……か」
それはどちらの呟きだったのだろう。
あるいはどちらの呟きでもあったのかもしれない。
ふたりの見上げる先で、突如広がった青空の向こうから『なにか』が現れ出でようとしていた。
破砕した空間の縁に、その余りに巨大すぎる『手』をかけて、『頭』からこちらの世界に――宇宙に侵入してくる。
震動。
空気が、空間が、星が、世界が、宇宙が地鳴りのような音を立てて震えている。
まるで自らを侵そうとする異物を吐き出さんとするかのように。
だが『それ』は、そんなものなど意に介さず、その『身体』を入り込ませてくる。
「――――――か」
ほむらのかすれた声が『それ』の名を呟く。
同時に。
『それ』がこちらの世界に完全に姿を現した。
異様。
夜の闇よりなお濃く深い、暗黒の巨大な人型。
目も鼻も口もない黒一色のシルエット。
その背から噴き出す二筋の力の奔流が、まるで天使の羽のようにも見える。
そして『それ』の頭上。
暗黒色をした歯車。
頭の上に浮かぶ天使の輪のごとき歯車が、ゆっくり、ゆっくりと、その身を回転させている。
「――――ど、か」
夜空に広がる青空を背にして浮かぶ『それ』の名を、ほむらは呼んだ。
彼女の隣で誰かの息を呑む気配。
それにも構わず、彼女はその名を口にした。
叫んだ。
「――――――――――――――――――――――――!」
まるで答えるかのように。
『それ』はこの世界に、この宇宙に遍くその祈りを響き渡らせた。
《この世界に幸あれ》
それはかつて鹿目まどかであったもの――今はもう、《円環の理》と呼ばれるものであった。