とある学院のシュッツエンゲルとシルトとその周辺 作:癒月るな
その日は朝から雨が降っていた。屋内にもざあざあという音が響いているほどの雨。
「うぅ・・・・・・ぇあ? あっ雨? え、え? 待って、今日は晴れのはずじゃあ!?」
その雨音は一柳梨璃の目を覚ましてしまうくらいに強い雨だったようだ。
寝ぼけた頭で目の前の雨が降っているという事象を、梨璃は少しずつ理解していく。あれ、なんで? 昨日見た天気予報では確かに晴れのマークが出ていたはずだったの。・・・・・・はず、だったと思う。はずだったよね? たぶん、きっと。とにかく天気予報が間違っていたということだろうと結論付けて、当初予定していたお姉様とのデートプランを切り替えることに決めた。さすがにこの雨の中でお姉様を連れて外出する気にはなれないし、普段であればお姉様との外での雨の日デートも惹かれるだろうが、今日ここに限っては本命はそこではないのだ。
「よしっ!! ならお家デートにしよう! お家デート!」
幸いなことに今日のデートプランは全て自分が考えるようにお姉様直々に仰せつかっている。なんでも『梨璃が今後シュッツエンゲルの誓いをシルトと結ぶことになった時に備えての予行練習よ』とのことらしい。さすがお姉様だ。私のことをこんなにも考えてくれるシュッツエンゲルはお姉様をおいて他に存在しないだろう。その際に同席していた梅様が『夢結がデートプランを思いつかなかっただけじゃないのか?』と笑いながら言っていたが、おそらくお姉様は至らないシルトに対して道を示してくださっているのだと思う。さながら本物の守護天使のように。
「えへへ・・・・・・お姉様ぁ」
お姉様の私への愛を改めて感じた出来事を思い出してついつい浸ってしまう。お姉様と本当の意味でシュッツエンゲルになってからしばらくの時が経った。今こうして思い返すと、楽しい思い出ばかりではなかった。辛いこともあったし、苦しいこともあった。時にはどうしようもない現実に打ちひしがれたこともあった。それでもお姉様が隣にいたから、一柳隊のみんながいたから、笑ってここまで来れたのだと私は思っている。そうして今、お姉様と一緒に過ごせる日々の時間はやはり夢のように感じられる。恋人でも夫婦でも長い間付き合っていればマンネリ化するという話はあるが、私とお姉様には全然当てはまらないようだ。もしかしたら、いや、もしかしなくても相性が良いのかも。これは全国の仲良しシュッツエンゲルの代表としてお姉様とテレビに出演することも考えておかなければならないかもしれない。お姉様は反対するかもしれないが、お姉様と私の仲をみんなに知ってもらいたいと説得すれば最後には必ず賛成してくれるに違いない。そしてお姉様とテレビに出演することで私のお姉様の素晴らしさを世界中に拡散してお姉様のファンを増やすのだ。いや、それだとお姉様が私に構ってくれる時間が減るから辞めておこう。何はともあれお姉様と私の相性は最高だということだ。さらにこれから時を重ねることで今よりももっと濃密な関係にーー
「ーーへぇあ!?」
危ない危ない。思考がぶれていたことを自覚して大きく頭を振る。こんなことをしている場合じゃない。まあトリップしていたお陰で? 目はばっちり覚めたので良しとしよう。気持ちもきちんと切り替えていかなきゃ。デートの集合時間まではあと3時間程度しか残っていない。その間にデートの準備を万全に整えつつ、前日にラッピングしたチョコを忘れずに用意して、お姉様とどんなお家デートをするのかを考えないと。だからそんな目で見ないで閑さん。ただ寝ぼけてただけですからーーー!
§
雨が降っている。カフェの中にまで音が響いてくるほどに激しい雨。
そんな雨音をBGMにして、白井夢結はいつものカフェのお気に入りの席で待ち人を待っていた。少々早く来すぎてしまったらしく梨璃の姿も見えなかったので注文することにした、いつものブレンドの紅茶。今はその香りを楽しみつつ、以前から梨璃に勧められていた恋愛小説を読み進めているところだ。
2人の少女が困難を乗り越えていく中で次第に惹かれあっていくというありふれた内容なのだが、中々どうして面白い。普段から哲学書や歴史書を嗜んでいる私でも思わず唸ってしまうくらいには緩急の付け方や展開の仕方が巧みであった。この手の小説を私があまり読まないと知って紹介してくれた梨璃には後でお礼を言う必要があるかもしれない。
ただ、この本を紹介された時に『この小説の主人公とヒロインって私とお姉様みたいなんですよね』と梨璃は呟いていたが、あれはどういう意味で言ったのだろうか。この小説はラストで主人公とヒロインが劇的に結ばれたところで物語が終わっている。運命の悪戯に翻弄され、すれ違っていた主人公とヒロインの思いが通じ合う場面は涙なしには語れないのだが、それは置いておくとして。あの発言は遠回しな告白か何かなのだろうか。恋愛小説の主人公とヒロインを持ってきて『私とお姉様みたいなんですよね』なんて、分かっていて言っているのだろうか、あの子は。シュッツエンゲルの誓いを梨璃と結んでからしばらくの時が経ったが、未だにシルトの考えが読めない時がある。些か天然の入ったあの子のことだから、読めなくとも無理はないのかもしれないが。
そう思いながらも頭の中では先日の発言がぐるぐると巡っている。赤の他人ならまだしも私はあの子のシュッツエンゲルなのだから、その真意を知る権利はあるはず。そんな思いを抱いて、夢結はこれで4周目となる長い長い読書を終えたのだがーー
「ーー・・・少し遅いわね」
梨璃はまだ来ていないようだ。壁掛けの時計に目をやると、待ち合わせの時間に指定されていた10時からは既に20分近く経過している。おかしい。常日頃からお姉様と慕ってくれるあの子が、私とのデートに、ましてやバレンタインの当日に遅刻するなんてことはありえない。寝坊という線もあるかもしれないが、また何かの事件に自分から首を突っ込んだ可能性もある。ここが百合ヶ丘女学院の敷地内であるとはいえ、心配するに越したことはないだろう。だとすればこんなところで物思いに耽っている場合ではない。早急に梨璃を見つける必要があるはずだ。まずは寮の方に顔を出してみようかと考え、夢結は残りわずかだった紅茶を勢いよく飲み干すと、席から立ち上がって寮の方角を目指して足早に歩を進めたのだった。
梨璃の部屋がある寮へと急ぐ最中、渡り廊下で楓さんと遭遇した。
「夢結様、ごきげんよう」
「楓さん、ごきげんよう」
「あら? わたくしはもう既に梨璃さんからチョコを貰いましたが、夢結様はまだ貰ってないんですの?」
挨拶も早々に私が梨璃からまだチョコレートを貰っていないことを目敏く察知した楓さんは、自分の優位を確信しているとでも言うような余裕のある声音で可愛らしくラッピングされたチョコレートを見せつけてくる。これが梨璃から貰ったチョコなのだろう。
「ええ、そうよ。でも梨璃は本命は後に取っておくタイプだろうから問題はないわ」
「へぇ。ですが梨璃さんの心がいつまでも自分だけに向いていると考えるのは、些か傲慢ではありませんこと?」
「私たちはシュッツエンゲルなのだから当然のことでしょう。それより梨璃とは今日、何時頃に会ったの?」
「? 9時半くらいですが。それがどうかしましたの?」
訝しげにこちらを見てくる楓さんに梨璃が待ち合わせ時間に20分も遅刻しているという事情を説明した。
「それは少し心配ですわね。良いでしょう。常日頃は恋敵ですが、梨璃さんの一大事とあれば別です。私は寮以外の場所を当たってみますので、そちらは任せてくださいな。」
「ありがとう、楓さん」
「恋敵からのお礼なんて必要ありませんわ! それと、このことについて一柳隊への一斉連絡はしたのですか?」
「・・・・・・」
盲点だった。いや、知らず知らずのうちに焦っていたのかもしれない。私のシルトがまた厄介事に巻き込まれていて、ともすれば今この瞬間にも私の助けを必要としているのではないかと。私がこれでは梨璃のことをとやかく言えない。美鈴お姉様がいなくなってから仲間に頼ることをして来なかったとはいえ、今は一柳隊の仲間がいるのだ。独断で動く癖は治さなければ。
「はあ、その様子だとしていなかったようですわね。ほんと梨璃さんもあなたも突発的な事態になるとおっちょこちょいになるのは、さすがシュッツエンゲルと言ったところですわね。連絡は私の方からしておきますので、夢結様は寮の方をお願いしますわ」
「分かったわ。このお礼はまた今度することにします」
「お礼なんて言ってる暇があったら、梨璃さんの無事を確認することに時間を使ってくださいな」
「それもそうね。失礼するわね、楓さん」
仲間の心強さを改めて確認して、再び足を進めた。ただ今度はその歩調に焦りはなかった。雨音のなかでもしっかりとした靴音を響かせながら、夢結は寮へと向かうのだった。
§
今日は朝から散々な日だった。天気予報は外れているし、デートに来ていくはずだったお気に入りの服にも紅茶をこぼしてしまったし、そして今もーー
「ごめんね梨璃さん! 本っ当にごめんなさい! ほら、あんたも謝って!」
「ごめんなさい梨璃さん」
壱さんが亜羅椰さんの後頭部を無理矢理掴んで頭を下げさせながら私に謝っている。亜羅椰さんも普段から数々のリリィを食べている?とは思えないほどに神妙な顔でこちらを見て、謝罪の言葉を口にしているみたいだ。だけど正直、それらの言葉が全く頭に入ってこないほどにショックを受けていた。
§
遡ること数十分前。朝の奇行による羞恥心からなんとか立ち直った梨璃は寮のルームメイトである伊藤閑からの熱視線にさらされながらも、お姉様との栄えあるバレンタインデートのための身支度のほとんどを終えていた。既に部屋にはルームメイトの姿はなく、いるのは梨璃1人だけであった。
バレンタインに着ていく予定だったお気に入りの服に紅茶をこぼしてしまうというハプニングもあったものの、準備自体は順調に進んでいる。他の服を着ていくことも考え、悩みに悩んだ結果、いつもの制服を身にまとってはいるのだが。とはいえ、いつもと違い全くシワのないピシッと決まった制服を見れば、彼女の気合いの入りようは誰でも一目で察するというもの。
「一柳隊の分はこっちに入れて・・・・・・お姉様の分はこっちにっと。えへへ、残った分は後で食べちゃおうかな」
昨日に作った可愛らしいラッピングのされたバレンタインチョコの山を忘れずに手提げ付きの大きめの紙袋に詰め込んで、それからお姉様用にラッピングしてあるチョコレートをもう一つのお高めの小さな紙袋に入れた。あとの分は備え付けの冷蔵庫にしまっておく。それもわざわざビニール袋で包んで、目のつきにくい引き出しの奥へ。残りを自分で食べることは梨璃の中では既に確定事項のようだ。
「よし、完成です!」
お姉様用のチョコレートのラッピングにはシックで大人っぽいマットブラウンの包装紙に、明るいライトブラウンのサテンのリボンを使っている。丁寧にラッピングをするのには相当な時間がかかったことを思い出し苦笑する。昨日はずっと部屋のソファーでラッピングをしていたからか、今さっき閑さんにチョコレートを渡した時には感慨深げにお礼を言われたほどだった。『ラッピングの方が時間かかってなかった?』と呆れられもしたが、さすがにチョコレートを作る時間の方が長かったと思う。・・・・・・冷やしておく時間も含めると、だけど。
そんなこんなで全ての準備が終わった梨璃は、友チョコのたくさん入った大きい方の紙袋を右手に提げて、お姉様用のチョコレート入りの高級感のある紙袋を大事そうに胸に抱えながら、なんとか玄関から出て集合場所のカフェへ向けて出発したのだった。
まだまだ雨は降り続いている。そのことに朝はちょっぴり動揺してしまったが、よくよく考えてもみれば、お姉様と過ごす雨の日のバレンタインというのも中々にレアなイベントではないだろうか。
そう思うとなんだか気分も上向きになってきて、どんよりとした雨の世界も輝いているように見えてくる。我ながら単純だと思う時もあるが、このポジティブさに助けられた経験も多く、なおかつお姉様に太鼓判を押されているからか、良い意味で自然に受け入れられている。
それにほら、今も。明るい心持ちでいつもより背筋を伸ばして進んでいると楓さんの背中を見つけた。こんな風に前を向いて気持ちよく歩いていた方が、落ち込んでいる時よりも気づけることが多いのだ。
「ごきげんよう、楓さん」
「あら、ごきげんよう! 梨璃さん!」
楓さんに百合ヶ丘式の挨拶を1つ。入学直後はこの挨拶ですらもおぼつかなかったが、今では自然とできるようになっている。たまにこういうことに気づくとやっぱり嬉しい。まだまだ足りないこともある私だけれど、日々成長してるんだって思えるから。まあ、それはそれとして。
「今日はいつもより元気だね?」
「当然ですわ。なんせ今日はバレンタイン!私が梨璃さんからバレンタインチョコを貰う日なのですから!」
そう言う楓さんに少し気恥ずかしいものを感じる。グランギニョルの社長令嬢だけあって高級チョコレートなんて食べ慣れているだろうだから、私の手作りチョコなんてなおさら口には合わないかもと思いもしたが、この様子だとそんな心配は必要なかったようで一安心だ。
「そう言ってもらえると嬉しいよ! はい、これが楓さんの分のチョコ」
「ありがとうございます。ああ、これが梨璃さんが私のために作ってくれたチョコレート!! 大切にいただきますわね!」
「あはは」
梨璃が大きめの紙袋の方を開いて手渡すと大袈裟なくらいに喜んでくれた。ただ、楓さんだけでなくお姉様を始めとした一柳隊のメンバーやここ一年でお世話になった祀様などの面々にもこれから配って回る予定なのだが、彼女はそのことに気づいていないのか、はたまた分かっていてスルーしているのだろうか。
「それじゃあ私は時間がないのでもう行きますね。」
「分かりましたわ。ごきげんよう、梨璃さん」
「ごきげんよう、楓さん」
いつもであれば楓さんとお話をしたりもするけれど、降りしきる雨によって外でのデートプラン変更を余儀なくされた関係上、そこまで時間に余裕があるわけでもない。楓さんと会話する時間も好きだけど、今はバレンタインを優先しなきゃ。
そのことを彼女も察してくれたのか、引き止めることもなく別れの挨拶してくれた。こういう気配りの仕方は上手いのに、どうして恋人がいないんだろ?社長令嬢で、百合ヶ丘の高等部に編入する試験をトップで合格するほど成績も良くて、13ヶ国語を操るほど語学も堪能で、それに加えて戦闘能力までも高いのに。全くもって謎だ。しまった。今は楓さんのことを考えている場合ではなかった。お姉様との待ち合わせまでにはチョコレートを配り終えないと。
「梨璃さん。ホワイトデー、楽しみにしていてくださいな」
「う、うん」
「それでは」
去り際に振り返った楓さんに不穏なことを言われた。これは心の準備をしておいた方が良いかもしれない。市販の高級チョコレートで済めば良いけど、楓さんだからなあ。考えたら駄目な気しかしないので今は考えないことにしよう。頑張れ、未来の私!
それからはこれといったトラブルもなく一柳隊のみんなやお世話になった方々へのチョコを配り終えた。残ったのはお姉様にあげるチョコだけだ。約束の時間までまだ少しあるけど、できるだけ早く到着しておきたい。お姉様はもう既にカフェで待っているだろうから。そう思いながら歩いていた時だったーー
「ーーあ、危ない!」
後ろからの予期せぬ衝撃。誰かがぶつかってきた。それによって思わず体勢を崩してしまう。いや、そんなことはどうでもいい。それより問題は。
「っ! チョコが!」
体勢を崩した際に、紙袋ごとチョコレートを押し潰してしまったようだ。お姉様のために用意していたチョコが見るも無残な形に変形してしまっているのが分かる。・・・・・・どうしよう。
§
雨が降っている。沈んでいる彼女の心情を表しているかのような雨。先ほどまでとはまったく正反対の心模様だが、そうなってしまうのも仕方のないことだろう。
あの後、ぶつかってきた人が亜羅椰さんだと分かった。たくさんのリリィたちから貰ったチョコレートを一度に持ち運んでいたことによる前方不良が原因で衝突したのだという。学院からは問題児扱いされている彼女ではあるが、戦闘能力が高く学業成績も良好である彼女を慕うリリィも多い。その証拠に彼女が貰ったというチョコレートの数々が床に散乱していた。
亜羅椰さんが衝突してきた件については故意ではなかったため怒るに怒れなかったし、野次馬のごとく集まってきたリリィたちの目にこれ以上晒されたくはなかった。彼女たちから『一人前のリリィなら絶対に気づいていたでしょうに』とでも言うような視線を感じたからだ。その中から出てきた壱さんにも謝罪されたことが決定打となり、ぐしゃぐしゃになった紙袋を持ち上げて、その場からは『大丈夫ですから』とだけ言い立ち去った。ちゃんと言えていたかどうかは自信がない。とにかく混乱している自分の思考をまとめようとするのに精一杯だったからだ。
「・・・・・・はあ、どうしよう」
気づけば自室のソファーに座っていた。時計を見ればとっくにお姉様との約束の時間は過ぎている。チョコレートを楽しみにしてくださっているであろうお姉様に合わせる顔がない。普段とは違って、そう考えるほどに気持ちが沈み込んでしまっている。思い返すと日常生活でここまで凹んだ経験はなかったかもしれない。
今からチョコレートを作るにしてもバレンタイン当日に材料を買い揃えるには時間がかかるよね。もし学院内にチョコがなかったら外に買いにいく手間もさらに。そのときは雨のなか外に出る必要性も出てくるかも。
つらつら考えが浮かんできて、やらなければならないことは見えてきているのに、思うように身体が動かない。いや、実際は動かしたくないだけなのかもしれない。明るく振る舞えるだけの気力もなくなっていて。なんだか心が疲れてしまった。
この時間から買い出しに行っても、バレンタイン当日に満足できるものを揃えられるとも思わないし、たとえ用意できたとしてもチョコレートの作って冷やし固めるという工程上、何時間かは確実にかかるだろう。それに・・・・・・それにチョコレートを作っても、また台無しになるかもしれない。ただ偶然が重なっただけだと笑い飛ばせるだけの気勢はもはや自分には残ってなかった。
「・・・・・・あ、でも連絡は入れておかないと」
バレンタインの日にお姉様をカフェで1人ぼっちにさせてしまうのはさすがに気が引けた。体調が悪いようなので今日のデートには行けないとでも送っておこう。チョコレートはまた明日作って渡せば良いだろうし。
そう考えてお姉様にメッセージを送信しようと文字を打ち込んでいると突然、玄関のドアが開いた音がした。閑さんかなと思って玄関の方に目を向ける。そんな考えとは裏腹に入ってきたのは。
「お、お姉様!?」
「やっぱりここにいたのね、梨璃」
「え、えと、お姉様はカフェにいるはずじゃあ?」
「あら、気付いてなかったの? もう待ち合わせからは30分以上も経っているわよ」
「・・・・・・そう、ですよね。すみません、お姉様」
お姉様が来たことには驚いたが、考えてもみればお姉様はこの部屋の合鍵も持っているし、私がカフェに来ないとなると外はこの雨だし、寮の相部屋にいる可能性が高いと考えたのだろう。やっぱりすごいなあ、お姉様は。・・・・・・それに比べて、私は。
「顔色が悪いみたいだけれど大丈夫かしら?」
「あはは、大丈夫ですよお姉様。ちょっと体の調子が悪いだけですから」
「無理に誤魔化さなくて良いのよ。天葉からある程度の事情は聞いているわ」
「そ、天葉様から?」
「ええ。『うちの亜羅椰がすまなかったと梨璃さんに伝えておいてくれ』と言っていたわよ」
「・・・・・・そう、なんですか」
お姉様は元々現在の二代目アールヴヘイムである壱盤隊の前身、伝説的レギオンである初代アールヴヘイムに所属していた。その繋がりか今でも天葉様との親交はある程度は存在するらしく、こうして情報が共有されることもある。でも天葉様には悪いことをしてしまったかもしれない。それこそ亜羅椰さんとは比較にならないほどに、毎年相当な量のバレンタインチョコを貰っていると二水ちゃんに聞いたこともあるくらいだし。
「ねえ、梨璃」
「・・・・・・はい、お姉様。どうしたんですか?」
お姉様から声をかけられて思考の海から上がってくる。
「辛かったら私に頼りなさい。それとも私では頼りないかしら?」
「っ! そんなことはないです! お姉様はいつでも最高のお姉様です!」
「なら、聞かせてくれる? 今日なにがあったのか」
「え? で、でもお姉様は天葉様から事情を聞いたんですよね?」
「梨璃、私はあなたの口から聞きたいの。シュッツエンゲルとしてシルトのことを知りたいと思うのは当然のことでしょう?」
そう言われて少し、気が落ち込む。お姉様が私に良くしてくれるのはシュッツエンゲルとシルトの関係だからなのかな。常なら絶対に浮かばないであろう考えが浮かんできて、それを思わず声に出してしまう。
「お、お姉様は私がシルトだからこんなに良くしてくれーー」
「ーーいいえ違うわ。私はシュッツエンゲルもシルトも関係なく、あなたのことが知りたいのよ、梨璃」
しかし、お姉様はその考えを否定するように言葉を被せてきた。
「だから話してくれる? なにがあったのか」
「・・・・・・っ、はい。でも、その前に。ひとつお願いしても良いですか」
「なんでも言ってみなさい。それがあなたの願いなら私が叶えてあげるわ」
「傍にいてくれませんか?」
「っ! ええ、喜んで」
そうしてお姉様と2人、ソファーに座って、私は散々だった今日の出来事をぽつぽつと話し始めた。
「ーーそう。そんなことがあったのね」
私のつたない話を最後まで聞いてくれたお姉様は、そう言葉を発した。
「頑張ったわね、梨璃」
「え?」
「あなたはよく頑張ったわ」
「そ、そんな、頑張っただなんて! 天気予報1つもちゃんと確認できてなかったですし、紅茶もこぼしちゃいましたし、それにチョコレートもぐちゃぐちゃなんですよ!?」
「それでも。あなたが頑張ったことには変わりないでしょう?」
「っ」
そう言われて言葉に詰まる。今日この日のために、お姉様とのデートプランを考えて、バレンタインチョコを作ってと忙しなく動いてきた。その行いを、お姉様本人に『頑張った』と言われると。なんでだろう。少し視界が霞んでいる気がする。
「泣きたい時は泣いて良いのよ、梨璃。胸は貸してあげるから。ほら、いらっしゃい」
ふらふらと隣にいるお姉様の胸の中に飛び込んだ。それからの記憶はあまりない。ただ、泣きじゃくる私の頭を、お姉様がずっと撫でてくれていたことだけは鮮明に覚えている。
「すいません、お姉様。服汚しちゃったみたいで」
「これくらい大丈夫よ。それよりもう平気かしら?」
「はい。えへへ、おかげさまで」
「やっぱり梨璃には笑顔の方が似合っているわね」
「ふぇ!?」
「ふふっ。ごめんなさい。でも、それくらい笑っているあなたが魅力的だってことよ」
「っ。・・・・・・あ、ありがとうございます?」
お姉様に泣きついてからどれほどの時間が経っただろうか。私はようやく平静を取り戻した。取り戻したんだけれど、そこからお姉様がティッシュで鼻をかませてくれて、泣き腫らした目の周りも拭いてくれて、その行為に親が子供に向ける愛のようなものを感じてしまっている自分がいた。こういうのも良いかもしれない。
だけど、いきなり『梨璃には笑顔の方が似合ってる』だなんてお姉様はズルい。宝石みたいな日のあたり具合で紫色にも桃色にも見える優しい瞳をこちらに向けて、恥ずかしげもなくそんなことを言うなんて。嬉しい、嬉しいけど。
「それを言うならお姉様だって! たまにお姉様が笑っている時は誰にも負けないくらい素敵で、綺麗なんです! いつもの凛々しい表情だってとってもとっても魅力的なんですよ!!」
「な!? そんなことを思っていたの梨璃!?」
「はい、いつでも思ってます! 他にもお姉様の良いところならいくらでも! いくらでも言えます!!」
「も、もう大丈夫よ、梨璃」
私がお姉様の素晴らしさの一端を語ると、お姉様は少し動揺した様子だ。まだまだ話そうとしていたんだけれど、お姉様自身に直接止められてしまった。私のお姉様語りはこれからだったのに。このことについては今度じっくり語らせてもらうことにしよう。
「こほん。それで梨璃、バレンタインチョコのことなのだけれど。一緒に作らないかしら」
「へ?」
「それならデートもできて、チョコレートも作れるでしょう?」
咳払いを1つしてお姉様は私にそう提案してきた。確かにこれは名案かも。お姉様との共同作業でチョコレートを作ることなんてそうそうないだろうし、お料理デートという言葉に憧れもある。これはもう。
「はい、やりましょうお姉様!」
一柳梨璃。お姉様と一緒にチョコを作ります!
§
朝から降り続いていたはずの雨はいつの間にやら上がっていて、窓からは茜色の夕日が差し込んでいた。
「なかなかに大変だったわね」
「そうですね。チョコレートを買いに行くだけで相当な時間がかかっちゃいましたから」
「私も美鈴お姉様に『チョコレートの材料は早めに買っておくこと』なんて言われていた意味が今日ようやく分かった気がするわ」
「あはは。もしかしたら美鈴様も私たちみたいな経験をしていたのかもしれませんね」
あれから私たちはお姉様が私の醜態で塗れた服から着替えて、カフェで少し遅めの昼食を済ませてから、なんとか板チョコなどの材料を揃えてチョコレート作りを終えることができた。チョコレートを作る際に使ったボウルなどの片付けももう完了している。
チョコレート自体はお姉様も私も毎回バレンタインに手作りしていたということもあり簡単に作れたのだが、やはりと言うべきかバレンタインの日だけあってチョコレートがなかなか見つからなかったために遠くまで買い出しに行くことになった。さすがに近場のスーパーやコンビニからチョコレートだけがさっぱり消えていたことには驚いたけど。百合ヶ丘女学院から買いに来る生徒さんが多いから、ここら辺では毎年の恒例だってスーパーのお姉さんから教えてもらって納得した。
亜羅椰さんだけでもあれだけの量のチョコを貰っていたし。天葉様なんて毎年想像もできないくらいのチョコレートの山に埋もれているのだろう。羨ましいというよりもお返し大変そうだなという考えしか浮かんでこない。これを教訓にしてホワイトデーの時には早めにチョコレートの用意をしておくことにしよう。
「それじゃあ早速、チョコレートをいただくことにしましょうか」
「はい、お姉様!」
時間もないし、板チョコを溶かして型に入れて冷やし固めたオーソドックスなチョコレートを作ろうかとも思いもしたが、お姉様とバレンタインの日に共同作業するなんて次にいつあるか分からないので結局、ちょっぴり凝った生チョコを作ることになった。
もう少し時間があればお姉様とチョコレートに絵柄を移す転写シートやデコレーションペンなどが置いてあるバレンタインチョコのコーナーを存分に見て回ってから、どんなチョコレートを作るか決められたのだが、それはまた今度の楽しみにしておこう。来年はお姉様が好きなケーキを作ることが既に決定しているのでまだ先の話になるかもしれないけど。
「はむっ。美味しいですね、お姉様」
「そうね。2人で作ったからか、余計にそう感じるわね」
「えへへ」
生チョコの元々の美味しさというものも当然あるけれど、お姉様と一緒にバレンタインの日に作ったチョコという付加価値が大きくプラスされていて、なんというか幸せな味がする。
「お姉様。はい、あーん」
「!? きゅ、急にどうしたの梨璃?」
「? 食べないんですか?」
どうしたんだろうお姉様。お姉様と食べさせあいっこした方がもっと幸せになれるかなと思ったんだけど何かおかしかったかな?
「た、食べないというわけではないのよ。ただ少し心の準備が「えいっ!」・・・・・・!?」
OKを貰ったので迷わずお姉様の口の中にフォークで刺した生チョコを入れた。もちろんゆっくりではあるけれど。
「美味しいですか?」
「っ! お、美味しいわよ、梨璃」
「それはよかったです。なら次は私にもあーんしてください!」
「梨璃。あなたのコミュニケーション能力が時々怖いわ」
「?」
突然あーんってされて戸惑ってるお姉様かわいい。キリッとした表情をしようとしてるけど、喜んでいることがばればれな緩んだお顔も素敵だ。お姉様が何か変なことを言っているけど、ここまで積極的になるのはお姉様が相手の時だけなのに。まあ今はあーんが優先だ。あーん。
「あーん」
「しょうがないわね。はい、あーん」
「〜〜っ。えへへぇ、美味しいですお姉様」
「梨璃、だらしない顔になってるわよ」
「お姉様だってそうでしたよ?」
「そ、そんなはずは」
こうして私とお姉様のバレンタインは過ぎていった。
§
今はもう真夜中と言って良い時刻である。お姉様とのいちゃいちゃのせいか全然眠気が来なかった梨璃は、ベッドの上でごろごろしながら今日の出来事を振り返っていた。これだけで話の種になりそうなくらいには色々なことがあったなあと振り返っていた時。不意に、梨璃は思い出してしまった。前日に作ったチョコレートの余りを冷蔵庫の引き出しの奥にビニール袋に包んで入れておいたことをーー
「ーーっ・・・・・・あー!?」
「・・・・・・梨璃さん、うるさい」
「ご、ごめんなさい閑さん」
思わず真夜中に奇声を上げてしまって、それを閑さんに咎められる。もっともな意見なので即座に謝った。朝も夜も本当にすみません閑さん。今度バレンタインとは別になにかお詫びの品を渡すので許してくださいーーー!
そんなこんなで最後まで散々なバレンタインではあったけれどーーそれでも私は、今日の出来事を絶対に忘れることはないだろう。だってお姉様と最高の思い出を作れたんだから!