1940年5月
フランス本土、フランス領アフリカ、インドシナで右翼勢力、国軍がヴィシー政府に追従する姿勢を示した。
つまり戦線は減り、イギリスは自力でこの国難をどうにかしなければならない。
同月から始まった第一次バトル・オブ・ブリテン
この航空戦はドイツは1500機、イギリスは3000機を投入。
あまりの戦力差にドイツ指導部はわずか一ヶ月で航空戦を放棄。
総力を挙げれば可能だが、犠牲が大きすぎると判断。
ドイツはこの敗北にともないデンマーク、ノルウェー両国攻略作戦の撤回をした。
イギリス攻略作戦、『アシカ作戦』発動を防ぐ一つの勝利を掴んだ。
続くドイツの英国補給網遮断を狙った大西洋通商破壊作戦。
この作戦は米参戦まで行われたが、犠牲が巨大だった可能な限りの造船所をドイツ主力起動部隊建造より優先して、潜水艦を建造し続けた。
イギリスの行動は早く、船団護衛を積極的に展開。
ますますドイツ潜水艦艦隊の犠牲は増大していた。
だがドイツは通商破壊を固執し続けた。
通商破壊作戦のノウハウは連合国の一大反抗作戦『オーバーロード作戦』に役立つことになる。
そして、イタリア救援作戦──三つ目の戦線である。
ドイツ武装親衛隊の最精鋭装甲師団を派遣し、総指揮を武装親衛隊の育成第一人者でもあるパウル・ハウサー中将を任命した。
──そしてこれは第三の戦線とも呼ばれたアフリカ戦線における枢軸の主導権を確立した。
ハウサーはエチオピアで絶望的になりつつあるイタリア軍救援を半年に果たすことを約束した(それはつまりスエズ運河やスーダンの攻略を意味した)。
エル・アラメインにおいての英国の防衛作戦が発動される前に方翼包囲を行いただちに敵軍団を粉砕。
カイロまでの長い砂漠の道を大した反抗どころか敵師団にすら会わず、進軍した。
流石にカイロ周辺には防衛用師団が存在していたためイタリア歩兵軍団と合流後、進軍を開始。
ナイル川を横断するのは犠牲がかなり出てしまうと判断したハウサーは、先に南下し、敵戦線に空白地帯を構築後、渡河をすることを判断した。
エジプト中部から渡河に成功したが、イタリア軍がエチオピア山岳地域に完全に孤立したことを受け、文字どおり敵軍を蹴散らしながら戦線を接続、ハウサー中将は約束を履行したのだ。
ほぼ同時期にイタリア軍によってスエズ運河対岸に到着、連合国の地中海の表口が封じられた。
──アフリカ戦線は紳士の戦線とも呼ばれた。
理由は移動虐殺部隊(アインザッツグルッペン)が派遣されなかったことだろう。
これに関しては、
ザイフェルトが『アフリカ圏はイタリアとの協議が必要であるため、安易に人種問題を解決してはならない。イタリアに迷惑をかけたくはない』という、非常に友好国に配慮した一言が要因である。
まぁ、そんなことを言っておきながらエジプト・スーダン総督に任命されているのだが。
───────────────
──アインザッツグルッペンや親衛隊第36擲弾兵師団の奴らを私の管轄下に駐屯させないで頂きたい!──ザイフェルト
───────────────
後日、オーレンドルフとの会話
「なぜ、アインザッツグルッペンを派遣したがらなかったんですか?」
「それは決まってるよ、アラブの支持が欲しかったからだよ。」