リベリアみたいな弱小国だったからまだ楽だったけど。
ブリカスめ!
1940年11月
日本はアジアに呼び掛けた。
『西洋の帝国主義を共に駆逐しよう』と。
日本は大陸の反対側にいる枢軸諸国に呼び掛けた。
『共に手を取り合い、ボリシェヴィキと闘おう!』と。
日本の呼び掛けは、応えられた。
スバス・チャンドラ・ポーズら急進的な独立主義者は、期待を胸に立ち上がりだした。
枢軸は、新たな同盟国を笑顔で迎え入れた。
──だが現実は童話とは違う。
誰もが笑顔でいるとは限らないのだ。
連合国は慌て、そして嗤った。
『日本をアメリカとぶつけさせ、アメリカを我が陣営に加えよう。そうすれば勝てる』
ソ連は恐怖した。
『日本を潰せ!でないと我々が消される!』
この恐怖は歴史を狂わせてしまうと知らずに。
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同年7月
バルカン半島は枢軸の手に落ちた。
ハンガリーとルーマニアのトランシルバニアの領土問題を、ドイツが仲介したからだ。
ルーマニア首脳部はドイツが全面的に支持してくれると期待したのだ。
だがドイツにはドイツの思惑がある。
──トランシルバニアを分割させれば良い。
──そうすればハンガリーは我々につく。
──ルーマニアが先の大戦で奪った領地だしな。
結果は枢軸全体から見れば、良かった。
ハンガリーが北トランシルバニアを獲得しただけで参戦したのだから。
これをウィーン裁定と言い、バルカンに新たな火種を残しつつ、秩序が再構築され始めた出来事である。
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同年6月
イタリアはギリシャに戦線を布告。
その二週間後には、トルコがイギリスに脅迫され、参戦。
具体的には
今まで参戦を拒否してきたトルコ政府にイギリスは業を煮やし、
イギリス戦艦のクイーン・エリザベス級一番艦ヴァリアントを旗艦とする小規模艦隊をボスポラス海峡に派遣、
同地にて空砲を撃って威嚇、直後にイギリス大使館から参戦要請が来たのだ。
──拒否をすればイスタンブールに砲撃を加える。
そう判断したトルコ政府は参戦要請を受諾、なにも備えがないまま戦争に引き摺り込まれることになる。
そしてドイツはアナトリアの小国や都市国家モドキの攻略ぐらいならイタリア、ブルガリアで事足りると判断していた。
どうやらドイツにはアフリカで苦戦した同盟国の力量を見誤っていたようだ(実際、スエズ運河すら越えていない)。
──この判断はイタリアやブルガリアに大量の屍を積み重ねさせたことと、思いもよらない副次効果を産み出す結果を生んだ。
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──うっそだろ、お前!そしてありがとう、ブリカス!──筆者
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アフリカにおけるイタリア軍救援の任務は成功した。
ドイツ国防軍はイタリアにアフリカ・中東戦線の指導を依頼した。
イタリア領ソマリアなどにいた残敵を殲滅した後、派遣軍は帰還した。
ちなみに帰還してから直ぐ出された命令は
『部隊の練度復興に勤めるように』
であった。
1週間後位までボイコットを兼ねた自主休暇が起きたのは言うまでもない。
トルコは海峡でガン待ちしてた。