来客を迎えに来たのは想像通り家主だった。
NSDAPの制服を着て、やや崩れた前髪を整えながら、家主は司会に現れた。
「息子がじゃれて来てたんで遅れた、それで?珍しいな」
職場とよく似たキビキビとした雰囲気で接しつつ、灰色の目をした大臣は来客に質問を投げかける。
……来客が昔のような言葉の応酬すら懐かしめない精神状況ということを察した上で。
「あ、あぁ少し、話したいことがあってだな」
物理学者は何とか言葉を慎重な作業を必要とするかのように絞り出す。
そしてしきりに額を拭う。
成程、そう言って大臣は着いて来い、というジェスチャーをしながら部屋に通す。
案内された部屋は中央にテーブルがあり、それを挟むかのようにソファーが置かれ、その周りをアジア圏や欧州の特産物で包囲している。
だがそれらすら物理学者の目には入らなかった、部屋に入るなり向かいの壁には、金でメッキされたライヒスアドラーが構えているのだ。
より一層、彼の碧眼は怯えの色を増していた。
これから話すことがまるで信じられない拷問かと錯覚させるのだ。
壁のライヒスアドラーが、
大臣のNSDAPの腕章が、
目立たないが注視すれば気付くように設計された部屋の隅々にあるハーケンクロイツが、
物理学者の胸を締め上げる、声を掠らせる、汗を溢れさせる。
愛国心と周囲への劣等感、不信感を抱え続けていた
「具合が悪そうだがどうした?今、タオルを持ってこさせよう」
物理学者は、拒否も感謝も口に出来ずに冷えた水を喉に流し込む。
「な、なぁ…お前は、お前は、何を考えてる?何かドイツに未来はあるか?」
このままでは勝手に吞まれてしまう、そう判断し、本命の質問を大臣にぶつける。
一秒でも早く、今後のドイツの展望、大臣の思い描く青写真を聞きたかった。
黒いオーケストラ参加を拒絶する材料を、
あろうことか黒いオーケストラ関係者を抹殺する第一人者に聞いたのだ。
……きっとそこに未来があれば、戦勝後のドイツの明るい展望が在れば!
そう縋りたかった、瞬く間に疲弊してしまった物理学者の脳は、普段なら物の数分で計算式を組み上げることすら出来たのに、その時に限っては幾千年の時を必要とするかのように感じているほどだった。
「随分とまぁいきなりだな、過去の話がしたかったんじゃなかったのか」
縋りたかった、だがあえなくその希望は、打ち砕かれ、塵芥になった。
「はっきり言おう、我々NSDAPに未来は無い、青写真はもう無い」
「結局のところ、復讐劇の原動力でしかないのが我々の思想だった。国民に果たせるのはそれまでだった」
「ナチズムに縋れば全欧州が不幸になる。
イタリアも、
日本も、
変わろうとしている。」
「総統が死ねば地獄は確定だ」
自分より政治を知る者がそう言い放った、何よりあのザイフェルトが言い切った。
視界が白く染まる、思考はどす黒い物に浸食される。
強烈な眩暈と爆発的な冷たさが、物理学者を滅多打ちにした。
頭を抱え、深く椅子に沈み込んで、ボソリボソリと言葉を紡ぐ。
「ザイフェルト、実を言うとな、最近、黒い、黒いオーケストラに、参加を打診された」
あれだけ自己を否定するような予想を打ち立てた大臣は、何も動揺したような素振りを見せなかった。
ただ、少しだけ目を見開いただけだった。
少しして自分の迂闊さを激しく呪うような表情に物理学者はなっていた。
「……お前のような親衛隊上層部に言ってしまうあたり、今日はどうかしている。
で、この情報はお前にとって喉から手が出るほど重要だと思うが、どうする?」
互いに視線をぶつけ合う、片や試すように、片や何でもないように。
その視線の均衡は大臣が突然席を立ち、別室に消えていったことで終わった。
親衛隊に連絡するのか、そう考えてみたが狼狽する気にもならなかった。
一分、二分、五分……
そうして不意に大臣は戻ってきた。
腋に数種類の酒を抱えて
「酒の勢いのあまり、過激すぎる冗談をお前が言った、私はそれを聞き逃した」
途端に一人言を並べ立て
「──だから今日のことは私は覚えていない」
暗に、今日だけは見逃す、そう宣言した。
──────────
──一次大戦で、あぁも屈辱的な、敗戦さえなければ、同級生で殺し合うことなんてなかった。
戦争が、総力戦が、あの一次大戦が、皆を破壊した。だから私は今でも恨んでいる、一次大戦を──グーゼンバウアー
──戦争さえなければ、私は奴を口汚く罵ることは無かったかもしれない──ある経済学者
──戦争が、あの大戦が、あの屈辱が無ければ、私は居なかった。
でも私は今を後悔してはいない、後悔してはいけない、だって指導者だから。
指導者はどんな時だって傲岸不遜に笑っていなければいかんのだ──ザイフェルト
──────────
不思議なぐらいに頑固で神経が図太かった知人は指導者になった。
優秀な成績を収め続けた同級生は経済学者になった。
その二人を知っている人間は物理学者になった。
そして指導者となった学生から危険視された同級生の多数はもう二度と会えなくなった。
極めつけは同級生と政治の壇上で殺し合う、何がいけなかったのか。
大臣の責任か?いや違う、そもそも大臣は何時変わった?
大臣が変わったのは政治家になってからか?いや違う、今なら物理学者は断言できる。
生まれついての気性難だったことが災いした?そうでもない。
開戦直後は皆変わりなかった、だが戦時中は皆が皆、敗戦を望む人間を敵視した。
敗戦した後は?皆、掌を返した。
教師も、親も、新聞も、教科書も、皆が皆、連合国を褒め散らかし、
敗戦を認めたくないから差別をし、敗戦したから勝者に媚びを売った。
あの時そうせざるを得なかった、そんな言葉で大臣は止まらないだろう。
復讐をしたい、そのための支持が欲しい、そう思った大臣は早かった。
支持を得る為に
誰よりもドイツを愛しているのはまず間違いなく大臣だろう。
彼なりに敗戦を飲み込んだんだから。
水底に沈んだ軍艦と同じように、岩盤の中に押し込められた化石のように、当時の屈辱を留め続けたのだろう。
きっとワイマールがどうなろうが大臣は揺るがなかっただろう。
──────────
「酒が回ったか?」
右に流れるような前髪、それ以外は後ろに流れるように固められた黒髪の大臣は様子を窺う。
「……ん?考え事をしていただけだよ。お前が特別酒に弱すぎるんだ」
そう言い放ち、グラスを傾け、酒を舌の上で転がした。
「やっぱり酒には向かないか、成程ねぇ……」
そうぼやきつつ、彼は机に置かれた酒から適当に見繕ったワインを渡した。
それと……と言って、一つのアルバムを部屋から見つけ出し、物理学者の胸に押し付けた。
「学校の頃の私用アルバムだ、もう私には要らないよ」
そのアルバムには政治闘争や議論……大臣が大臣になる準備をしていた頃の記録が集められていた。
──もう私を応援する人間は写真には誰も居ない、もう誰も背中を押してくれるとは思えない。
そんな意思を見たような気がした。
大臣は吸う本数が増えた煙草を咥え、紫煙を立ち昇らせ
「私はNSDAPの人間だ、私はSSの者だ、私はナチズムの指導者だ。
支持してくれる国民の為にやるべきことは十二分に果たした筈だ。
私の昔を知る人間は誰も味方しなくなっても別に良い、国民が笑ってるんだ。
私の大好きな国民に、私の愛しているドイツに奉仕しているんだ、満足じゃあないか。
大多数の為に正しいと思ったことをした──それで否定されるならもう何をしろと?」
吐き出された言葉の、何をしろと?の部分はずっと昔から抱えていたモノだったのだろう。
大臣は政治闘争を学校でした時、何があっても泣いていなかった。
理不尽な目にあっても、屈辱を受けても、無力さを感じても、悔しさや苦痛で顔を歪めても、涙一滴すら見せなかった。
ひたすらに笑っていた、諦めや苦悩なんてただの一度も見なかった。
無意識的に物理学者は大臣を誤認していた、政治に置いて彼の心が弱る筈が無いと。
自分と違って、何があっても平気だ、と。
だからこそ、今日会った時に一切予想していなかった一言だった、全くの予想外だった。
良心に迷惑はかけたく無い、そう言い続けてきた大臣の事だ。
もう故郷は彼の家じゃないのだろう、子供ですら怪しい。
ナチズムすら彼を支えてくれる訳では無いのだろう。
物理学者は自分を責めたくなった。
自分の事ばかり考えて、普段見せない隙を同級生が見せて初めて理解した迂闊さを。
黒いオーケストラ全体を危機に晒す様な判断力を今一度責め、項垂れた。
──────────
──国家の為に死ね、総統の為に死ね、国民の為に死ね。
それがSSだろう?では命令を完遂するように、これは総統命令だ──発言者不明
──────────
「ナチズムは止まらないのか?お前は止まらないのか?
未来が見えな、くても止まらないのか、恐怖は無いのか、寂しさは無いのか。
歴史に沈むの、が嫌だ、そう言って、たじゃあないか」
大人になったのに情けないことに声が震えていた、どちらの言い分の夜が白み始めるほど聞いたから分かるのだ。
「指導者を殺してでも思想を守るのは私にはできない、
思想を殺すのも私にはできない、
でもナショナリズムを貫徹したい、だから私はこうする」
真正面で潰し合えば良い、大臣はそう決めた。
「内戦でもクーデターでも革命でもなんでもいい、真正面から民主主義を叩き潰してやる」
「何度でも言ってやる、我々NSDAPは一切間違っていない。我々こそが今世紀の正義の定義を決定する唯一の勢力だ」
「我々が政権獲得した時に抵抗すらできなかった民主主義勢力は指を咥えて見ていれば良いんだ」
「よろしい、ならば
物理学者が顔を上げた先に居たのは隙を初めて覗かせた悪童ではない、自身の全てを投入してでも相手を叩き潰す政治家がそこに居た。
眼光は白熱電球から、静かな月明かりになっていた、澄み切っていた。
野心と能力と他人の血で成り上がった政治家がそこに居た。
覇気は無い、圧力も無い、相対する者全てを抑えつける物も放っていない。
だが誰よりも強い雰囲気を撒き散らしていた。
「
物理学者は、化け物の産声を聞いた錯覚を覚えた。
その時から物理学者の手の震えは、脂汗は、怯えは収まった。
余裕を取り戻した物理学者は啖呵を切った。
「お前に勝つのはオーケストラだ。
誰も彼もを死地に送り込んででも、勝つのはお前じゃない」
「化け物を打ち倒すのはいつだって人間だ」
大臣は目を丸くしてそれを聞いた。
そしてこういった。
「化け物ねぇ……私は、私たちは化け物か、そうかそうか」
そしてすぐに獰猛な笑みを浮かべた。
残虐極まる笑みだった。
社会的、物理的な命を懸けてでも敵を罠に嵌め、敵の首を掻き切る事を至上の喜びとした様な──戦争狂のような笑顔だった。
「──そいつは素敵だ、大好きだ。
そうだ、随分と長い事言い忘れていた。
グーゼンバウアー、政治の世界にようこそ。
大臣は三日月の様な、まるで耳まで裂けたような笑顔を浮かべて、そう言い返した。