──一言で言うとあの男の始発点は憎悪と怒り、そして絶望だよ。
どうしようもないワイマールの失態がそうさせたのさ。民主主義の敗北だ──オステルマン
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「長官。先程の非礼、申し訳ございません」
大臣は言った。
そう、大臣は再び来ていた。
あの衛生的で、現代的で、合理的なデザインのした一種の病巣の様な部屋に。
今度ばかりは長官も冷静さを取り戻していた。
彼も話す事がある、言いたい事がある、願う事がある。
尊厳と独立を再び十全に果たすために、全てを投じた怪物の様な二人が其処に居た。
愛を語り、希望を語り、現実の泥水を啜り続けた二人が居た。
歴史という最も血も涙も無く、最も合理的で、最も民主的な概念に、今まさに圧し潰されようとする二人が居た。
嘘と真実を織り交ぜ、
現実を虚構で塗りつぶし、
人生という道程に挫折し、
それでも尚国家への愛という概念に縋り続けた二人。
抑圧と虐殺を用いて、虚構の敵を喧伝し、攻撃してライヒを纏め上げた二人。
その二人の最後の対談は平穏な雰囲気で再開した。
「私も強く言い過ぎた。
それで、これからの話か」
やや自嘲気味に喉を震わせて、長官は大臣に問う。
事後処理の事など考えたくない様な声で問う。
「私は総力戦という無制限の消耗戦を三度経験したと思っている。
一つはセルビア、もう一つはダンツィヒ、最後の一つはベルリンで始まった。
一度目は独墺土露の国家の消滅を持って決着した。
二度目は英仏の生殺与奪を我々が握り、合衆国を完膚なきまでに破壊し、表舞台から追放した。
三度目は…」
大臣が続けて言う。
「三度目は我々の政府消滅が決定するまで続けられる……その様に主張されるのですか」
近くにあった椅子に座り、前屈みになって聞く姿勢を示しながら。
長官は首肯し、一拍おいてから主張を続ける。
「総力戦とは国家の無条件の解体が達成されるまで継続される。
民意と大量生産がもたらした絶滅戦争だ。
我々も連合国も無条件降伏を求めた様に、そうしなければ戦争の落としどころが見出せない形態。
であれば我々も同様の事が臨時政府から求められるだろう。
第三帝国指導者の首と帝国政府の存在そのものを差し出せと」
身体をソファに深く沈めさせていた長官の言葉が途切れる。
──それは私にとって許容し難いのだ。
民意に押され、復讐を進め、差別を正当化した我々への報いが『千年帝国の幻想』だと?
その沈黙は、長官の抱える如何しようもない怒りを言外に表していた。
──この結末が納得出来ない、出来ないならば如何する?
決まっている。
帝国の方針を今すぐにでも達成させてしまおう。
「成程。
しかし長官、国民が我々を切り捨てたからと言って、人種再編を強行すれば、我々が愛した概念も自然も人も、皆皆核の灰で汚染される事になる筈です…私の様に」
大臣はそう自虐して、からからと笑った。
その後、笑いを引っ込ませた大臣は真剣そのものの表情で主張を続ける。
「我々は消えます、ですがドイツが無条件降伏を外圧によって受諾したのではない。
しかし今回の戦争は外圧ではありません」
──まるで歴史やライヒがそうであれと望むかの如く、多くの複合的な条件が重なった結果の政権交代です。
我々が消え失せても、国民が敗戦国と嘲られ、独立独歩を妨げられる事は無い筈です。
ゆっくりと息を吐き、落ち着いた表情で大臣はそう言った。
「負けや滅びを肯定し、抗う事を辞めようとは考えていません。
多くのドイツ国民と国家にとって利益を齎すかを考えただけです。
その為にナチズムは断頭台に上がり、見せしめに殺されるべきなんでしょう。
それが私にとっての責任です。
私が解釈する私の責任の取り方です」
帝国とナチズムの尊厳は容易く踏み躙られるでしょう。
生きて、生き尽くして、後始末を付けるべき。
それがナチズムと二度目の絶滅戦争を選択した私のとるべき選択肢です。
大臣は既に覚悟を固めた。
否。報復を、政治を志した時から覚悟である。
長官は再び大臣を見詰め直した。
疲れきっていて、凪いでいて、それでいて明確な意思を感じさせる灰色の瞳を凝視する。
其処には昔から変わらず、揺らがない大志を灯した野望の炎があった。
「未だ諦める積りは無いのか」
「当然です。長官。
例え半身がもげようと、例え体の総てが機械に置き換わる苦痛を味わっても。
長官や総統と同じように、納得行くまで己の道を突き進むだけです」
昔の様に、皮肉っぽい笑みを浮かべ、大臣は諦めない事を宣言した。
「人間は意志在る限り人間です。
化け物は意志を喪い、本能を満たす事に充足感を覚えるから化け物なのです。
であれば私は意志の勝利を得る為に諦めたくはありません」
愛と理想を語り、信念を貫き通す覚悟で此処まで彼は来た。
それが虚構であっても、
悲劇をまき散らす災厄であっても、
信じた者を化け物に返るウイルスであっても、
ザイフェルトは貫き通すことを決めた。
長官は未だに部下が折れていないことを理解した。
まだ戦い続ける覚悟だと理解した。
平原で、街道で
塹壕で、草原で
凍土で、砂漠で
海上で、空中で
そして政治で──
そして歴史で──
死ぬまで戦う、死んでも戦う。
その意思を伝えた大臣は、大臣ではなく、ただのザイフェルトとしてヒムラーに語り掛ける。
紅茶で喉を潤して、至極何でもないような口ぶりで問う。
「…長官、貴方が望むなら、此処から逃げても構いません。
貴方は充分戦った。何処かの田舎で静かに暮らす事だって出来る。
貴方は責務を全うした筈です、誰も文句を言いませんよ」
長官の目が僅かに見開かれる。
瞳は驚愕の色で埋め尽くされる。
その驚愕は、友への感謝と己の不甲斐無さに徐々に変わる。
「それは…
それは出来ない。それだけは決して」
長官の喉は震え、声は喉奥に張り付いて上手く言葉を出せないで居た。
ザイフェルトは手渡された紅茶を、
まだ温くなっていない紅茶を、美味しそうに飲みながら、ヒムラーを見ていた。
覇気や野心を一切感じさせない、平穏を心から求める『人として』の表情を覗かせながら、長官を見ていた。
「逃げて良いのですよ?
誰も止めないでしょう。
誰も怒らないでしょう。
誰も責めないでしょう。
長官はやっと休めるんですよ?」
平穏を謳歌するに足る努力をしたではありませんか?
ザイフェルトの目はそう言う。
心からの善意で彼はそう言う。
「ただ黙って、安全圏からお前が死ぬのを傍観しろとでも言うのか?
ハイドリヒだって勝手に死んでいった。
職場では確かに腹が立つ奴だった、だが優秀だったし、何より多くの物をくれた奴だった。
またあの時のように、訃報を受け取って執務室で呆然としろとでも言うのか?
何より迷惑をかけ過ぎた」
だからヒムラーは怒りを示す。
ザイフェルトの親友の二の舞は繰り返さないと。
何より、総統と第三帝国が許さないと。
無意味に曇った眼鏡を何度も拭いて、
無意味にネクタイの位置を丁寧に整えて、
無意味に己の頭を撫でまわして、
務めて冷静にヒムラーは、ザイフェルトの善意を断った。
無意味でも何かを整えないとヒムラーは立ち昇る怒気を上手く抑え切れる自信が全く無かった。
責任の重大性を語り、己にそれを課すくせに、他社には逃げろと平然と告げる友への怒りを抑え切れそうに無いから。
「お前は誰にでも責任の重大性を語る癖に、私には取るなと言うのか」
初めてザイフェルトは動揺した。
何かを言おうとして言葉を濁した。
「お前は、家族を拒絶したらしいじゃないか。
今度は我々すら拒絶するのか、怒りと憎悪を共有した我々すらも?」
ザイフェルトの眉間に皺が寄る。
唇を僅かに嚙む。
「お前は、お前の言う責任を少しは共有しろ」
そう言われて、初めてザイフェルトは怒りを示した。
「大切だから、替えが利かないからこそ、逃げて欲しいんです。
死後もずっと誰かが批判を浴びるなら、私が代わりに…」
その表情は若手のナチ党員がよくしたモノだった。
二度と喪うまいと決意し、その代償なら何でも支払う表情だった。
「誰だって覚悟が出来ている。
この運動が失敗した時、己に降りかかる苦痛を理解している。
組織は生命と同じだとお前は言ったじゃないか。
一蓮托生だと。
……だから悪いがこの話はナシだ」
だからヒムラーは彼を大臣に戻る様に促した。
冷徹で、手段を厭わず、大切なモノを護る為に地獄に落ちる大臣に。
「……………。
分かりました、長官が其処まで仰るのならば、
私は部下として、
同僚として、
友人として──
──長官の名誉を最大限守るであろう、選択肢を提供します」
俯きがちに大臣はそう告げて、席を立つ。
これが最後で、二度と帰ってこない事だと噛みしめる様に、
いつもの大臣の律動的な溌溂とした歩き方では無く、
引き摺るかの様に歩いていく。
部屋を出る直前、大臣は振り返らず、声の抑揚を最大限抑えて、長官に言う。
「私は農家をやりたかった。
医者だってやってみたかった。
音楽や釣りだってしてみたかった。
チェスで名を挙げる事だって夢見た。
民主主義を信じて、前を向きたかった。
……でもそれを諦めて、その夢を捨てて、此処まで来たんです。
来てしまった。
家族の反対を押し切り、同級生を利用し、対立者を騙し、少数派を抑圧して虐殺した……!
高尚な道徳など持ち出す余地も無く、私は最低最悪のクズになり果てて、此処に来たんです。
だから貴方には逃げて欲しかった。
部下にも逃げて欲しいし、総統や宣伝相たちにも逃げて欲しい。
だって、誰もクズじゃないじゃないですか………!」
誰かの幸福を祈りたいだけなんです、私は。
背中は雄弁にそう言っていた。
長官は幽鬼の様な足取りでそのまま立ち去ろうとした友に
「ありがとう。
ただ、もっと早くにその言葉を聞きたかった」
とだけ伝え、送り出す事にした。
ザイフェルトが高射砲塔を包囲する司令部に戻った報告を受けた長官は、
その部下に通信機を持って来る様、命じた。
通信先は、総統大本営。
「後始末くらい、自分でつけないと、長官としての立場が無い」
そう、穏やかに笑って、通信を開いた。
これでヒムラー長官は退場となります。