浴場に立ち込める熱気と湿気が次々に、私の顔を、身体を鬱陶しく掠める。変に温いせいで、不快感しか覚えられない。その湯気のせいで全容は見えないが、水色のタイル床や壁の中に大きな湯船を確認できた。だが、今そんなことは些細より些細だ。
問題は、水色にはそぐわない艶やかが潜り込んでいることである。
その艶やかは、人間だとは考えられないほど鋭利でしなやかに長く伸びる紅の爪を携え、頭にはピアスを携えた猫の耳が付随している。背後には黒い尻尾が2本。明らかに人間ではない。
「おい、そいつ変だぞ!! 近寄るな!!」
魔理沙が叫んだ直後、橙色がタイルを蹴った。一番近くにいた私のところまでたった1回の回転しながらの跳躍で到達し、体当たりで私を吹き飛ばした。近くと言っても私と猫は5メートル以上も距離があった。
獰猛すぎる一撃をお見舞いされた私は空中で浴場と脱衣所の境界線を越え、ロッカーの側面に背中を強打した。脱衣所中をつんざくように響く衝撃音。猫からの打撃とロッカーでの衝撃が強かったせいで、息が数秒出来なくなり足を前に投げ出してへたり込んだ。
すぐに猫がロッカーに、私に覆い被さるように手をついた。逃げ場を失った私は、ただ猫の顔を睨みながら必死に咳き込みに身を任せることしかできなかった。
猫の目が野性的にギラリと輝いた一瞬、鮮やかすぎる紅色の爪が空気を切る音が聞こえた。
嗚呼、正体不明の猫又に負かされてしまうなんて。自分でも信じられないくらいあっさりと諦めが私を支配し、死を悟り猫の顔から視線を外してゆっくりと外界からの光を遮断した。
また、空気を切る音が聞こえた。私が貫かれた音だろうか?意外と死ぬ前の意識というのは肉体にこびりつくものなのかもしれない。
1秒も経たずに聞こえたのは高速で柔らかい物に硬い物がぶつかるような鈍い音、そしてヒトのようで獣のような苦悶の呻き声。その後に、床に布が擦れる音が数秒。
何があったかこの目で見たいという知識欲と私は今どうなっているのだろうという存在の所在の確認とが私の瞼を持ち上げた。
私はまだ脱衣所に座り込んでいた。どこにも傷は無い。背中の痛みは未だに私の背中を疾走しているが。傷どころか、目の前の猫又さえいない。
「おい、霊夢! 無事か!? 怪我は!?」
私の目の前にいたのはすっかり血相を変えた魔理沙だった。思い切り足を振り上げていた。息も絶え絶えで余程泡を食っていたのか、彼女お気に入りの魔女帽子をその頭に乗せていない。
「え、ええ。私は、大丈夫……。助けてくれてありがとう」
「私の蹴りが……光ったんだぜ。もうちょっと褒めてくれ……」
今にも倒れてしまいそうなほど疲弊しているように見えた。蹴りとは私の想像以上に体力を奪うらしい。
「安心してる暇はないぜ。……ほら、見てみろ」
魔理沙の視線は私を軸として対称の点に集まった。私もそこへ目を向ける。
仰向けで大の字になっていた黒猫が機敏に跳ね起きて、まるで本物の猫であるかのように四肢を床に降ろしこちらを威嚇する。2本の黒い尾は天を貫くように逆立っている。
「何なんだよコイツ! これも何かしらの凶器なのか!? 冗談じゃないぜ、誰があんな猫人形を使役できるんだよ!」
不満と恐怖とを一息にまくしたててみせた。息こそ整っていないものの、肩の上下運動は既に収まっていた。
「私に訊かないでよ! まだ背中痛いんだから! とにかくこの場をどうにかしないと、私たち2人ともお陀仏よ」
私も思いの丈をぶちまける。背中の痛みは引くことを知らないようだ。
叫ぶようにして魔理沙に応答した直後、黒猫の左足に僅かに力が入るのを見た。
跳んでくる。私が声を上げる前に、黒猫の姿はもう消えていた。
が、それと同時に私と魔理沙の目の前に千万無量の金色が広がった。
「やれやれ。水のあるところには近付くな、とは再三言ってたのだがなぁ。これじゃまだまだだな」
八雲紫の小間使いの九尾の狐が忽如として現れた。一切の先触れはなかった。黒猫はというと、こちら側から顔が出ている形で脇に抱えられていた。手足をこれでもかという程に乱暴に振り回していたが(私たちからは足が見えないが、手と同様だとは想像に難くない)、一向に脱出できる目途は立ちそうもない。
「お前……八雲藍、だったか? 答えろ、この獣は何だ? お前等の手下か!?」
「後で答える。少し黙ってろ」
八雲藍が理解不能な呪詛を唱え始めた。私たち正真正銘の人間には一切合切影響を及ぼさないが、黒猫にとってはそうではなかった。顔から必死さがどうしようもなく見て取れたのに、顔からは力が抜け始めじわじわと何者かに身体を縛り付けられるかのように動きが制限されていった。しまいには、ピクリとも動かなくなった。死んでしまったのか?
「それで? 『
静かに、静かな猫をロッカーに寄りかからせるように座らせた。こちらに尻尾を向けたまま話すのでなんだか釈然としない。
「ちぇん? その猫の名前? 随分と変な名前ね」
「名付け親のセンスが知れるぜ」
私と魔理沙が井戸端会議かのように笑っていると八雲藍は鋭利な視線をこちらに突き付けた。
「それだけか? 私も暇じゃないんでな。さっさとここから出ていけ」
「いやいや、ちょっと待ってよ。ちゃんと教えてくれないと困るのはこっち。私たち橙に殺されかけてるのよ?」
「全くだぜ。私の屈強でしなやかな足技が無かったら、橙とやらが『処刑』されてたなぁ? お前らの言ってるゲンソウサイバンでな」
八雲藍は漸くこちらに向き直す。眼には妖怪的でありながら機械的な雰囲気を感じ取ることが出来た。ただの人外じゃないのか、この狐。
「その件に関してはこちらの不祥事だ、申し訳ない。改めて紹介させてもらおう。彼女は橙。紫様の部下の部下、つまり私の部下だ」
「回りくどいぜ」
「橙は水に弱くてな。水に触れてしまうとさっきのように野生に戻ったかのような獰猛さを取り戻してしまう。だから、脱衣所の掃除でもさせようと私が指示した。ただ、何を間違ったのか浴場の方に足を向けてしまったらしい。後はお前たちの方がよく知っているだろう」
何だ?何かが意図的に情報制御してるのだろうか?橙の正体について、彼女は一切言及しない。こんなにも橙や八雲藍が人間でないのはあからさまなのに、何故わざわざ隠匿する?知られるとマズいことでもあるのだろうか。
「はっきりしないなぁ。単刀直入に訊くが、お前らは『誰』、じゃなくて『何』だ? 人間じゃないってのは記憶を失くしてる私たちでさえすぐ分かるんだよ」
八雲藍に向けて思い切り指を突き出した。そこそこに細かった八雲藍の眼差しはさらにシャープさを増した後、再び金色をこちらに向けた。
「その質問には答えかねる。紫様から耳が痛くなるほど忠告されているからな」
「ふざけるのも大概にしろよ。だったら、何で『お前らが人間以外ではないとは判断できないまでの記憶』まで奪わないんだ!」
魔理沙の語調は強かった。この質問にはゲームの核心を突く秘密を暴く力がある。
「『人間ではない』ことは良い。だが、その奥に潜む露を払ってしまうことはこのゲームの律を破壊するのと同意義。これが私が答えられる最大限度だ」
意味深な言葉を吐き残して、八雲藍はいつからか現れていた床の裂け目に消えていった。直後に裂け目も閉じた。もうどこにも裂け目があった形跡は見つからない。
「はぁ……。結局何にも分からず仕舞いか。むしろ、余計な混乱まで招いただけか」
本当に何も分からなかっただろうか?私にはぼんやりとだがヒントが見えた気がする。八雲藍の言っていたことには「私たち運営側からは、私たちが何者か言えない」と纏められる。逆に言うなら「お前たち自身が私たちの正体を解明する分には何も問題はない」ともとれる。大丈夫。屁理屈だって理屈だ。私が言いたいのはそんなことじゃない。「私たちが解明する分に問題ない=運営側から正体を明かすと私たちには利益を、運営側には不利益を被る」ということじゃないだろうか?私が予想するに、それが何かのキーになるのではないだろうか。例えば、私たちの記憶を甦らせる、とか。
一通り、途方に暮れた私はとあることに気が付いた。
「そういえば雷鼓は?」
「実は橙に吹き飛ばされたのはお前だけじゃなかったんだ。お前がロッカーに体当たりしたあの直線運動の時、霊夢の近くにいた雷鼓も巻き添え食らったんだよ。幸い、軽く床に頭を打っただけで済んだがな。気も失ってないし、脳震盪も起こしてないみたいだ。大事を取って浴場で休ませてある。風呂に浸かってるわけじゃないぜ」
それを聞いた私は雷鼓の安否がやけに気にかかり、今立っている地点から浴場まではたいした距離ではないにもかかわらず知らない間に走り出していた。
「あ、霊夢。その様子だと無事みたいね。あの猫、よくもまあ2人も蹴散らしてくれたわ。蹴ったかどうかは別としてね」
コの字型の黄緑色の風呂椅子に整然と座っている雷鼓。何も無かったかのように飄々としている。いつの間にか上履きと靴下も濡れないように脱いで手に持っている。抜け目ない。
「ええ、私は何とか。雷鼓は大丈夫なの? 頭打ったって魔理沙が言ってたけど」
「猫が霊夢を脱衣所まで追って行った時に、猫を止めようと向かって行ったらあっさりと吹き飛ばされちゃって。頭を打ったには打ったんだけど、単に倒れただけだからちょっと痛かっただけ。その代わり、セーラー服はびちゃびちゃになっちゃったの」
身体を曲げて背面をこちらに見せた。濡れた服が背中に貼りつき、うっすらと肌色と下着が透けて見えるのが雷鼓の話していたことの裏付けとなった。
「てことだから、先に食堂に行っててもらえる? 是非とも着替えたいから」
「私が食堂に行こう、なんてよく分かったわね」
「そんなのちょっと考えれば分かるでしょう。取り敢えず浴場での出来事を具に報告しておいて。私の記憶と違う点があったら、霊夢がウラギリモノだって決めてかかるから」
語調を強めて私を戒めた。底の知れない佇まいなのにどこか芯を感じる。雷鼓の強みはここだろう。何故かこちらの手を見透かされているような、そんな気分にさせられる。彼女がウラギリモノだと厄介この上ない。
「怖いこと言うわね。そんなに信用ないかしら?」
「相手が誰だろうと言ってるわよ。それじゃあまた後で」
足元に落ちていた魔女の帽子を拾い上げ、すっくと立ち上がり私の前を横切った。靴下と上履きは脱いだまんまで。そのまま脱衣所を出ていったのを見るに、個室までそのスタイルを貫くらしい。
忘れ物、と大げさに呟いて魔理沙の頭の上に帽子を乗せた。不安定だったようで、帽子を被り直す。少なからず湿っていたようで、ちょっとだけ不満げな顔をしていた。
「さて、私たちもさっさとここから出るぜ。橙が起きる前にな。また牙を剥けてくるかもしれないからな。いや、向けたのは爪だったかな?」
「どっちでもいいわよ。雷鼓にウラギリモノだと思われないように迅速に報告しなきゃ。橙を起こさないようにね」
未だに眠っている橙を横目に、音を立てないように脱衣所を離れた。黒猫が目の前で通り過ぎると不幸が訪れるという迷信があるのを私は知っている。が、黒猫の目の前を通り過ぎるとどうなるかまでは知らない。逆に幸運が訪れたりするのだろうか?
脱衣所から出ると、天子が歩いていた。顔には今起きましたと書いてある。反面、制服の襟に波は立ってなく、裾に折れ目一つ見当たらない。帽子の桃の飾りは昨日と違って、後頭部側に居座っているが。
「よう、天子。おーい起きてるか?」
天子からの応答がない。そのまま廊下をずりずりと足を進めている。
「てんしー。本当にアンタ起きてる?」
私が天子の目の前に飛び出して、顔を近づけてみる。天子の眼は開いたり閉じたりを不定期に繰り返して、真紅の瞳がこちらを向いたり向かなかったりしている。
直後、漸く私たちの存在を認めた彼女は、ひゃん、と少女らしく口走った。軽く飛び上がった後、さして大きく開かない眼で私を穴を開くほど見つめる。
「何で浴場から出てきたのよ」
「お前が今日起きたのと同じ理由だぜ」
魔理沙はまだ帽子のつばの湿りを気にして、指先で弄っている。
「訳分かんない。ふぁあ……。やっぱりもう一回寝たいんだけど、部屋戻っていい?」
「それは今から私たちが食堂に行くのと同じ理由だぜ」
魔理沙は時々意味の分からないことを口にする。言葉遊びのつもりなのだろうが、考え方を派生させてもさせても源流が見つからない。多分、そんなものもない。彼女は煩雑に言葉を並べてるだけだろう。
「食堂……ね。私も行こうかな」
「え? じゃあ元々何処か行こうとしてる場所でもあったの?」
「凶器室。目を覚ますならあそこかな、ってね」
とんでもないことを言い漏らした。自分が何を言っているのか分かっているのだろうか? 私には分からない。
「随分奇抜な習慣をお持ちで。八雲紫に何か吹き込まれでもしたか?」
「冗談はよしてよ。その名前聞くだけでイライラしてくるんだから」
天子が魔理沙から帽子を取り上げ、彼女の手の届かない位置まで帽子を掲げた。魔理沙は目いっぱい腕を伸ばすが、身長差のせいでそれも徒労となった。
「何だよ、酷いぜ。霊夢、取り返してくれ。お前なら届くだろ」
「さっさと食堂に行きましょ。帽子なんていつでも取り返せるでしょ」
私はわざと魔理沙の願いを無下にした。ややこしい言葉遊びへの細やかな対抗心だ。
「やれやれ。身長と人情味って反比例するんだな。たった今判明したぜ」
お疲れ様です。
今回のお話、ちょっぴり短い癖に何言ってるか理解しがたい点がちらほら見受けられるかもしれません。でも何故かそういう印象を与えたいお話でした。サブタイトルから小難しそうですもんね。
サブタイトル、と言えば『ゲンソウロンパ』を読んで頂いてる方はもうお気付きかもしれませんが、少し凝っています。勿論、サブタイトルを。理由は簡単です。単に、「第一話」とか「chapter 1」とかだとちょっと味気無いかな、と創意工夫した結果です。それと、ワードセンスを養うためです。
今回は東方の二次創作の中核を成すとも言っても差し支えない身長の問題にちょっぴり触れました。今回登場したキャラに関して、私のイメージは藍はかなり高く、橙は魔理沙よりも一回り小さい。天子は霊夢と同じくらいで、雷鼓は霊夢より少し高め。あくまで私の一個人の見解ですし、これらが正しいとは限りません。むしろ皆さんの想像の幅を狭めてしまっているかもしれません。この作品を読む時のざっくりした客観、と考えて頂ければ。
それでは次回、またお会いできれば幸いですね。