夢への長い坂道 作:シス
「上杉君!怪我を隠して決勝戦に登板したって本当かな?」
「……」
夏休み中盤。必要なものが出てきたので、渋々買い物に出た矢先に、中年の男性が声をかけてきた。こいつマスコミの記者――いや、これは週刊誌か?もうどうでもいい。俺はギブスで固定されて動かない右手を庇うように目的の店へと歩く。その間、俺は黙って何も答えなかった。これは井生さんが何も言うなとアドバイスをくれた。
『いいか、上杉君。下手に応えれば、奴らは面白可笑しく記事を書く。そうなれば、傷つくのは上杉君……君だ。だから、自分を守る為にも黙って耐えるんだ。いいね?』
真剣な表情で、俺を心配してくれている井生さんの忠告。ずっと、黙っているから色々質問されたり、言われたりするけれど、俺はずっと黙って耐えていた。その日もそうだった。
「面白くないなぁ……読者だって君の言葉で真実を知りたいんだよ?」
と、ストーカーまがいの行為をしている男がそんな事を俺に言い放つ。一瞬だけ反応しかける。でも、我慢だ。心を殺せ。何も喋るな。反応するな。したところで、奴らを喜ばせるだけだ。そう自分に言い聞かせ、イヤホンをしてミュージックの音量を上げる。
「――ガキが!――てめぇなんざ――!」
しばらく無視しながら、歩いていると、後方から罵声のような言葉を投げつけられる。ただ、それも俺の好きなロックアーティストの楽曲に消されて、完全には聞こえる事は無かった。ただ……俺の心は暗い暗い闇に、確実に沈んでいた――
「……だる」
朝起きて、体を動かそうとして、あまりの体のだるさに、つい言葉で発してしまった。汗をかなりかいていたので、だるい体を無理やり動かして着替える。その際、フラついたので、自覚した。やべぇ、これ風邪だわ――
原因は何だろうか。ここ数日、去年の夢ばっかり見てて、あまり眠れなかったから、それか?それとも、一人暮らしをしている中で蓄積した疲れか?どっちでもいいか……体温計を探して、熱を測る。目を瞑ると凄い楽になった。こりゃ重症だなぁ。
「っと……だわなぁ……」
体温計が鳴ったので、表示された数字を見れば、38.5度の表記。そりゃだるくなるし、頭痛もするわな。まあ、春と夏の季節の変わり目だったのも影響してるんだろう。あー……ダメだ。体だるいし、頭痛くて、あんまり考えごとが出来ない。冷蔵庫の中に確かゼリーだったかなんかあったはずだから、それ食べて水分取って寝てよう。
ゼリーを流し込むように食べてから、ペットボトルに入ったスポーツドリンクを持って、ベッドに倒れ込む。今日って平日だっけ?大学……後で連絡しよう。今は休もう。病院は……落ち着いたら……でいいだろ……。
頭が働いてなかったとは言え、茂木に連絡を入れなかった俺はのちに後悔する事になるのだが、その時の俺は知る由もなかった――
おかしい。上杉さんがいくら待っても講義に現れない。茂木さんや佳代に連絡をしてもらってはいるけれど、返信が無い。何か事件や事故に巻き込まれたんじゃないかと、私は不安になっていた。
「おかしいなー……いつもなら、遅れるとか返信あるんだけどなぁ」
「上杉君、寝坊かな?」
「どうかしら……上杉さんが寝坊するのが想像できないわ」
スマホの画面を見ながら呟く茂木さん。それを聞いて右手の人差し指を顎に当てて首を傾げる佳代に、私はあくまでイメージだけれど、朝はしっかりと朝食をとるために起きているイメージを持っていた。だから、寝坊だなんて早々する訳がないと思っていた。
「うーん……言われてみれば、上杉君が寝坊するってのはイメージできないわね。比呂なら余裕なんだけど」
「ひでぇ!俺だってしっかり起きてるぞ!?」
と、すぐさま抗議の声を上げる茂木さん。佳代は目を細めて背筋が寒くなるぐらいの視線を茂木さんに向けつつ
「つい昨日、寝坊した人間が言うような台詞じゃないわよね……」
「いや、昨日はその前日にお前が夜中に叩き起こし――」
「言い訳しない!」
「いてぇ!!」
と、頭を叩かれる茂木さん。ここだけはいつも通りの光景に、小さく笑う私。でも、上杉さん。本当にどうしたのだろう。何かしら連絡があればいいのだけれど。
そうこうしているうちに、講義の時間となってしまった。今日の講義は、偶然にも全員同じ講義なので、上杉さんの分もしっかりと講義の内容をノートに取っておかないと。ただ、問題は上杉さんの出席をどうするか――
「比呂。
「任せとけ!」
「え?」
無茶ぶりに近い要請だったのに、茂木さんは満面の笑みを浮かべ、右手の親指を突き立てていた。え……と……教授も流石に気付くんじゃ……なんていう間もなく、上杉さんの名前が呼ばれた。ああ、もう、どうするのよ。と、内心焦っている私に気付く様子もなく、茂木さんが返事をした。
「はい」
「!?」
「ふふっ……奈々美ちゃん驚いたでしょ?比呂の唯一の特技。声真似よ」
と、自分のように自慢してくる佳代。い、いや。声真似とかの次元じゃないわよ?もう、本人そのものだったわよ?
「まあ、上杉ぐらいの声なら真似しやすいんだけど、女性の声は無理なんよ……いてっ!」
「当たり前でしょ、バカ比呂。声質が全く違うんだから」
「あ、あはは……」
と、悔しそうな茂木さんの頭を小さくたたく佳代。その光景を見て、私は苦笑いを浮かべるしかなかった。声優さんでも、そこまで声真似できる人はいない。声をまねるというのは難しいから。どうしても、自分の声質や発音が出てしまうから。
茂木さんの特技に驚いたけれど、講義はしっかりと受けないと。気持ちを切り替えて、板書された内容をノートに書き写していく。上杉さん……無事よね?そう、自分に言い聞かせつつ。