私の眼下には、ラーメンがありました。
スープはしょうゆの濃い茶色と鶏ガラとが合わさった、それは大昔の化石を込めたコハクのように、太古のたくましい生命と懐かしさを覚えさせてくれる厳かなかがやきを放っており、なかにただよう極細ストレート麺の金糸とも思える洗練された光沢がそこに加わると、まるで宝石箱や!
というわけで。トッピングのチャーシューやコーン、ホウレン草もスープたちに引けを取らない魅惑的な装飾で、「早くユキちゃんのあったかーい粘膜《ねんまく》につつまれたいよぅ」と訴えかけてきます。じゅるりと、音を立てそうな勢いで、私の粘膜がねっとりとした液体に泡立ちました。私も、早く入れたいよぅ……
すると、どこからともなく生えてきたゴツい腕が私にことわりもなく、ラーメンにお酢を垂らしたのです。いえ、まぶしたというほうが適切でしょう。すっかりスープの色は変わってしまいました。たぶん味も(指ぺろりんちょ)。そのとき、ゴツい腕が私の頭のてっぺんをつかんだかと思うと――熱々のそのうつわのなかに、顔面を押しつけたのです。
そんな感じのイメージでした。ようするに、ものすごい熱気と直接鼻を刺激する強いお酢のようなにおいが、扉を開いた瞬間、私めがけてぶち当たってきたんです。
それはかいだ私が貧血時とよく似た立ちくらみを覚えるほどにひどい空気で、すぐにも私の足は倉庫の外に向こうとしました。でも、どうにもようすがおかしい、確かめなくちゃという一心で思いとどまることができて。おそるおそる、真っ昼間なのに真っ暗な倉庫のなかを、見つめたのです。
そして私が気がつくよりもずっと前から私の存在を知っていたという二人の姿が、じっくり鮮明になっていきました。
倉庫を開けるまではっきりと聞こえていた女性の悩ましげな声ですけど、今は聞こえません。だから、たぶん二人の営みは私によって中断されたんです。全裸のヨイシさんと、上半身裸のヨイシさんにそっくりな痩せ方をした中年男性との、”愛の営み”は。
ただしどう見ても明らかにおかしな光景だったのです。しかし、私は考えないようにしていました。まさか、その中年男性がヨイシさんの父親じゃないだろうか、と。
しばらくして、簡易ベッドに仰向けに寝転んだヨイシさんが、目元を見せたくないかのように左手でさえぎりながら、うっとうしげに、そしてとても悲しそうに、つぶやいたのです。
「ああ、またか……」
その言葉を受けて、私の心は「(もうやめて! たくさんだよ!)」と悲鳴を上げました。事情は何も知りませんでした。その意味も今は、まったくわからなかったんです。でも、私の心は、彼女が悲鳴を上げたくても上げられないことをちゃんと理解していて、代わりに大声で叫んでいました。
二人には聞こえていませんでした。ただ私だけは、からだのあちこちがきしむ音を立てるほどに苦痛に感じていました。
ふと、あるとき、ヨイシさんの顔が揺れるような錯覚を――いや、これは錯覚なんかじゃない。マスクが”溶けてる”? うそ! どうして。私は混乱しました。
「おいっ、聞いているのか君!」
なぜか怒った表情で怒鳴り散らかす中年男性の顔も、そのとき溶けているように見えました。
私によると、男性はあごのあたりが醜悪にゆがみ、使いかけのろうそくのようになるだけではなく、目の下から頬の線に沿って肉の色のしずくがとろとろ流れていきます。
またそれはヨイシさんのマスクについても同じでした。彼女も顔の下のほうの崩壊が最もひどくて、ホッケーマスクの白色がついに剥がれ落ちたところからは彼女の口元のおそらく本来の形が露になっていたのです。
「(震えてる……ぶるぶる、くちびるを噛んで……)」
ところが当の本人たちに動揺したようすは見られません。
やがて呼びかけにしらを切り続けた私に、しびれを切らした男性はヨイシさんからはなれて、恥部を隠す余裕がないのかそのままの恰好で、にじり寄ってきました。
「これは俺の故意じゃない。ましてやましい行為でもない。そう……こいつが、このガキが俺のことをハメやがったんだ! くそっ、俺は日ごろ汗かいてこいつの面倒みてやってるというのに、図に乗りやがって……」
近づいてくる男性の鬼の形相にからだが固まってしまって、私はその場から動きたくても、動くことができないのです。
ついに男性はその大きな背丈で私の上に影を作ると、私を威圧するように、しかし優越感からなのかぶきみな笑みを浮かべながら「君は見なかったことにして帰ってくれるだけでいい。あとは俺が。こいつには、虚言癖と知的障害がある! だいたい前にもあったんだ。こいつは、こいつのせいで俺と妻は引き剥がされた! おまけに俺は職場から、放蕩娘を育てたくだらない人間あつかいだ! いつだって、俺をおとしいれようと画策しているに違いない、こいつは! なあ、君も、そう思うだろう?」といって迫ってきたんです。
それはもう醜くて、臭くて息苦しくて。許せなくて。思わず、私は今もベッドに無残な姿で寝ているのでしょう、目の前のもののせいで見えないはずのヨイシさんに、助けを求めていました。「ヨイシさん……」
ヨイシさんは沈黙したままでした。
「私、どうしたら……」
「もう、何もかも終わりだよ、ユキ」
どうにかしぼり出したのかその言葉を聞いたあとの私の胸中は、死にぞこなった霊魂とでも会話しているみたいな虚しい気持ちで満たされていました。
「そんな……」
「い、いいから出て行けよ、君は部外者だろっ! 俺の、大切な家庭に、土足で上がって来るんじゃないっ!」
そうですか――どうやらこの人、私とヨイシさんの関係を台無しにしようとしているようです。
せっかくできたばかりの私たち……それは、もしかするとうわっつらだけのものかもしれない、だけどほんの少しだけ、一瞬、迷ったあげくの気持ちでも、私のことをヨイシさんは”友だち”だと――いって、くれてない。
あれ? おかしい。打ち明けられたこともない。私は、もしかして、自分が一方的にヨイシさんの友人になった気になっていたのでしょうか。
だとすれば……それはきっとこの人のせいです。この人がいなければ、ヨイシさんはつらい思いもしないで、普通の女の子としていられたはずなのに。許せない。彼女のやさしさも、他人想いの純粋な心も、高潔さも、何も知らないで。ヨイシさんのお母さんをうばったのは、あなたのほうじゃない!
「ゔああっ!」
私の激情が最高潮に達したそのとき、あわてたようすで、男性から小さなうめきが上がりました。
男性の左肩には、食器のはずのフォークが突き刺さっていて。
そして私の手には、あるはずもないそのフォークの柄が握りしめられていて……なんでしょう。フォークは親子が朝食にとったものでしょうか、肉の脂のようなものであらかじめテラテラとかがやいていましたけど、男性の肩に刺さった部分ににじんだ血液やリンパ液と混ざった途端、まるでガソリンみたいに怪しげな透明感あるかがやきへと変貌したのです。
と、ここまで詳細に説明できるのも、この時間この場所にあってはいけないくらいの冷静な心もちで私が、男性の肩のケガをまじまじと見つめていたからです。
いっぽう男性の苦しみは想像に難く、私の目をぬすんで一度上半身をそらせたと思うと、
「がっ! くそっ、この野蛮人があああ!」
もがいているために力加減のきかない右の手で私の顔を殴りつけます。「(もはや、この狂言回しも、私の意識と乖離した別の何かが行っているのかもしれませんね)」
当然、私は倉庫の頑丈な入口がはずれかけるほどの強さで、背中を打ちつけられました。
でも痛みっていう痛みは不思議なことに感じなかったんです。代わりに男性に威圧されたときよりもっとすさまじい、金縛りのような感覚が、私のからだの機能を制限していました。
「どうだよ、かてるとでも思ったか?」
私は道路に横たわった太枝のように無力でした。ぶたれた頬を中心に顔半分は熱をおび巨大化していました。
「小僧のくせによぉ……」
右肩の骨もなんだか違和感がありました。でもそんなことより、私にフォークで刺された男性のさらなる凶行のほうがよっぽどおそろしかったのです。男性は、たおれた私を気遣って一度起こしてくれたかと思うと、そばから倉庫の床にたたきつけ、その上から両手を拘束して組み敷くような恰好になりました。
「ん、君……女の子だったのか?」
恐らくさっき投げつけられた衝撃で帽子がズれ、留めていたヘアピンも取れてしまって、私の長い髪はいま床一面にばっと広がっているんだと思います。
それを見た男性はとてもおどろいたようすで、しかしおどろきとはまた別のよからぬ感情をも抱いているみたいでした。
「そうです、けど」
「抵抗しないのか?」
「…………」
私が的確な答えを考えているとき、上半身ハダカの男性の左肩から、あの目を背けたくなるよごれた色の液体が、私の脹れ上がった顔の横にしたたり落ちてきたのです。
こんなの、もう見たくはありません。
「まあいい。へたな正義感なんてもたずに帰っていれば、こんなことには……思い上がりもはなはだしい。君には”わきまえ”というものはないのか?」
『誰にだってひとつやふたつ公にはいえない秘密がある。それをわきまえてるから、あたしら、今まで仲よくやってこれたんじゃないのか』
”わきまえ”という言葉を聞いた瞬間、男性の声に、先日ヨイシさんがいっていた声が重なり合いました。
こんなにひどい人と、彼女が同じ屋根の下で育った親子だという証拠をまじまじと見せつけられたみたいで、いたたまれない気分でした。同時にこれまでヨイシさんはこんな人のことを一生懸命に庇おうとしていたんじゃないかって、そう思えてきて、悲しくもなりました。
私は「(もしかすると私こそが、間違っているかもしれません。だからこれはただのエゴ、我がままです。共感してもらえなくてもかまいません)」そんな彼女の姿勢が、彼女のためになるわけないと確信していました。
この人はヨイシさんを傷つけて、その原因を全部ヨイシさんに押しつけているだけの、”悪い人”だから――認めちゃだめだ!
「私はわきまえません。だって、あなたがヨイシさんを苦しめているのは、わかりきったことじゃないですか!」
「どの口がいう? 部外者のくせして、糾巳を知った気になるな」
「知りたいんです! でもあなたが邪魔で、見えないんですよ」
「だからどの口がっ、この家の邪魔者は君じゃないか!」
「あなたです! ロクでなし! 害虫! ヨイシさんの、女の子としての人生を、台無しにしないでよっ!」
「ううう、いい加減そのうす汚い口を閉じろっアバズレぇ!」
顔をしわくちゃにして、からだのすべてを憎しみと怒りに支配されているように見える男性は、とても普通とは思えない身震いをきたしていました。
そして押さえつけた私の両手首なんてどうなっても知らないというふうに握りしめるんです。私はたまりませんでした。
するといきなり左手のかせ、つまり男性が押しつけていた右手が外れました。もうくたくたの私のからだはそこから無理にでも脱出を試みたんです。でも、逃げることはできませんでした。だめなんです。ヨイシさんが心配だから、という余裕綽々とした気持ちのせいではありません。この人が、男性が私の首を絞めてきたからです。男性は一瞬はなした右手で今度は私の首の中心あたりをつかみました。そしていいます。
「安心しなさい、天国には行かせない。そんなところよりもっと気持ちいい場所へ、いかせてやろう……」
私は声にならないかすれた過呼吸だけ、何度も繰り返しながら、こんなことやめるよう訴えました。しかし男性はさらに左の手を手首から頸へ移すことで私に応えただけではなく、私の首を絞めながら、笑っていました。
つらくて、視界をシャットアウトしようとしていた私のまぶたをこじ開けるような、強引で独善的な男性の人間性がにじみ出た、見るにたえない笑みでした。
「(ヨイシさん……ヨイシさん……)」
何度もそう私は唱えていました。
ただ、心の声がふさがった気道から外に出ているのかわかりません。男性が「俺くらいの地位があればなあ、ガキの一人や二人、失踪したことにできる。信頼が違うんだ。苦しいだろ? 助けがほしければ俺に歯向かったことを後悔して服従するんだ。いいな!」そんなことを叫んでるけど、決して助けを求めてヨイシさんの名前を唱えているんじゃないんです。
――私は結局、どちらかを選んでほしいだけなんです、彼女に。
私は今でもガスマスクのことを恨んでいます。
自分の顔を、一時の友だちとの関係性を、ものごとの分別をこの意味不明な物体は、私からすっかり消してしまったんですから。まちがいなく私が狂った元凶です。
だけど……私の歪んだ性欲を晴らしてくれて、そして私とヨイシさんを引き合わせてくれた存在も、このガスマスクでした。善くも悪くも、私の心に救いをもたらそうとしてくれました。ヨイシさんのホッケーマスクだって、きっと同じだと思います。
私が、みなさんが知らないだけで今までヨイシさんの中の何かを救ってきた……そんな大切なものが溶けてなくなってしまうなんて、イヤに決まってるんです。私は彼女も彼女のマスクも助けたいと感じていました。そして、彼女たちの平和を脅かしている元凶はこの人なんだと考えていました。
「(ヨイシさん……ゆうきはあります、勇気を出してっ!)」
ドッ――――。
その音は空耳ではありません。
次に意識がはっきりしたとき、私は息を吸い込みすぎてふくらみみずから破裂してしまうんじゃないか、と心配になるくらい目いっぱいに呼吸していました。ついでに苦しさを全部外に捨てようと目いっぱいに涙があふれてきて、それはもう、前が見えなくなるくらいいっぱいにです。
だから徐々に視野が正常にもどって来たときようやく、気のせいだろうと思っていた胸の上の重みが、男性の頭が落ちてきたせいだと知りました。「へ……」っていったってわけがわかりません。
男性は気を失っているみたいでした。首を絞められて、気を失いそうだったのは私のほうだっていうのに。
私は改めて倉庫内の暗闇を見つめたのです。すると倒れた男性の背後に、肌色の人影がくっきりと現れて、剥がれかけのホッケーマスクの下半分からのぞいた口が歯ぎしりしているのが見えてきて、それがベッドから起き上がったヨイシさんの姿だと理解できるまでにさらに数秒かかりました。
「ヨイシさん?」
彼女の手には、見るからにぶっそうなシルエットの道具が握りしめられています。長い柄の先に、細い部分の曲がったたけのこのようなものが取りつけられた恰好で、男性からの暴力ですっかり憔悴していた私は最初、道具の正体には気づかなかったのです。
立ち尽くして黙り込んでいたヨイシさんは急にふらっと歩き出したと思うと、男性の白々とした髪の毛を左手でわしづかみにして、壁が隔てた倉庫の奥へと引きずって行きました。
その間も男性はぐったりしたまま、脱衣後の着ぐるみのような足の指先も見えなくなったあたりで、さっきの鈍い音にねちゃっという粘着質ななんともいえない音を混ぜたものが一回、二回、三回聞こえてきて、音が止んだころヨイシさんが「ユキ、救急車、呼んでくれ」いやにはきはきといいました。そうだ、ヨイシさんのケータイこわれて、電話できないんだった……しにそうな思考を救急車要請のためにと、しに物狂いでつなぎとめた私は自分のスマフォで、119番に電話をかけたのです。
それから與石家の住所と、自分とヨイシさんのケガの状態を伝えました。もう、このとき私の意識はもうろうとしていて、あとになってから、あのときなんといって伝えたのか、正確には覚えていませんでした。
◆
この世の中に一度死後を体験したことのある人なんていませんから、社会では、殺人以上に罪深いものはないとされています。無論私も賛成です。人同士きずつけ合うことがあっても、命をうばうことは絶対に許されるべきじゃないと思います。
しかし、そこにやむをえない事情があったとしたらどうでしょう? 悪いことにやむをえないも何もないんですけど、私たちの社会には、時として法律主義だけでは説明のつかない出来事やそれまでの紆余曲折のドラマがあるとも考えられませんか。ようするに……その……
とても幼い、10代にも満たないころから肉体・精神・生まれもった性を虐待によっておとしめられ、手を差しのべてくれる相手もおらず、孤独に何年も耐え続けた女の子が、ささいなきっかけで虐待を加えた父親を殺害してしまったという事件を、ただの”悪いこと”で済ませられるのか、ということです。
私や周囲の人たち誰もが知らなかっただけで、ヨイシさんは最初からずっと自分の不幸な身上を知っていました。父親にひどいことをされている意識がありましたし、当初は、母親という自分に楽しいことや嬉しいことを教えてくれて、自分のことを荒んだ世界から守ってくれる存在がいました。
でも現実は悪と善のつばぜり合いで、日に日にヨイシさんの境遇がいい方向へはいかないことが判然とわかってきて、憎まれっ子は世にはばかって、やがて唯一無二のシェルターはくずれ落ち瓦礫の山と化してしまったのです。
とうの昔に父親によって散らされた春も、どうがんばったって彼女のもとにもどって来ることはありません。彼女に残された最後の望みは、凍えた心に、「いつか春は来るよ」となぐさめの言葉をかけ続けることのみ……
殺人がなんだっていうんですか。
ひどいじゃないですか。ヨイシさんが救われる道はどこにもなかったのに。
我慢していればよかった? それは、結果論です。父親の一方的な欲望を果たすために、ヨイシさんの人生が必要だったんですか。そんなわけがありません。彼女はまだ少女なんです。年齢とか容姿じゃありません、心が、育まれた人格が。
これからなんです。
虐待のために消費された10数年間は、與石 糾巳さんという女の子にとってあんまりにも大きすぎて、今から取り返そう、消してしまおうとしてもきっと無理でしょう。
だから、ここが彼女の門出であるべきだと思います。彼女は絶対に殺人犯なんかじゃありません。罪なんて犯していません。彼女は今日はじめて、女の子としての、女性としての一歩をあゆみはじめたばかりなんです。
「――だから、どうかお願いします。ヨイシさんは」
私が証言台で話したことは、そんなくだらないことばかりで、覆いの向こうのヨイシさんもたぶん、私にあきれていたと思います。でもここに来て、そこに立って、私がいうべきことはそれだけだったのですから、しかたがありませんよね。
◆
「(ご都合主義のように思えるけど……)」
およそ殺人事件の判決とは思えない処分を受け、あの日から1か月ほどたった月曜日、彼女に会うために私はあの家へ向かっていました。
あと1週間で学校の夏季休業が始まり、私たちは少しおそめの夏休みに入ります。私の学校は私立というのもあって特殊なルールがあり、普段アルバイト禁止なのに長期休業中ならしてもいいよb、むしろ短期でも就労はするべきbという方針なのです。おかしいですよね? しかも今どき短期のアルバイトで、たいして覚えもよくない学生を雇ってくれる職場はなかなかありませんから、学校一帯のバイト求人は夏休み前からほとんど押さえられてしまって、さあ稼ぐぞっという私たちは出鼻をくじかれるわけなのです。しょぼぼん。この電車から見える工場のどれかに勤めたかったんだけどな……
しかし、私にはやることがあります。
彼女に会って、新学期のために毎日勉強会を開くんです。そしていっしょに進級してさなっちゃんとカミカミも含めた四人楽しい高校生ライフを送るんだ。この決意はどんな現ナマにだって負けません。たとえ1億円を積まれたって、1時間しかわけてあげないくらい頑丈です!
さて、お宅の門前まで来たわけですけど、道理で不整脈が治まりません。足も重たくて「(ちょっと太ったかな? 入院したときコンビニスイーツ爆喰いしちゃったし。次回、新連載『チーケー・オブ・バスク』なんちゃって)」その場からなかなか動けずにいました。
そんな緊張しっぱなしの私の耳に突然、はきはきと、それでいてはかなげな女の子の声が、家の入口のほうから聞こえたんです。
「……うっとうしいぞ、太陽」
はて、なんのことだろうと気になって、またそんな痛々しいフレーズは私が待ち望んだ彼女のものではなさそうだと思ったので、不思議と今までの気持ちを忘れて、私は声の主を確認しようと近づきました。
「ヨイシさん……」
「なっ、ユキ、いたのかよ!」
一見お茶目におどけてみせる彼女でした。
しかし、私はこれが、平明でありがちな”感動的な再会”とは思えませんでした。まったくの予想外――ヨイシさんのホッケーマスクが本来の黄っぽい白色と模様をそこなって、そこにあるのは、真っ赤な血色の”仮面”だったんです。