「――――ぎ」
ひどく頭がぼんやりしていて、はじめはよく聞き取れませんでしたけど、どこからともなく何かの音が、バケツのなかを反響するみたいにしつこく私の耳の
やがてそれが声、ついで言葉の形をなすと、ようよう誰が何をいっているのか理解できるようになったんです。
「――
「えっ……」
そこで、私に呼びかけをしていたのは、冷めた目をしてこちらを見るお母さんでした。お母さんはうちのリビングから出てきたばかりという恰好で立っていました。
そして私は……7月なのに、なぜか厚手のPコートを
「(いや、ある意味私にはなじみ深いものかも)」
当時の私は、お母さんが気になっているのはそのことだと思って、ちゅうちょせず聞き返したのです。
「これ(コート
「まあ、それもそうだけど」
お母さんはなぜか意味ありげに言葉をにごしました。
「へえ。いいたくないの……だったらちゃんと”いいたくない”っていいなよ?」
「どの口がほざいてんのよ。だいたい、あんたときたら今日の
「あっ……」
私は、まったく覚えていなかったのです。さなっちゃんとカミカミと海に行ったこの日が、金曜日であること。そして火曜と金曜はお母さんと約束した、私が朝昼夕の食事当番をする日ということを。
「それは、ごめんなさい……」
「いいわ。取りあえず、ごはん食べないと」
「うん」
そこでどなりつけたりせずに、お母さんは私をやさしくたしなめてくれました。
これまで黙っていましたけど、私じつは料理が好きではありません。週2回、二人ぶんの食事を用意するだけでなく、栄養バランスを考えたり飽きがこないようにレシピを調べたりすることも、そこはかとなく苦痛に感じていました。
それでも8年ものあいだ料理を作り続けてこられたのは、自分の努力ではなく、お母さんの頑張りのおかげなのです。
いそがしい看護師業務をこなしながら、むしろ週5日、よく家族のごはんの面倒をみてくれたなと感心します。
って、あんまり持ち上げすぎるのも気持ち悪いのでこれくらいにして。人なんか褒めようと思えばいくらでも褒められるものでしょう。それよりむずかしいのは、その人の”悪かったこと”を面と向かって
「(だから今まで、
食卓を囲んでしばらくたち、お母さんが
「今まであんたがしでかしたことなんて、
「ごめんなさい……」
「ヤ、べつにいいって。怒ってるわけちがう。ただ人間、どんなにデカい転機があろうとなかろうと、
どういう風の
「あのさ。おかしなこといっていい?」
「いいよ。ってか、雪のいうことはいっつもヘンでしょ」
「お母さんだって……」
安心するやりとり。この人はちゃんと、私の気持ちを
「たぶん、私さっき、
するとお母さんは不意なフレーズに、おどろいたのか手にもっていた
しかし、その直後、意外な言葉が返ってきたんです。
「友だちは知ってるの、それ?」
「どうして?」
お母さんはどうしてまずそんなことを気にしたのかと、すなおに聞きました。
「あんたのことだから、お友だちには告知ずみかなと」
「待って! 私きょうが初めてだったかもしれないじゃん!」
「それはありえないわ」
「どうして?」
「だってあんた――泣いてるし」
「え?」
そくざに顔をさわりました。それから目も。
かすかに
でも……こんなの、6月のあのときには、ううんそのあと同じことをしたときだってなかった。なんで今日に限って……
「うそ、それさっきわたしが飛ばしたツバ」
「っ! もうっサイッテーッ!」
しかもこのご時世になんて。医療関係者として少しは気づかってよゴシゴシ!
「さておき、なんで今日初めてじゃないと思ったかってのは、あんたがやったことの重大性を自覚してるからよ。ここでわたしに
「怖いっていうか……ムダな心配かけたくないし」
「取りあえず、ちゃんと説明してみ。
とお母さんは行儀わるく、両ひじを机について肩をすくめ、にんまりと笑っていいました。
そりゃ、相談したくてたまりませんでした。
私は、本当は、どこにでもいるただの女の子としてみんなと話していたい、顔を目を合わせて笑い合いたいと願っていたから……でも、それを避けてきたことには、やっぱりこのガスマスクがあるのです。
親しい人たちだれにも見えないぶきみさと、きっとそこから
これらを気がねなく話してしまうということは、つまり自分にしかわからない
「……うん。わかった」
私は、
そして自分の身に起きた現象を話しました。お母さんは終始あいづちを打つだけで真剣なようすで、私の話を聞いてくれました。
そしてひと
「ようするに、そりゃあれだ、精神
「……え?」
私は一体何度この人のためにえっとマヌケな声を上げればいんですか。描写不足の
さらにいえばお母さんの
「あのさ……精神疾患っていうの、その、”逃げ”じゃないのかな?」
「何いってんの! 現代病の
以前、顔にガスマスクが現れた日、私はお母さんに病院へ行きたいと伝えたら「
でも、だからこそ今お母さんが「精神疾患(自称)は”逃げ”じゃない」という根拠が理解できません。自己申告の体調不良という点ではおんなじ気がするし、どちらにも
もうすっかり、私の頭は混乱してしまいました。
「それに、”逃げ”かどうかは、雪がそれを
「私……よく、覚えてなくて。覚えてるのもあるけど、
「そもそも、あんた露出狂と露出魔が同じものだと思ってない?」
「どういうこと?」
「いや、なんでもない」
お母さんは、あらたまっていいました。
「雪、あんたはいつも頑張ってる。いい子だ」
「なによ急に……」
「でもわたしはさ、あんたが、ストレスを自分
「お母さんは別にそんなキャラじゃ」
「キャラって何よ……職業がら、一緒にいられる時間もフツーの家より少ないし、片親だし。でもそういうのナシにあんたはいい子。ほんと不思議。ちょっくらヒネたっていいのに!」
「(ギクッ)」
「だからもしあんたが困ってて、わたしのやり方でどうにかできると思ってくれるんなら、
「そんなこと頼みません!」
お母さんの言葉は、マジメさにもおふざけにも
「でも……今はお母さんくらいしか、頼れる人いないし。しかたないのかも」
「そうそう、
――という
「で、話もどるけど、あんたはおっちゃんらの前でゲリラストリップショーするのをやめたいの? どうなの? ちなみに続けたいっていってもどうせやめさせるけどね」
「そりゃやめたいよ。だめなことだし……あと、その呼び方やめて」
「そうか。だよな。よし、明日から、家で
「あんたそれが原因で娘の思春期はじまったのわかってるっ!」
「待て待て、これには深ぁい意味があるんだ。雪はつねに衝動的に露出行為をしている、つまり自分じゃ制御できないってことね。おまけにそこに苦痛をともなう。だから、精神疾患の
「ご
「それしかないのよ。さあユキ、そのコートを早く脱ぎなさい?」
「……これで何も効果なかったら、家出るから」
「うん、よろしい!」
やつの笑顔は見たことないくらい
くそ。何が画期的よ、ドメスティックな
あんたなんか、私が
まあまあ奥さま、
一生一般家庭だけで
◆
今日私が露出魔になった原因は、恐らくクダキさんに会ったことでしょう。
彼女に責任を押しつけるつもりはありません。ただ、マスクをもつ者同士が出会うと
ガスマスクが現れた6月某の翌日、あのときの私には確かな意志がありました。”私のハダカを見た男性たちの反応を楽しみたい”その言語化可能な目的にそそのかされて、つい二度目の犯行におよんだのです。
でも思い返せば、はじめての露出行為について、私がはっきりと
これは世にいう記憶喪失なのでしょうか? またそれはこのマスクに関係することなのか。わからないことばかりで、困ってしまいます。でもそのとき私はガスマスクの引き起こすできごと、だれに見えてだれに見えないのか、底知れない恐怖などを学びました。無知ながらにひっしに理解しようとすれば、どうにかなるのかもしれません。
私だって、
限られた友だち、それから能天気な母親、お互いを警戒するマスク同士たち。こんな私を好きになってもらえるのなら、どんな努力も惜しみません。うそです、痛いのはヤですよ。だから明日を一緒に
新たな物語の始まりを予感するユキ。
そんな彼女の目の前に現れる、ふたつの影。一体なにを
溶接マスクのクダキ、隠された正体とは。
次回、バイトする! 金ばっか使ってないで働けユキ!