…………さん
……ツバキさん
呼ぶ声に彼女は目を開けた。
空はまだ暗い。波の音が騒々しかったが、それより風の方が強さが気になった。彼女が瞳を薄っすら開ける。
「すみませんね、お休みのところ」
クルーの一人がそう言った。いいや、と彼女は首を振る。
「凄い霧だ……。これだけ強風なのに、霧が散らないなんて」
甲板から見渡す景色にふと彼女はため息をつく。潮風が鼻先をくすぐった。吹き抜ける風は冷たくて、だのに生暖かい感触がする。海に生きるクルー達にはむしろ馴染みあるものなのか。それに不思議そうな顔をするのは彼女一人だ。
海は闇色だった。切り立った岩が水面から突き出している。その合間を縫うように、いくつも焼け焦げた船の慣れ果てが浮いていた。
折れたマストや穴だらけの船首が見える。火薬の匂いが漂ってくる。彼女をゆすり起こしたクルーの男が、「全部あいつにやられたんだ」と囁いた。
自分を起こしたということは、その「あいつ」が観測されたのか。彼女は問うた。背の武器はヘビィボウガンだった。幼い頃から、同じくヘビィを背負った父を目指して担いだ武器だ。
「いや、まだだ」
答えたのは別の男だ。振り返れば声の主────彼女の雇い主であり、この船の船長を務める男がそこにいる。
男は犯罪者だった。海賊とも呼ばれてる。船の上の荒くれ者は、野蛮で粗暴な男共のボスであり、今日まで戦いに明け暮れた者特有の覇気を纏ってる。彼女は海賊は好きではなかった。だがそれでも、目的のために契約したのだ。
「俺が、起こすように言った。〝あいつ〟は……観測されてからじゃ手遅れなことのが多い」
彼女が契約を結んだ理由は、シンプルに目的の一致であった。彼女も海賊たちも、〝あいつ〟を追って海に出た。
「大した女だ。この船に乗って身投げしなかったのはあんただけだよ。さすがハンター殿だ」
皮肉でなく素直な賞賛のつもりの言葉は、それでも嫌味を孕んで聞こえた。
「……どうも。でも、〝ハンター殿〟って呼び方は好きじゃない」
彼女は遠い目をする。海は、霧が濃すぎて遠くが見えない。前を行く仲間のもう一隻すら、霧のせいで疎らなシルエットを残すのみだ。
「ああ、そうかい。ところでいい夢でも見てたのか」
「……なんで」
「起きた時、あんたが暗い顔だったからさ。夢から覚めたのを、惜しむこともある」
あの夢の中にいたかった。あの夢の方が現実だったら良かったのに。そんな夢を、見たことは誰しもあるものだ。
彼女は小さく頷いた。
「……昔の夢を」
クルー達が大砲の弾を運んでる。バリスタの準備も整っている。戦闘が近い証であった。もういつ戦闘が始まってもいいように、皆々武器を磨いてる。
「仲間と出会った頃の夢だ。みんなで幸せだった頃の」
どうしてこんなに、運命が捻じ曲がってしまったのか。最初のきっかけはなんだったのか。
彼女は死んでしまった仲間を思い、消えてしまった仲間を思い、憎しみに我が身を焼いた仲間を思った。
皆々自慢の武器を持ち、共にたくさんの狩猟をしてきた。その先の未来がこんなだなんて……わかっていたら、違う道を選べたはずだ。少なくともあの朝、たった一人で挑まんとしたあの人を行かせはしなかったのに。
やがてクルーの一人が叫んだ。
「来たぞ、〝あいつ〟だ、黒いリオレウスだ!」
飛来音が耳をつく。彼女はバラバラになった仲間を思い、その大仰な銃を空に構える。
〝殺されるなら、お前がいい……〟
かつての仲間の言葉を思い出す。指がトリガーに触れている。飛来音が近付いてくる。唇が、声に出さずに仲間の名前を口にした。
彼女の瞳は、この悲しい今に至る過去を逡巡していた。