モンスターハンター 4~4G設定の長編   作:紙粘土

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第二章 黄金時代篇


10話

〝水無き乾いた大地に最初のオアシスが出来たのは、赤き神が空から水を運んで垂らしなすったのだ〟

 

母がまだ生きていた頃、砂原の神様の話を教えてくれたけど、ノイアーは信じていなかった。

 

 

穏やかな気候でないと思ってはいた。だがそれが普通だと思ってもいたし、生まれた時からそうなのだから、それに不満も覚えなかった。世界とはそういうものだと思っていたのだ。

 

ただ、この夕暮れ時。大地が灼熱から極寒に変化してゆく時間帯の景色は格別だった。

砂地に沈む太陽は、その有り余るエネルギーで地平線全体を赤く染め、大地と空の半分を赤褐色に燃やすのだ。

東からは藍色が迫る。この砂原から見える月はいつも蒼く、月が黄色く光るものだとノイアーが知ったのは随分後だ。

蒼い月は藍色の空と数多の星々を引き連れて、空の東半分を侵食してくる。赤と蒼の境界線である南の空は、実に神秘的な紫色の光となった。赤と、蒼と、紫。砂原が三色の光の鍔迫り合いを始めた時が、砂原の最も美しい時間であった。

 

 

砂を泳ぐデルクスの群れを追いかけて、一族はこの大地に旅をする。ジャギィの群れに会えば皆喜んだ。ジャギィの皮は服やテントを新調出来るからだ。

砂原には数々の民族が存在するが、彼女の生まれたその一族は、中でも好戦的と言われていた。単身でボルボロスに挑み、頭殻を持ち帰ることを成人の証と定義しており、それができれば十歳でも大人であるし、出来なければ三十歳でも子供という特異なしきたりが存在するのだ。ノイアーは九歳で迫り来るボルボロスの頭を破って、それを抱えて一族のテントまで逃げ帰った。これは歴代最年少記録であった。

 

「エーダ、これで私は大人だね」

 

「エダ」とは父を指す言葉だ。甘え言葉で「エーダ」と伸ばす事もある。民族独自の言語であった。彼女の父は、まだ齢一桁の娘が成したことに、感嘆しつつも妙な納得をしてしまう。ノイアーはいかんせん好奇心が旺盛な上に無鉄砲で、「空が飛びたい」とベリオロス亜種の背中に飛び乗ったり、サボテンの影に打ち上げ爆弾を置いてディアブロスを驚かせたりと、ゾッとするような悪戯を笑いながら幾度もしていた。

生肉をぶら下げて岩場で半日もティガレックスと鬼ごっこをするような彼女にとっては、ボルボロスは生易しいことだったろう。

 

「そんなに旅がしたいか」

 

「したい。砂じゃなくて水を泳ぐ生き物がいるんだ。火を噴く山や、氷に覆われた大地がある。それを知りながら見ないなら、何のために生まれてきたかわからない」

 

彼女は砂原を愛してる。それでも砂原を飛び出したがる、抑えきれない好奇心を秘めていた。

 

「この砂原の夕日より綺麗なものが、あるかもしれない。エーダ、そこにはティガレックスより強い生き物がいるかもしれない」

 

「……それも、あの操虫棍使いの受け売りか」

 

ノイアーが砂原の外に興味を持ったのは、旅でこの砂原を横断していた、一人のハンターに与えられた知識であった。

幼いノイアーは世界とはすべがらくこの砂地で出来ており、地平線の彼方まで同じ景色と信じていたのだ。その男に会うまでは。

 

ノイアーが七歳の頃である。夜の砂原に細く煙が立ち昇り、それが焚き火と察した彼女は寝床のテントを抜け出した。

岩場の影の、モンスターに見つかりにくいその場所には、見慣れないテントを張り焚き火で肉を焼く、見たことのない人間がいた。

水没林の調査に赴く道中というその男は、操虫棍という身の丈を越える武器を背に、右腕にはオオシナトと呼ばれる蝶のような猟虫を従えていた。名前は知らない。ただ、一族以外の人間が珍しかったノイアーは、男のテントに忍び込んであれやこれやと質問攻めにしてしまう。

男は気性が優しくて、忍び込んだ子供の会話に付き合ってくれた。

 

「ねえどこから来たんだ」

「シナト村ってところだよ」

「その虫なに?」

「オオシナトっていうんだ」

「見たことない虫だ。シナトって砂原のどの辺にあるの?」

「ああ、砂原じゃないよ。大陸が違うんだ」

「タイリク?なにそれ。ここじゃないところがあるの?」

「あるよ。砂原は世界のほんの一部だ。海は知ってる?俺はその海の向こうから来た」

「ウミってなに?」

「わかりやすく言えば水かな。オアシスがあるだろう。そのオアシスの水が、すごくたくさんあるんだ。この砂原全体より、更にたくさんの水がある」

「凄い。それだけあったら砂原も平和になるのに、どうして分けてくれない?」

「海はここに持ってこれないからね。あと、しょっぱいよ。塩が入ってる」

「え、味があるの?美味しそう」

「海が美味しいかどうかはわからないけど、美味しい生き物はたくさんいるかな」

 

その夜彼女は初めて外の世界を知ったのだ。もっと話が聞きたくて、三日ほど操虫棍使いにつきまとった。一人で一族に戻れる範囲で、「モンスターに会いにくい道を知ってる」と交換条件みたいに申し出たのだ。このまま「スイボツリン」に自分も行きたいとせがみもしたが、「大人になったら、自分の足で行くんだ」と柔く断られた。

三日間、操虫棍使いはたくさんのことを教えてくれた。彼女は世界を見たくなり、〝早く大人になろう〟としたのだ。ボルボロスの頭殻を九歳で持ち帰ったのも、早く大人になるためだ。この一族のしきたりに従うのなら、ノイアーは九歳でありながら大人になったのだ。

 

 

「エーダ、行ってきます。砂漠の神様のご加護がありますように」

 

「なにを言う、砂漠の神などいないと言ってたくせに。……ノイアー、外で生きるには金を稼がなければならない。働けるのか」

 

「ん。ハンターでもやろうかな」

 

父は幼い娘の出発を、止められないと悟っていた。ノイアーは、駄目と言っても言うことを聞きやしないのだ。

 

「砂原の夕暮れより綺麗なものを見つけたら、エーダにも教えに来るよ」

 

「……そんなものが、見つかるといいがな。ノイアー、我々はデルクスの群れを追いながら、オアシスからオアシスへと移動する。帰りたくなったらオアシスを探しなさい」

 

常に移動を続けるその一族は、一度離れれば再会するのは難しい。大袈裟でなく今生の別れかもしれない旅立ちの日に、父の残した言葉であった。

〝帰りたくなったら、オアシスを探しなさい〟

 

 

そのオアシスの一つに、嵐と共に古き龍が降り立ったなら。

あれから十年経つ。ノイアーは仲間と砂原を走る。あそこに一族が滞在してるかもしれないからだ。

 

 

 

 

…………

 

 

 

 

 

オアシスに降り立ったクシャルダオラは、脱皮の時期が近いためか通常より錆の浸食が酷かった。翼は半ば朽ち掛けたような状態になるまで損傷しており、尻尾も甲殻が逆剥けして刺々しい。最早痛ましいまでのその風貌は、通常個体の鋼鉄を思わせる姿とは、背反するような迫力があった。

過度の侵食により僅かな所作にもザリザリと軋んだ音が鳴る。青白い夜の砂原に、赤茶色の錆がぱらぱら落ちてゆく。それには痛みが伴うのだろうか。クシャルダオラの瞳は充血し、極めて凶暴化した殺気があった。目があったら、その瞬間戦闘になる。ハンター稼業に着く者ならば、そうと直感せざるを得ないほどの。

 

クシャルダオラの引き連れた雨雲が、オアシスの泉の水面を打った。椰子の木は横殴りの風にみしりと軋み、大きな葉を真横へ靡かせてしまってる。草場の影にいたオルタロスが急ぎ足に撤退してく。モンスターとてこの殺気が伝わるのだろう。普段この辺りに群がっている、小型モンスターが我先にと散ってゆくのだ。

 

シドとダラハイドは後方に女二人を残し、岩場に伏せって一帯の様子を眺めてた。

雨風はさっきより更に強まり、前髪が真上に撫でつけられたようになる。辺りには鉄の匂いが充満していた。クシャルダオラの錆だろう。

幸いなことに、人の遺体はどこにもなかった。血痕の一滴も見当たらない。ここに人は居なかったのだ。その事実だけが幸いだった。

 

 

「……よかった」

 

ツバキはそう囁いた。物騒な出来事に変わりはないが、それは最悪の運命の回避であり、胸を撫で下ろすにたることだろう。

 

「ねぇ、ツバキ、クシャルダオラは赤い?」

 

ノイアーがツバキの鎧の裾を引く。その瞳はあどけなく、先ほどまでの緊迫を忘れたようにも見える。

 

「赤っていうか、赤茶色だよ。ノイアー、どうしたの」

 

「昔聞いた、砂原の神様の話を思い出したんだ。赤き神は空から水を運んで、最初のオアシスを作ったんだって」

 

空から水って、これかな。打ち付ける雨を指してノイアーが言う。昔の人は、クシャルダオラを見たのかもしれない。

クシャルダオラは悪天候を運んでくる。すなわち嵐や吹雪であるが、この砂原においてはそれを悪天候とは定義しない。なにより水に価値を見出す土地故に、恵む雨の運び手は神と崇められるのにも納得がいく。

ただノイアーの聞いた言い伝えに不自然な点があるとすれば、赤き神がクシャルダオラを指すならば、目撃者はよく生還できたということだろうか。

 

「しっ……、もちっと声下げろ。雨風がうるせえとはいえ気付かれる」

 

物音を極力立てないように、忍び足するシドが諌めるように囁いた。

 

「人はいなかった。……我々も速やかに撤退するべきだろうな」

 

傍らでダラハイドがそう続けた。錆びたクシャルダオラの放つ殺気は、見るだけで全身の産毛を逆立たせるように強いものだ。まず間違いなくG級個体の……その中でもかなりの強敵になるだろう。四人いるとはいえ、挑むのは賢いことではない。かなり神経質になってるだろう今の状態では、目が合うだけで襲われる。静かに、このまま距離を取るべきなのだ。

 

 

錆びた鱗や甲殻が擦れ合い、全身から軋るような音がする。鳴き声や周囲に纏う風などにもこの音が混じるから、錆びたクシャルダオラは通常個体とは異なる生き物さながらである。事実、脱皮する生態が確認されていなかった時期は、その体色と攻撃性の違いによって、クシャルダオラには数種類の亜種が存在すると考えられていたこともあるくらいだ。

 

クシャルダオラが脱皮する瞬間に関する証言や記録は、未だに確認されていない。これは生態としてのデータそのものはあるものの、前述の通り通常よりも神経質になっているため興奮状態に突入しやすく、苛烈に攻撃を仕掛けてくる傾向のためだろう。とても調査どころの話でないのだ。

それほどまでに、錆びたクシャルダオラとはハンターにとっての脅威である。

 

じり、じり、と、神経質なほど慎重に四人は後退る。騒々しい風が足音を紛らわし、雨は人の匂いを隠す。この嵐に乗じて去るしか、G級に成り立ての彼らに選択肢はなかっただろう。

……いや。もしかしたら、クシャルダオラの脱皮とは、人が触れてはならない龍だけの神秘なのかもしれない。

濡れた砂地に四人分の足跡が続く。それを掻き乱すように、荒々しい鼻息と共に二つの眼光が闇夜に光った。それは吸った息を吐き出すよりも、更に刹那のことである。

獣の喉を鳴らす音。見上げたツバキは目を見開く。

そこに、ベリオロス亜種がいたからだ。

 

 

 

……何故。夜行性ではなかったはずだ。

疑問を述べることはしかし末梢的だろうか。説明してくれる者などいやしないのだ。

 

 

「ツバキ、動くな」

 

後ろからダラハイドが言った。声は低く切迫してる。

 

「……一頭じゃない」

 

この砂漠で、一体何が起こっているのか。ツバキは岩場の奥に、潜む息遣いの音を聞いた。クヒュー、キヒュー、と奇妙な気道の音がする。人間ではない。

 

「……なあノイアー。この状況、心当たりあったりするか」

 

背の武器の柄を握りしめ、いつでも抜刀できる体制からシドが問うた。なにもかもが異常なのだ。いや、砂原に嵐という時点で既に異常なのだけど。

 

「わかんない。でも砂原では水が貴重だから、みんな欲しがる。みんなってのは、モンスターも、かな」

 

雨垂れがオアシスの水位をあげていた。砂原の生存競争とは、すなわち水の争奪戦だ。ではその水が空から落ちて一つのオアシスを肥大させたら、一体何が起こるというのか。それが、目の前の状況の答えかもしれない。

 

「駄目だみんな走れ!!」

 

シドが叫ぶ。

冗談じゃない。冗談ではないのだ。

この異常気象に、希少な水を求めて砂原の頂上決戦でもおっ始めようというのだろうか。シドの叫びと、全員の足が地を蹴り上げたのは同時であった。もう、忍び足がどうのなどという次元でないのだ。

ベリオロス亜種がぎょろりと四人を見たけれど、直ぐに視線は岩場に移る。さっきの奇妙な呼吸音は────走りながらツバキは岩場の影を見た。黒い影が激しく蠢く。そのうち、鋭い爪がざりっと地面を抉り出し、岩石をベリオロス亜種に向かって飛ばした。

岩陰からその頭を下げ見せたのは、かの恐ろしきティガレックスであったのだ。二頭が同時に咆哮する。

 

大地すら揺らぎそうな大音量に、ツバキが堪らず耳を塞いだ。ベリオロス亜種もティガレックスも一頭でさえ凄まじい咆哮をするというのに、二頭同時に吼えられるなどとんでもない。

周辺のデルクス達が慌てふためき跳ね上がる。遠くでジャギィの鳴く声がした。仲間達に、この危機を伝達してるのだろうか。

 

「ツバキ!」

 

ダラハイドが彼女の手を取る。無理矢理に身体を引き起こし、半ば引き摺るように走り出す。雨で濡れた砂は踏ん張りが利かず、俊足なハンターの足を遅らせた。それでも、必死に走るしかないではないか。背後には錆びたクシャルダオラが荒ぶってるのだ。今の咆哮で、こちらに敵意を向けないわけがない。

 

「駄目だダラハイド!そっちは!」

 

ノイアーが叫んだ。

足場の砂がざわめいて、直後に地面が爆ぜあがる。

地中から最初に姿を見せたのは歪曲した二本の角だ。背筋が凍った。あと一メートル進んでいたら、あれに下から突き上げられて串刺しだったかもしれないのだ。

外殻の奥のつぶらな瞳は、真っ赤な眼光を放ってる。また、咆哮だ。人間の絶叫とよく似てる。

 

「ディアブロスまで!なんなんだこれは!!」

 

シドが絶望を浮かべてる。ティガレックスに、ベリオロス亜種に、今度はディアブロスなど……これほどの悪夢があっただろうか。錆びの匂いが強くなる。目眩がした。クシャルダオラがこちらに来るのだ。

 

「ツバキ、こっち!ダラハイドとシドもついてきて」

 

体制を限界まで低くして、ノイアーの全力疾走は獣じみてた。土地勘のある彼女は、岩場に囲まれたオアシスを迂回する道まで頭に入っているのかもしれない。

ティガレックスが再び岩石を飛ばしてきたのを、ダラハイドが大剣で叩き砕いた。シドはベリオロスの注意をひいてる。自分達にも余裕と呼べるものはないけれど、先を走る女の背を守るのは、男しての意地かもしれない。

 

やがて竜巻が発生した。ベリオロス亜種のブレスが着弾したものだ。地中の砂を巻き上げて、細身の突風が雨を弾きながら蠢いている。ツバキとノイアーは器用に左右へ回避して、切り立つ岩場を必死に登った。

 

 

「早く!二人も!」

「わかってる!すぐ行くから先に登れ!」

 

はやく、はやく。クシャルダオラが来る前に。

念ずるように岩の断面に足をかけ、ノイアーを筆頭に必死で登る。

 

 

「……ごめんツバキ、流星群どころじゃないね。私が、オアシスを気にしたせいだ」

 

登るさ中、ノイアーはそうぽつりと言った。マイペースな彼女らしからぬ謝罪の言葉に、ツバキはまばたきを繰り返す。

確かに、洒落にならない状況ではあるけれど、それを責めるつもりもなかった。家族がいるかもと僅かにも可能性があるのなら、確認したい気持ちを否定するはずがないではないか。ここはノイアーの故郷なのに。

それに、このような大混戦になるというなら、たった十五分ばかり離れた場所にいたとしても、どの道巻き込まれていた可能性が高い。

 

「ノイアー、謝る必要ない」

 

「……ツバキ、私の一族男所帯だった。で、ハンターも野郎ばっかじゃん。女のトモダチ、ツバキが初めてなんだ」

 

雨で岩壁が滑る。前髪から滴る雫が視界を滲ます。

上を登るノイアーがちらりと振り返った。背中の剣斧から水が落ちる。その顔は、笑ってた。

 

「無事に、帰ろう」

 

「……ノイアー……」

 

つられてツバキもまた笑った。

 

 

ダラハイドとシドが走り寄ってくる。ディアブロスの突進が、争うティガレックスとベリオロス亜種の間を割って三頭が揉みくちゃになったのだ。大型モンスター同士に意識が集中し、それを撤退の機会と踏んでのことだろう。

 

「この岩場の反対側に飛び降りたら、ジャギィの巣食う洞穴が、」

 

先に頂上についたノイアーは、そう言いかけてぴたりと止まった。

 

「ノイアー!」

 

シドが叫ぶ。ツバキが凍る。ダラハイドが「飛び降りろ」と怒鳴った。

 

先に岩場の頂上まで登ったノイアー目と鼻の先に、クシャルダオラが現れたのだ。赤褐色に錆びあがった外殻が、金切りのように軋んでる。片方の翼の先端がぼろぼろに朽ちていた。剥き出しの骨が痛ましく、それ故溢れる攻撃性が眼下の人間を真っ直ぐに射る。

 

〝やばい〟

 

本能が警報を鳴らすけど、身体が追いつくかどうかは別問題だ。頂上のノイアーと、頂上直前にいたツバキは同時に武器を取ろうとしたけれど、間に合うことなく吹き飛ばされた。

クシャルダオラの放ったブレスは、登っていた岩場ごと粉々に砕いた上に、そのまま真っ黒い竜巻へ姿を変えて空へと昇った。

 

 

 

 

…………

 

 

 

 

…………ツバキ

……ツバキってば

 

 

頬がぺちぺちと叩かれる。瞬間、曖昧だった意識が一気に鮮明になる。ツバキが瞳を開けた時、目に映るのはノイアーと荒れ狂う空だった。

 

全身が軋む。

岩場の上に居た筈なのに、あろうことかクシャルダオラと鉢合わせになったのだ。ブレスが足場の岩を破壊して、ノイアーとツバキの二人は真っ逆さまというわけらしい。濡れて泥となった砂場がクッションとなり、痛む身体はそれでも骨折を免れていた。

 

「……!ノイアー……!ごめん、気絶した」

 

「うん。私も今起きたとこ」

 

回復薬の瓶を片手にノイアーは、妙にのんびりとして見えた。ツバキは急いて周囲を見回す。崩れた岩場、抉れた大地、背後には水位の上がったオアシスがある。そして前方には、……クシャルダオラが背中を向けて立っていた。

 

「……ノイアー、クシャルダオラが、」

 

「うん。さっきからずっといる」

 

「え、……え、え?」

 

「ちびっこい得物より、でかい得物からってことなのかな。よくわかんないけど」

 

なにを彼女は言っているのか。ツバキは混乱しそうにかるのを堪え、ノイアーの意図を探ろうとする。クシャルダオラが、彼女らに攻撃してこない。そんな奇妙な現象が起きている。

 

風を切る滑空の音が耳をつき、見上げた西の空には牙の折れたベリオロス亜種が威嚇していた。血走った目は闘争心を剥き出しにしているけれど、腹の下から滴る血が止めどない。既に重傷なのは明白だった。

それでも戦うことを止めないのは、砂原に生きるものの性なのか。千切れかけた尻尾を振るい、折れた爪が風を裂く。そのベリオロス亜種より更に下には、仰向けに白目を剥いたディアブロスの姿があった。

 

錆びたクシャルダオラの全身には、幾重にも爪痕や歯型が残る。絶命したディアブロスの角の先端にも、貫いた時に付着したのであろう錆びがこびりついていた。

 

真横から、……クシャルダオラの死角からティガレックスが飛びかかる。どうやら戦況は、クシャルダオラ対その他の竜という構図を作ったらしい。ティガレックスやベリオロス亜種が連携を取ったかといえば懐疑的だが、三頭は真っ先にクシャルダオラを排除すべしと狙いを定めたのだ。その結果が今だろう。

飛びかかったティガレックスが、そのままクシャルダオラの首に噛み付く。爪がガリガリと胴や腹を縦横無尽に掻き乱し、そのたび錆が落ちてゆく。

 

クシャルダオラには肉と骨の区別がなく、全身の甲殻は骨と完全に一体化している。これにより鋼の甲殻を持ちながら、自在に動き回ることを可能としているが、脱皮直前の錆に覆われた状態は鋼の強度も脆くなるのだ。

 

黒い風、龍風と呼ばれる風の鎧がティガレックスを弾き返そうとするけれど、肉まで食い込んだ爪が中々体躯を引き剥がさせない。金属の軋む音が強まる。クシャルダオラが、痛み呻いているのだろうか。

 

遠方からベリオロス亜種がブレスを放ち、小規模の竜巻を発生させた。クシャルダオラもまたブレスを放ち、蠢く竜巻がぶつかり合って相殺しあう。風圧に周囲の岩が砕け散る。首をティガレックスに噛まれながら、連続するブレス攻撃はクシャルダオラにとってかなりの負担となったらしい。疲労状態から龍風が引っ込み、ティガレックスの爪が更に食い込む。縺れ合う二頭めがけ、ベリオロス亜種は勢いをつけて滑空した。

 

……二人は、ダラハイドとシドはどこに行ったのだろう。死体はないし、血痕もない。この荒れ狂う戦場で、逸れた仲間は無事なのだろうか。

 

「ノイアー、二人を知らない?見つけなきゃ……もし大怪我してたら……」

 

不安はツバキの口調を力のないものにした。だがノイアーには意想外の質問だったようで、その問いにキョトンとした顔をするのだ。

 

「大丈夫」

 

「え」

 

「シドは平気だよ。死体ないじゃん。シドは先に死んだりしないよ。だからそのうち来るよ。きっとダラハイドも一緒」

 

あっけらかんとするノイアーに、今度はツバキがキョトンとする番だった。二人は恋人などではないと言っていたけど、強い絆で繋がっている。一片の曇りもなくシドを信じるノイアーは、なんて心が強いのだろうか。

 

勢いをつけて抉ろうと剥いたベリオロス亜種の攻撃は、そんな狙い澄ましたような、演技がかったタイミングで防がれたのだ。脇から飛び出した真っ赤な太刀が、負傷していたベリオロス亜種の腹を突く。足場の段差から跳躍した、シドが放った一撃だった。その頬が赤らんでいるあたり、今の会話が聞こえていたのかもしれない。

 

シドが、ベリオロス亜種を攻撃した。まるでクシャルダオラを助けるようなタイミングだった。

痛み呻くベリオロス亜種は、勢いを挫かれ地面に落ちる。無防備な腹が晒されて、シドの追撃は見事の一言に尽きる。真空まで生みそうな、鋭くも洗礼された横殴りの一閃だった。厚毛を散らし剛殻を裂き、鮮血が牡丹のように辺りへと咲く。

凄まじい悲鳴がオアシスに響く。既に虫の息でありながら、それでもベリオロス亜種は闘志を無くしはしなかった。よろよろと割れた爪で踏ん張って、力無くも立ち上がる。その背後から、クシャルダオラの氷結したブレスが氷の刃となり、ベリオロス亜種の心臓を貫通して彼方へ抜けた。

 

 

「油断をするなよG級ハンター殿。ひどい戦況なんだ」

 

反対側から声がした。振り返れば、血にぐっしょりと濡れたダラハイドがいる。僅かに綻んだ鎧と、刃毀れした大剣が戦闘の熾烈さを物語る。

……これが、G級の強さだと、敵は全身でそれを教えてくれたらしい。

 

 

「ダラハイド……!血がっ」

 

「案ずるなよ、返り血だ」

 

「う、嘘だ!傷が……!」

 

「心配は……そうだな、帰ったらゆっくりしてくれ」

 

ずり、と泥濘む音がする。

ダラハイドの背後には、大口を開けて仰向けになるハプルポッカの姿があった。腹や額には刀傷があり、またエラの一部は氷ってる。流れた血が、傾斜に沿ってオアシスの水辺に続く川を作る。

 

同時にクシャルダオラに噛み付いていたティガレックスが、その外殻と共に地に落ちる。錆びた鱗は強度が弱く、ティガレックスの牙に耐えられなかったのだろう。痛ましい音を立てながら、胸部にあたる外皮が錆び砕けたのだ。既に翼も朽ちており、それでクシャルダオラは空を飛ぶのもやめてしまった。

 

 

「シド!一緒にやる!」

 

「ノイアー!お前ちゃんと秘薬飲んだのか!」

 

「飲んだよっ!残りの獲物はティガだけ?ティガ得意なんだ!」

 

引き抜かれた剣斧が風を切る。口内に残った錆を吐き出すティガレックスへ、攻撃は斧の形態で繰り出された。ノイアーの斬撃はシドの洗礼されたものと異なり、無骨で荒々しいものとなる。

 

 

「ダラハイド……これ、なんだ……。クシャルダオラと、共闘してるの?」

 

「奇っ怪だろう。共闘と言うべきか、利用し合ってると言うべきか。ここに集った大型モンスターは、クシャルダオラを標的にする」

 

彼女が気絶している間に、ハプルポッカだけでなく、ディアブロスの亜種やボルボロス、果てはラングロトラまで現れたというから信じ難い。

モンスター達は錆びたクシャルダオラに噛みつき、ツメを振るい、突進してブレスを放つ。何故クシャルダオラへ攻撃が集中してるのかはわからない。ただ、怒り猛るクシャルダオラの抵抗もまた凄まじく、全身を軋ませながら次々に敵を蹴散らす。こうしてクシャルダオラ対その他の大型モンスターという図が出来上がった。

 

「気絶したお前たちの落下地点がクシャルダオラの背後でな。ティガレックスの放った岩石から守ろうとしたら、同時にクシャルダオラを庇う結果になった」

 

……それが、きっかけだったのかもしれない。クシャルダオラにとって人間とは敵だけど、大型モンスターも敵なのだ。

 

「敵の敵は味方じゃないがな。迫る竜どもを蹴散らすという、共通の目的意識のせいだろう。我々は攻撃対象から外された」

 

ダラハイドは……また、守っていてくれていたのだ。「もうお前に被弾させない」とかつて言った、その言葉に忠実に。

 

「……私も、戦う。地形がぐちゃぐちゃだ。敵を倒さなきゃ、マトモにこの岩場を越えられない」

 

彼女はヘビィボウガンを握りしめる。この大混戦を、呑気に気絶し守られていた自分を悔やむようだった。

 

「心強いな、さすがだ。全武器一のDPSを誇るヘビィの威力を、この砂原に刻んでくれ」

 

そう遠くを指差せば、また新たにこのオアシスを目指す、大型モンスターの接近する影が見える。

 

「……ダラハイド」

 

「撃ちまくれツバキ。お前は俺が守ってやる。もう、そう決めたんだ」

 

強風にマントがはためいている。大剣は特出してガードに優れた武器ではない。なのに何故、こうも強く守ろうとする。背中を向けたままダラハイドは言った。

 

「お前のように生きたいんだ。そのお前が死んだら、その先が見えなくなるだろう。だから守ると勝手に決めた」

 

 

さあ、撃て。

 

 

短く落とされた彼の言葉を引き金に、ツバキもまた咆哮していた。

 

 

 

 

 

…………

 

 

 

 

 

朝日が東に薄っすら登る。岩場に囲まれたオアシスは、小規模の湖となっていた。

疎らに生えてた木々は強風に薙ぎ倒されて、そこはオアシスでありながら荒れ果てている。

 

ぐしゃりと、クシャルダオラが濡れた砂場に膝を折る。

倒れたというよりは、錆の侵食が脚にまで及んだせいだろう。赤錆がそこら中に撒き散らされて、本来なら白いはずの砂に赤褐色が混じってる。

 

ツバキの放った貫通弾が、ティガレックスの額を割った。それがトドメになったのだろう。もうこのオアシスに、迫る龍はどこにもいない。代わりにたくさんの死骸が転がる。

 

四人は満身創痍であった。ここまでの連続狩猟はかつてない。きっとクシャルダオラの援護なくては、皆々力尽きてしまってたろう。

薄黄色の光が東から差す。極寒の夜が明け、また灼熱の昼が訪れるのだ。そこでふと、今更のように豪雨が止んだことに気付いた。

雲の隙間から細く光が落ちてきて、徐々にそれが増えてゆく。クシャルダオラの引き連れた、雲まで四方へ散っているのだ。

 

有りったけの弾を撃ち尽くしたツバキは、ティガレックスが絶命するのを確認した後仰向けになる。くたくただった。

ノイアーはやはりぼろぼろで、後から参戦したというのに立てなくなってる。いつも通り、スタミナを使い切ったのだろう。ぼろぼろになった剣斧を手に、シドに肩を担がれていた。そのシドもまた傷だらけだけど。

 

朝日が眩しい。灼熱の昼が来る前の、砂原の早朝は穏やかである。

 

「クシャルが……」

 

シドが言った。額から流れた血を拭いもせずに。それだけ目が離せないのだ。シドだけでなくノイアーも、ダラハイドもツバキも、全員が崩れゆくクシャルダオラに釘付けだった。

 

奇妙な共闘をした古龍が、まるで砂のように朽ちてゆく。ざらざらと錆が足元へ、まるで身体そのものを削るように散ってゆく。

鋼の筈の外殻は、錆で強度を失っていた。そんな身体で、数多の攻撃を受け過ぎたのだ。この、嵐に呑まれたオアシスで。

 

赤褐色のシルエットが、天を仰いだ状態で固まった。

風が止まる。

 

 

「まさか、死……」

 

ノイアーの声は、一瞬止まった風の後、一際強い突風に阻まれ掻き消された。風の中心は朽ち果てたクシャルダオラだ。

錆が一斉に粒子状に振りしだかれて、視界が赤く濁ってく。

直後、大地すら揺らがず咆哮が辺りに劈いた。

 

 

「ダラハイド……!クシャルダオラがっ……!」

 

ツバキは思わずダラハイドの肩にとびついて、ゆさゆさと揺さぶって興奮をしめした。

 

「……ああ。凄いぞ。きっと世界中のハンターで、〝これ〟を見たのは我々だけだ」

 

ぱらぱらと、錆が落ちてる。

クシャルダオラの身体は砂のように崩れた……いや、崩れたのは外殻だったのだ。

風の中、錆び付いた抜け殻を散らしながら、現れたクシャルダオラは白く光輝いていた。

 

「シド、きれー……」

 

クシャルダオラの身体が黒銀色なのは、空気中の酸素に常に反応するからだ。つまり、酸化することであの色になっている。

では、脱皮直後の、まだ酸化してない外殻はどうなのか。それが目の前の神々しい姿だろう。一点の曇りもない、真珠のような輝きだった。

 

「これが、クシャルダオラの脱皮……」

 

酸化を続け、やがて錆び付いた外殻は朽ちて崩れた。その中から現れたのは、真新しい純白の鱗を纏った姿であった。

 

「……エーダ、凄い綺麗。砂原の夕日より綺麗なものは、砂原のオアシスにあったよ」

 

ノイアーの瞳は輝いていた。何より美しいこの光景が、生まれ故郷の中に生まれたのが誇らしいのかもしれない。

 

真っ白いクシャルダオラは錆を脱ぎ捨て、改めて四人を一瞥する。翼の先が、既に酸化を始めてた。この姿は、本当に僅かな間だけのものなのだろう。きっともう幾ばくもせず、通常の黒銀色の外殻になる。それを惜しく思うほど、白い姿は美しかった。

 

クシャルダオラは、四人を攻撃しなかった。ただ、一瞥しただけだ。

やがて空の彼方へ飛び立って、その背は瞬く間に消えてしまった。

 

オアシスには、ぼろぼろの人間四人ばかりと、錆びた抜け殻だけが残されていた。

 




[番外編]

-1-


集会所でクエスト同行者を募る時は、相手を選り好みしたがる者が多い。難易度と同行を名乗り出るハンターの腕前を見比べ、共闘に足るか否かを見極めるのだ。この基準は、個人の価値観に異存するが。

初対面のハンターの腕を戦場でなく集会所で判断する時、多くの場合は装備の構成を重要視する。彼女の場合はかなり基準が〝緩〟かった。大概は「そんな装備じゃ足手まといだ」と断るような相手であっても、構わないと頷いた。
それは寛容さというよりむしろ無関心によるもので、言い方を変えるなら自惚れでもある。理念というほどもない意見はこうだ、〝どうせ私が倒すから、囮になればそれで良い〟
だからその日ドボルベルクの狩猟に同行を名乗り出た、三人の装備に不信感を抱かなかった。いつもの無関心のせいだろう。
三人はそれぞれ異なる武具を装備してたが、共通点が一つあった。使い込めば必ず出来るであろう傷や汚れが、どこにも見当たらないということだ。
新調したばかりであったとしても、武器にすら汚れがないのはおかしい。それじゃあ鍛錬すら怠ったようではないか。実践による傷がなくても、普通は多少の「使った痕跡」があるはずなのに、本当に言葉の如く傷一つない状態だった。それも、三人揃って。
だけど彼女の思考においては〝囮になれば良い〟から、それに理由を尋ねなかった。

「観測隊によると渓流の森林地帯に目撃例が集中してんだって。ベースキャンプを目指さずに、直接そっちで合流する。居なかったら各自探索」

そうと決まりがあるわけでないが、クエスト受注者がリーダーシップを取るのが慣例だった。それに習い彼女は指示を出すけれど、やはりかなり大雑把なものになる。性格のせいだ。
このどこか投げやりなリーダーに苦笑いして、三人はそれぞれ順に名乗った。

「じゃ、そういう感じでよろしく」

彼女はそう素っ気なくして先頭に立つ。背中には、使い込まれた剣斧がギラギラと光っていた。


-2-

照明の類いなど一切ない夜の渓流の、光源は松明と河原の光虫が頼りであった。
巨木を倒されたあとの切り株に手をつき、息を潜めて闇を見据える。森林への一番乗りは、どうやら彼女であったらしい。
妙だと思った。目測だけで定かでないが、長身の太刀の男の方が、森林付近に到着してそうなものだったから。
……強そうに見えなかったけど、足まで遅いのか?それとも方向音痴だったりすんのか?頼りないと思ったあと皮肉に笑う。そもそも他人を頼りにしようと思ってないのだ。頼りないと評することそのものが馬鹿馬鹿しい。

「森林地帯……いないじゃん」

ぐるりと一周回ってみたが、ドボルベルクは見当たらなかった。
水場で身体でも洗ってんのか、他の餌場でお食事中か。この地域の出身でない彼女は、当然ながらに土地勘がない。故に集会所の資料にあった簡易的な地図をうろ覚えにする程度だ。

夜だってのに暖かい。日が昇ればクーラードリンクが、沈めばホットドリンクが欠かせないような砂漠で生まれた彼女にとって、渓流の気候は馴染みなかった。
水がこんなにある。草木がこんなに多い。それだけで贅沢だ。だけどこの辺じゃ当たり前のことなんだろう。キノコなんかもそこらで見かけた。砂漠はその環境の過酷さ故に、生息するモンスターも異形の姿をしたものばかりだ。あんな渇いてクソ寒かったり馬鹿暑かったりする大地では、生き抜くための進化が特異な過程であっても仕方ない。

その時だ、不意にかさりと落ち葉を踏む音を聞く。振り返るまでもなく味方でないのは理解した。軽やかだけど、人間にしては重たい音だ。ゆっくり背後に視線をやれば、厄介な彩色が飛び込んできた。これがこの日彼女に起こった、三つの不幸のうちの一つだ。

「……クルペッコ……、最低だ……」

じゃあ残りの二つはなんなのかって、それも直ぐに身に染みてくる。白目のない丸い瞳が、きゅるっと動いて彼女を見据えた。夜行性だったけ。詳しくないから覚えてもない。ただ、渓流に生息してることだけは知っていた。有名なのは、強力な他種族を呼び寄せるという特徴だけど。

特殊な声帯を持つクルペッコは、一言で言うなら「鳴き真似」が得意だ。嘴の下がぶくっと膨らみ、酸素を吸い込む音が聞こえる。直ぐに〝呼ぶ〟気だとわかった。クルペッコが呼び寄せるのは、運が良ければアオアシラだし、最悪の時はイビルジョーだ。こいつ自体はさして強い敵でもないから、最善の手段は一つだけ。呼ばせないこと。
音爆弾の用意がないから、彼女は地を蹴り斬りかかる。その巨大な斧で、声帯を裂くのが目的だった。

…………

その日彼女には三つの不幸が降りかかった。一つ目は、クルペッコと遭遇したこと。二つ目が、クルペッコに呼ばれたのがイビルジョーだったこと。そして三つ目が、同行者が「寄生」と呼ばれるハンターの風上にも置けない連中ということ。

渓流に土地勘はない。がむしゃらに走って背の高い草の中を突っ切った。ドボルベルクが強力な尻尾を振り回す。イビルジョーが縦横無尽に暴れ狂う。遠目でクルペッコの声が煩い。

崖の上に設けられたベースキャンプには、焚き火がぱちぱちと昇っていた。暗闇だからこそ火の手は目立つ。ずっと到着が遅いと思っていた。だがそれは遅いのでなく、そもそも討伐に参加する意思がないのと知った。何度もサインで居場所は知らせたし、ペイント玉もぶつけてあるのに、どうやら手を貸すつもりはないらしい。自分は戦闘に参加せず、報酬だけいただこうとする恥知らず。それが一人だけでなく三人揃ってということが、この日一番の不幸だろう。

視界の悪い暗闇で、不意に彼女はバランス崩す。あると思った足場がなくて、地を踏むはずだった左足が宙を掻いてる。そのまま身体が左へ傾き、直後に臓器の浮き上がるような感覚がする。そこで初めて、彼女は「これから落ちる」のだと自覚した。

渓流は潤しく趣きと情緒ある風流な地で、静けさと水のせせらぎの音が好きだと思った。
僅かな沼地で虫を啄むガーグァも、湿気の多い岩場の影に群生する特選キノコや、そこで長閑にするアイルー達も、なにもかもが慎ましやかだ。草原のジャギィや森のファンゴも可愛い気すらある。脅威のない土地にこそ見え、その実ジンオウガやリオレイア、ドボルベルクがこうして観測されたりもする。かつてはG級認定されるほど、驚異的なナルガクルガが報告されたことすらあった。穏やかなんだか悍ましのか、側面があまりにありすぎる。だけど落下の末目前に飛び込んだ薄紅色は、自らの価値観に絶対的な答えを出させた。

渓流は、よくわからない。長閑なのか恐ろしいのか。静かなのか騒々しいのか。だけどなにより〝綺麗な場所〟だ。

一本の巨木を最初に見た。受け身を取って落下の衝撃を堪えたものの、防具の重さにごろんと転がる。そうして仰向けになったなら、巨木が薄紅色の花を咲かせてそこにある。一瞬息を止めるほど、あまりに美しく思えてしまった。

月が丸くて光が強い。そのせいで闇夜に星は見えない。
藍墨色の空を彩る、目一杯の花弁がある。名前は知らない。

……蝶が、舞ってるのかと思った。だけど薄紅の蝶など知らない。一枚一枚は小さくて、淡く鮮やかさとは程遠いような優しい色で、仄かな香りすらも馴染みない。花というのは甘く芳醇なものでなかったか、この巨木の小さな花弁は、なんとも柔い香りを放つ。
後に、これが〝サクラ〟だと知る花だった。


「今日は厄日だ」

背中の土埃をさっさと払って、背の武器を構えながら彼女は呟く。
自らの後を追うような落下の音は聞こえてた。心奪われるほど美しい花が、落下するその重量にめきりと折れる。
巨木は幹まで踏み潰されて、数多の花弁が四方へ散った。鼻先二十センチ先をかすって、ハンマーのような尻尾が地面に減り込んでいた。

「イビル呼ばれるし、落ちるし、同行者は寄生虫だ。綺麗だと思った花は折られた」

日頃はふと咲いてる鮮やかさなど気にも止めやしないけど、あの巨木から成る薄紅色は好きだと思う。今はもう、ドボルベルクの下敷きになって見る影もない。

「私を追ってきたの、それともあんたもイビルから逃げてきたの。どのみちもう、これ以上逃げ場ないな、お互いに」

彼女の背後は崖だった。さっきの足場からここまでの高さとは、比べものにならないくらいのものだった。
ここから落ちたらタダでは済まない。だが岩場を登ればイビルジョーはまだいるだろう。下手したら、ここに降りてくるかもしれない。決着を急ぐ他になかった。
彼女は斧を振りかぶり、剣の形に変形させる。移動速度は遅まるけれど、ドボルベルクの硬い外皮にも弾かれない。人はそれを心眼と呼ぶ、切れ味の影響を無視して刃を通す技だ。彼女の剣斧は剣として変形した時にだけ、この心眼を発揮することが可能であった。

咆哮はするなよ、イビルジョーがきてしまう。柄を強く両手に握りしめ、彼女は足元に向かって大地を蹴った。
あの巨大にして愚鈍な動きは、一撃の強力さと引き換えに命中率が低いのだ。足元まで転がり込んで、ひたすら後ろ足を斬ってやる。それが対ドボルベルクのセオリーだった。
ぐるぐると回り出したら怯ませてダウンをもぎ取って、背中のコブを破壊しよう。それから、遠心力を利用した跳躍を見せたら、避けた後尻尾を割ってやる。それだけだ、それだけでこの狩猟は終わる。突進とその後の薙ぎ払いを警戒していれば良い。
ただ問題が一つだけ……モンスターとの戦いは、その大概が思い通りにはならないってことだけだった。





-3-

「……っあ、この……!」

頬張る肉を飲み込む暇もありゃしない。もう、スタミナがやばい。タンパク質を食い千切り、少しでも回復したいというのに。そうしたら、もう一度この斧を振り回してやれるというのに。

歪曲した自慢の角は、苦労してようやっと折れたところだ。背中のコブも破壊したから、さっきより属性が通り易くなってるだろう。つまり彼女の攻撃は、さっきより確実に効いてるはずだ。だのにこんな泥仕合になっている。

「キレすぎ……!キレすぎなんだよ!」

連続して振り下ろされる巨大な尻尾が、地を抉るたび心臓まで跳ね上がる。紙一重に回避するけど、転がるだけでもスタミナというものは消費するのだ。もういい加減肺が爆発しかねない。今すぐ倒れて酸素が吸いたい。だけどそうやって膝を着いたら、もう二度と呼吸なんざ出来ない身体にされちまうから、彼女は必死に躱し続けた。

ドボルベルクには、体力が減るにつれてどんどん怒り値の蓄積がしやすくなるという特徴がある。つまり追い詰めるほどブチ切れやすいということだ。というより、さっきからもうずっとキレっぱなしと言っていい。エネルギーの貯蔵庫であるコブの破壊は、怒り時間の短縮という作用もある。だのにこうも怒り続けるというのなら、不運にも短気にして激情家な個体だと諦める他ないだろう。

これは非常に厄介であるが、同時に確かな手ごたえだった。
なにせドボルベルクは、体力が落ちれば怒り易いと同時にスタミナをかなり消耗するのだ。統計的なデータによれば、消耗速度は一・五倍とも言われてる。つまりこれだけ怒り狂った状態は、間も無く「バテる」ということであり、残存する体力の少ない証明だった。

……ああ、肉食いたい。こんがり焼けた、肉が食いたい。すり減らされたスタミナのせいで、胃が空気も読まずにぐううと鳴った。肉食って、水飲んで、そうしたらもう一度この武器を思い切り叩き込みたい。限界まで振り回して、軟質な鼻っ柱を叩き斬りたい。

足場を揺らす槌尾の連打が収まったと思ったら、直後に横殴りに降りしだかれる。間一髪、緊急回避でそれを躱せたのは経験則だ。腹から地面に飛び込んだせいで、すぐには起き上がれなかった。伏した頭上で、風切り音が耳をつく。……また、ぐるぐる回っていやがる。
腹立たしいのと同時に僥倖だった。既にスタミナが無いのは明白なのだ、今なら転ばせられると確信していた。軸足まで飛び込んで、キッツイ一撃を放てばいい。次に巨体が地に伏したなら、残る力を振り絞った技を放つと決めていた。それで、討てると信じていたから。

軌道に沿ってリーチを詰めれば、軸足はもう目前だった。だからその時、彼女は「もらった」とほくそ笑む。だがその一秒後に、キッツイ一撃を貰ったのはむしろ彼女の方だった。


「はっ……?」

間抜けな声が喉から落ちて、直後に呻きと悲鳴の中間のような声が溢れる。発声というよりも、痛みを臓器が直接主張してくるようだった。
視認したのは、比較的肉質の柔らかい顔面部でありながら、硬化した額と折れて鋭利な断面を見せる角の両方だった。彼女の胸当てがひび割れて、体重の軽い身体はあっさり吹き飛ぶ。何が起こったのか理解するのに数秒要した。

……つまり、ぐるぐると回っていたのはフェイクだった……?それとも足元に近付く彼女を見て、急遽攻撃を変更したのか。いやそもそも、これは回転による跳躍の前段階でなく、急反転であった可能性もある。とかく隙有りと思ったのは誤りであり、敢え無くカウンターを貰ったようだ。ドボルベルクはその重量を最大限に活用した、突進を彼女に仕掛けて来たのだ。

ごろごろと地面に転がされて、酷く身体が熱いと気付く。起き上がろうとして、力が入らないことに気付いた。それどころか平衡感覚すら覚束ない。

ああマズイ、これって脳シントーってやつじゃないの。シントーだっけ、シントウだっけ、忘れた。忘れたし、それどころじゃない。
武器だけは手放さなかったのは、無意識のうちの根性だろうか。なんとか手をついたら、べしゃりと濡れた感触がする。こんなとこに水溜りなどなかったはずだが、見下ろしたら納得できた。……なんだ、水じゃなくて自分の血だった。

一旦後退して、呼吸を整えて、止血して、あと、肉が食いたい。無理矢理にでも身体を起こせば吐き気がする。
痛くて、疲れてて、腹が減ってて、大怪我で、しかもドボルベルクは容赦なんかしてくれない。たった今彼女を轢いた巨大は、突進のモーションから一息もつかず尻尾をぶん回して見せたのだ。彼女は倒れるように後ろへ回避を試みたけど、身をもってその追尾性の厄介さを知ることになる。実に正確に彼女の身体を捉えるのだ。追い討ちのような尻尾の一撃を左脚に喰らいながら舌打ちをする。この一連のコンボを完全回避するには、ハンマーのように振り下ろされる尻尾が二度目に地面に着いた時点で、安全圏に離脱していなければならないらしい。自らの骨が砕かれる音を聞きながら、彼女は身体で学習していた。



字のごとく血反吐を吐きながら、それでも闘志を捨てやしない。むしろ逆だった。危機感が臨界点まで達した作用か、アドレナリンの分泌が痛覚を麻痺させたのだ。

その時の彼女の動きは、他人が見たらティガレックスを連想させるものだろう。折れた足の代わりに両手をついて着地したら、曲げた片足と肘をバネに飛びかかる。吹き飛ばされた反動を逆利用する荒技は、ドボルベルクの知る「人間」の動きでなかった。

咆哮にも似た叫びと共に、空中で背中の剣斧を引き抜く様が獣じみてる。月光のせいで伸びた影は、あの異形な突進のあと飛び掛かる轟竜と酷似していた。しっかりと握られた武器の形は、属性の威力を纏う剣の形を成している。その切っ先が、ドボルベルクの角の付け根に刺さる。


……地獄みたい。彼女は思った。足場に散らばる薄紅色の花弁と、それを紅にする自分の血飛沫。ドボルベルクの咆哮もまた凄まじいけど、ついにここをイビルジョーが嗅ぎつけたのだ。

今度こそ決着をって瞬間に、まさかイビルジョーが降ってくるとは思わなんだ。
飢餓感に涎を垂したそいつは、欲望のままドボルベルクに噛み付いた。彼女を狙わなかったのは、単に肉の質量からなる判断だろうか。小さな肉より、大きな肉が食べたかっただけ。
暴れ狂うイビルジョーに、抵抗をみせるドボルベルク。小さな彼女は振り回された。武器を引き抜かなかったからだ。ドボルベルクが首をふるたび、刺さった武器ごと彼女が踊る。逃げようと思わなかったわけではなくて、頭に血が上ってただけ。もう思考は冷静ではなく、敵を仕留める以外は考えられない。だから、この混乱に乗じて武器を手放し、逃げ果せようとしなかった。どのみち折れた左脚では、走ることなど出来ないけれど。


……ところで、こんな話がある。頭部に生える湾曲した一対の角は、非常に太く頑強な造りとなっている。彼女が懇親の力を込めても、中腹より少し上から折れた程度だ。
だがこの角は、実は脳まで直結している。そのため根元から折れると、脳が甚大なダメージを受け即死してしまうといわれてる。

武器を握るのを片手にし、腰からハンターナイフを引き抜いてから、彼女は岩壁へと突き刺した。自らを関節に、それぞれの武器でモンスターと岩壁を縫い付けた状態だと言えるだろう。先述のとおり、剣斧は角の付け根に刺さったままだ。
そこへ、イビルジョーが飛びかかる。
……あとは、武器とハンターナイフ、それぞれを手放さないだけで良かった。ああ、あと身体が千切れないことを祈ること。そうすりゃ人間の筋力では到底破損不可なドボルベルクの角の付け根を、イビルジョーの突進の威力が破壊してくれるだろう。
それでドボルベルクが死んだとしても、その後イビルジョーから逃れる手段は残っていない。だのに達成感が多幸感を齎すから、意識を手放す最後に彼女は笑っていた。思惑通り、ドボルベルクの角が付け根から割れたのだ。その後に、白目を剥いたのを視認して、そのまま彼女は気絶した。


…………



ここから先はただの奇跡だ。
彼女がぶっつりと気絶した後、地に付すドボルベルクが崖際のイビルジョーを突き落とすような構図になった。転倒の衝撃が地響きを起こし、イビルジョーが踏ん張れなかったのも原因だろう。貪食の恐王は崖の下まで落下して、後にはドボルベルクの死体と気絶した彼女だけが残された。
あまりに壮絶なこの結末を、知っているのは月だけだった。






-4-

採取に来ただけの筈だったその青年は、幾度となく響く怒号に不吉な予感を隠せなかった。
……参ったな、今は戦闘用の装備でないとため息を吐く。より効率的な採取を行えるように誂えたそれは、戦闘には不向きなことこの上ない。そもそも耐久性すら皆無であるから、「不吉な予感」が当たったとして何もできることはなかった。むしろ、巻き添えをくわないよう退避するのが利口だろう。
それでもさっさと帰らなかった理由は、ベースキャンプに焚き火の煙を見たからだった。

……ベースキャンプを利用する理由はいくつかあるが、「戦闘中でありながらベースキャンプに居る」理由など一つもない。気付かないはずもないだろう、咆哮は青年の元にも届いていたし、ペイント玉が使われた痕跡も残ってる。木々にピンクの塗料が付着するから、移動の痕跡から現在地まで予測するのは可能であった。だのに美味そうな肉の焼ける匂いや、談笑する声すら聞こえる。不穏な空気が強まって、青年に一つの仮説が浮かんだ。

……まさか、今ベースキャンプにいるのは〝寄生虫〟で、このペイント玉を使った〝誰か〟は孤立無縁なのではないか。
渓流は青年にとっては地元だ。最近、クルペッコが度々観測されてると知っている。そして、度重なる咆哮が二種類あるとも気付いてた。彼の予想する「最悪」が当たらないことを願いながら、様子だけでも見る必要を彼は感じた。今優先するべきは、たった一人で戦う〝誰か〟の命であるのだ。ペイント玉の塗料が足跡のように続いてる。彼は、走ってその軌跡を追った。



…………


折れた桜の木の陰で、切り株を背凭れにするその女は死んでるように思われた。だが抱えてみれば体温があり、耳を寄せれば弱々しい鼓動も聞こえる。生きて、いたのだ、辛うじて。

怒りがこみ上げたのは、厚顔無恥な寄生虫の三人組が、そんな重症の女を無視して剥ぎ取りを行っていることだった。心配もしない、手当もしない。まるで目に入らないかのように無視を決め込み、傷も汚れもない装備で嬉々として皮を剥ぎ取っている。そのドボルベルクを仕留めたのは、おそらくこの女一人であろうと察しはついた。気絶しながらも手放さなかった女の武器が、返り血と刃毀れだらけだからだ。

怒鳴り散らしたい怒りを堪えて、青年は周囲を観察してる。咆哮は〝二種類〟あったのに、ここに死体は〝一体〟しかない。崖の淵に残る爪痕が、イビルジョーのものと酷似している。
クルペッコがいて、イビルジョーの爪痕がある。おのずと答えは導き出せた。この女に相次ぐトラブルはあんまりだ。

「おい!寄生虫だろうが今はいい、秘薬寄越せ!無けりゃあ回復薬でもいい!」

彼女の治療が最優先なはずなのに、黙々と剥ぎ取りを行う三人組に怒鳴り散らした。
仲間なんだろう、彼女の治療が先だろうが。そう声を荒げてみたものの、言う前から奴らに言うだけ無駄であろうことは予期できた。できたのに、言わずにはいられなかった。
案の定そんなもんないと首を振るし、また剥ぎ取りを始め出す。採取用のものではなくて、きちんと戦える装備であったら、この三人をタコ殴りにしてやれたのに。青年は悔しさに唇を噛み、しかし怒りより女の存命が大切だと意を決する。それから、急いて採取した全てのアイテムを捨て出した。

鉱石を中心に集めていたから、なにせ重たくて仕方ないのだ。それでも女一人背負って歩けないこともないけど、それでも一秒でも早くここを離れる必要性を察してる。
イビルジョーの爪痕と、ドボルベルクの倒れてる位置。この崖下に恐暴竜が落ちたのなんて明白だ。そして、ここから先は更にシンプルな話である。

果たしてここから落ちたくらいで、イビルジョーが死ぬだろうか。
イビルジョーが生きてたとして、次にどこを目指すだろうか。
崖の下まで落とされて、きっと怒ってるであろうイビルジョーは、なにを標的とするのだろう。そんなの、考えるまでもないことだ。
そして青年は、寄生虫と比喩されるようなハンターどもに、それを一々説明してやるほど寛大ではない。はなから寄生する気でいた三人は、回復薬すらないという。ドボルベルクの重たい素材を存分抱えて、怒り狂ったイビルジョーから無事逃げることが出来るのか。きっとそれは、奇跡でもなきゃ無理だろう。


青年は女を抱えて走った。アイテムを全て捨てた身体は身軽で、普段重厚な装備を纏う彼からしてみれば、女はあまりに軽かった。
早く、一秒でも早く連れて帰って、止血して、腫れたところは冷やしてやろう。不自然に腫れた足が骨折なのは明白だ。吐血の痕もある。どうか内蔵が無事だといい。やがて響き渡るであろうイビルジョーの咆哮が聞こえる前に離れられるよう、青年は必死に走り続ける。


浅い河原に、春の象徴的な花弁が流れる。渓流が一年でもっと華やぐ季節だ。
薄紅色の花が一面に散る様は、淡い香りの絨毯を広げたようだった。そこに血を滴らせ、紅く染めるように彼女は瞳を閉じていた。辺りは砕かれた岩や倒れた木々がいくつもあって、地面は抉れ爪痕がどこぞしこに残ってる。
きっと地獄だったことだろう。悍ましかったに違いない。

「大丈夫だ、ユクモは近くだ。アイテム屋の娘は治療の腕がバツグンだし、温泉だってある。温泉は治癒力を高めてくれるから……だから、大丈夫だ、死なせない」

渓流は……普段は穏やかでとても綺麗な場所なんだ。そうだ、あの花……あの巨木になる綺麗な薄紅色の花の名前を教えてやろう。森林の奥には穴場もある。あと十日もしたら全ての蕾が花を開いて、幻想的なほど綺麗な景色が広がるはずだ。

「綺麗なんだ。見せてやるから、死ぬなよ……」

月夜の美しいその夜に、青年はそう念ずるように走り続けた。

丁度その時、三人分の悲鳴があがったことを彼は知らない。既に離れ過ぎていたから。
寄生虫と比喩した三人の生存は知り得ないけど、後に砕けた小手のパーツが一部だけ発見されたと漏れ聞いた。小手は、あるべく傷や汚れの一切見られない、新品同様の状態だった。
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