一歩踏み出す。
「ここが、地球…」
アーサーが見まわす。エレベーターの扉は、何の変哲もないマンションのエレベーターに変わっている。
カインも同じように見まわす。璃子はぺたんと座り込み、呟いた。
「か、帰れた…」
しかも異世界の魔法使い二人と共に。
「お、おい。しっかりしてくれよ璃子。案内役はあんただろ」
「あ、うん…でも、本当に帰れたのか一瞬混乱して」
「とりあえず立っ…ゲホッ」
空気が悪い。何とも言えない悪臭も少しする。
アーサーも同じだ。軽い咳を繰り返している。
「ちょっと、二人とも大丈夫?! …そっか、あの世界に比べたら、こっちの空気は汚いわよね…」
「何の臭いなんだ、これ」
「多分、排気ガス」
「これが排気ガスか…」
「あの、排気ガスって…」
アーサーがようやく咳を止めて、聞いた。
「化石燃料から作られる、ガソリンっていう燃料があるの。自動車という乗り物をそのガソリンを燃やしたエネルギーで動かしてる。その時に出るのが排気ガスよ。…見て」
璃子は手すりから下を見下ろした。
「あれが自動車」
通りを行き交う自動車を見て、アーサーが驚いている。
「魔法使いの箒と同じようなスピードで走っている…あれは人間が乗っているのです…いや、乗っているのだな?」
まだアーサーは敬語が直りきっていないようだ。
「ええ、全部人間。魔法使いなどひとりもいない」
「あんなに自動車があるんだ、空気も悪くなるはずだな…。なぜこんなに空気を汚してまで、自動車を使うんだ?」
カインにはさっぱりわからない。
「そこまで急いで、何が得なんだ? 体によくなさそうなものを大量にばらまいてまで…まあ、璃子に言っても仕方ないことだが…」
「カインの疑問はもっともだと、私も思う。あっちの世界では、馬車や早馬のスピードで事足りたのにね」
「交通手段を元の馬車に戻すことは簡単じゃないかと思うんだが」
「アーサーの言う通りだわ。あれ見て、飛行機」
「何か…鳥の形をしたものが…空を飛んでる」
アーサーは首をひねった。
「魔物でもないし…しかし、ここから見てあの大きさなら、グランドドラゴンぐらいはありそうだ…」
「そうねアーサー、北の塔で見たよね。あの時カインもいた。…まさにその大きさの、金属でできた筒のようなもの。ジェット燃料を使って、中に人間が乗ってる。ああやって地球の人間は空を飛ぶの」
「また、燃料か」
カインは眉をひそめる。
「そのジェット燃料も、空気を汚すんだろう?」
「カインの言う通り。…でも、ガソリンやジェット燃料の便利さを知ってしまった私たち人類は、元に戻ろうとはしない…というか、もう戻れなくなってしまったの。文明が一度、壊滅的に崩壊しないと、昔の生活には戻らないと思う。愚かよね」
「…我々の世界は、大いなる厄災のせいで壊れかけてると思っていた。だけど…地球も、こんなにまでも壊れかけているんだな」
アーサーが俯いて言った。一国の王子として、思うところが大きいようだった。
「…私の部屋に行きましょ。空気清浄機っていう機械があるから、外より空気はマシなはずよ。…えーっと、鍵はと…」
一足先に自室へ向かっていた璃子に、ばっと飛びついてきた男がいた。
「璃子ちゃん、三日もどこ行ってたの!!」
「ちょっと、あんた何回も断ったはずよ!! 離してよこの粘着男!!」
「…パルノクタン・ニクスジオ」
小さくアーサーが呟く。途端に粘着男は引きはがされた。
(殿下、ありがとう)
思わずカインは感謝した。
「あーもう、ムカつく!! 何で合コンで隣になっただけなのに運命よ!!」
「だってこんな可愛い子と隣同士だよ? 運命でしょ」
「はあ?! 意味わかんない!! 住所までどっから調べたのか知らないけど、ストーカーとして警察突き出すわよ!!」
「何の騒ぎだ? ん?」
カインが璃子を庇うように立ちふさがった。
「これ以上俺の彼女にちょっかい出す気なら、俺の剣…じゃなかった、拳が火を噴くぜ?」
「な、何この外人」
「私の婚約者!!!」
これぞとばかりに璃子がカインの腕に抱きついた。
(え、婚約者でいいのか?!)
「うちの大学の留学生で、カイン・ナイトレイさん。もうすぐ帰国するから、学生結婚してボストンに引っ越してMITに留学するの、私」
(えむあいてぃー、は確か…アメリカとかいう国にある、璃子が憧れてるマサチューセッツ工科大学だったな)
「というわけだ、お引き取り願おうか」
「ちなみに私はカインの弟だが、気に食わないな、お前は」
「な、何だこの、妙に凄みのあるDK」
(男子高校生の略だっけ…後で殿下に解説しないと)
「っていうか、こんな人がいるのに合コン参加すんなよ!!」
「何逆ギレしてんのよ、人数合わせに付き合って行っただけよ、バカ!!」
(そういえば合コンの意味も、殿下は誤解してたな…)
「粘着男と言ったな。いい加減諦めろ。俺と璃子は誓い合った仲だ」
(…こっぱずかしい騎士の誓いをな!!)
「それとも本気で一発お見舞いされたいか?」
カインは腕まくりして拳をバキバキ鳴らしてみせる。
「うわああああ!!!」
ようやく粘着男は退散していった。
「はぁ…剣持ってくるべきだった。あんな奴に絡まれてたのか、璃子」
「あははー…助かった。何かわからないけど、こないだ行った合コンで知り合ったら、妙にしつっこかったの」
「純粋に人と人との交流を深めるための合コンにも、あんな不埒な目的で来る男がいるのか…腹ただしい」
「いやあの殿下、合コンの意味なんだけど…」
「カイン、殿下呼び禁止って言ったでしょ」
「はい…」
言いそびれてしまった。
(多分殿下は、永久に合コンの意味を間違えたまま過ごしそうな気がする…)
璃子はようやく鞄から鍵を探し出し、ドアを開けた。
「どうぞ、お二人さん。…ってちょっと待った!! 玄関で靴脱ぐって言うの忘れてた!!」
「え???」
アーサーはきょとんとしている。
「とりあえず、世界中じゃないけど、少なくとも日本はそういう文化!!」
「なるほど…部屋を汚さないためですか」
「あーまた敬語。まあいいわ、三人だけでいるときは普段通りでいい。そこのソファ座ってて、お茶でも出すわ」
と、璃子が何か考え込んだ。
「どうした?」
「水道水…絶対合わないだろうな…」
「水道って確か、遠いところからも水が出るように工夫されたものだったよな。何か問題でもあるのか?」
「確かに、さっき見たところ、この辺りに川はなかった…その水道さえあれば、川辺や井戸が掘れるところではなくとも、人は住めますね」
「違うのアーサー。川も汚れているから、化学薬品を使って殺菌したり、透明にしたりしているの」
「薬品を? なぜそんなことを…」
「汚れた川だから、そこまでしないと飲めないのよ。ただ、絶対二人の口には合わないと思う」
「賢者様、勉強のためです、試させていただけませんか?」
「俺も試したい。俺の故郷では、人の気質は生まれたところの水で決まるってことわざがあるくらいだし」
「…そのことわざ、絶対地球では通用しないと思う。…はい、水道水」
「何持ってるんだ、璃子」
「吐き出す用のボウル」
「そこまでしなくても…賢者様、いただきます…」
口に含んだ途端に、アーサーは顔を引きつらせた。
「えっ、透明できれいな水なのに、そこまで…うっ!!!」
飲み込むかどうか非常に迷う。
「体に悪いから、吐き出して!! はい!!」
と璃子がボウルを差し出してくれたが、さすがに吐き出すのはためらわれた。カインだけじゃなくアーサーもそれは同じだ。
二人は何とか飲み込んだ。
「ああ…出してよかったのに。あとで体調悪くなったら、多分これのせいだわ」
「何か、水ではないものでした…」
さすがのアーサーも顔をしかめていた。カインも同様だ。
「薬…それもなんかヤバい薬の味がした…」
「これでお米といだり、スープ作ってるんだから、ホント仕方ないわよね…ヨーロッパあたりでは、水道は飲むこともできないほどで、ミネラルウォーターを買ってそれで生活してるらしいから」
「水を買うのですか?」
アーサーは驚いている。
「川は汚れているとしても、地下水はきれいでしょう。なぜ井戸を掘らないのですか?」
「まず土地を持ってる人は少ないし、土地を持ってて、井戸を掘れたとしても、国の決まりで水道も使わなきゃならないらしいの」
「そんなバカな…この国の王は何をしているのですか? 国民の健康を害するものを飲ませて平気だとは…」
「正直、私にもわけわかんない。それがこの国よ」
「うーん…」
王子であるアーサーは、全く納得できないようだった。
「ま、私のところでもミネラルウォーター買っておいてあるから、それでお茶入れる。…今度のは大丈夫だと思う」
「俺、手伝おうか?」
「大丈夫よカイン、IH調理器だから、手間はかからないわ。火をつける必要はないから。まあガスでもボタン一つだから同じだけど」
「IH調理器ってのは教えてもらってなかったな…」
「じゃあ見てて。アーサーもよければ」
「はい、拝見させていただきます」
やかんに、ミネラルウォーターを注ぐ。
「待って、これがペットボトルとかいうやつか?」
「そう」
やかんを板の上に載せて、何かに触れただけ…に、カインは思えた。
しかししばらくすると、やかんが沸騰し始めたので、カインもアーサーも驚いた。
「時間はかかるけど、魔法と同じようなものだな…」
カインは首をひねった。
「魔法じゃなくて、電気」
「電気か。…待てよ、その電気を作るのもまさか」
「そのまさかよ。重油を燃やして発電する火力発電が一般的。他にも大きいウェイトを占めてる発電方法もあるけど、恐ろしすぎて二人には言えないわ」
「そうか…あ、アーサー殿下、大丈夫ですか」
「大丈夫だ。…ちょっと混乱しているだけだ」
どうも考えすぎて頭痛がしているようだ。
「えーっと…無農薬のお茶、頂き物であったはず…あった。アーサー、お茶飲んで少し落ち着いてね」
「はい…ありがとうございます…」
「カイン、魔法のシュガー作っといて。さすがにお砂糖は無農薬じゃないから」
「グラディアス・プロセーラ…で、農薬?」
「また情けない話だけど…この日本は資本主義と言って、出来るだけ安くものを作って出来るだけ高く売る社会。農薬は、限られた畑からたくさん収穫できるように使われる薬ってわけ。ちなみに原液を飲むと死ぬんだけどね」
「また薬か…薬だらけじゃないか、地球という世界は」
「恥ずかしながら、カインの言う通りよ」
「よく今まで生きてこられたな、璃子…街を歩くのに剣はいらないということだったが、仮に剣があっても危険すぎる世界だ」
「そうかもね…あ、シュガーありがと、カイン」
やっと、お茶で一息つけた。魔法のシュガーだから、アーサーも少し持ち直したようだ。
「さて、一仕事始める前に、夕食が必要ね」
「一仕事って…ああ、賢者様の仰ってた件ですか?」
アーサーはムルから聞いていたようだ。
「そう、後で話すけど、大いなる厄災を永遠になくす方法」
「何だって?!」
「何ですって?!」
カインは信じられなかった。そんな方法が果たしてあるのだろうか。よりぬきの魔法使い20人でやっと、はねのけてきた大いなる厄災だ。
「賢者様、賢者の魔法使いだけで、そんなことが可能なのですか?」
アーサーも、信じられないという顔だ。
「たとえ世界中の魔法使いが集まったとしても…」
「発想の転換が必要よ、アーサー。正面から向き合うんじゃないの。…えーと、確か近くに無農薬専門スーパーがあったな。高いからあんまり行ったことないけど、奮発しちゃおうっと」
「璃子、どこかに行くなら俺も行くよ」
「私も行きます」
「二人のお守りか…ちょっと大変だな。でも二人とも地球を楽しみたいんだもんね。じゃあみんなで行こっか」
「アーサー殿下、地球の様子は俺が璃子に聞いて少しは理解しています。だから、あまり驚かないようにしてください」
「わかった。少し自信がないが…」
だが、アーサーも好奇心が先に立ったようだった。
「では、行きましょう賢者様!」
「あ…」
アーサーがドアの外に出ると、空を仰いだ。
「夕焼けが美しいな…」
「東京の冬は、外国人に褒められるの。大抵の国の冬はどんよりしていて、寒くて、じめってしてるけど、ここ東京は湿度が低くてよく晴れていて素晴らしいって。ずっと東京に住んでるから、言われるまでわかんなかったけどね。…ほら、そこに大きい山が見えない?」
「ああ、見えます…賢者様、あの山は?」
「空気の屈折で大きく見えるけど、ホントはずっと遠くにある山で、富士山っていうの」
「…美しいな。影絵みたいだ」
カインも富士山を眺めて言った。
「中央の国にはないタイプの山かもね。カインもアーサーもラッキーよ。夕方このタイミングで、向こうが晴れてないと見えない山だから」
東京の悪い空気にも、カインだけでなくアーサーもようやく適応したようだ。
(アーサー殿下、少し落ち着いたみたいでよかった)
騎士として主君を守るのがカインの役目だが、どうも地球では勝手が違う。
璃子が騎士みたいなものだ。
(ちょっと情けないが…まあ、仕方ない)
スーパーでの買い物の仕方も、アーサーには衝撃だったらしい。
中央の国の市場では、野菜売りなら野菜、果物売りなら果物と、商品ごとに店主がいて店をそれぞれ持っていたのだが、それが一度に売り場に広がっていて、レジで一括会計するシステムに驚いていた。
それに、紙のお金が使えることにも。
「紙に、価値があるなんて…」
「政府が信用されているかららしいですよ、殿下。信用されてない国では財産を装飾品として持ち歩くそうです」
そっとカインは耳打ちしてやる。
「なるほど…」
「何こそこそ話してんのよ」
璃子が会計を済ませてカゴを持った。
「ああ、俺が持つって。…ちょっと解説してただけだ」
「あんたに事前情報流しててよかったわ、カイン。アーサーだけではひっくり返りかねないとこだった…アーサー、大丈夫?」
「あ、はい…何とか…」
「政治のシステム自体違うのよ。王政じゃなくて民主主義国家。国民の選挙で選ばれた人が国のトップに立つと言えば簡単かな」
「国民が王を選ぶというような…?」
「まあざっくり言えばそうかも。世襲制じゃないの」
「…日本には、見習うべき点も多いようだ…」
アーサーは何を考えているのか、一人で頷いている。
(殿下、即位したら早々に王政をひっくり返しかねないな…)
カインは少々心配になってきた。
「さて、買い物終わり。カイン用の無農薬ワインも買えたし…あ、持ってくれるの?」
「当たり前だ、ご婦人に荷物を持たせるような男は男じゃない」
と、カインが言った矢先に、奥さんらしい人が荷物を抱え、旦那らしき人が車のキーをくるくる回しながら先導している現場に行き合った。
「…日本人には騎士道精神は存在しないのか?」
さすがにカインもイラっときた。
「武士道精神はあったけど、騎士道はね…あはは…」
申し訳なさそうに璃子が苦笑いしている。
「あんなんばっかじゃないから、安心して。重いものは俺に任せろって人もいっぱいいるし。中央の国でも、偉そうにしてる人はいるでしょ。メイドとか小間使い相手に」
「まあ、そうだが」
カインとアーサーに荷物を持ってもらって、何だか璃子は手持無沙汰そうにしている。
「どうした、璃子」
「んー、一人暮らしが長くて今まで買い物のお手伝いしてもらう人いなくって。何か新鮮で」
「賢者さ…」
「アウト」
「えっと…璃子、さんは今までも一人暮らしを?」
「まあ、さん付けは許すか。…そう、交通事故で両親ともいない。遺産で今住んでるマンション買ったの。あと大学の学費出したり」
「交通事故って…」
「アーサー、今たくさん横を走ってる自動車、ちょっと怖いと思わない?」
「…恥ずかしながら、思います」
「こんなスピードで人とか他の自動車にぶつかったりしたら大抵死ぬわけ。そうならないように交通ルールが存在してるんだけど、守らない輩がいるわけよ。ま、アーサーの国で言えば、ならず者に突然馬車を襲われて死ぬみたいな感覚かな」
(璃子の強さにはこんな背景があったのか…故郷の親父やお袋に会わせてやりたいな。娘を欲しがってたから、絶対本物の両親以上に可愛がるのに)
「あの、璃子」
「何よ急に立ち止まったりして」
「さっきの粘着男だとかいう奴追い払う時に、婚約者だって言っただろう」
「え? だって本当じゃん」
「え?」
今度はカインが驚く番だ。
(…あの誓い、やっぱり大袈裟すぎた?)
「あ、いや何でもない。手間が省けた」
「手間が省けたって何よ」
「いや言葉のあやで。…あいたっ、蹴るなよ!!」
「こらこら、カイン。プロポーズはプロポーズでちゃんとしてやらなければ駄目だろう?」
アーサーに笑われた。
「でもこんなところで、例のアンコールは嫌ですからね!!」
「カイン、敬語に戻ってる」
「はぁ…いや、婚約指輪くらい買えるけどさ…」
「マジで?! 楽しみにしてる」
「魔法使いの約束~月と甘い涙~」について、どこから来ましたか?
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