半年ほどした、とある朝。
半分寝ぼけて二階から階段を下りてきた璃子は、階段の途中で段を踏み外した。そこへ出くわしたのがカインだった。
ハッとしてカインは、反射的に呪文を唱えた。
「グラディアス・プロセーラ!!」
転がり落ちる寸前だった璃子の体がピタリと止まり、そのまますうっと移動して一階の床の上に立った。
「あ、危なかった…」
「何してるんだよ、危ないだろ!」
「ご、ごめんカイン…あはは、助かった…」
「俺がいなかったら大怪我するところだっただろ」
「おっしゃる通りで」
くすっと誰かが笑う声。
「…ねえ、待って」
ひやりとした声音が、割って入った。
「…オーエンか」
うんざりした声でカインが振り返った。いつの間に姿を現したのか、オーエンが二階の手すりにもたれかかっている。
「今、カインは明らかに賢者様が見えてた。違う?」
カインも璃子もぎくりとした。このことを知っているのは、当のカインと璃子だけだったのだ。
前回の大いなる厄災で生き残った者たちは、すべて何らかの「傷」を負っている。
カインの場合は、一度相手に触れるか、触れられるかしないと、その相手を認識できないという厄介なものだった。宿敵のオーエンだけはなぜか見えるのは、片目だけオーエンのものだからだ。他の人物は、触れなければ見ることが出来ない。騎士として致命的な傷だが、何とか過ごしてきた。もちろん璃子も最初は見えなかった。
しかし今は…
「いや、気配がしたから…」
「言い訳は見苦しいよ、騎士様。なぜカインは賢者様だけ見えてるの?」
「わからないよ。最近気づいた、それだけだ」
ふいっとカインは顔をそむけた。
「大好きな僕のことだけは見えるんだから…もしかして、カインも賢者様のことが、好きなの?」
「何だと?! 「も」って何なんだ?!」
「僕は賢者様、好きだけどね?」
「どういう意味だ!!」
「別に、他の意味なんかないけど。…戦ってみる?」
カインは焦った。
「あ、そうだ!」
カインはがしっと璃子の両肩をつかんだ。オーエンが見ているこのタイミングなら。
「璃子、こっち向いて!」
「何を急っ…」
「ちょっと牽制しなきゃ!!」
「牽制って…むぐっ」
璃子は、一瞬何が起きたかわからなかったようだった。
最初は半分寝ぼけたように体を預けてきていたが、だんだん状況がつかめてきたらしい。
カインに、なぜかいきなりキスされているという…
我に返った璃子は、思いっきりカインを平手打ちしていた。
「な、なに考えてんのよみんなの前で!! カインのバカ、大っ嫌い!!!」
「えっ、みんな?!」
驚くカインをしり目に、璃子は階段を駆け上がり、自分の部屋へ戻った。
思いっきり、ドアをバターンと閉める。ひどい音が、魔法舎に響き渡った。
唖然としたカインの両脇に、スノウとホワイトの双子が立った。
「馬鹿じゃのう、カイン」
「愚かじゃの」
やれやれと肩をすくめる。
「あの…今更だけど、ここにいる奴ら、俺にハイタッチしてくれないか…オーエンはいい、どうせ見えてる」
ハイタッチされた順に、カインの目にようやくそこに集まっていたメンバーが見えた。
「え、本気で全員…いやムルとアーサー殿下はまだいないとして、まさか、見て」
「ましたよ。ブラッドリーが騒ぐと寝起きの悪い賢者様がようやく起きるから、そろそろ朝食だってわかりますから。…で、あんた朝から何やってるんですか」
万年不眠症のミスラが不機嫌に言う。
「状況、僕にはよくわからないんですけど…でも、少なくとも無理矢理女性にキスするのは、本当に失礼だと思います」
と、明らかにリケは怒っている。
「いや、…実はこの双子が昨日俺に」
「大切なものが奪われる相が出ておるから気をつけろ、という我らのお告げじゃろ」
スノウが言った。双子の魔法使いは予言が得意だ。
今度はホワイトが言う。
「オーエンが賢者にちょくちょくちょっかいを出してることは知っておった。しかし、いくら何でもあれはどんな女でも怒る。おそらく順番を間違えておるな? 少なくとも賢者を傷つけたのはお前じゃ、カイン」
「順番…ああ、そうか!!」
カインは頭を抱える。
「ははあ…カインは賢者様が好きだから、見えるようになっていたんですね」
ラスティカが笑いをこらえながら言う。
「でもそれをまだ、彼女にちゃんと伝えてない…違いますか、カイン」
シャイロックの言う通りで、返す言葉がない。
なのに、何もかも飛び越して、いきなりキスしてしまった。オーエンに見せつけるという理由のためだけに。
騎士らしからぬ大失態だ。
「おや、どこ行くんです。朝食ですよ」
「部屋に戻るだけ…着替えなきゃいけないし…」
「ククッ…カインのしおれた顔見るの、初めてかも」
唯一、嬉しそうなのはオーエンだ。
「…魔法使いが人間を恋する…魔法使いにとっては、ほんの一瞬の夢に過ぎないのですけどね…」
シャイロックの掠れた呟きを聞いたものは、誰もいなかった。
結局璃子は朝食には降りてこなかった。
(みんなの視線が痛い…)
カイン自身、平気な顔を繕いつつも、朝食の場にいたたまれない。ほんのしるしばかり口にしてすぐ、席を立った。
「あの、ネロ。…賢者様に少し軽食を持っていきたいんだが…」
「まず自分の飯ちゃんと食えよ。そもそも作った俺に失礼極まりないし、午後は演習だろ」
「あ、ああ…そうだな…すまない」
(うわ、もっと視線が痛い…)
のろのろと食事を進めながら、カインはだんだんと事の重大さに気付き始めた。
(もしかして、この21人の賢者の魔法使いと璃子の信頼を、俺がぶち壊したのか?)
いてもたってもいられなくなった。
「や、やっぱり俺、ちょっと賢者のところに…」
「残すな、せっかち野郎」
ネロにそっけなく言われ、カインはしぶしぶまた席についた。
何とか食事を終えると、ネロに貰ったビスケットと果汁の瓶を詰めた小さなかごを片手に、カインは璃子の部屋に向かった。誰か代わりの者に行ってもらうほど、男らしくないわけじゃない。
多分璃子は、カインのブーツの靴音で既に気が付いてるはずだ。だが一応、二人の間で取り決めていた合図のノックをする。その程度には親密なのがこの二人だった。
…無視。
だろうなと失望しつつも、今少しと立っていたところ、軽い足音がしてドアが開いた。
「…だと思った」
カインが来るのを予測していたようだ。
少し、眼のふちが赤い。
「…ごめんな」
そう言うことしかできない。
璃子はカインからビスケットの小かごを受け取ると、そこ座って、とばかりに視線をソファに向けた。
「…ごめん、怒ってるよな」
「怒ってはない。大混乱してるだけ」
璃子は隣に座ると、ビスケットを一枚口に運んだ。
「だから、怒ってるわけでもないし、許したいわけでもないし、あんたのことは大好きで大っ嫌い」
これは、あとで心の機微に通じたシャイロックあたりに間に入ってもらったほうが良さそうだな、とカインは思った。
そもそも、璃子は確か20歳だし、カインだってまだ22歳だし、騎士団長だった過去からも、たくさんの女性の誘いを笑顔で受け流すことには長けたが、自分からどうこうというのにはほとんど慣れていないと言っていい。
(何かうまい台詞…)
考えても出てこない。
(泣き顔も素敵だなんて言ったら絶交ものだな。いつもなら使えるネタが通用しない事態なんてなったことなかった…)
とにかく、それとこれとは別として、言わなければならないことはあった。
「賢者様。…賢者の魔法使いの一人として信頼をぶち壊したのは、本当に悪かったと思ってる。いや、思ってるんじゃない。悪かった」
「その点なら大丈夫よ。私は本当の信頼はこれからだと思ってるし」
もう一枚、ビスケットをつまんで、
「あと連絡事項。カイン、あんたには今日の演習で司令官を務めてもらうわ。いずれ全員に回してはいくけど、魔力はともかく、今の段階で司令官的な才能があるのは、カインとアーサーぐらいなものだし。「大いなる厄災」より前に私が地球に戻ってしまっても、指揮をとれる人材を一人でも多く増やしたいの」
しばらく二枚目のビスケットをかじってから、璃子は飲み込んで、付け足す。
「せめて…厄災の時まで、残っていられればいいんだけど…」
消え入りそうな声だった。
「璃子、それは…」
「バカッ、だから大混乱してるんじゃないの!!」
ばんっと、カインの胸板を叩いた。
いくらカインが自分のことには不器用でも、騎士団長に選出されたのは剣の実力だけでなく、実戦でのとっさの判断力や思考能力も含めての話だ。さすがに気付いた。
璃子の大混乱という言葉の意味。
いつまで一緒にいられるかわからない状況で、「ただ仲が良かった異性の友達」として終わらせておけば、別れた時の傷は深くなかった。璃子はそのギリギリのラインを越えないように自制していたのだ。それをカインが焦って壊した…
(俺も自制しておかなくてはならなかったのだろうか?)
また泣き出しそうになるのを、唇を噛んでじっと耐えている璃子を思わず抱き寄せた。
(順番なんかどうだっていい。それくらい…)
「すまない…あんたのこと、もっと大事にすべきだった…でも、好きなんだ」
今更だ、という気持ちで口に出したが、こんなのでは足りない…軽すぎると、カインは感じてしまう。簡単に口に出せる言葉では、伝えきれない。
戸惑いながら、細い腕がカインの背に回され、ぎゅっと力が込められる。
(璃子も…多分同じ気持ちなんだな)
ふと、カインは思い出す。遠い昔の賢者の話を。
その賢者がどこの国のどんな人か、そこまではわからない。しかしこの世界と地球を行き来していた賢者が存在していたと、騎士団の教養書で簡単に触れられていた。
しかしそれが今の璃子に何の慰めにもならないだろうことは、理解できる。
そっと、璃子の頭を撫でてやる。
「…気持ちは俺にもわかった。傷つけてすまなかった。もう泣き止んでくれないか」
「泣いてない」
明らかに泣き声なのに、璃子は強がっている。そんなところが、カインには愛しくて辛かった。個性豊かすぎる魔法使いをつかねる役として、常に強がっている璃子。
(弱い一面を見せるのは、俺に甘えてくるときだけだ、きっと)
カインの寝酒に毎晩のように顔を見せて付き合ってくれる時の璃子は、賢者として凛々しさを漂わせる璃子ではなく、無邪気でよく笑っていた。
(そんな関係で終われたらよかったのか? …いや、俺自身はそうじゃなかった)
「…俺は、何をしてやればいい? 何をすれば、気が済むんだ?」
怒りではなく、優しくなだめるように聞くと、ただぎゅっとしがみついた腕に更に力が入った。
「とりあえず…普段通り過ごそう。…昼食の席は、いつも通り俺の隣に座ってくれるか」
璃子が小さく頷いた。
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