新しい賢者の書から順々に手に取る。気の遠くなるような作業だ。
日本語は難しいのでマスターし損ねたが、英語なら璃子に教わって、簡単なものならカインにもわかる。まして賢者の書は、大抵同じようなことが書かれているから、ヨーロッパ系の言語であれば、どこの国か大体推測がついた。
もう何冊目かわからない賢者の書を閉じながら、こんなことをしているうちに璃子が元の世界へ戻ってしまったらどうしようという不安が頭をもたげる。
残りは明日以降にしようと、しおりを本の隙間に差し込んだ時、璃子の声がした。
「カイン、まだいるの? 明かりついてるけど」
「ああ、今一段落したところだ。何時だ?」
「9時過ぎたよ。…うわー、ホコリだらけ。払った方がいいわ、こりゃ」
どこから出してきたのか、はたきを璃子は手にしていた。
「え、あんたまさか、それではたくのか?!」
「当然。カインは背が高くて届かないし。こらっ、逃げるな!!」
「はたいてるんじゃなくて、ぶってるだけだろ!!」
「バレたか。って、逃げるなって!!」
しばらく鬼ごっこ兼追いかけっこをすることになった。
身体能力はカインの方が上だから、璃子のレベルに落としてやる。
「そんなとこに隠れても無駄よ、カイン!!」
「いてっ、ってマジでそれ地味に痛い!!」
「待てコラー!!」
ふと、きらっとしたものが視界に入った。
「ちょっと、ちょっと、一時休戦してくれ!!」
「わっ!! 急に立ち止まらないでよ!!」
「鏡が転がっていた」
「鏡? …まったく、この図書室っていろんな賢者のたまり場だったから、いろんなものが落ちてたりするのよね」
「鏡か…」
何か魔力のこもったものじゃないかとカインは調べたが、何のことはない、きれいな装飾が施されただけの、ただの鏡だった。
念のため、手を押し付けてみる。…向こうの世界へ突き抜けるかと思ってやってみたのだが、何も起こらなかった。
「何してんのよ」
「別に…」
やれやれ、とその鏡で髪についたホコリを取っていると、ぐいぐいと璃子が不満げに袖を引っ張ってくる。自分が取りたいらしい。
カインは軽く笑って、璃子の視線まで体を曲げた。器用にホコリを除いていく指先がくすぐったくて、心地いい。理知的かと思えば子供っぽいところもある璃子。
(こんな女性、出会ったことがなかったな…)
「さて取れた。っていうかカイン、お腹すかないの? 夕食、とっくの昔に終わってるよ」
「…言われて、今更腹が減った。まあ、シャイロックのバーに行ってくるよ。つまみのチーズくらいはあるだろうし」
西の国で酒場を経営していたシャイロックは、魔法舎でも趣味でバーを開いている。
「そんなんじゃダメ。先にシャイロックのところ行ってて。何か作るから」
璃子が先に図書室を出ていった。
「仲直りはしたんですか、カイン」
優雅な仕草でカクテルを作りながら、シャイロックが言った。
「一応はしたというか…好きとは伝えた。でも俺としてはやはり、もやもやが残る」
「でしょうね」
カウンターにコトッとカクテルのグラスを置く。それを取りながら、カインはため息をついた。
「おやおや、ため息の数だけ幸せが逃げるんですよ。…何百年か前の賢者様が言っていましたけど」
ふふっとシャイロックは笑い、付け足す。
「そんな難しそうな顔をしているカインを見るのも、また初めてですけどね」
「かもしれない。今まで生きてきた中で最大の失態だからさ」
「まだたった22年しか生きていないじゃないですか。この先何百年、何千年あるかわからないのに、今のうちから年寄りめいたことを言ってはいけませんね」
「オズにとっては赤ん坊以下だってよく言われるさ」
「いつも上機嫌なカインが静かだと、なんだかやりづらいです」
そう言いつつも、シャイロックはなぜか楽しそうだ。
「それにしても…客は今日は俺だけ? いつもはもっと賑やかだろう」
「そんなことより、お待ちの方がいるんでしょう? 都合がいいじゃないですか」
(ダメだ、シャイロックには俺の考えていることが全部見えてる…)
氷が解けかけている。カインはカクテルに少しだけ口をつけた。
「お待たせ…あれ、なんでシャイロックとカインしかいないの?」
料理の大皿を載せたトレイを重そうに持ちながら、璃子が顔を見せた。
「誰かしらいると思って、多めに作ってきたんだけど」
「今夜はお二人の貸し切りですよ」
にっこりと艶やかに、シャイロックは笑った。
「仕方ない、カイン全部食べて」
「え?!」
見ると、カインの大好物ばかりだ。しかし十人前はありそうだった。
確かにシャイロックのバーには、それくらいの人数が常にいるはずだったが。
食べきれるわけがないが、できるだけ食べないと璃子が怒る。
「…わ、わかった」
(明日の朝は確実に胃もたれしそうだな…)
そう考えながら料理を口にするが、思わず笑顔になってしまった。
「ふふ、美味い」
「そりゃそうよ、ネロほどじゃないけど、21人の魔法使い全員に、順繰りに差し入れ作ってきたんだから腕も上がるわ」
(あれ、俺には毎晩のように…)
言いそうになって、ぐっとこらえた。
シャイロックがカインを見ながら、パイプをゆっくりと吹かしている。
(多分、シャイロックにはバレてるな…)
一通り口にして空腹感も大分おさまった頃、璃子と歓談していたシャイロックが不意に呼びかけてきた。
「カイン」
「え、何」
「順番のこと、覚えていませんか?」
「順番…あ、ああ…」
「気のない返事。もやもやしているんでしょう?」
(俺きっと今、かなり挙動不審だろうな…)
慌ててナプキンで口元を拭った。
なぜか気が進まない。いや、必ず璃子には伝えなければいけない。まだ「好きだ」という軽い言葉以外伝えていない。だが何かが邪魔をする。
(何だこの妙な葛藤は…? すぐにでも口にしたい言葉なのに)
「緊張してます? 強めのお酒、作りましょうか」
「いや、酒の力で言いたくはない。だが…なんだこの雰囲気。ものすごく言いづらい空気が漂っている気がするが」
シャイロックはただ優美に笑っているだけだ。
(…なんだかよくわからないが…覚悟を決めろ、カイン・ナイトレイ!)
カインは深呼吸をひとつすると、スツールを下りて、璃子の足元に騎士式に跪いた。
「え、ちょっと、何」
璃子が少し慌てた。構わず、カインはその片手を取る
「賢者様、私とあなたの時間が違うことも、世界が違うことも知っています。…たとえ、この後私とあなたが過ごせる時間が一日であっても、いや一時間であっても、生涯変わらない忠誠をあなたに捧げることを誓います」
まっすぐに見上げた璃子の黒い瞳が、少し揺れた。
「私はあなたと違い、この後、何百年、何千年と生きることがきっとあるでしょう。それでも変わらぬ真実の愛を、生涯貫きます。…私の気持ちを、受けていただけませんか」
璃子は、柔らかく笑う。
「お受けします、カイン」
カインはそっと、璃子の手の甲にキスを落とした。
「さすがですね、カイン。聖なる騎士の誓い、素敵でした」
シャイロックは指を鳴らした。
途端に、わっと歓声が広がる。
「ちょ、ちょっと何だよこれ!!! 嫌な予感がしたと思ったら、これかよ!!!」
「やだもー、全員いるじゃん!!! ねえちょっとシャイロック、くっそ恥ずかしいんですけど!!!」
「もう遅いですよ? 賢者の魔法使い皆が立会人ですからね」
シャイロックは声を立てて笑っている。
「うわ…一生言われるやつだ、これは…」
カインは頭を抱えた。
「騎士様、かっこよかったぜ!!」
「なかなかの見もの、ありがとうございました…」
「賢者様を大事にしないと、僕ら全員で追い回しちゃうからねー!!」
案の定、あちこちから茶々が飛びまくる。
「ヤバい…逃げよう、璃子。グラディ…」
シャイロックがカウンター越しにカインの肩を押さえた。
「おっと、そうはいきませんから。パーティの主役が消えてはいけません」
「だってシャイロック、恥ずかしいだろ、これ!!」
「っていうか、いつパーティになったの?!」
魔法使いたちの手にはそれぞれグラスがあった。いつの間に。
「我らの予言は外れたのう。良き日じゃ」
「良き日じゃのう」
「誰だ双子の入った額縁持ってきたやつは!!」
「僕だけど、何か?」
オーエンがくすくす笑っている。
「あー、二人の間抜け面、楽しかった。賢者様はちょっと惜しい気もするけど」
「何だと?!」
「怒らないでよ、カイン。たった今、そっちが先に正式に申し込んだじゃない?」
「くっ…シャイロック、なんか強い酒くれ!!」
「カインだけずるい!! 私、飲めないのに!!」
「いつものあれしか出来ないぞ?!」
「いつものでいい!! いっぱい飲んだら酔える、多分!!」
「おや、お二人さん、いつものあれって何です?」
シャイロックが不思議そうな顔をする。
「いいから、グラスに水を!!」
「はいはい」
水の入ったグラスが置かれると、カインは呪文を唱えた。
「グラディアス・プロセーラ!」
パラパラとグラスの中に降ってきたのは星屑糖。
パチパチ、ゆらゆら溶けて、ライトピンクからラベンダー色のグラデーションに色づく。
最後にぽちゃんと氷がひとかけ、落ちた。
「これ、アルコールじゃないけど、酔ったような気分になるだけのやつだから!」
「おやおや、優しい旦那様ですね?」
(ただ恋人としてのセリフだったつもりなのに、大げさすぎたか…)
後の祭りだ。
「ああ…しばらくいじられるぞ、俺…」
案の定、一晩中飲み明かす羽目になったのだった。ただ、カイン自身はどんなに飲んでも酔えなかった。
翌日、二日酔いにならなかったのが不思議だった。
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