タナトスは約束通りシノンにトロヤの街を明け渡した。まだコルセア親子が生きているので名目は領地を預かっただけだが、叛徒にむざむざ土地を奪われた無能に情けをかける理由などあるはずもなく、彼の中では既にこの街は自分の領地になっている。
既に統治に必要な諸々の手配は済ませて≪タルタス自由同盟≫の引っ越しと入れ替わりで、シノンの長男のペレが代官として赴任する手筈になっていた。勿論まだ少年と呼ぶ年頃の子供に実権は無く、腹心のカドモスが取り仕切って領主として学ばせるつもりだ。
引っ越しの準備は二日で済み、一団は住民の万雷の歓声に包まれてヒュロスへの往路を踏みしめた。どれだけ行儀良くしていても自由同盟が如何に嫌われていたかが分かるというものだ。
特筆すべき事も無く、一団は八日後にヒュロスの街に帰って来た。
その翌日にタナトスはシノンから領地内の軍事通行許可証と古城の使用許可証を受け取った。これで武器を持っていても何ら咎めを受けずに領地を歩き回れる。
気前の良い事にシノンは支度金として少なくない額の軍資金をタナトスに与えた。正直貰えると思わなかったが、金はいくらあっても困らないので、ありがたく城の補修用に使う資材の購入に使わせてもらった。
自由同盟の一団は必要な資材や道具を持って居心地の悪い街を出て、三日かけて北の丘の上に立つ古城へと辿り着いた。
「なんかボロいぞ」
クシナが何気なく口にした感想は、ここに居る者全ての想いを代弁した言葉だった。
空堀は草花の絨毯が敷き詰められていた。城壁は無数に崩れ落ちて穴だらけで蔦に覆われて緑と白のまだら模様。両開きの正門は片方が外れて地面に寝ている。城の玄関扉は木が腐って穴が開いてて城内が見える。
タナトスは預かった鍵を使おうとしたが、そもそも鍵穴が錆びで埋まっていて刺さらない。溜息を吐いて扉に蹴りを入れたらあっけなく蹴破れた。
斥候でもあるカイルが最初に中に入れば、蜘蛛の巣と鼠がお出迎えしてくれた。おまけにカラスと鳩と蝙蝠とリスに狐の親子もだ。
「今日から俺達もお前達の仲間入りだ。よろしく頼むぞ」
ふざけ半分にタナトスは逃げまどう動物達に挨拶をする。意外と余裕があるのは空元気ではなく慣れているからだ。
たった一人でゼロから反政府組織を立ち上げたタナトスにとってこれしきの事は落ち込む理由にもならない。人も物も金もある恵まれた状況でボロ家を直すなど鼻歌交じりでやれる。
彼は指導者らしくやるべき事の優先順位を決めて、部下にそれぞれ仕事を割り振った。
早急にすべき事柄は寝床の拡張だ。現在≪タルタス自由同盟≫の人員は千四百人を数える。残念ながらこの古城にそれだけの人数の寝床は無い。無いなら外に用意するしかない。今は夏なので最低限雨を凌ぐ屋根さえあれば何とかなる。だからまずは屋根のある家屋と大人数の調理に使う石の竈を作る事にした。資材は豊富にあるし、一団には多くの職人がいるから数日あれば事は済む。
問題は水だが近くには川も泉も無い。それでも城があるということは井戸ぐらいはある。つまり地下水はあるのだ。
という事は井戸掘りをせねばならない。ここで中心人物になったのがカイルだった。
彼は城の周囲を無造作に歩き続けては時折地面に手を当てて水の精霊の声を聴き、土の精霊に頼んで穴を空けてもらった。すると穴からはじわりと水が滲み出た。これを十度繰り返して、十を超える井戸を掘り当てた。
あとは職人が穴の周囲を石で囲んで固めれば近日中に井戸として使える。
従者のロスタはエピテス達と女衆と共に城内の掃除をしている。外の住居拡張が第一だが、自分達の寝床ぐらいは綺麗にしておきたいのが女心という奴だろう。幸い城の井戸は枯れておらず、多少水が濁っていたが掃除ぐらいには使えた。
そしてヤトとクシナと言えば、クロチビとオットーを連れ立って城からほど近い森の前に居た。
「今からここで大きな獣を狩ります。沢山獲って引っ越し祝いの夕食を豪勢にしましょう」
「おーー!!」
「GUOOO!!」
「なんで俺まで………ったく」
ヤトの提案にクシナはクロチビの上で元気よく返事をして、オットーは不貞腐れて仕方なく付いて来た態度を隠しもしない。
事の始まりはクシナの不満だった。健啖家の彼女にとって道中の食事は量も質も満足の行くものではなかった。しかし千を超える大人数の日々の糧となると膨大な量となり、今後を考えれば節約も必要で手間も掛けられない。
当然タナトスは新しい城に引っ越ししたからと言ってお祝いに美味しい物を食べるつもりはなかったが、なら組織の食料を使わず勝手に用意すればいいと斜め上の結論を出した、食い意地の張った一部の連中が食料集めを考えた。
そうして方々に散って食料をかき集めに行く中でヤト達は森での狩猟を選んだ。オットーの情報ではこの森は≪太古の森≫と呼ばれ、容易に人を寄せ付けない秘境として長年放置されてきた。
理由は諸々あるが、一番の理由が住処にする獣が強すぎる事だ。森には幻獣が数多く生息し、通常の獣も大きく頭が良い。魔法の使えないただの狩人は言うに及ばず、魔導騎士さえ気軽に足を踏み入れれば帰ってこられない魔境と言われている。
それでも過去には森を修業の場として騎士や戦士が修業の場に利用していた例はそれなりにあった。尤も環境の過酷さで殆どが数日のうちに根を上げて逃げ出すばかりで、森の中がどうなっているかは杳として知れない。
あるいは森の奥に数十年修行を積んだ世捨て人の騎士が住み続けているなどと、出所の分からない妖しい伝説も転がっているが、実際にそれを見た者は居ないので単なる怪談の類だろう。
それでもオットーは鬱蒼とした針葉樹の森をどこか得体の知れないモノとして捉えて本能的に忌避していたが、それを素直に認めるには彼はまだ年を経ていないし、森ごときを臆しては一生ヤトに勝てないままと思って恐怖を振り払った。
三人と一頭は夏特有の青々と生い茂った草木の異界へと足を踏み入れた。
異界の中は思ったより広く、岩竜の巨体でもすいすい歩ける程度に木の間隔が広い。
三人はともかくクロチビが歩くたびに地面が揺れ、突然の闖入者に小動物が逃げ惑う。
狩りの基本は獲物に狩猟者の存在を悟らせずに近づき、必殺の距離まで近づくことにあるが、今のヤト達のように自ら存在を知らしめるような真似をしては、まともに狩りなど出来はしない。それでも平然としていられるのは今回の狩りの得物が普通ではないからだ。
「―――――来ました。数は前に三、左右に数頭」
気配を読んだヤトの言葉でオットーに緊張が走る。クシナとクロチビはまだ暢気に構えていた。
一行の正面には木々の隙間から様子を窺う三頭の獣。長い鬣を逆立たせて、短剣のような鋭い牙を無数に生やし、開いた口腔から汚い涎を零す四つ足の巨体。魔狼ガルムと呼ばれる幻獣に類する狼だ。人里に姿を見せるのは稀だが、性格は極めて獰猛かつ悪食で知られており、群れなら同じ幻獣でも狩ってしまう玄人の狩人だ。
オットーは震える手でフォトンエッジを構える。彼とて魔導騎士、ガルムに後れを取る気は無いが一頭ならともかく相手のテリトリーで囲まれれば恐れぐらいは抱く。
「おっ早速肉が来てくれたぞ」
「肉食ですから肉は臭そうですね。高温の油で揚げて香草をたっぷり使えば何とかなるでしょうか」
「あれを食う気かよ。つーか食えるのかアレ?」
オットーは魔狼に囲まれても平然と味の話をする夫婦にげんなりする。同時に震えは止まり、無駄な力が抜けた。
一行の漫才を好機と見たガルムの群れは三方から一斉に襲い掛かった。
「クシナさんは右、オットーは左を」
最低限指示を出した後、ヤトは正面から迫る三頭の汚れた毛の狼の内、最初に飛び掛かった個体の首を居合で斬り飛ばし、さらに一頭の頭に鞘を叩きつけて脳漿をぶちまけた。残る一頭は出鼻を挫かれて二の足を踏む。
右ではクシナが一頭の狼に圧し掛かられて、小柄で肉厚な身体を鋭い爪で押さえつけられたが、彼女は気にせず腹に拳を叩き込んだ。魔狼は飛び上がった後に地面を転がり、口から内臓の肉を吐き出しては痙攣する。もう一頭は既にクロチビの腹の中だ。我慢出来ずに生きたまま食ってしまったらしい。
左のオットーは炎刃を回転させて二頭が同時に襲い掛からないように牽制しつつ、少しだけ片方の狼への警戒を緩めて攻撃を誘った。案の定、一頭は誘いに乗って飛び掛かったが、理力による不可視の念動力によってオットーの頭上まで持ち上げられて腹を見せてしまった。そこを炎刃によって焼き切られて即死した。
もう一頭は仲間の敵討ちに地を這うような低い体勢で奔り、オットーの足に噛み付こうとしたが、読んでいた彼はその場に飛びあがって回避しつつ狼の背中から尻尾までをフォトンエッジで真っ二つ。
あっという間に仲間の六頭を物言わぬ肉に代え、内一頭は既に腹の中に消えてしまったのを見た最後の一頭は明らかに恐れを抱いて、その場で振り向いて逃げ出した。
しかし彼(彼女)?の受難はそれで終わらなかった。
生き残った狼は先程まで無かった、唐突に生えた巨木を見上げたまま、上から降って来た圧倒的な質量に潰されて新鮮なミートパイになってしまった。
「BUMOOOOO!!」
巨木は生きていた。柱のように太い脚で台地を踏みしめ、全身はしなやかな鋼のような体毛に覆われ、竜の如く太い胴体は動く家そのもの、前に突き出した三日月のように歪曲した巨大な二本の牙。
巨体は今しがた踏み潰した狼の肉を三日月牙を使って器用に口の中に放り込んでむしゃむしゃと食べて、大音量のげっぷをする。
それでも満足した様子はなく、小さな一対の瞳がヤト達を獲物と見定めた。
「おー!あれは食べ甲斐がありそうなイノシシだなー」
「おまっ!あれはスリーズの猪!!竜だって食い殺すお伽噺の魔猪だよ!!」
「なら気を付けないと駄目ですよクロチビ」
「KYUUU」
巨大な猪に獲物と思われ、震えが止まらないオットーと違って夫婦とペットの岩竜はどこまでも自然体のまま。それが彼にとってどれほど自尊心を傷つけたか当人にしか分からない。
それも戦場では何の意味も無く、お伽噺の魔猪は咆哮を轟かせて猛進した。
「BUUUU!!!」
魔猪が蹄を鳴らして突進する様はまるで山が近づいてくるようだった。
狙いは一番大きなクロチビ。人ほどもある巨大な二本の牙が装甲の厚い岩竜の鱗を貫通しうるかは分からないが、クロチビ自身が脅威と感じて身構える程度には油断ならない殺傷力を秘めていた。まして人の柔らかな肉などひとたまりもない。
「颯≪はやて≫」
突進力を殺すための気功の刃を翠刀より放ったが、柔軟にして強靭な毛皮に防がれてそよ風程度にしか効いていない。
牽制にもなっていない刃の後にクシナが飛び蹴りを放ったが、質量が違い過ぎて多少速度を殺しただけで猪に弾かれてしまった。
しかしその隙にクロチビが魔猪に正面から掴み掛ってガッチリと受け止めた。牙もクシナが蹴りを入れた事で角度がずれて上手い具合に逸れている。
猪と竜の組み合いはギチギチと筋肉が軋む力相撲となり、両者は一歩も後に引かない。その隙に男二人が側面から斬りかかった。
オットーはフォトンエッジで右前足を斬るが、思ったほどに刃が通らない。硬質の毛が蒸発して立ち込める蒸気が熱を阻害している。それでも駆動力の要となる足が傷付けば力は落ちる。
左からはヤトが壁のような猪の横腹に翠刀を根元まで突き刺すが、予想に反して刀は毛筋ほども刺さらない。
魔猪はメスだった。
すぐに気付いたヤトは翠刀を放り投げて、短剣に持ち替えて伸ばした刀身を気功強化して猪の横腹に突き刺した。今度は半ばまで刺さり痛みで暴れる。
両サイドから少なくないダメージを受けて暴れるが、正面にはクロチビがどっしりと構えて身体を抑え込み、隙を見て鋭い牙で噛み付いて肉を剥ぎ取った。
これには魔猪もたまらず前足を折りかけたが、死の恐怖に怯えて最大限の力をもって抵抗を見せる。
手始めに頭をクロチビの腹の下に潜り込ませ、一気に持ち上げて空に放り投げた。
さらに纏わり付く虫は巨体を左右に振って振り解いたが、オットーは負けじと斬りかかる。彼の炎刃は確かに牙の片割れを焼き切ったが、同時に大きな隙を作ってしまい、反撃で鼻先をぶつけられて、彼は木にぶつかって動かなくなった。
一人を倒して俄然強気になった猪だったが、すぐさま戦線に復帰したクシナの大岩も砕く凶悪な蹴りで後脚が砕けた。
前後ともに片足が負傷しては流石の怪物も動けず、最後はヤトが正面から頭部を真っ二つに切り裂き仕留めた。
「ふいー、手間がかかったが中々大きくて太った肉だ。クロチビも頑張ったな」
「GYURUU!!」
クシナに褒められてクロチビはご満悦。さらにご褒美にガルムの死骸一頭を餌として貰い、喜んで骨ごとボリボリと噛み砕いて飲み込んだ。
二人は残っている四頭のガルムの死骸を集めて猪の側に纏めた後、倒れているオットーの無事を確かめた。
ヤトの気付けで目を覚ましたオットーは頭を二~三度振って意識を覚醒させた後、仕留めた魔猪を見て唇を噛んで悔しがった。
「さて、まずまずの獲物は仕留めましたが、千人以上が食べたらあっという間に無くなってしまいます。出来ればもう一頭分ぐらい欲しい所ですね」
「ならもう少し奥に行ってみるか?」
クシナの提案にヤトは頷く。ここはまだ森の中程度。さらに奥に行けばもっと大きな獲物が見つかるかもしれない。
仕留めた動物を残しておくと他の獣に横取りされるかもしれないが、一時間やそこらなら多分大丈夫だろうと楽観的に考えて、三人と一頭はさらに奥へと向かった。