シュドグラヴァの大樹。
天へ逆巻く飛沫が如きこの大木は、世間一般では凡そ伝説と唱えられるエルフらの棲み処である。
伝説と言えど空想上の、ではなく位高い、貴族か皇族のような立ち位置としての伝説。魔力を自在に扱い、世界に幻想を編み成す気高き種族。それがエルフだ。
中でもシュドグラヴァの大樹が最上、最も天に近しき円蓋に住まう一族は、エルフの上位種……ハイエルフとして君臨している。
そんな、ハイエルフ。
ハイエルフ。
ハイエルフに、なってしまったのが、僕と。
「どうされましたか、ユニフィル様」
「あぁ、いや、なんでもない」
「それは、失礼いたしました」
ハイエルフは天上の一族だ。扱う魔力の潤沢さ、描く幻想の自在さ、何よりもその美貌が彼らを尊き足らしめている。エルフには届かぬ、況してや他の一族では目視する事さえ叶わぬ幻の一族。
そう、人間では、ゼッタイに関わり合う事など無かった──はずなのだ。
はずなのである。
「……はず、なんだけどなぁ」
窓の外。宛がわれた部屋の、大きな大きな窓の外には、あり得ない程の緑が広がっている。
地平の先の先まで緑。森。森森森森。
シュドグラヴァの大樹には遠く及ばずとも下界*1ではまず見られない背の高い樹が、一面にズラリ。それらの葉はどこかエメラルドを思わせる輝きを揺らし、陽光を受けて美しさを増している。
見晴らしのいい、というのはこういう事をいうんだろう。ただ高いだけのホテルなんて目じゃあない。
「目が眩むな……」
溜息と共に漏れ出でる記憶。不健康な光と湿度の高い木材。どこもかしこも酒の匂いが染みついていて、深呼吸をするだけで酔ってしまう程に爛れた酒飲み達の街。
下界も下界だ。かつては自分らの大陸を"下"と表現したことは無かったが、今にして思えばあそこは下界──それも、一番下の、肥溜めのような場所だろう。どう頑張っても、何があっても、高貴なるハイエルフが踏み入っていい場所ではない。
場所ではないから、
昨日の事だ。本当に昨日、一日前の事だ。
僕は酒に酔っていた。一端の冒険者と呼ばれる事はあれど、その生活が充実していたというわけではない。特定の棲み処を持たず、特定の誰かとつるむわけでもなく、特定の……そう、特定の何かを生業としているワケでもない。
冒険者というのは結局手に職持たない奴らの総称で、宵越しの金を全部酒と料理に突っ込んでしまうような計画性の無い奴らばかりだ。
多分に漏れず、僕もそう、というワケで。
その日、宿を取るのを忘れて、僕は路上で寝ていた。酒瓶を抱いて、愛剣を背にして、ぐーすかぴーすか寝ていたわけだ。
しかし早朝、冒険者としてはあるまじきことなのだけど、周囲のざわつきが僕に覚醒を促した。本来は人が集まった時点で起きていなければいけないというのに弛んでいる、なんて自分に喝を入れつつ目を開いてみれば──そこにいたのは、絶世も絶世、目を瞠るし、目を疑うし、目を凝らしたら目が飛び出しそうな、美人さんがいたわけである。
美人さんだった。美男美女と形容する人間には何度か出会った事があるけれど、その人は紛う方なき美人さん。美形、と言った方がいいかもしれない。神より賜りし造形美。僕らじゃ絶対に届かない至宝が如き輝き。
エルフ、である。
エルフがそこにいた。
多くの取り巻き……というか野次馬に囲まれて、この陰鬱な街にあまりにそぐわぬ輝きを持った美人さんは、あろうことか僕に目を向けているではないか。
僕は正直どこに出しても恥ずかしい見た目をしている。だってシーフだ。筋骨隆々なウォーリァーや流麗なモンクであれば話も違ったかもしれないけど、僕はコソコソと忍び込んだり裏を取ったりする卑怯なシーフである。その辺の盗賊と間違われても仕方ない見た目をしているのだ。
それを、エルフに。
それが、エルフに。
そんな僕を、エルフの視界に入れて良いはずがない。というか覗き込まれて良いはずがない。
故に立ち上がり、そしてようやく気が付くのだ。
今力を込めた、足も。立ち上がり様に愛剣を掴み、握りしめたその拳も。そして視線の高さも──何より、世界の見え方も。
違う。違う。違う違う違う。
何もかもが違う。
「ユニフィル様」
「──……?」
「お探ししておりました。どうぞ、我が森へお帰りください」
「……え?」
これが、本当に昨日の事。
昨夜起こった現実の話。
小汚いシーフだった僕は、いつの間にかエルフに……ハイエルフになっていて。
あと年齢も下がっていて。
あと性別も変わっていて。
何故か、千年に一度現れるハイエルフの統治者になっていましたとさ。
……どういうことなんだ、本当に。
「ユニフィル様、お食事の時間ですが……」
「ああ、今行くよ」
なよっとした声は出ない。流麗で煌びやかで甘美な声だ。ガラス玉の転がるような、紫電の迸るような。敵対者には威圧感を与えるだろうし、背後にいる者には絶大な安心感を与えるだろう。
なるほど、統治者。これは確かに、と思う。中身が僕でなければ。
ユニフィルという名自体は僕のものだ。どうして迎えに来たエルフの女性が知っていたのかはわからないけど、僕が生まれた時に親より授かった名前に間違いはない。僕を捨て、僕の知らない所で死んだ親がこの件を知っていたという可能性は無きにしも非ずだけど……いや、無いだろう。だったら捨てないだろうし。
とかく僕はハイエルフの統治者ユニフィルとして君臨した。
ハイエルフである。
幼女である。
……そう、幼女なのである。
シーフだった頃は少なくとも二十五は超えていたし、毎日毎日酒を飲んで飲んで飲んで飲んで浴びるように飲む生活をしていたから、幼女なるものとは無縁も無縁。たとえ飲み仲間の誰かが子を儲けたとしても、ゼッタイに触らせてはくれない。僕ら自身が僕らを信用できない事を理解している。あと酒臭すぎる。
だから、なんというか、すごく不思議だった。
柔らかいのだ。肌が。ぷにぷにほっぺなのだ。
統治者といえど幼女。周囲のエルフが女中の目には、尊敬や敬愛と言った感情のほかに、我が子を見るかのような母性が含まれているのがわかる。
うん、だから、物凄く恥ずかしい。
「酒は、あるかな」
「酒類を嗜まれるのですね」
「好んでいるよ」
統治者ってどういう喋り方すればいいのかわからないんだよなぁ。下賤な小市民に求めるもの多すぎる。
けれど嫌な顔をされない辺り、お酒は有るとみた。少しわくわくする。だってハイエルフに献上されるお酒だ。上質も上質、いつも浴びるように飲んでいた一杯50Gの安酒とは比べ物にならないものが出てくるに違いない。
「こちらへ」
重厚な扉の前に立つ。扉の開け閉めさえも、僕がやる事は無い。
開いていく扉──同時、美味しそうな匂いが漂ってくる。鼻腔をくすぐる芳醇な香りは、やはり下界のそれとは大きく違う彩りを持っていて。
だから僕は──期待した。
期待していたのである。
「……そう、だよなぁ」
食事が終わって、現在。
僕は絶賛落ち込み中だった。落ち込み度を1から10で表すとしたら120くらい落ち込んでいる。落ち込み過ぎてめり込んでる。
出てきた料理はおいしかった。それは間違いない。
少々薄味だったし、少々高級志向すぎるものもあったけど、間違いなく美味しいと言える出来だった。
問題は、お酒である。酒である。
不味い……んじゃない。口に合わない、わけでもない。
美味しかったし、透き通るような口当たりは天上にも昇る勢いで、危うく昇天するところだった。下界にいては決して味わえないお酒。食事との相性も良く、何千年と考え抜かれたシェフの心意気みたいなものを幻視した程だ。
でも。
酔えない。
酔えないのである。
「思考がスッキリしすぎている……」
ハイエルフは高貴な一族である。
そんな彼ら彼女らに出すお酒が、普通であるはずもない。
聞けばその酒の名はエリクシールというらしく、疲労回復、滋養強壮、果ては簡易な傷病の快復までやってのける万能薬。
確かに口溶けはいい。舌で転がしても、喉で飲んでも、鼻に浮かべても、最高の味を保証してくれる神酒だ。
しかし酔えない。なんでもエリクシールは酔いまで治してしまうのだという。
高貴な一族に酩酊は要らないと……いやその通りだけどさ!
「……作るか」
うん。それしかない。
僕がハイエルフになった原因とか、ハイエルフの統治者としてやらなきゃいけない事とか、まぁ色々あるんだと思う。僕にはわからない権謀術数が色々渦巻いているのかもしれない。
けど知らない。
こちとら飲んだくれシーフ。明日の我が身も怪しい世界で生きてきて、突然の安全と唐突な使命。
知らない知らない。
出されるお酒が万能酒エリクシールだけだというのなら、僕がほとんど悪影響しか及ぼさない安酒オブ安酒を作ってやる。
よし!
挫折した。
当然だ。僕に酒造の知識はない。というかマトモな料理だって作れない。そんな事が出来るならとっくにそういう職業に就いている。僕は、僕らは、戦うか探すくらいしか能がないから冒険者なのだ。
その日暮らしの浮浪者と言われても何も否定できない程何もできない奴らなんだ、僕らは。
だから、多少は脳のあるところ……探す、という選択肢を取る事にした。
これだけ広いエルフの国。シュドグラヴァの大樹の内部にも街や都市があり、その麓からも多種多様な文化が顔を覗かせている。
いるでしょ、お酒作ってるエルフくらい。
そんな軽いノリでやってきたシュドグラヴァの大樹が中央
無論僕には女中や護衛が付いているようだったのだけど、そこはハイエルフの幻想。一度も使った事の無い魔力が、けれど変幻自在に操り得るという事に多少はぞっとしたけど、有用ならば死体でも使うのが冒険者だ。
部屋に僕の分身体を置いて、適当に振舞わせて、僕は透明になって逃げる。
本来であれば複雑な工程が要るんだろうこの幻想を、ぱっと、具体的には指を鳴らすだけで実現できた。ハイエルフが凄いのか僕が凄いのかは知らない。出来るからやった感じ。
そうして抜け出したはいいけど、当然この国の地図なんて知らないワケで。
しかしそこも幻想。地図が欲しいと願えば、勝手に集まった魔力が形を成して僕の手元に何かを示しだしたではないか。それに導かれるように、具体的には点滅する光に導かれていけば、ここ、中央市に辿り着いたという次第だ。
シュドグラヴァの大樹は巨大で、天上こそハイエルフの領域だけど、幹の部分や下部の枝葉は下界を思わせる賑わいを見せている。
「そこの君」
「……僕?」
「そう、君だ。見ない顔だと思ってね。旅行者か?」
さて物色物色、と思っていた矢先にこれだ。
警備兵、だろうか。エルフなのは間違いないとして、この街には珍しい鎧を着こんだ人物。周りを見れば彼と似たような鎧装備のエルフが幾人かいて、それらは忙しなく周囲を観察したり、直接話しかけたりをしている。
「旅行者、とは、ちょっと違うんだけど」
「そうか。とにかく、この街には慣れていないとみたが、違うか?」
「あ、そう。慣れていないというか、初めて来た」
僕に話しかけてきたのはお兄さんだ。エルフのお兄さん。いや、シーフの頃の僕より年下っぽいからお兄さんというのはヘンな話なんだけど、相対的に、今の僕からしたらお兄さんだから、お兄さん。
お兄さんは僕がハイエルフであるとは気付いていない。幻想でちょちょいと細工してあるからなんだけど、しっかり機能しているようで良かった。
「親は? はぐれたか?」
「一人だよ、一人」
「その歳で?」
「褒めてもいいよ」
「危ぶんでいるんだが、伝わらないか?」
「伝わってる。でも大丈夫だから」
正直、あんなテキトーに作った分身体で欺き続けられるとは思っていない。だから早くお酒を探しに行きたい。行きたいんだけど、この人が許してくれそうにない。
困り申した。
「……一応、名前を聞いておいてもいいか。あぁ、怪しい話ではない。俺はこの中央市で警備を務めているケピテルという。君が、家出や迷子でないという保証がない以上、聞いておく必要があるんだ」
「ユフィー」
「下の名は?」
「ないよ」
言うと、お兄さん……ケピテルは怪訝な顔をした。
何か不味ったかもしれない。名前が二つあるのはお貴族様くらいで、今言った偽名含め僕には初めから一つしか名前がない。だから文化に慣れていなかった。もしかしてエルフは有って当たり前なのか。
「いや、わかった、ユフィーだな。是非、この街を楽しんでくれ。もし迷子で、強がっているだけだったら、一番東にある施設に行くんだ。いいな?」
「大丈夫、強がっているわけじゃないし、なんならお酒も飲める年齢だから」
「面白い冗談だ。将来は有望だな」
「それじゃ」
去る。足早に、そそくさと。
幻想を使って背後を見れば、耳に指を当てて何かを話すケピテルの姿。耳には魔力が集まっていて、そこから飛んだ魔力線がどこぞへ繋がっている。
いやな予感しかしない。急ごう。
「あった!」
「……なんだ、お前さん」
街の外れ。外れも外れ。幹の外周に近いその場所に、ポツンとそれは建っていた。
達筆で書かれた"酒"の文字。噎せ返るような酒蔵のかほり。求めて止まないものが、そこにはわんさかあった。
ズラリと並べられた瓶と樽。うわぁ、樽だよ樽。樽酒なんて酒場の机になってるのしか見た事ないっていうのに。
けど、何よりも驚いたのは。
「……女の子?」
「おうさ、お客さん。いきなり不躾じゃあねぇか?」
恐らく店主──なのだろう、エルフ。
女の子。
それも、僕と同じくらいの、幼女。
片あぐらで、酒瓶の首を片手に、口に加えた白く長い棒をクイクイやってる……正直、下界の空気の方が似合いそうな幼女が、そこにいた。
「へぇ、酒。それも安酒……悪酔いの出来るヤツが欲しいと」
「そういうの、ある? あ、別に高くても良いよ。とにかく酔える奴がほしい」
「そいつぁ物好きなヤツもいたもんだねぇ」
クツクツと笑う店主は、片方だけ履いたサンダルをペタペタやりながら、店の奥へと入っていく。
その後ろ姿を眺めていると、ふと、店主が振り返った。怪訝な顔。
「なぁにしてる。ついてこいよ、お客さん」
「あ、はーい」
店の敷地へ足を踏み入れる──途端、強くなる匂い。顔を顰めそうになるほどのその"高さ"は、だからこそここに理想があると確信した。
奥へ奥へ。幾つもの樽と石臼、壺や瓶の立ち並ぶ店内を抜けていく。店主のサンダルが鳴らす音だけを頼りに、クラクラする視界を抑えながら、ゆっくりと。
そうして、そうして。
「着いたぜ、お客さん」
「……ぅあ」
そこに──理想郷があった。
お酒だ。お酒だ。お酒がいっぱいある。見覚えのある安酒もあれば、先ほどの万能酒、下界で一度だけ見た事のある
それが滝のように流れたり、普通に並べられていたり、湯船が如く溜められていたりと……まさに理想郷を思わせる光景で。
「こ、こは?」
「アンタが一番欲しいものさ。好きに飲んでいいし、好きに使って良いぜ。ツケは天上でいいんだろい?」
「あ、ばれて……」
「一目でな。ま、好きにしたらいいさ。急な環境変化に慣れねえ事も多いだろ、少しくらいは必要なこともあろうよ」
くつくつと笑う店主に、けれど僕はそれ以上の追及が出来ない。
我慢が出来なかったのだ。今まで一度だって抜けた事の無かったお酒が、ハイエルフの身体となってから、すっかり抜けてしまっていた。まだ一日経っていないにもかかわらず、僕の理性はお酒を求めて求めて求めて求めて、もうどうしようもなかった。
お酒。酒。
さぁ、文字通り、浴びるように飲もう。飲むように浴びよう。
それがまるで、使命であるかのように。
「ユニフィル様」
「ん」
「今代も、貴女の毒牙にかけられてしまいましたか」
「来て早々文句かい? お前も変わらないねぇ」
「……酷であるとは、思わないのですか」
「どうせ消えるのに、ってか? くく、そりゃあ人間心理がわかってねぇな。いきなハイエルフになって、高貴な生活が出来るようになったのだから、良いモン食べて良い思いだけをして……そうして、幸せの最中に消える。そりゃまぁ、幸せなんだろうよ。エルフにとっちゃ至高か?」
「否定はしません」
「ああ、それでいい。……千年に一度、ユニフィルが現れる。必ずさ。必ず、どこかの誰かを塗りつぶして現れるんだ。人間であったり獣人であったりエルフであったりと様々だが……共通しているのは二つ。初めは元の人格があるという点と──たったの一年で、その人格がユニフィルのものに置き換えられるという点」
「ですから、それまでの間、至上を」
「至上じゃねぇのさ、アイツらにはな。欲だよ欲。酒に酔うのは快楽なのさ。知ってるか、快楽。お前らは知らねえだろう。酒に酔う快楽は、少なくともアイツにとっては何事にも勝る。至上の生活なんかよりな」
「……酔いは健康被害を齎します」
「それも込みで、快楽なのさ」
それに、と。
続ける。酒瓶を片手に、くつくつと笑いながら彼女は続ける。
「酒に酔う欲が、ユニフィルに勝るやもしれねぇ。俺の様に」
「そうなれば、新しいユニフィル様がどこぞかへ生まれます」
「チャンスは誰にでも平等に与えるべきだよ。それが人間なら、尚更に」
「そろそろ、泥酔したユニフィル様を回収し次第戻ります。託けがあれば承りますが」
「酒が飲みたくなったらまた来いよ、若僧。とでも言っておいてくれ」
「わかりました。では」
瓶を揺らし、酒を転がす。
嗤う彼女は、けれど少しだけ苦い笑みを浮かべた。
浮かべて言う。
「……況してやご同輩だ。女になるってのも、幼子になるってのも慣れねえだろうが……、まァ、頑張ってくれや。ハイエルフは色々と便利だからよ」
言った。
言って飲んだ。今は女中に運ばれているだろう彼女と、全く同じ動機で作り上げた悪酒を。
安い味だ。悪い味だ。身体に染みわたって良い事なんて一つもない、確実に明日へ影響を及ぼす類の酒。
「次は一緒に飲もうぜ、若僧」
だからこそ、この酒でささやかな乾杯を。
店主の言葉は、シュドグラヴァの大樹に包まれ、溶けていった。