台 詞 で 創 作 1 0 0 の お 題 作:まかみつきと
霧雨が、雲海を貫いてそびえる凌雲山を静かに抱きすくめていた。
無数の雫は溢れる物音を包み込み、街には眠るような静寂が満ちている。
灯火が要るか要らないか、狭間の薄暗さのなかで一心に書物を読み耽っていた楽俊は、気忙しく、だが押し殺したような叩扉の音に我に返った。
「文張」
扉の隙間から覗いた同輩は、珍しく顔をしかめている。
「どうした鳴賢、なにか……」
「ちょっと、着替えて来い」
尻尾を揺らしほたほたと歩み寄った楽俊に、鳴賢が早口で言ってその肩を叩く。
「着替えって」
「いいからはやく!」
衝立の向こうに急かされて、なにとも聞き返せないままとにかく姿を変え着物に袖を通した。
「そんなに血相変えて、なにかあったのか?」
「阿呆、血相変えなきゃならないのはお前だ」
苦い口調に、衝立をどかす手が止まった。
「おいら?」
「このあと、予定はないな?」
「あ?ああ。今日はもう」
「じゃあ、ちょっと外に出るぞ」
足早に堂室を出る鳴賢に従いながら、ゆるゆると不安が這い登ってくる。
「いったい、なにがあったんだ」
いつも快活で陽気な友人がここまで真剣な顔をしているのはあまりみたことがない。
そうさせるだけの事態で、しかも自分に関わることとはなんだろう。
楽俊に視線をやった鳴賢が、眉間の皺をやや深くした。
「さっき、息抜きついでに買い物に出かけようと思ったんだ。そしたら、門のところにあの子がいて」
「あの子?」
察しの悪い友人を、鳴賢がじろりと睨む。
「前、お前んとこに来てた、赤い髪の子だ」
楽俊が黒い瞳を見開いた。
「なんで陽子が?」
「それはお前が聞け。理由は言わないけど、ひどく落ちこんでるみたいなんだ。この天気に傘もないで門の外に立ってたから、俺も驚いたよ」
すれ違う学生たちを気
「お前に連絡はなかったんだな?」
「ああ」
短い返事にそうかと頷いて、溜息をつく。
灰色に滲む街のはし、途方に暮れたように立っていた少女。
「お前に会おうかどうしようか、迷ってたみたいだ。とにかく、一番近い
「よくねえ。ありがとな、鳴賢」
見つけてくれたのが鳴賢でよかった。
不安の中に僅かな安堵を抱えて、楽俊は走り出した。
「楽俊」
案内された
「陽子、どうしたんだ」
半ば駆けるようにして、陽子の顔を覗きこむ。少女の精彩を欠いた貌が、ぎこちなく笑顔を作った。
「ごめん、騒がせちゃって。なんでもないんだ」
「なんでもなくて、連絡もなしにいきなりおいらのところにくるようなお前じゃねえだろ」
いらねえ気なんか使うな、と叱ると、翠の瞳が縋るように揺れた。
「ごめ……」
謝罪の言葉は途中で途切れて、あとはただ俯いたきりの肩が震える。
嗚咽を堪えるように口元をおさえた指に雫が伝うのを見て、楽俊はそっと少女の肩を引き寄せた。
背中に流された髪は濡れそぼって、彼女が逡巡していた時間を思わせる。
舎館で着替えたのか服は乾いていたが、生地を通して触れた腕は冷たかった。
「むこうには、言ってあるのか?」
静かに問うと、腕のなかの頭が小さく横に振られた。
「ごめ……な、さい……」
掠れるような声に、緋色の髪を撫でる。
「べつに怒ってるわけじゃねえさ。ただ、みんなが心配するだろ?」
うん、と弱く頷いた背中を、あやすように軽く叩いた。その手に促されるように、陽子がぽつりぽつりと口を開く。
金波宮は浩瀚や遠甫の指揮で治められても、地方ではいまだ
「……全然、駄目なんだ。まわりはみんな頑張ってくれているのに、わたしだけなにもできなくて。所詮女王だって侮られても、それを押さえる力もない。王なのに、民を守るべき立場にあるのに、あの人たちを助けることができなかった……っ」
そうか、と相槌を打ちながら、腕のなかの温もりに切なくなる。
答えが欲しいわけじゃなくて、自身の不甲斐なさを責めているのなら、自分にできることはただ黙ってうけとめてやることだけ。
それだけしかできなくて、それが辛かった。
彼女がただの娘なら、こんな苦悩などしなくてすむのに。
こんなときは、いやでも彼女に課せられたものの大きさを思い知らされる。
そして、自分の力の足りなさも。
尭天と関弓は遠すぎて、励ましてやりたくてもおいそれと会うことは叶わない。
まして、距離以上に二人を隔てているのは、雲海。
人と神の領域を
引いてくれる人の手や伝えてくれる翼があるから繋がっていられる、
それを思いながら、自分に寄り添う少女の髪を
「そんなに、自分を責めるな」
こんな言葉が慰めになるかはわからないけれど。
「陽子は、王様になったばっかりだろ? まだまだこれからじゃねえか。治水も、官の整理も、今始まったんだ。なんでもかでも一気に押し進めて、いい結果が出るとは思えねえ。できることからひとつづつやっていくんだ。そうじゃねえか?」
「できる、ことから?」
「ああ。陽子に必要なのは、そういうことの積み重ねなんだと思うぞ」
そうだな、と言葉を捜す。
「とりあえず、今は泣きたいだけ泣いとけ」
ややあって、腕を廻した背中が小さく震えた。
「……なに笑ってんだ?」
「そんなふうに言われたら、もう泣けないよ」
まだ濡れた翠の瞳が、恥ずかしそうに笑いながら青年を見上げた。
「ありがとう。ごめんね、楽俊だって勉強大変なのに、甘ったれたこと言って、騒がせて」
「なに、溜めこんでどうにもならなくなるよりいいだろ。それに、陽子は頑張り屋だから、自分を追い詰めすぎるんだ。ちっとぐらい気を抜いたって悪かねえぞ」
「……そうかな」
「そうさ」
顔を見合わせて、ようやく少女が笑う。そこへ不意に玻璃を叩くものがあって、二人は同時に窓を見た。
楽俊には馴染みの音、そして互いに覚えのある鳥が窓枠に翼を休めている。
「陽子、おいらに送ったのか?」
相手を見れば、やはり怪訝そうな少女が首を振り、それからそら恐ろしげな顔をした。
「じゃあ、わたし宛て、かな……?」
不安そうに窓を開けて鳥を招き入れ、陽子が恐る恐るその翼を撫でる。
---陽子、祥瓊です。無事に届いたかしら?
赤い嘴から零れたのは、紺青の髪の少女の声だった。
その軽やかな口調に、陽子は大きく息をついた。
「絶対、景麒か浩瀚だと思ってた……」
おなじ予想をしていた楽俊がくすりと笑った。
---陽子のことだから、台輔か浩瀚様だと思ってたんでしょう。でもそれじゃ陽子がかわいそうなのでわたしがかわりました。どう、すこしは安心した?
茶目っ気を含んだ声音に、聞き入る二人が苦笑する。
こちらの考えていることなど、先刻お見通しと言うわけだ。
---陽子の考えてるとおり台輔はご機嫌斜めですけど、まあ班渠が一緒みたいだし、浩瀚様や遠甫がよってたかって言い含めているからこちらは大丈夫よ。いつも気苦労かけられているんだし、たまには心配させてやったら、とわたしや鈴は思ってるんだけど。こんなこと言うと、楽俊に怒られるかしら。
至って気軽な物言いに、二人は驚いて顔を見合わせた。
「陽子?」
「言ってないよ!」
---どうせ楽俊と一緒にいるんでしょう? ここを飛び出した陽子が行くところなんて、そこしか思いつきませんからね。だから、みんなもそれほど心配していません。……行っていないなら心配なんだけれど。駄目よ、いまもしも一人なら、すぐ楽俊のところへ行きなさい。陽子が一人でいたってろくなことないんだから。
命令口調の祥瓊に陽子は頭を抱え、楽俊が苦笑った。
「……わたしはそんなに信用がないのか?」
「どういう意味なんだろうなあ」
---……ええと。とりあえず、まだ気がすまないんだったらもう少し憂さ晴らししていていいそうです。これは浩瀚様からの伝言だから、心配しなくていいわよ。遠甫は、いっそ台輔が説教する余裕もなくなるくらいに気を揉ませてから帰ってきたら、なんて言っています。それも楽しそうだけど、あとが怖いからそれよりは早めに帰ってきてね。そうそう、鸞の足に袋をつけておいたわ。銀が入っているので、御褒美をあげてください。……落していないと良いんだけど。では、楽俊にもよろしく。
鳥がその赤い嘴を閉じても、脱力しきった陽子は顔を上げない。楽俊がくすくす笑った。
「祥瓊もたくましくなったなあ」
「……たくましすぎだよ」
近しい友人というだけではなく、女史として傍で助けてもらっているだけに、陽子は祥瓊に頭が上がらないらしい。
もう、と唇を尖らせた陽子の頭を、楽俊は笑いながら撫でる。
「ま、お許しも出たことだし、ゆっくりしていけ」
「……うん」
頷いた陽子が、額を楽俊の肩にもたせかけた。
初稿・2005.01.26
えーと、24の続きと思っていただいても結構です。
別でも一向に差し障りはありませんが。
うちの二人は、あんまりひっつくのを気にしませんねー(だから書いてんのはお前だ)
どういうスタンスなのか、私としても迷うところなんですが。
服来てりゃいいのか、楽俊・笑
状況にも寄るんだということでね。
これ、実はNo.11用に書き始めたものでした。
つまり、11番は本当は楽陽だったんですね。あははははー・逃