台 詞 で 創 作 1 0 0 の お 題 作:まかみつきと
過去を、未来を。
筆を置き、大きく腕を伸ばす。
ずっと俯いていた肩や背中がみしみしと音を立てて、それがいっそ心地いいくらい体がだるくなっていたことに、ようやく気がついた。
ふうと息をついて椅子に背中を預ける。
書物を読むこと、ものを書くことはすでに自身の一部のようになっているから、勉学自体は苦でもない。
ただ根をつめる癖が年々度を増しているようで、たまには息を抜けと学友たちに襟首を掴んで堂室から引きずり出される回数が以前よりずいぶん増えている。
親しくする者も増え、自然気心が知れてきたせいもあるだろうが、そうでもしないと室内にこもりきりな自分を、彼等なりに心配してくれているのだろう。
もっとも、鳴賢など少しでも勉強を遅らせて自分との差を減らしたいのだろうとは曉遠の説であるが、一緒になって出歩いていたのではどのみち状況は変わらないと思う。
第一、と楽俊は絹糸のような髯をかるくはじいて笑った。
そんな工作をするような鳴賢ではない。ちっとも追いつけないとぼやきつつ、楽俊に手を抜けとか勉強するなとか言ったことは一度もないのだ。
ただ、なんでそんなに急ぐんだ、とは最近よく聞かれる。
「文張、焦ることないんじゃないのか?どんなに早い奴だって、卒業まで五年はかかってるだろうに」
昨夜の食事時のこと。いつになく真面目な雰囲気の学友に、楽俊は肩をすくめたものだ。
「べつに焦ってるつもりはねえけどな。それに、おいらより勉強してる奴なんて大勢いるだろ」
「焦ってるんでなきゃ走ってるんだ。そりゃみんな寝食削ってやってるけどさ、文張とは集中力が違うだろうが。いまに身体壊すぞ」
「平気だ。おいら昔っから身体だけは丈夫なんだ」
「おまえなあ……」
「あと、学資のこともあるからなあ。奨学金を受けるには成績を落せねえし、受けられるにしたってあんまり長く居座るわけにもいかねえ。それに、上位を維持するには勉強するしかねえんだから、自然卒業するのも早くなるわけだ」
自分としては筋の通っている理屈に、鳴賢が顔をしかめた。
「それ、確かにわかるんだけど、お前が言ったんでなければものすごぉく腹立つな」
おいらならいいのか?」
「お前の勉強量見てて文句なんぞ言えるか。それに文張、勉強するの好きだろうが」
「そりゃあ、好きだからやってんだけど……」
答えながら、さすがに楽俊も苦笑した。
学生たちのほとんどは、允許を取るために、ひいては官吏になるために勉強していると言っても過言ではない。
勉強が好きだからと臆面もなく言える者は、たしかに稀少かもしれない。
まあ無理するなよ、と溜息をつく友人に礼を言いながら、楽俊は胸のうちでわずか頭を下げた。
あれこれと並べた理由に嘘はない。だが本当の理由は、他の誰にも言う気はなかった。
少しずつ、言えないことが増えていく。
それは数にしたらほんのわずかだけれど、かつての自分にはなかったことだ。
関わりのある人々のこと、幾つもの国の内情に通じていること、知ってしまったこと。
堂室を訪なう翼ある小さな使者と、その主の少女。
そして、今は共に雁に住む母親にさえ告げたことのない、自分の意思。
秘めていることは辛くない。
だがときどき、こんなにもちっぽけで非力な自分にいったいなにができるのだろうと、迷うこともある。
---わたしの手は、こんなにもちいさくて、こんなにも非力なんだ。
懊悩する少女の声が、ふと甦る。
早くも伝説ともてはやされて久しい、慶国は和州の乱。
王自らが猾吏を裁き乱を鎮めたと、民に新王を歓迎する気配が流れ始めたその裏で、玉座につく彼女が苦痛に顔を歪めていたことを、知る者は少ない。
---わたしたちと同じくらいの年の娘が、殺されたんだ。わたしは、彼女を助けられなかった。
たったひとりの民も救えなくて、なにが王なんだろう。
悲愴に笑う貌がいっそ見蕩れるほど美しくて、だからこそ胸が痛んだ。
そばで支えるちからになりたいと真剣に思ったのは、たぶんその時からだ。
おぼろげながら、そのつもりは最初からあったのだと思う。
少学に入りたいと言おうとしていながら、大学に、と声に出してしまったとき、自分でも不思議なほど違和感がなかった。
今思えばたいそうな見栄をきったものだが、あのときは自分で言った言葉がすとんと胸に落ちて、ああそうかと納得できた。
だから、訂正しなかった。
それはきっと、少しでも早く、少しでも多く、彼女の役に立ちたいと無意識に望んだから。
気がつけば、その想いはいつしか自分の核となっていて。
でも、ほんとうはまだ迷っているのだ。
せわしい毎日と山のような勉強をいいわけにして、決めかねている。
「いいかげん、きっちり決めねえとな」
口に出さなければ動くことも出来ない自分に、進歩がねえなあと苦笑った。
じき、最後の允許を取る試験がある。それがすめば、卒業試験。
答えを出さなければならない日は、すぐそこまできている。
初稿・2005.04.19
大学制度もっとよく知りたいです……(宋の勉強しろよ
学生のときにちゃんと勉強しとけば良かった。
あー、学生に戻りたいー。
えー、始まりました、楽陽ダッシュ・笑
ちょこちょこ別の話も挟みつつ、しばらく楽陽です。
ショート防止に冷えピタ用意しとこうか。
背景設定を考えるだけでオーバーフローです。