真剣で私に恋しなさい!-きみとぼくとの約束-   作:chemi

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『マープルの反乱1』

 

 

 

「あいつらにも、まだ仕事をしてもらわなければならないからな――」

 

 ヒュームがそれを言い終わる前に、凛が声を荒げる。

 

「なぜですか!? どうして、ヒュームさんが……九鬼家がこんなことに加担しているんですか!?」

「加担しているのではない。これは九鬼主導のもと、行われていることだ」

「なっ!?」

 

 凛はそれを聞いて、言葉を失った。川神の治安改善や、水上体育祭での協力に加え、彼にとっては師匠であるヒューム、クラウディオや揚羽、英雄、紋白といった個人との関わりがあり、また旅行の際のサポートといったことで、より身近に九鬼を感じ、親しみを覚えていたのだ。

 その九鬼が、川神に騒乱を起こしている――これまでとは正反対の行動と言っていい。

 

「そんな……こんなこと、英雄や紋白たちが許すはずないでしょ!?」

「それについては心配いらん。この件について、英雄様たちは一切関与していないからな」

「だったら!」

 

 そう言いかけた凛だったが、そこで口をつぐんだ。

 ――――関わりがなかったとしても、この非常時に英雄たちが動かないはずはない。でも、そんな動きがありそうな気配もない……。ちょっと待て……ヒュームさんの主である帝さんは、この事態に気づいているのか? いや、気づいていたら、なんらかの対処をとっているはず。九鬼の分裂をそのまま見過ごせば、衰退にだって繋がりかねない!

 凛は急な展開に混乱していた。

 ――――違う違う。もっと大事なことがある。大体、ヒュームさんが九鬼を滅茶苦茶にしてしまうことに協力するのか? 俺が生まれるよりも前から、長い年月をかけて作り上げたものを……守ってきたものを……。

 そこで凛の思考は妨げられた。

 

「さて、おしゃべりもここまでいいだろう。生憎、俺も暇ではないんでな」

 

 ヒュームが右足を前に進めた。

 

「ッ!!」

 

 目の前から消え去ったヒュームに合わせて、凛は自身の右側へと体を開きながら、後ろへ跳ぶ。声をあげる暇さえない。

 左足を振りぬいたヒュームがそのまま態勢を立て直し、凛へと向かってきていた。それは、まるでコマ送りの映像を見ているような感覚だった。しかし、その感覚が今は鈍っていることを思い出させられた。

 その1コマ1コマの間隔が、いつもの倍以上開いているのだ。

 ――――間に合わないっ!

 即座に判断し、頭をガードするように腕を持ち上げる凛。しかし、ヒュームの右足は、その下を掻い潜り、彼の左脇腹を抉る。

 それは、ボクシングでいうジャブのようなものであった。よって、それが致命的な一撃になることはない。しかしそれでも、十分すぎるほどの威力を兼ね備えていた。

 ――――これは……まずいな。

 態勢を立て直した凛は、熱を帯びたわき腹に手を添え、一瞬顔をしかめた。反応スピードが落ちているのに加えて、一撃のダメージが思ったよりも大きい。

 ――――やっぱり、先の戦いでの一撃のせいか……。ヒュームさん相手に、どこまで持つか。

その考えを見透かしたように、ヒュームが口を開く。

 

「無駄だ、凛。今のお前では俺相手に3分と持たん」

「それはどうでしょうね」

 

 凛は笑みを浮かべながら、再び構えを取り直した。勝てないからといって、ここから退くわけにもいかない。

 ヒュームはそんな凛を見て、ただ口角を釣り上げるだった。

 それを正面から見ている凛にとっては、悪魔のような笑みにしか見えない。背中を嫌な汗がつたっていく。

 ――――あぁ……くそっ! 嫌な状態で最悪の相手だ。まじでサンドバッグになるかもしれない。

 凛は覚悟を決めるように、大きく息を吐いて、世界最強を真っ直ぐに睨み返した。

 

 

 ◇

 

 

「お前との勝負はここで一旦お預けだ、鉄心」

 

 凛とヒュームがにらみ合っている最中、項羽がそう口走った。その左手に方天画戟があり、鉄心が繰り出したばかりの毘沙門天の踏みつけを受け止めている。既にその攻撃に合わせることができるようになったらしい。その表情には、まだ余裕が見られた。

 それを証明するかのように、項羽がさらに力を込め、それを振り払った。両者はまた一定の距離をとる。

 

「はて……どういうつもりかのう? お主がここに来たのはワシを倒すことが目的であろう?」

「それは少し違うな。計画はほぼ完遂されている。本当ならば、お前を倒しておくのが良いのだろうが、さすが総代と言ったところか、俺も無傷とはいくまい。それでは、このあとにある楽しみを存分に味わえなくなりそうだからな。ここに来てやったのは、従者どもの願いを聞きいれただけのこと。……それになにより、疲れの溜まったお前を倒してもつまらん!」

 

 全力である川神院総代を倒してこそ、俺の名に箔がつくというものだ。弱ったお前を倒しても、俺が納得できん。

 項羽はそう付けたし、鉄心の体越しに見える凛たちのほうへと視線を向けた。

 

「あとの時間は、凛とヒュームの戦いでも見物しようではないか! どうだ? 暇つぶしとしては悪くないであろう?」

「随分と勝手なことを言ってくれるのう。儂がその案に乗るとでも思うておるんかい?」

「ハッ! かかってくると言うのなら、叩きつぶすまでのこと!! だが鉄心――」

 

 その後に続く言葉を聞いた鉄心は、そこで動きを止めざるをえなかった。彼の後ろでは、再開された凛とヒュームの戦いが、より一層激しくなっている。

 

 

 □

 

 

 ――――真っ暗だ……ヒュームさんとの戦いは……。

 凛はゆっくりと瞼をあげる。その瞳に映ったのは、心配そうに見つめる百代の顔だった。

 

「凛ッ!!」

 

 百代は凛が目を覚ましたのに気がついて、思わず彼を抱きしめた。

 

「あれ? 百代……? どうして……それにここは」

 

 凛は布団に寝かされていた。

 凛の意識は未だボンヤリしているらしく、首を左右に振って辺りを確認した。左に襖があり、反対側は障子になっている。廊下からは往来する多数の足音が聞こえ、障子越しに忙しなく動く人影が映っていた。

 ――――ああ……川神院の一室か。そうか、思い出した。

 凛は上半身を起き上がらせると、安心させるように、百代の背中をポンポンと叩く。

 結果からいうと、凛はヒュームに負けたのだった。それはもう圧倒的な敗北――攻撃のほぼ全てがかわされ、あるいは防御され、繰り出される一撃一撃をその体に受け続けた。凛の身体能力も並ではない、また打点を僅かにずらすなどの技術によってダメージを最小限に抑えていたが、それによって、より多くの足技を喰らうハメになった。戦いを長引かせることはできても、その分ダメージはしっかりと蓄積されていく。

 最後の一撃をくらったときなど、凛は自身がどこに攻撃を受けたのかわからないくらい消耗しており、吹き飛ばされたと同時に気を失い、そのまま立ち上がることはなかった。

 百代たちが戻ってきたのは、ヒュームたちが引き上げてからだった。そのときには、凛は既に傷ついた僧らとともに部屋へと運ばれており、事情を聞かされた彼女が、真っ先にそこへ向かい、今に至る。

 凛が倒れてから、1時間以上が経っていた。

 ――――傷が……治ってる? あの変な違和感すらも……。

 そこで、障子がぱっと開いた。

 

「凛、目が覚めたようじゃの。調子はどうじゃ?」

 

 鉄心だった。しかし、その気の量は常時とは比べ物にならないほど減っている。

 

「はい、体のほうは大丈夫です。これは学長が?」

「うむ……しかし驚いたわい。川神の技を使ったとは言え、あれだけのダメージを負ったにも関わらず、もう目覚めておるとはのう」

 

 鉄心はいつもの癖で、その長いあごひげをゆっくりとさする。元気になった凛を確認し、一安心した彼だったが、同時に思うところがあった。

 あのまま、項羽との戦いを続行していれば、凛は今目覚めていなかっただろうと。

 なぜ項羽がそのような助言をしてきたのか。あの状況下で、壁を越えた者を2人同時に戦闘不能へと追いやることができたにも関わらず、凛をわざわざ助けさせるように仕向けた。そのダメージ量も鉄心が技を使わなければならないほどに、絶妙な加減が加えてあったのだ。不可解なことが多い。

 しかし、この判断が悪かったとも鉄心は思っていなかった。どちらにせよ、彼は多くの気を戦闘によって消費しており、これから戦いが起こっても、さほどの力を使えそうにない。それに比べ、凛は驚くべき回復力を見せており、既にその力を戻しつつあった。

 若さなのかもしれない。そんなことを考えた鉄心は、心の中で苦笑するのだった。

 

「ありがとうございました。これでまた戦えます」

「治しておいてなんじゃが、ヒュームに挑むつもりか?」

 

 ずっと離れなかった百代も顔をあげ、凛の顔を見た。彼は彼女に微笑むと、鉄心へと目線を向ける。

 

「やられっぱなしっていうのも癪ですし、それに聞きたいこともありますから」

 

 その後、ヒュームが川神院に現れたのを察知した3人には、鍛錬場へと向かうのであった。

 

 

 ◇

 

 

 鍛錬場では既に多くの人が集まっており、彼らと対峙するようにして、ヒュームが一人立っていた。その中には、彼に詰め寄る紋白やあずみらの姿もある。

 凛たちに気付いたヒュームが口を開く。

 

「ほう……もう立ち上がれたのか。さすがは鉄心……それともお前の回復力を褒めるべきか」

「学長の技はもちろんですが、俺も伊達に、ヒュームさんに鍛えられたわけじゃないですから」

 

 そこで突如始まったマープルの放送、それによって、2人の会話は終わった。

 その内容はマープルの九鬼家脱退、今の世に対する嘆き、偉人による日本統治だった。

 偉人を多く甦らせ、彼らを全て要職につけ、それでもって日本を導いてもらう――それこそが、真の武士道プランの目的だと高らかに謳い上げる。

 そして、その偉人たちを束ねる王が映り、デモンストレーションとして、工場の一つを更地へと変える。その映像は、まるで巨大な竜巻が襲っているようなもので、そこにあった建物は瞬時に瓦礫へと変わり、その瓦礫がまた隣の建物を破壊し、あるいは大空高く舞い上がったりした。彼女の一振り一振りが、とてつもない衝撃波を生み出し、結局10秒とかからず、それを成し遂げる。

 項羽が歩くその後ろでは、舞い上がっていた瓦礫の数々が、轟音を立てながら、地面へと落下してきた。黒い気を体から立ち上らせながら、画戟を右手に携え、砂煙をバックに悠然と歩く姿は、まさに覇王。

 多くの者が放送に釘付けになっている中、彦一も静かにそれを見ていた。凛はチラリとその様子を窺ったが、彼が何を思っているのか知ることはできない。

 

『準備は整った! 聞け民衆よ! 俺は王! 王に必要なものは城だ!! 出でよ、我が居城!』

 

 そして、また状況が一変する。

 項羽の叫びとともに、更地になったばかりの地面がせりあがり始め、やがて瓦礫を押しのけ、天をも突こうかという6重7階の城が瞬時にして出来上がる。その天守閣には太陽の光を浴びて、ギラギラと輝く金のシャチホコが両翼をなし、周りはご丁寧にも内堀、外堀の2重の曲輪構造までなしていた。

 この映像には、さすがの川神学生たちも唖然とするほかない。そんな彼らを置いていくかのように、目まぐるしく場面が変わる。

 再びマープルが姿を現し、月曜から本格的に動き始めることを宣言した。加えて、若者たちは月曜までに川神城に出頭せよと。

 映像はさらに切り替わり、人質となっている川神市の住人たちを映しだした。

 川神院、九鬼家など主要な場所も抑えた今、若者を――おまえたちを守ってくれる存在はもういない。人質という理由を使って、投降すればかっこもつくだろう。楽な方に逃げてこい。おまえたちの代わりに、偉人の手で素晴らしい国を作ってもらえば良い。さぁ返答は如何に。

 マープルはそう言って、ニヤリと笑う。

 

「我が答えよう」

 

 言葉を発したのは紋白。彼女は皆をぐるりと見回す。一人一人が、彼女へと頷きを返していた。それに力強く頷きを返すと、彼女は一歩前へと進み出る。

 

「マープルよ……よく聞くがいい! 答えは否!!」

 

 月曜までに川神城を攻め落とし、マープルの計画を阻止してみせる。

 紋白はそう吠えた。それに続いて、生徒たちが俄かに活気づく。

 そんな彼らを一笑する桐山のあとに、項羽をはじめとするクローン部隊、梁山泊の面々、さらに――。

 

「中々派手になってきたではないか。ようやく、コソコソするのも終わりか」

 

 天神館の生徒が映る。

 それを見た大友が声を張り上げた。

 

「い、石田! それに他の奴らまで……」

「ん? ああ、そこにいるのは大友か。さらに館長まで。日頃、我が子孫が世話になっているようだな。こんな場所からで申し訳ないが、礼を述べさせてもらう」

 

 その言動に、鍋島が反応する。

 

「おめえ、一体何者だ。うちの石田は……こう言っちゃなんだが、他人に対して頭を下げたりできる男じゃねえ」

「自尊心だけは高いようであるからな、困ったものだ。まぁそれより自己紹介といこう。俺の名は石田三成」

 

 その名を口にした瞬間、周りがざわついた。それもそのはず、石田三成とは歴史上の人物であり、この現代に存在するはずがない。クローンだというのなら、義経たちと同じ場所で教育を受けるはずであるし、そもそも石田は九鬼家と何の関係もない。

 石田がさらに言葉を続ける。

 

「疑うのも無理はない。俺とて、この場にいることが信じられぬからな。幾ら言葉を積み重ねようと信じぬ者は信じぬだろう。よって、行動することでそれを示そう。最も、俺の存在を信じられたときには、貴様らが地に伏したときであろうがな」

 

 百代が少し顔をしかめた。

 

「あれは……多分、本物だ。少なくとも、実力は本物だった。皆、油断するな」

 

 隣でそれを聞いた凛が、百代を注視する。

 

「まさか、百代を足止めしていた相手っていうのは――」

「ああ、アイツだ」

 

 そこで判明したことであったが、由紀江の相手をしていたのが島左近、燕の相手が長宗我部元親だという。彼らがどういう存在であるかは、甚だ疑問ではあったが、厄介な相手がさらに増えたことに違いはない。

 マープルが紋白へと語りかける。

 

『この戦力差を見ても、まだ先と同じことが言えるのかい?』

「もちろんだ! 我らの言葉に二言はない!!」

『威勢だけは一人前だね。それじゃあ、それが口だけじゃないことを祈ってるよ』

 

 そう言い残すと、マープルは画面から消えた。

 変わって、今まで黙っていたヒュームが喋り出す。

 

「お前たちが抵抗してきたことで、パターンCへと計画が変更された。あの城も、今までのやりとりも全て九鬼がしかけた映画の撮影……世間ではそのように処理されるだろう。マープルが動き出す月曜日まではな」

 

 外部の人たちに助けを求めることは無駄ということらしい。

 そして、真相に気付いたときにはもう手遅れであり、どうすることもできない。ドイツ軍も動けない日を選んでいる。ヒュームはそう付け加えた。

 クリスの身に危険が迫っていると知れば、あの父親がどんな行動にでるかわからない――いや、まず軍隊を率いて乗りこんでくるという事態も想像に難くない。

 準備は万全を期している。

 しかし、紋白は至って明るい声でそれに応える。

 

「問題ないぞ。我らが勝てばよいのだからな。マープルに勝てば、それはまさに映画のラストシーン。月曜までに決着をつけてくれるわ!!」

 

 それをしっかりと聞き届けたヒュームは、一つ頷き――。

 

「結構。交渉は決裂した。よって……早速戦闘開始ということだな、赤子共」

 

 闘気を爆発させた。それに反応した多くの生徒たちは一斉に身構え、大きく距離をとる。

 そんな彼らを一瞥したヒュームは、ただ鼻で笑う。一歩も動かない彼は、自身の前に立つ者が現れるのを待っているかのようだった。

 一歩も引かなかったのは、その場に10人と満たない。そのうちの一人が動き出す。

 

「ごめんね、百代。ここの相手だけは譲れない」

 

 そう言って、凛は静かにゆっくりと、ヒュームの前へと歩みを進めた。その背に百代の言葉が届く。彼女は最初から一歩も動く気はなかったらしい。

 

「彼氏が漢を見せようとしているときだ。それを邪魔立てする奴がいるなら、私が殴り飛ばしてやる。そっちはまかせる! こっちはまかせろ!」

 

 ――――相変わらず、男前な彼女で、俺が困ってしまうな。

 不安がないわけではないであろう。それでも、百代は気丈に送り出してくれる。凛はそんな彼女の言葉に笑みをこぼさずにはいられなかった。同時に、力をもらったような気がした。

 その百代の言葉を切っ掛けに、次々に凛へと声援が飛ぶ。その声援に、彼は拳を振り上げ応えた。

 

「ついて来い。他のことを一切気にせず戦える場所を用意してある」

 

 凛は、ヒュームのあとに続いて、再び歩き出した。

 

 

 □

 

 

 その夜、川神学園での作戦会議も終わり、各々が帰宅の途についた。嵐の前の静けさとでも言うのだろうか。川神の街はとても静かであった。その中にあって一際目立っているのが、淡い月の光に照らされる川神城。その窓という窓からは明かりが漏れている。

 それを横目に、項羽は、自慢の愛馬の名を冠するバイクを飛ばし、夜の川神を駆け抜けていた。暑さもようやく和らいできており、夜風が心地よい。

 目的の場所には、一人の男が佇んでいた。項羽が声をかける。

 

「こんな時間に、王である俺を呼びだす無作法者を見に来てやったぞ」

「こんばんは、葉桜君」

 

 彦一はあくまでいつも通りの言葉を返した。

 

「ああ……こんばんわだな、京極。それで、何の用だ?」

「約束を果たそうと思ってね」

「ほう……」

「……あそこを見たまえ、貴重な川神蛍だ」

 

 そう言って、彦一は扇子で多馬川の近くに生い茂っている草むらを指した。それを切っ掛けとするかのように、蛍たちが優雅に光の軌跡を描き始める。やがて、緩やかな光の帯が流れては消え、また流れては消えを繰り返した。中には、フワリと高く舞い上がる光の粒もある。また別の個所では、蛍が草の葉に多く止っているのだろう、まるで輝く花が咲いているようである。2人の眼前には、幻想的な風景が広がっていた。儚い命を懸命に燃やしながら、宙を漂う蛍――項羽も思わず、その光景に目を奪われた。

 そのうちの一つが、不意に項羽の近くへと寄って来る。彼女がそれを目で追うと、そんな彼女と戯れるように、それは彼女の周りを一周して、また川べりへと戻っていった。

 それを見届けた項羽が言葉をもらす。

 

「これは……なかなかに美しい」

 

 そこで一度言葉を切ると、視線は川の方へ向けたまま続ける。

 

「まさか、こんな状況になろうとも、約束を果たしてくれるとはな」

「やはり、記憶はあるのか……というよりも」

 

 彦一の言葉を引き取った項羽は、自身の説明をそのまま行う。二重人格ではないこと。自身は項羽であり清楚でもあり、よって記憶も全てあることなど。

 

「だから、こんな時間に呼び出した無礼者でもお前は殴らぬ。だいぶ世話になったからな」

「葉桜君の穏やかな心の海に、封じられていた血潮が混じり……荒海と化した。そういうことでいいのかな」

「お前がそれで納得できるなら、そういうことだ。次にお前が聞きたいこともわかるぞ」

「なんだね?」

 

 2人はそこで向き合った。

 

「清楚が戻る方法があるのか、その可能性があるのか知りたいのだろう? だが残念! 俺は俺――」

「それは誤解だよ、葉桜君」

 

 彦一は清楚の言葉に割り込んだ。そして、最初に出逢って間もないころの言葉を繰り返す。

 

「君の正体が誰であろうと気にしない。君が君のままなら、それでいいんだ」

 

 項羽はその言葉に少し面を喰らった様子だった。しかし、次の瞬間には言葉を紡ぐ。

 

「それを確かめるためにわざわざ呼んだのか? 酔狂な男だ……一体、何の得がある」

「クラスメートを……」

 

 そう言いかけたところで、彦一は口を閉ざした。そして、怪訝な顔を見せる項羽に微笑んだ。

 

「いや、ただ君が気になったから……ではおかしいかな?」

 

 項羽は自然と右手を自身の心臓のもとへと持っていった。確かに今、大きく鼓動が跳ねたのを感じたからだ。加えて、そのスピードも幾分早くなっている気がする。彼女はそれを忘れようとするかのように、右手を乱暴に下ろした。

 

「ああ、あと得したことならあった。ここに来てからだが……」

 

 そこまで言って、彦一は先を言いよどんだ。

 

「なんだ? さっさと先を言え」

「ふむ……こういうことを言うのは恥ずかしいものがあるな。……川神蛍は美しいが、それに照らされる人はより美しく輝いている。この世に私だけが知る光景だ……良いもの見せてもらった」

 

 そこで、しばらく沈黙が辺りを支配した。

 

「京極…………お前、よくそんな恥ずかしい台詞をスラスラと言えるな」

 

 よく見れば、項羽の頬は若干赤く染まっているようだった。

 

「君が言えと催促したのだろう」

「それは、そうだが……」

 

 しどろもどろになる項羽に、彦一は笑みを見せた。それに気付いた彼女が僅かに眉をつりあげる。

 

「何がおかしい?」

「いや、すまない。やはり、君は君だと思ってね」

 

 一人楽しそうな彦一は、一度川のほうへと視線を向ける。蛍は既に息を潜めており、元の平凡な風景へと戻っていた。そして、それはこの約束の時間の終了をも意味していた。

 

「蛍もこれで見納めだな……ではな」

 

 彦一はそのまま一度も振り向くことなく、元来た道を歩いていく。項羽はそれをただ静かに見送った。やがて、彼の姿は闇に溶けるようにして、見えなくなる。

 

「くそ……なんだというのだ。どうして……こんなに――」

 

 胸が苦しい。項羽はまた自身の胸元へと手を持っていき、ぎゅっと制服を掴んだ。治まれと願いを込めて――。

 そんな中、真っ暗な草むらの中に、ただ一匹だけ、光を灯す蛍が項羽の目に止まる。何度も何度も、まるで誰かに合図を送るかのように光を放つが、それに呼応する光はなく、それがとても寂しく、孤独に見えた。

 

 

 




書く勢いって大切ですね。
なんとかできてよかったです。

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