「それで、俺が呼び戻された理由は?」
小康状態とはいえ最前線で守備に当たっていた久焔をわざわざ名指しで引き抜いたのだ。なにか訳があっての事だろう。重臣会議での決定事項を知らせるだけなら早馬なりなんなり、それこそ明命の口から伝えれば済む話である。
改めて、久焔は一座の面々を見回した。
孫策、呂範、朱治、陸遜。
そしてここにはいない張昭の5人が、現在孫呉の舵取りを行っている。豪族連合国家という特徴上、政策等に関しては合議制を取る事が多いが、この5人が概ねの方針を決定し、それを承認するか否かという体制が事実上の政権運営である。
雷火──張昭の姿が見えないのが気にかかるが、まぁこの面子であれば評定ではなく内々で決めたことの伝達が久焔を呼んだ理由であろう。
「ま、有り体に言えば山越対策ね。最近陳珪がまーたちょっかいかけてるみたい」
「義父に叩きのめされたのにまだ懲りてないのか」
「懲りていないどころかより狡猾さが増しているな。奴も曹操の軍門に下ったらしい。山越の厳白虎と盛んに使者をやり取りしているのも、曹操の息がかかってのことだろう」
陳珪と言えば変わり身の早さと悪辣さに定評のある豫州沛国の相である。かねてより莫大な利益を生む長江の水運に目を付けており、事ある毎に江南進出を目論んでいた。山越と呼ばれる揚州の不服従民を扇動して孫家へ叛乱を起こさせ、自らも援軍を派遣したが、討伐軍を率いた蒼藦に手痛い反撃を喰らったという過去がある。
以後、表立っての行動は見えなかったが最近になってまた山越との交流が行われているという。明命が掴んだ情報によると、かなりの兵力を集め始めたらしい。
「誘いじゃないのか」
「恐らくそうですね〜。叛乱の準備も派手すぎて、こちらにわざと情報を握らせたかったのではと考えています〜。山越討伐に気を回しているところに、
「そこでだ久焔。お前には自分の隊じゃなくて
「なるほど、それで俺だけか」
山越、そして陳珪の兵達は一度蒼藦とその軍団に手酷く痛めつけられているため、恐怖心が植え付けられている。これを利用しない手はないということか。
「でも義父が率いれば済む話じゃ?まさか座り仕事が気に入ってもう馬上に戻りたくないとは言わないだろ」
ちらりと目を流して義父の顔を見れば、彼の人は大仰に溜息をついて薄い髭をさすっていた。
30も半ばになって妻も娶らず、一心に孫呉に尽くす蒼藦は今でこそ呉郡太守として政務に励む機会が多いが、元はと言えば
彼がいながら何故わざわざ義息である久焔に兵を率いさせるのか。
「久焔。お主をいつまでも蓮華様のお傍で遊ばせおく訳には行かぬということだ」
「……………………………………は?」
「なんだ、文句でもあるのか?呉の四姓と謳われた朱家の家督をくれてやるというのに、贅沢な男だ」
文字通り、久焔は目を剥いた。絶句と言って良い。
驚き過ぎでしょお腹痛い、だのなんだの野次を飛ばす
それもそうだろう。義父は、孫家の柱石朱治君理は近いうちに隠居をすると宣言したようなもなのだから。
「家督…俺が、ですか…」
知らずのうちに言葉が引き締まった。
朱家の養子となった日から、いずれは来るかもしれないと頭の片隅では考えていた。しかし、こんなにも早い段階で自分を後継に指名するとは思ってもみなかったのだ。
「お前以外に誰がいる。だが早まるなよ、今すぐお前に全てを任せるつもりは無い。今の内に慣らしておこうというだけだ」
「し、しかし…」
戦働で他に後れを取るつもりはないが、今後は家の運営、家臣の統制までやっていかねばならない。孫呉にその人ありと言われた朱治の跡を継ぐ、という重圧は覚悟していた以上の重さで久焔の肩にのしかかった。
「武功をあげて、勇姿を見せて、我こそが朱君理の跡を継ぎ上を行く者と皆に知らしめろ。実績もない名ばかりの若殿が手綱を握れるほど、ウチの連中はヤワじゃない」
義父の声音には断固としたものを感じさせる。もう何を言っても聞くつもりはないだろう。
ならば己が成すべきはただひとつ。
「全霊をもって、尽くします」
震えながら、それでも真っ直ぐに義父の瞳を見据えながら、久焔は短く応えた。
久焔が暫しの放心から立ち戻り、顔を赤らめて咳払いをし。
話は孫呉の今後の方針に移った。
「久焔さんか知りたいのは今後の我々の動きだと思うんですけど、取り敢えず現状黄祖攻めは延期となりました〜」
「山越の動きを鑑みてか?よく皆承服したな」
「蒼藦さんの口から山越の話を持ち出して貰いましたから〜。一度直接対峙した方の言葉は重いですよ〜」
「内外の敵を同時に討てるならば出兵もよろしかろう」との蒼藦の言葉に、主戦派連中も不承不承従ったらしい。
しかし明らかに不満気で今にも私兵を動かしそうな氷鷹の毒を抜くため、北壁の守備に当たらせると決定したとのこと。
「所詮は急場凌ぎだ。私の言葉もいずれ響かなくなり、国全体が暴れ馬の如く開戦へとひた走る未来が容易く想像できる」
「だから、可及的速やかに国内を纏めあげて戦争できる状態に持っていくの。山越を叩いて後顧の憂いを無くしたらもうこっちからイチャモン付けに行くわよ。孫呉の臣を誑かす曹操の非を鳴らす。だから久焔、遠慮は要らないわ。徹底的に叩き潰しなさい」
これには流石の久焔も不安を禁じ得なかった。
無論、山越との戦に臆した訳では無い。その後、あまりの苛烈さに豪族の人心が離れていくことを懸念したのだ。
「承知した」
しかし、口を挟まなかったのは投げやりなどでは決してない。久焔が思い至る懸念など、目の前の4人はとうに織り込み済みだろう。
それを信頼しての返答だった。
「雷火先生が見えないけど、それについては?」
「荊州が臭ぇ。劉表が隠居決め込んで劉備に州牧任せるとか言い出したらしい。そっちにかかりきりだ」
「黄祖もそれを嫌って曹操の下へ走ったか。もし本当なら荊州は混乱の極地だろうな。攻め時だな」
「曹操とぶつかるには今以上の兵力、更にはそれを養う生産力が必要不可欠だ。肥沃な荊州はなんとしても欲しい」
山越等の不服従勢力の決起をわざと待ち、事が起これば徹底的にこれを鎮圧。
また情勢如何によっては荊州へ出兵し、領土を獲得して国力増産に励む。
地盤固めと国外への進出を両立させる必要が出るかもしれぬ危険なやり繰りだが、否やは無しだ。
ここで踏ん張れるかどうかに孫呉の今後がかかっている。
「久焔、よろしく頼むわよ」
「応!」
家督のことや国内外の情勢、不安は多い。
だがそんなものを捻じ伏せるだけの力が自分には、孫呉にはある。
そう信じて疑わない久焔の返答は、どこまでも力強かった。
久焔が退出した後、4人だけとなった空間は静かな沈黙に包まれた。
「…言えねぇな、あれは」
口火を切ったのは刹渦である。
遠い目をしながら、久焔が出ていった扉の方を見やっている。
「でも、事が成ったらバレそうじゃないですか…?家督の事も驚いてましたし…」
「あぁ…しかし言い方は悪いが、あいつの愚直さは絶対に
穏も蒼藦も同じく、どこか後ろめたい気持ちを持て余している。
それは雪蓮にしても同じであった。
「やっぱり私は器じゃないわね。あんな真っ直ぐな子を騙して、国を率いる資格などありはしないわ」
それでも、と雪蓮は言葉を紡ぐ。
断固とした覚悟を滲ませ、前を向く。
「今この瞬間、孫呉の王は私しかいない。資格などなくとも、どんなに蔑まれようと、怒りを買おうと、私は止まらない。この国を少しでも良い方向へ導く為に」
江東の小覇王、孫策伯符の威に居合わせた者は頭を垂れる。
誰がなんと言おうとも、その姿は王に違いなかった。
呉の四姓に関しては、朱家は朱桓の方ではという説もありますがここでは朱治の方として話を進めます。
孫堅時代から仕えた朱治と孫権の元で成り上がった朱桓では前者の方が家格が高いのではという浅知恵ですが、実際問題どうなんでしょう?