「じゃあなんや、張郃はん離脱するんかいな」
「あぁ、先程稟さんから聞いた。先の戦での傷が思いの外深手で治療に専念するとのこと。思ったよりもあなたの出番が早いかもしれない」
性に合わない政務に飽き、暇そうに竹簡を弄んでいた張遼──霞は、僅かに目を細めて長い付き合いの謀将を見やった。
滅多に感情を表に出さない涼しい顔立ちの青年は、地図の上に大小の石を置いて何やら考え込んでいる。
「張郃はんぶった斬った男、なんちゅう名前やったっけ」
「朱然義封。騎馬隊の先頭に立って身の丈程の大剣を片手で振り回す、まさに悪鬼のような男だとか」
「なんや爽やんと真反対やなぁ」
からかうような霞の声にも、青年…荀攸こと爽葉は視線のひとつもくれず、困ったように笑うのみだった。
荀攸の非力は曹魏どころか他国の人間にも知れている。
彼は剣のひとつもまともに振れず、馬に乗るにしても振り落とされないよういつも必死だ。
だが、
張遼はそれを愛していた。
『己の領土の悪政を棚に上げて董卓殿の非をあげつらい、どころか捏造してこれを取り囲んで叩き殺そうとするとはいやはや袁家の華麗さにはほとほと感じ入ります。これほど高貴で素晴らしきお方を饗す経験はないゆえ、些か粗忽やもしれませんが我々董卓軍一堂腕によりをかけて馳走致す所存。………泥に塗れて死ぬ準備をして来い、阿婆擦れ』
かつて袁紹が反董卓連合を呼びかける檄文を発した際、それに対する返書として送り付けた文書などその最たるものだろう。
無論口だけの男ではない。
ともすれば気弱になる董卓の尻を蹴り上げ、猪華雄の頭を押さえ付け、ヤケに走りそうになる賈詡を落ち着かせ、20万の大軍を手足の如く扱って諸侯の連合軍30万以上を散々に苦しめた活躍は戦史に燦然と輝く。
しかもその後、紆余曲折あって曹操に仕官した後にきっちり袁紹を泥に塗れさせ殺しているのだから霞はもうこの快男子が大好きなのだ。
「霞さん…まだ執務中だぞ」
女かと思うほどにほっそりとした肩にしなだれかかれば、流石の爽葉も霞の顔を覗き込む。
だが彼の顔に驚きはない。お互い、慣れているのだ。
「えぇやん、ウチらの出番ちゅう事はこんなことも暫く出来なくなるねんで?な、爽やんええやろ?意地の悪いこと言わんといてぇな……」
ぐりぐり、と人差し指で胸のあたりをつつくと、苦笑する爽葉の顔が近くなる。我が意を得たりとばかりに霞もそれに応じ────
「あんたウチの甥に何してんの!?!?!?」
ようとしたところで、執務室の扉が豪快に蹴飛ばされた。
身内の貞操の危機でも感知したのか、飛び込んできたのは爽葉の歳下の叔母である荀彧桂花である。
「うげぇ、厄介な叔母上が来よったわ。ええやろ別に酒飲むくらい…」
「誰が叔母上よ!!大体私の方が歳下だから………って、酒?」
傍から見れば胸にサラシを巻いて袴を履いただけの痴女が甥を毒牙にかけようとしているようにしか見えない。
桂花の頭には疑問符が浮かんだままであった。
「ほぉん?桂花、ワレなんや勘違いしたんちゃうかぁ?ほれ言うてみぃ、ウチと爽やんが昼間っから執務室でどないな情事に励むか想像したんや?甥っ子取られる心配したんとちゃうか?」
「なっ、じょ、情事って、この不潔ッ!私は爽葉を呼びに来ただけよ!爽葉、華琳様がお呼びだからさっさと謁見の間に来なさい!私は伝えたからね!!」
「承知した、叔母上」
「だから叔母上はやめなさいって!!」
床を踏み鳴らしながら帰っていく桂花に一頻り爆笑した後、霞はヒィヒィ言いながら爽葉の背中を叩いた。
「桂花もおもろいなぁ、男嫌いなのに爽やんのこと大好きやんか」
「叔母と言っても妹のような奴だ、あまりからかわないでやってくれ。足音に気付いてやっただろう」
「ありゃ、バレてもうたかいな」
実際2人の間柄にやましい事など何も無い。
董卓の下で働いていた頃から、執務に飽きた霞が爽葉に酒を強請るのにこうして甘えるのである。
お互いに慣れているといったのはこれの事だ。
「さて、では私は華琳様の所へ行ってくる。酒は飲まずにしっかりと執務に励んでくれ」
「爽やんの鬼!悪魔!!夏侯元譲を傷物にした鬼畜軍師!!!」
「その物言いは本当に洒落にならん!と言うか未だに夏侯淵さんに真名を許してもらえない理由は確実にそれだ、曹魏首脳部の爆弾だぞ!」
董卓麾下において曹操軍と相対した折、破竹の勢いを止めるために魏武の中核たる夏侯惇を執拗に付け狙い、とうとうその左眼の光を奪ったという爽葉の戦歴は現在の曹魏の中では口に出すのも憚られる。
幸い当人同士が実力を認めて真名の交換まで済ませているから良いものの、夏侯家と爽葉の関係が微妙なことは事実であった。
サボり酒の為だけに内乱の火種になりかねない爆弾をぶっ込んでくる霞に、流石に閉口するしかない。
「ならええやんか酒の一瓶くらい!さぁ!さぁさぁ!!」
「あなたという人は…」
諦めたように酒倉の合鍵を献上し、爽葉は溜息を吐いた。
「では行ってきます。俺の分は残しておいて下さいね」
「分かっとる分かっとる♪いやぁ話のわかる相棒を持ってウチは果報者やなぁ♪」
間もなく、謁見の間に曹魏の頭脳たる面々が集まった。
郭嘉こと稟に、程昱こと風。そして桂花、爽葉、楼欒の5人と彼らが主君。
「急な招集で悪いわね」
曹操孟徳、真名を華琳。
本人の与り知らぬうち、南方に在する朱義封に憎悪の的にされている女である。
「悪いと思ってんなら呼び出さないでよ…」
聞く者が聞けば首と胴体がおさらばするような悪態を吐く楼鸞には、赤い首輪とご丁寧にそこから伸びる鎖が付けられていた。無論その先を持つのは桂花である。大方行きたくないと机にしがみついた楼蘭を無理矢理引っ張ってきたのだろう。
「さて、知ってのとおり南下先遣隊が手酷くやられたわ。程普の包囲を解いて遠巻きに陣容を立て直す、ではなく壊走ね」
「いや僕の方見ながら言わないでよ、幾ら何でも豪族の叛乱が一戦で鎮圧されるた思わないじゃん」
孫呉を内部から疲弊させ、同時多発的に侵攻をかけて手が回らなくなったところで叩き潰すとの策を上奏したのは楼欒だ。
……何か言えと華琳からニッコリと凄まれて適当こいたというのが実情ではあるのだが。
しかし適当にせよ、当時はまだ曹魏に仕官して日が浅かったため、それまでの隠棲する名士という立場を利用して自ら江東の豪族と接触するという離れ業をやってのけた。孫策も、その懐刀の呂範もそれに気付いた形跡はなかった。
もし叛乱が長引き、孫策が妹の孫権の援軍として有力武将を派遣していれば孫呉は北方に割く人手が足りなくなり、程普の首を奪ることは容易かっただろう。
こればかりは叛乱を一撃で鎮めて返す刀で北方へ出張って来たという敵将を褒めるしかない。
「孫呉には
「まぁ良いわ。向こうが大猩々なら我々には良く頭の回る毒蛇がいることですし」
「強引に召し出しといて毒蛇呼ばわりとか華琳ちゃんの血は何色だい?」
最早恒例となりつつある応酬を気にする者はもう桂花以外にはいない。風に至ってはうつらうつらと船を漕ぐほどであった。
「ですが朱然という男、確かに注意が必要かもしれません。ろくに軍備を整える間もなく、しかも長距離移動で疲弊した筈の騎兵で張郃殿を鎧袖一触とは並の将ではないかと」
曹魏頭脳部の中では軍略に秀でる稟が眼鏡を光らせる。
爽葉もその言葉に大きく頷いた。
「然り。実際にやり合うまでは分からないが、直下軍の指揮に優れているという事は間違いない。風さん、彼奴について何か情報は集められたか?」
「……ぐぅ…」
「「寝るな!」」
「おぉう!風としたことが、楼欒さんと華琳様のほのぼのとした夫婦漫才の陽気にやられて眠りに誘われてしまいました」
「夫婦????いくら主君は選べなくても妻を選ぶ権利くらいは欲しいですよ流石に」
我慢ならなくなったらしい桂花の膝蹴りを喰らい、嘔吐く馬鹿を放って華琳が続きを促した。
風は謀略に関して、曹魏のどの軍師よりも優れている。
最近では楼欒という名相方を手にし、敵の攪乱策や隠密の手配などをこなしている。
「孫呉に放った細作はほとんど帰ってきていませんねー。恐らく周泰さんの御庭番に始末されてしまったんでしょう。ですが風達も無能ではありませんので、朱然さんの御実家…施家の方にも探りを入れましてー」
「それが当たりだった、と?」
「はい〜」
曰く、下級役人施氏の長男に生まれ、母の弟が孫堅配下の朱治君理という縁から古くから孫家と繋がりを持つ。
曰く、幼少の砌より武に関して天稟を見せ、朱治の甥ということで孫呉の宿将達から将達と交流する。
曰く、朱治が後見していた孫堅次女、孫権と机を並べて学ぶようになる。この頃から宿将達に次世代の孫家家臣として指導を受ける。
曰く、孫堅死亡後には袁術の人質となった孫権に随身して賊討伐などに参加する。
曰く、董卓の討伐後、袁術からの独立を期した当主孫策の命により孫権の身柄を護送・合流しそのまま独立戦争に参加。
曰く、袁術との決戦を前に正式に朱家に養子として迎えられ、呂範麾下として勇戦、張勲を討つ。
曰く、現在は甘寧と並んで孫権に最も近い武官。
「血は受けずとも孫家の
華琳の即言に、桂花が目を剥いた。
これ以上陣容に男が増えてたまるかといった嫌悪が顔に表れていたが、流石にそこは軍師。至極冷静な言上を行う。
「恐れながら華琳様、彼奴は仕えるべき主を己の目で定めた訳ではありません。孫家に引き立てられた恩に報いる為に戦っていると思われ、しかも孫策の理想というより血脈に忠誠を誓っている準譜代のような立ち位置。この類の人間は華琳様の尊き理想、覇道を理解しようとはなさらないでしょう」
「私も桂花に同感です。待遇に不満を持つそぶりを見せているのならば兎も角、現状朱然の引き抜きはかえって彼と孫呉の将達の怒りを買い、態度を硬化させることになると愚考いたします」
桂花と稟のどこか必死さを帯びた言には華琳も苦笑するしかない。
無論華琳様とて彼女達が指摘したことを理解していない訳では無い。
むしろ、これと思えば引き抜きたくなるという自身の悪癖を誰よりも分かっているからこそ、わざと謀臣達の諌言を引き出し、自身の中で折り合いを付けようとしている。
全て理解した上で興味無さそうに黙っている楼欒に言わせれば「めんどくさい儀式」なのだが、華琳様にとってはこの一連の流れは諦めるためにどうしても必要なのだ。
「で、その朱義封は諦めるとして…楼欒、策は?」
「なんで僕?」
「あなた性格悪いからこういうのに向いてるのよ」
「クッッソ不本意ながら我が胸中に策ありなので否定はしませんよ、えぇ。けど爽葉くん、君の意見が聞きたい。僕としては孤立か対立かで些か悩んでるんだけど」
「……俺は、対立で行きたいな。正直に言うと曹魏は局地戦に弱い。相手取った俺がそれを一番分かっている。春蘭さえどうにかすれば勝てずとも大敗けはせん。俺達の強みは華琳様の指揮の下全軍がまとまって乾坤一擲の勝負に挑む時に発揮される」
「ははぁ、
「私としましては外様と譜代の線もありかと。まず孤立策を取ってから、彼が失脚するのを待って対立路線というのは」
「そうなると朱然さんが同年代の将達とどれほど結びついてるのか、という情報も必要になりますー」
「朱然が立て続けに手柄を立てたことで反感を持つ譜代武官も出てくるわね。司馬懿、あんたまたどうにか建業に渡りつけなさい」
「荀彧ちゃんは僕に死ねと???」
最低限の言葉で、速さで、孫呉という狂い猛る虎を絡め封じるための
狩りに出る前に、罠を仕掛け動きを封じることこそが我らの仕事。
そう言わんばかりの謀臣達の熱心な(若干一名の面倒そうな)議論を見、覇王は満足そうに笑んだ。
「我が覇道の成就は近い………」
表記し忘れていたのですが、いつも誤字報告を下さる方々、本当にありがとうございます。この場を借りてお礼をさせて頂きます。