誰かに書かれる前に書く。二の轍は踏まない。やったもん勝ち。
※この作品はpixivとマルチ投稿しております
(誰かに)ヤられる前にヤれ
この世には人ならざるものの在り
そして、それらを払い清めるもののまた在り
この世のあらゆるものには魂が宿り、幾何の年月を経て摩訶不思議な力を得て人を惑わすことあり
是、即ち
人が死んで転ずるもの
ものや道具に込められた想いから転ずるもの
成り立ちは千差万別、その数に限りはなく、また形もなし
行動原理は理解不能、その理に秩序はなく、また道もない
縋られ、崇め奉られるものは神と呼ばれ
疎まれ、祓い退けられるものは妖と呼ばれ
されど──―
されど、されどされども
その妖に、人の想念が
恨み、憎しみ、妬み、嫉み
情念が、縁が、因果が
廻り廻って想い宿らば、妖は「ものの怪」へと転ず
人の情念、心の闇は、時に神を狂わせる
「もの」とは、荒ぶる神を指し
「怪」とは、病を指し示す
ものの怪、荒ぶる神の病
時に人を病の如く祟り、時に嘘の如く人を欺き、時に災の如く人を害し
時に、人の如く人を殺める
げに恐ろしきものの怪、あるいはまじないの亡霊と呼ばれしばけもの
見えるものと、そうでないものがいるという
例え、見えるものであったとしても、並大抵のものであれば言うに及ばず、見るも無残な骸を晒すのが関の山
されど、まことにつよき霊力を持ったものであれば
されど、まことにものの怪を退ける術を持ったものであれば
人の念により生まれ出づる、人の想いの成れの果て
それもまた、人の想いが解き放つものである
▼ ▼ ▼
呪術業界において、特級を冠する登録済みの呪霊は16体存在する。
その何れもが規格外であり、呪霊を払う際に原則では同等級の呪術師を派遣することが通例である。しかし、どれだけ時代を経ても呪術師の人員が呪霊を上回ることはなく、万年人手不足である呪術師はたとえ格上の呪霊であっても相手取らねばならないときがある。
先に、登録済みの特級呪霊は16体と書き記したが。
それはあくまでも、2017年以後の記録である。
遥か昔、未だ日ノ本の国が諸外国との交易を始めて間もない頃。
新島、野島崎、南蛮の島を結ぶ海域を、龍の三角と呼んでいた。
この世ならざる妖が棲まう魔の海域。海の上の交易が始まる以前は地元漁師の言い伝えで済んでいた、いわゆる『眉唾』『噂話』に過ぎないものであったが。
交易が盛んになるにつれて龍の三角を通る船も少なくなく、そして龍の三角を通る船は何一つの例外なく消息を断ち、数年後に幽霊船と成り果てて発見されていたという。明らかに何らかの事象が働いていると考えた当世の呪術師は、徒党を組んで龍の三角へと乗り込んだ。
悍ましいほどに濃度の濃い呪力。死体に集る蠅の如く蔓延る大小さまざまな呪霊の類い。殺された人間たちを喰い漁る妖、もののけ、化生の類。
そして、天から見下ろす見たこともないほど巨大な目玉。
海域の呪力に犯されながらも息絶え絶えで生還した唯一の生存者が当時の呪術師の総本山へ警告を発し、日ノ本の国に住まう呪術師の粋を結集して漸く封印に成功したと記録に残されている。
その立役者とされるのが、後に御三家と呼ばれる五条、禪院、加茂の先祖である。
やがて呪術師は呪力の力量に応じて等級を設け、頂点に君臨するものを特級と位置付ける。
一番最初に登録された呪霊の名は、空白とされている。
御三家はかの呪霊を書物に記録を書き記すことすら憚り、口伝でのみその驚異を伝え続けることとなる。
しかし、呪術界の重鎮は万が一の大呪霊の復活を畏れ、密かに監視者を用意した。
「どう? キミ、ここでずっと『窓』をやってるんでしょ」
「ええ、まぁ。曾祖父の代からずっとここでの監視を任されてます。私の家以外にも何人かこのお役目を引き継いでます。幸い霊視持ちではありますが、それだけです。呪霊を払う力も術もありません」
「ふぅん」
青年は大杉と名乗った。特に力を持たない非術師、一般人だ。
インスタントですみませんが、と一言入れて差し出されたコーヒーを受け取り、包帯で両目を覆った現代最強の呪術師五条悟はスビスビと音を立てて飲み干す。
家は簡素なもの、と言えば簡素であるが、一般家庭における家とはそんなものだろう。子どもは保育園に行っており、奥さんが迎えに行っている。あまり聞かれたくない時間帯を訪れたのは五条悟の配慮でもある。
「で、動きがあったわけだ」
「はい。一か月前です、奇妙な波のようなものが、龍の三角に該当する海上を起点に確認されました。最初は例の呪霊の欠伸か何かだと思っていたのですが……」
「……一か月前か。呪霊が活発化し始めた時期と重なるね」
茶菓子を口の中に放り投げながら、居間の窓から望める海を睨む。
海が見える家はそう少なくない。だがその中のいくつが、たかが一個体の呪霊の監視の為に配置された家なのだろうかと、邪推せずにはいられない。
「ええ、私も先週それを耳にして焦りました。お役目を引き継いでいる他の家とも連絡を取りましたが、同様に波を目視で確認した当日には呪術高専に連絡を取ったそうです。ですが……」
「まぁ、何百年も監視されてた特級呪霊が今更動いたところでねって気もするけど」
特級、である。
下から四級、三級、二級、一級。
そして特級。能力にこそ差があるため特級であるからと言って人間を大量に呪い殺すほどの力があるとは限らない。だが特級と指定・登録される呪霊の大半にはそれだけの脅威がある。
一級と特級には隔絶された差がある。少し強力な呪力を持っていたからといって、一級が特級に繰り上げられることはない。
それだけ、特級と指定される呪霊の力は人智を越えた災害なのだ。
「仮にも特級。こんな目立つことをしてまで呼び掛けたってことは、何かしら意味があると考えるべきだろう」
「特級……本当に、特級なんですね……いや、疑ってた訳じゃないんですけど、特に力もない私たちがずっと見守ってきてたのってそんなにやばいやつなんですね」
「ん~~~…どうなんだろうね。特級と定められたのは呪霊と呪術師の等級制度が定められた当初の話だし」
封印された呪霊の脅威判定は大幅に引き下げられる。
封印にはいくつかの定義がある。術式により封じられたもの、呪力を減退されたもの、呪霊としての機能が消えたもの、術式として落とし込まれたもの、様々である。
例に漏れず、件の大呪霊も特級から引き下げられる筈であるが。
(──にも関わらず、登録されて以降ずっと特級から引き下げられることが無かったというのは引っかかる)
いつもの老害案件かと思ったが、それは違うと否定した。
何より、今回の一件で件の特級呪霊が動いたと知った上層部の反応が過敏過ぎたのだ。悟本人でさえ腹の内も見えない、食えない連中と思っていたにも関わらず、その彼らが怯えを隠し切れていなかった。
恐怖。そして畏怖。
何百年も封印され、監視されていたとしても尚、その驚異を払拭することは叶わなかった。
(というか、知ってる連中がビクビク怯えてたから生き永らえたんじゃないの~?)
「……実は」
「ん?」
「以前、封印が緩んだ時期があったそうです」
「ああ、それはこちらにも記録が残っていたよ。あれだろ? 関東大震災」
大正12年9月1日。
近代化しつつある首都を襲った未曽有の大災害。確かに、災害の発生は人間に恐怖を抱かせ呪霊にとっての呼び水となる。加えて、物理的な現象ともなれば経年劣化した封印が緩むのも道理。以前、地震で生じた大地の亀裂から呪霊が溢れたという話もあった。
「でも、それはあくまでも地震のせいで封印が緩んだって話だよね?」
「ええ、そうなんですが……お役目を継いでいた母方の祖母が、言ってたんです。『あれは龍神様の寝息だ』って……」
「……龍神様? あそこで封印されていたのは、呪霊であって神様じゃないんだろ?」
「わかりません……祖母の迷い言かもしれません」
地震はあくまでも自然現象。
しかし、この近海に住まう人々は古より龍の三角の伝承を知っている。かつての人間のように、嵐や雷、地震など人智では手に負えない災害を神の御業の如く畏れてしまうのも無理はない。
科学的にそうでないと分かっていても尚、人はありもしない存在と結び付け、畏れるのだ。
「まっ、最強の僕に任せなさい! 」
▼ ▼ ▼
【お久しゅうございます、空亡様】
【
【久方ぶりだな、漏瑚、花御】
龍の三角と呼ばれし海域。その中央。
島と呼ぶには値しない、白砂が敷き詰められた海の上に、三つの影。
一つ、火山の如き頭部、巨大な一つ目、真っ黒な歯、老獪なる体躯。
二つ、堅固なる頭蓋から生えたる二枝、隻腕、肌を走る枝葉の紋、筋骨隆々なる巨躯。
そして、三つ。
赤髪、左右に開く単眼、土肌に張り付く無数の呪符。
【ん、そうか。お前たち同士は今日が初の顔合わせか】
【ええ……矢鱈草木を愛でる木っ端呪霊がいるという噂は聞きましたが】
【
【お? やるか?】
【
【やめい、おんしら】
ベン、ベン。ベィィン。
琴の音が響き、両者の肩が揺れる。
そそりと視線を空亡からずらすと、海上で魚に人間の手足が生えたような呪霊が琴を弾き鳴らしていた。感情を感じさせない魚の目は瞬きもせずじぃっと漏瑚と花御を睨みつけていた。
身が、竦む。
呪力こそ対して感じられないが、その身に内包されたる禍々しき呪詛に息を止めた。
【無理はするな海座頭。客人は彼等で最後だ、もう休め】
琴を弾き鳴らす魚頭の呪霊の頭上を指で切る。すると、ふ、と海座頭の目が白目を剥き、やがてぴくりとも動かなくなった。
【お前の琴の音は好きだったよ、海座頭】
【既に、死していたのですか】
【ああ、いい加減もう限界だった。呪力は枯渇し畏れは途絶え、生殺しに近い環境でよく今まで持ってくれた。おんしらが座っているのも、船幽霊の死骸ぞ】
【のぉ!? こ、これは失敬】
【いや、よい】
足元の船幽霊の死骸を見て、漏瑚も納得した。
以前、物見遊山に龍の三角を訪れ、呪霊の首魁に相違ない空亡を目の前に平伏した漏瑚であったが、その頃よりも海域由来の呪力が減退していると分かっていた。
恐らく、龍の三角は既に呪霊として生きるには呪力が薄すぎてしまったのだろう。それも、人間共によって呪力の根源足る空亡を封印されてしまったことが原因だ。
しかし、封印されてる本人たかつての力こそ失われてしまったものの、呪符の奥から滴る濃厚な呪の気配は衰えを知らず。
【それで──此度は如何様な件で我らを呼ばれたのですか? まさか……ついに決起の刻でありますか!?】
【漏瑚、そう焦くな】
逸る漏瑚を押しとどめ、空亡は二人を矯めつ眇めつ眺める。
呪力は相当のもの。試練とばかりに遍く呪術師を潜り抜け、撒き、或いは撃退して龍の三角へ辿り着いたということは、それなりの力を持っていると判断した。恐らく、領域展開や極ノ番の一つ、二つは扱えるほど。
成る程、これならば安心だと、空亡は頷き、口火を切った。
【おんしらに、我等呪霊の未来を託す】
【……未来を?】
【そうだ。今世は──不当だとは思わんか? 確かに我々は人の負の感情より畏れより出づるものであるが、偽りの正の感情を被り、我が物顔で振舞う人間共の高慢な顔を見て……腹立たしいとは思わぬか?】
呪霊とは拝跪し、畏れ、敬うもの。
それが心からの恐怖の発露であり、真であり、理でもあった。
騙り、弄し、欺き、謀る人間とは違い、呪霊には嘘も偽りもないのだ。
ただ、真実だけを映し出す。真実を見つめる眼を曇らせるのも、また人間の持つ傲慢なる心だ。
【……そう、です。そうです! 儂もそれを考えておりました!】
【
【花御、そういえばおんしは草木の声を聞く木精の類であったな。善い、自然が消えつつある今世でお前のような呪霊が生まれ、そこまで力をつけるとは】
【
【……私が望んでいるのは、我ら呪霊の復権だ】
【復権……! つ、つまり!】
【うむ】
ぐわんと、頭部が頷くように揺れる。
ぐらぐらと、大気が揺れた。白骨の縁が漣立つ。未曽有の呪力が現実を侵食する。
【 今一度、我ら呪霊の畏れを人間共に思い出させようではないか
何が 真で
何が 偽りで
誰が 世の頂で在るべきか 】
血肉が沸き立つ。心が震える。
日ノ本の国の海を牛耳る大呪霊。しかも他の呪霊とは異なり、堕天した高貴なる龍種の化生。
【そのためには】
黒点を背負う、龍の三角の大首魁。寝息は地を揺らし、吐息は火炎を巻き起こす。仰ぎし天は意のままに、雷を、嵐を呼び起こす。
【間引かねばならぬなぁ、人の子らを。絶やさねばならぬなぁ、有象無象を。
真に劣る偽りなど、吹けば消えてしまう命でしかないと、証明せねばならぬなぁ】
特級仮想怨霊『空亡』。
数多の人間を長きに渡り恐怖で支配したる大呪霊に偽りなし。
【
【そうです! 我々と共に日ノ本の国へ渡りましょう! 貴方様であれば簡単に出られるでしょう!】
【ならぬ】
しかし、空亡が赤髪を揺らす。同時に身体中に張り付いていた呪符が翻る。
なぜ、と言いかけた口を噤ませる。
何も無知無謀なる呪霊ではない。昨今より呪霊を祓う人間が増えていることは身を以って知っている。
【呪術師、ですか】
【で、あるな。忌々しくも、人間共は一度たりとも監視の目を途切れなんだ。古くから人間共を脅かし、弄んでいたが故の仕打ち、といったところか】
【であれば! 我々が監視の目である人間共を皆殺しにしましょうぞ! 儂とこやつであれば不可能ではありますまい! それとも、我々の腕を疑っておられるのですか?】
【そうは思っておらぬ。もとより、おんしらは私が知る中でも頭一つ抜きんでた呪霊に相違ない】
残酷なことだが、これも選別の一つ。
現代の呪術師に足止めを喰らい、あまつさえ祓われるようでは託すに値しない。
これから先、ただ呪術師と相対するだけでは解決できない未来に直面するだろう。一度や二度では済まない、長い永い戦いになる。未来を託すとは、そういうことだ。
【──もうすぐ、ここに呪術師が来る。私を祓いに】
【な、何故!?】
【此度の召集は日本全土へ呼び掛けたもの。故に呼び掛けに応じた呪霊はお前たち以外にもいたのだが、辿り着いたのはお前たちだけ。辿り着けなかったものの殆どは、呪術師に払われてしまったのだろう。呪術師共も馬鹿ではない。龍の三角でおとなしくしていた私が呼び掛けたと気付くのも時間の問題。此度の一件は明らかな協定違反。ともなれば、呪術師が私を祓うのも道理というもの】
一種の賭け、である。
何もしなければ、脅威判定の低い特級呪霊として、遠巻きに監視され、飼い殺しされていたことだろう。祓われることはなく、ただ生き永らえる。
それが、空亡には我慢ならなかった。
老いたる呪霊に何の価値もない。ただ生きるだけなら獣と相違なし。
なればこそ。
なればこそ、己が命を使い潰す期は、その用途は、自分で決める。
【故に、おんしらをこんなところで失う訳にはいかんのだ】
【……こんなところ、ですと?】
それこそ、耳を疑った。封していた漏瑚の耳の栓が小気味よい音と共に抜け落ちる。
汽車の如く、蒸気が吹き出した。
【日ノ本の国の大呪霊で在らせられる空亡様を見捨てて、どう生きろと言うのです!?】
最初は恐怖だった。
呪霊たる己より強き呪霊なぞいるはずもないと、有頂天にあった。高を括っていた。
それが、空亡を目の前に覆った。
折れたわけではない。ただ力量を計れないほどに隔絶された差があると、初めて知った。
同時に、憧れも抱いた。
時代が進むにつれて呪霊が生き辛くなる世界で、ここまで力を蓄えた。人間に対峙され、封印されて、それでもなお、研鑽を止めず、呪術を極めた。
漏瑚の気持ちは痛いほどにわかる。
呪霊は人間よりも感情の機微に敏感だ。元より人の畏れや恐怖より出づるもの。恐怖の奥に隠れたる畏敬、崇拝の念は空亡にも、隣にいる花御にも判っていた。
これも、悲願達成には乗り越えねばならぬもの。
しかし空亡も安心するにはまだ十全ではない。
【陀艮】
【ぷぅー】
船幽霊の死骸が盛り上がる。白骨の殻から顔を出したのは、蛸にも近い見た目をした呪霊だった。呪霊としては格が低いが、底知れぬ呪力を内包している。まだ呪胎なのだろう。
【このものを連れて征け。まだ呪霊としては生まれて間もないが、並々ならぬ力を秘めている。我らの未来を切り開く、佳き同志となるだろう】
【ぶふぅう】
【今はもう、呪霊同士で争っている場合ではない。お前たちに、呪霊の未来を賭ける。力を合わせ、日ノ本の国に我らが呪霊のぱらいぞを築くのだ】
【……空亡様!】
【花御、漏瑚、陀艮】
ふわりと、三体の呪霊の周りに風が渦巻く。
原初の呪術、もとより人が『神風』と名付けていたそれは、命を対価に果て無き地へと誘うもの。
この場における対価の命。即ち、龍の三角に棲まう最後の呪霊たちの命の結晶。
搾り滓で成した呪術、龍の三角とは異なる安息の地へ飛ばすことは難しくない。
赤髪の奥で、縦に割れた瞳がにんまりと弧を描いた。
【達者でな】
去り行く潮風、託された呪霊たちは無事、呪術師とは関わりのない日ノ本の地へと飛ばされ消えた。
後に新宿事変を引き起こす呪霊となる彼らは、まだ未熟だった。
▼ ▼ ▼
【さて】
どん、どん、どん。
大気が鳴る。太古の音が響く。
祭囃子と呼ぶには重く、銅鑼と呼ぶには軽すぎる。
虚空太鼓、龍の三角に棲まう数ある呪霊の一騎の仕業である。人に危害を与える力こそないが、いまは海域を治める主を鼓舞するために、最後の力を振り絞り、太鼓の音を打ち鳴らす。ベンベンと琴の音が耳を掻き毟る。
【さァさァ皆々様お立合い! 日ノ本の大妖怪が一番、空亡! 今一度我等が主の威光をォ人間共に見せつけようではないか! さぁ思い出せ、海の恐ろしさを! さぁ咽び泣け、恐怖と畏れに飲まれるがいい!】
【海座頭】
【……勿体なきお言葉でした。空亡様、これにておさらばです。百年後の大海原にて、また会いましょう】
空亡は赤髪の奥で嘆息した。海座頭は先の先まで、狸寝入りしていたのだ。空亡の、最初で最後の労いの言葉を聞くまで。
一言。たった一言であるが、それは海座頭にとって幾百年も生き続けただけの価値のある一言だった。
持ち主消えし手から離れた琴がごとりと鈍い音を立てて落下し、木屑となって木っ端に弾ける。
海座頭、虚空太鼓の音色と共にその命を散らして消ゆ。
されど、その音は海を跨ぎ、多くの人間の脳を犯した。
人ならざるものの音色は呪詛にも等しい。あるものは脳を揺らし、あるものは過去の記憶を垣間見て混乱し、あるものは見えもしない亡霊に首を絞められ、あるものは発狂してビルの空にその身を躍らせた。
「──随分と喧しい呪詛だこと。キミのせいかい? おかげで港は大混乱だ」
海上に、人が立っている。
海の水に触れることなく、濡れることもなく。
足との間に挟まれた無限は海水の浸食を許すことなく。
龍の三角と呼ばれし海域に単身かつ単独で、両の眼を包帯で覆った男が耳を塞ぎながら欠伸をしていた。
【黄身、ではない。私は空亡という】
「真面目に取り合うなよ……ヘェ、それにしても自我と名を持つ呪霊とはね。しかも人間側が勝手に名付けた名でもなさそうだ。あ、僕は五条悟。好きなように呼んでよ」
【ほう、五条家の者か】
「呪霊が僕の家のことを知ってるなんてそんなに有名? いや……無駄に長生きしてるんだから知らない訳でもない、か」
【貴様の家の者には何度か辛酸を舐めさせられたものよ。式神使いと血を操る者もいたな】
「ふーん……ところでさ、ここ最近の呪霊の動き、アンタがやったんでしょ? 呪霊共が一か所を目指して大移動するなんて聞いたことないよ、繁忙期でもないのに駆り出される僕らの身になって欲しいなぁ」
いまは晩夏。
冬季から春先にかけて沈殿した人間の陰気は呪霊を生み、また呼び寄せる。古今東西の呪術師が東奔西走して呪霊をシメに回る時期でもある。繁盛忙期でもないにも関わらず、呪霊が一斉に大移動を開始しては万年人手不足の呪術師も目を回すことだろう。現に、呪術師と彼らをサポートする補助監督たちは連日連夜目を回している。
「それで、一体何を企んでたんだい? 同窓会みたく酒盛りしたかったって訳でもないでしょ」
【今宵は月が綺麗だ】
「ざんね~ん、今日は新月だよ。それとも僕告られた?」
【こく、る……? 人間の風習はよくわからんな。孤独で堪らなかった、と言えば満足か?】
「あ、これ口割る気無いね。まぁいいや」
五条はストレッチするように首をこきこきと鳴らして、包帯の奥で空亡を睨む。
「テキトーに半殺しにして、ここに来た呪霊の居場所と呼び寄せた目的を吐いて貰うかな」
【話せば見逃すのか?】
「いいや、残念だけど祓う。気に喰わない上層部の決定だけど……ああ、うん。キミといまこうして対峙して分かった」
【うん?】
「──キミは、ここで祓われるべきだ」
六眼でなくてもわかる、呪霊としての格。
ここ最近までねちねちと潰して回っていた木っ端呪霊とは違う。なるほど、流石は呪術界の重鎮が口を噤むほどの脅威を示す古の大呪霊。討伐、封印されていたとは思えない重圧。
全身を縛り付ける呪符も、いまとなっては目の前の呪霊を抑制するに値しない。見ての通り、その身を彩る紙切れでしかない。もし、この呪霊が日本列島に上陸しようものならば、先の呪詛の被害だけでは済まないだろう。
【分かってるではないか。日ノ本の民を背に守るのも辛かろう】
「いいや全っ然。だって僕最強だし」
【そうか。しかし、最強。最強、か】
「ん?」
【いや、さぞ荷が重い称号であろうな。最も強きもの、という意味だろう?】
「アハハハハ、重いと感じるなら最強なんて名乗ってないって。そういうアンタだって僕たちの中じゃ特級に分類されてんだぜ? 呪霊の中でも最強……とまでは言わなくとも、それなりの実力はあるんだろう? 憧れない? 最強」
【いいやまったく。生憎と呪霊には人間のような面倒な社会は形成されておらなんだ。法もなければ秩序もない。地縛霊みたく、碌な力もないのに勝手に土地や領分を主張するものもいるがな】
「ヘェ、アンタみたいに?」
【生憎と、私は地縛霊ではない。この海域由来の呪霊ではないのでな】
「……へぇ? そうなのか」
詳しい記録こそ残っているものは少ないが、それでも古の呪術師が初めて観測した時には、既に龍の三角には目の前の呪霊が支配していたという。
たかが呪霊、されど呪霊。
虚言ということも考えられるが、もし空亡と名乗る目の前の呪霊が言っていることが真であるならば、一体いつ、どこからやってきたのだろうか?
【呪霊の世界は人を祟るか人に祓われるかどちらかだ。人間のように醜く殺し合うことは滅多にない。ま、呪霊だろうと人間だろうと強きものは生き、弱きものは死ぬだけだが】
「ふぅん、ちゃっかり自分を強者アピールしてんじゃん。恥ずかしくないの?」
【事実を告げているまでよ。それに私は例外だ。たいして力を持っている訳でもないのに、今の今まで私を祓うものがいなかったのだからな、呪霊も人間共も。それに……人間共が勝手に見つけて、勝手に封印して、勝手に畏れていたに過ぎん。呪霊にとって、忘れられることこそが死であるのにな】
「……なるほどね。『窓』の連中がずっと監視し、語り継いできたからこそ自然消滅せず生き残っていたのか。これは僕たち……いや、あの老害共のせいだな」
確かに、呪霊は人間の負の感情、呪いから生まれたものだ。であるならば、人が抱いた負の感情も忘れ去られてしまえば、呪霊も力を失い消滅するのも道理。
だからこそ、呪霊として生まれたものは、襲った人間から生み出される畏れを喰らい、血肉を啜り、時にその土地に眠る呪物を取り込み、存在を維持し続けている。
【それでも、人間共の長年の封印は意味を為した。おかげで全盛期の半分も力が出せん】
「何それ、僕に負けたときの言い訳にしてはパンチが弱すぎない?」
【ぱ、ぱん、ち……? 衝撃、という意味か? 日ノ本の言葉は昔より難解になってきてるのだな】
(近所のおじいちゃんじゃん)
封印され、土地に縛られ続けていた弊害が意外なところに出ていた。
そもそも遥か昔に出現した呪霊なのだ、鎖国が解かれ外界との交流が盛んになり、多くの異文化交流が為されて形成された日本社会の言語を十全に理解するのは難しいのかもしれない。
(ま、ここまで人間と意思疎通ができる呪霊自体レアケースなんだけどね。地震や台風が人語を介するようなもんだし)
人が言葉を介して和解することができないからこそ、災害。
理不尽に人を呪い殺すからこそ、呪霊。
そこに違いなどありはしない。
唯一違いがあるとすれば、呪霊は呪いの力で祓うことができる、という点だ。
そのために呪術師はいる。
【私は最強などではない。運よく、生き永らえたに過ぎん。だから私は思うのだ、何も最強になる必要性はどこにもないのだとな】
「……僕への当てつけかい?」
【そういう気はないのだが。いちいち最強だのそうでないだの、上下を明確にしようとする人間社会とはさぞ面倒なものなのだろうと。そう思わずにはいられん】
確かに、昔はそうではなかったのだろう。
しかし古来より米の収穫より取り分という差が生まれ、持つ者と持たざる者が生まれ、貧富の差、身分の差が連綿と続いた結果が現代の人間社会だ。
呪術師であれば生まれ持った才能や生得術式があれば、次期当主として迎える。そうでなければ廃嫡されるか
呪術師でなくても、生まれた家のステイタスというものがあるし、勉学や運動など努力による格差は成績や就業と密接に関わっている。
頑張って、結果が出せれば出世する。そうでなければ、社会の塵として小さく縮こまってひっそり生きるだけだ。
人間の社会は残酷だ。
人間があまりにも多過ぎて、人間社会があまりにも肥大化し過ぎて、個を大切にする心が失われた。五条悟は呪術師を続けながらも、それを自覚していた。
「まぁ、だからと言って見捨てるわけにもいかないんだけどさ」
【大変だな、最強は】
「僕、正論嫌いなんだよね」
【……? 私は正しいことを言っていたのか?】
「少なくとも、最強が背負うものは軽くないってね。でも知ってるかい? 本当の最強ってのは」
指先から呪力を弾き出す。術式すらない、純粋な呪いの塊だ。
しかしそれは空亡の目の前で消えた。全身に張り付く呪符の一つ、かつて空亡を封ずるために古の呪術師が打ち込んだものの一つが弾けて消える。
空亡が封じられたのは遥か昔。現代の術式が古の術式に劣る訳がない。現代残存する術式は多くの呪術師が研鑽に研鑽を重ね、利便化し扱いやすく、改良し効果を高めたもの。
だが、それはあくまでも現代呪術師に合わせたもの。
かつての呪術師の持つ呪力は、現代呪術師とは比べ物にならない。魑魅魍魎が蔓延る平安の地、より神秘と怪異の濃度が濃い時代に組み上げられた術式は燃費非効率でありながら、単純。
『守る』『弾く』『潰す』『壊す』『封じる』
膨大な呪力により生じた、ただ単純な命令。
そうでなければ怪異を退けることが難しかった。故に、術式を扱う術師は後方に、呪力を用いて戦う戦士は前線に立つのが古の戦場だった。
しかし、単純な命令を実現させるほどに現実を歪曲し、扱うものの意に沿う形に染め上げる。
五条悟の六眼でもそれは分かっていた。
呪術師の扱う古の術式を空亡が扱えるとは考えていなかった。しかし、扱えるなら扱えるでやりようはいくらでもある。
「その程度の重みなんて、片手間で済むものなのさ」
数百年来の人間との逢瀬もそこそこに、空亡が手を振るう。海底に埋没していた船幽霊の骨が鞭のように撓り、五条悟へと殺到した。
一打、接触寸前で時間が遅くなったように鞭の動きが止まる。
二打、これも同様。
三打、同じく弾かれるわけでもなく停滞。
四打、五打、六打──
十、二十、三十──
「なるほど、こりゃうざったいね」
無下限術式はあくまでも五条悟と対象物との間に無限を形成する術式だ。故に対象物は五条悟への到達が不可能となる訳だが、あくまでも到達しないだけ。
島中から伸びる骨の鞭は数えるのも億劫なほどだ。一本一本は細い骨で在れど、数を束ねられればまるで生き物の消化管の如き筒にもなる。囲まれてしまえば、このまま無下限術式だけで対処していれば身動きを取ることも難しくなるだろう。
「術式順転──蒼」
まずは、骨を引き剥がす。
五条悟とは全く関係ない場所で発生した術式、特性は収束。まるでブラックホールのような有り様を見せるそれは、空亡が振るう骨の鞭を瞬く間に絡め取り、海底の船幽霊の骨を根本から引き抜き、押し潰した。
砕ける骨、乾いた骨片が飛び散り、やがて視界が明瞭になる。
空亡が腹の下で両手を合わせていた。
【 領 域 展 開 】
「あ──」
瞬間、未曽有の呪力が膨れ上がる。兆候を感じ取れなかった。間に合わない。
【 三頭地雷晨災 】
──其れは、現実世界を塗り替えた。
龍の三角。新島、野島崎、南蛮の島を結ぶ魔の三角海域。
人々が勝手にそう決めた海域は、波一つ立たぬ晴れの日の海を嵐渦巻く地獄絵図に染め上げる。
局所的、且つ限定的な天候操作。人々の畏怖と信仰に底上げされた呪力は計り知れず、飛び交う霰は肌を貫き、暗雲から突き刺す雷霆は骨まで焼き尽くす。
海域の中央、遥か空の上。暗雲立ち込める雲の中央で、眼の如き黒点が五条悟を視ていた。
龍の三角に位置する島から伸びた、禍々しい呪力を蓄えた三頭の龍神が首を擡げる。
「龍の三角、ってッそういうことかよっ」
【さぁ、術比べだ人間よ】
【踊ってもらおうか、この嵐の中で】
【安心しろ、出来なければ死ぬだけだ】
「あ~~~ディスコの中みたいに音が反響して五月蠅いわコレ!」
軽口を叩いてはいるが、呪力で強化して覆っている肉体に痛みが走った。襲っているのは目に見える雷や霰だけではない。
(揺れてる──振動だ。空間が揺れている)
空間震。
本来大地を這うはずの振動。それが大気に伝播し、亀裂を作っている。
雷、霰、地震。そして。
【そら、まだだぞ】
割れた亀裂から火炎が渦巻いて吹き出した。
関東大震災で生じたのは地震だけではない、大火事だ。炊事を行う時間帯と近かったこともあり、地震の影響で吹き出したガスが引火、壊れた家屋から流れ込む空気と燃えやすい残骸が炎を肥え太らせ、やがて天に伸びる焔の渦がその姿を現す。
火災旋風。
人、車に限らず家屋まで燃やし、通過した場所を瞬く間に焼け野原に染め上げる、未だ原因の解明されていない災害である。
(間違いない、空亡の正体は──あちちっ! あつ、あっつゥ!)
領域展開内における攻撃に付与されるは必中効果。そして肝心の空亡本人の力はまだ開示されていない。恐らく雷や霰といった天候そのものが呪力によって生じたものなのだろうが、如何せん情報が少なく、手の内が見えない。
術式開示をされてすらいないこの状況下で、この脅威。
確かに、上の老害どもがビビるのもわからなくはないと五条悟は納得した。
(割とピンチだなこれ、生きて帰れるかな?)
接触即死の災害を目の前にして、五条悟は久方ぶりに冷や汗をかいた。
▼ ▼ ▼
報告
2010年8月
静岡県近海『龍の三角』にて登録済み特級仮想怨霊の再活性化を確認
それに伴い日本各地にて呪霊が活性
不特定多数の呪霊への交信能力があると判断
『窓』からの報告を受け、特級術師一名が派遣
18時48分、『龍の三角』を中心に半径400kmの地域にて呪詛汚染による人的被害発生
近海にて異常気象発生
特級術師 五条悟 『龍の三角』へ侵入後、38時間41分間音信途絶
38時間42分後、特級仮想呪霊の消滅を確認
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「え? あれから二日も経ってたの?」
登場ものの怪
船幽霊(死亡)
海座頭(死亡)
虚空太鼓(死亡)
空亡(死亡)
花御(生存)
漏瑚(生存)
陀艮(生存)