大義じゃなくて、好き嫌いの間違いだろ。
◇◆◇◆
いつだって一方的な展開は、飽きてしまうものだ。どんなにカッコいい主人公だって勝ち続けるのは面白くないから試練が与えられるし、強大な敵に負け続けるのもやっぱり面白くないから、少しの弱点と詰めの甘さが与えられたりする。
永遠に勝ち続けられる強さ。蹂躙。ダラダラとしたワンサイドゲーム。それらは物語の中で、不思議と好かれない。展開の読める打ち切り漫画のように、芸術性が高すぎる3時間のフランス映画のように、少し、人気の出る要素とは外れたところにある。
面白くないから、というのもそうだけれど、多分その覆しようのなさが現実を思い起こさせてしまうからだ。
フィクションの中の「最強」や「最高」はいつか破られることが多い。主人公の覚醒だとか、仲間たちの助けや、あるいは重なった偶然によって、感動と汗と涙と共に超えられる。みんなが好きな逆転劇。紙一重のせめぎ合いの果ての勝率の方が、人気が高い。
──じゃあ、現実もそうなのだろうか。どんなに強大な相手にも必ず弱点があって、奇跡が起これば勝てるのだろうか?
眼下に広がる夜の森を、なにかが猛スピードで吹き飛んだ。耳をつんざくような轟音と共に数十メートルも飛躍したそれは、幾度かの加速を経て水飛沫を上げて湖に突っ込んだ。一拍遅れて追いついた音が、びりびりと夜空を震わせる。
─眼下で繰り広げられている光景は、まさにその答えだった。
湖の水面上で、莫大な量の呪力がぶつかり合い、その余波が波紋のように広がっていく。黒色の空間を裂いて、赤い焔がひるがえる。光がちらつく。けたたましい音が響き渡り、地面が揺らぐほどの振動が何度か連続して起こった。
うすく、硫黄の匂いが鼻をつく。
そう。
本当の蹂躙は、圧倒は、最強は、ワンサイドゲームは。画面や紙の向こうのフィクションではなくて、現実の世界にこそ息づいている。異世界転生も勇者の剣もこの世界には無いのに、フィクションにも無いような埒外の馬鹿げた強さは確かに存在するのだ。
その証明であるかのように、水面上に立つ男の髪が月の光を弾いてひかっていた。私から見れば豆粒大ほどに遠い位置にあるにも関わらず、その輝きは夜の中で際立って強く、ひとつの曇りもない。星みたいに体の内側から光を放っているみたいにきれいな、ひと。
──五条、悟。
まさしく、彼は圧倒的だった。物語の展開を一人で覆してしまうような、魔王を第一話で倒せそうな、無茶苦茶なハッピーエンドを力づくでもぎ取ってくれそうな、フィクションの世界からも締め出されそうな、完全無欠のスーパーヒーローは月の下で、重力すら無視して、この世の誰も敵わない透明の力を纏って立っていた。
◇◆◇◆
「あーあ、予想通りというか何というか」
東京都郊外、某所。深夜の山中でのことである。日本の首都とは言っても、未だに都市化の開発が進んでいない部分は多くある。ここいらの山もその内のひとつで、辛うじて登山道の整備はされてはいるが、この時間帯であれば人っ子ひとり通らないような場所だった。
街灯の一本もない登山道を外れ、ちょうど岩棚のように張り出した部分に人影が2つあった。厳密に言うなら、見るものによっては3つ、とするべきかも知れない。
口火を切ったのはその中の、袈裟姿の男だった。年齢が分かりにくい顔立ちと、その額を横切る縫合痕が目立つ。
「見事なまでのやられっぷりだ。ま、彼とやり合って生きてるだけ上々なんだけどね」
穏やかな声の調子と、喋っている内容がどうにも乖離した男は、にこにこと機嫌よく笑っているのにどこか薄ら寒い。きゅ、と目尻が細まるといっそう菩薩像のような印象が増した。
男がふい、と視線を眼下の夜の森から、横に立つ人物にやった。
・・・・・・
「どうかな、涼利。勝てそうかい?」
「無理だな。そして私を名前で呼ぶなよ、不快だから」
間髪入れず、きっぱりとした否定が返った。
返事をした人物は、ちらりとも袈裟の男の方を見なかった。若い。そして、その若さと相反するように老成した、物静かな空気を纏っている。包帯とガーゼに覆われた顔は、元々の面差しも相まって性別がひどく分かりにくい。
「おや。こういう時に『当たり前だろ!』とか言ってみるのが血気盛んな若人の習性だと思ってたんだけど。君はどうも、そこらへんが何とも枯れているよね」
名前のくだりには触れることなく、男がうっそりと唇を横に引いた。
涼利と呼ばれた人物は、今度は返事もしなかった。ただ黙って、眼下で繰り広げられている一方的な戦いの結末を、凪いだ目で見ている。
ちょうどその時に、湖の上にあった黒い球体がほどけていくところだった。夜より暗い色の天蓋は、シャボン玉が弾けるときのようにあっけなく、音もなく、瞬きの間に消えていく。同時に、上から押し潰すような呪力の圧もまた、緩んでいた。
「ん。五体満足…とは流石にいかなかったようだね」
言葉の通り、水面に突っ立っていた小柄な影(つまりは先程吹き飛ばされた方)の首が、後ろからぐしゃりと力任せに引きちぎられる。無論五条悟の手によってのことであった。月の光も恥じらうような美貌には不釣り合いな、情緒もへったくれもない野蛮な手つき。いや、首の取り方にそんなものがあっても困るのだが。
まあ何にせよ、どう言い繕っても一方的な戦いだった。おそよ10分もかかっていない戦闘の初めから終わりまで、五条悟はまったく本気では無い様子であり、漏瑚はその彼に手も足も出ていなかった。その漏瑚とて決して弱い呪霊ではない。こと火力とその範囲に関して言えば呪霊の中でも折り紙付きである。彼の操る炎は、その気になれば都市ひとつ焼けるだけの威力がきちんとある。にも関わらず、その炎は、五条悟の衣服に焦げ目をつけることすら出来ていないのだ。
『無下限』てのはすごいな、と涼利はぼんやり思索した。業界でも名高い、不可視にして無限、矛であり盾であり、現実に存在する永遠は、その名にふさわしいだけの絶対性を内包している。
無論それは六眼持ちの五条悟が扱っているから、という所が大きい。涼利もストックのひとつとして同じ術式を有してこそいるが、とても彼の完成度には遠く及ばない。たまに使うたびにその難解さと呪力の消費量に悩まされるものだから、改めてこの術式の持つ可能性の大きさと、自らの未熟をまざまざと見せつけられた気分にもなった。
「…さて、どうする?助ける?」
袈裟姿の男の声の先は、涼利ではなく残りのひとつの影にどうやら向けられたものだったらしい。返事の代わりにその影の指の先を割って、ぱきりと花が一輪伸びた。
人間ではない。一目見てそれが分かる異形だった。身の丈が2メートル近く、簡素な袴や首から下のシルエットは人間に近しいものがある。ただし、その肌はつるりと白く肉というよりも陶器のような質感であり、剥き出しの上半身には臍や爪と言ったものがない代わりに、黒い紋様が肌の上を走っていた。
そして何よりも、本来目があるはずの場所からは木の根のようなものが生えていた。不気味な容姿と、不思議な静謐さの両立する呪霊。名を花御と言う。
「私は高専関係者に顔を見られるわけには行かないから、ここで帰らせてもらうよ。助けたいなら助ければいい。君たちにそんな情があるかは、知らないけどね」
「……
人間では理解しようのない音と共に脳内に入り込んできた返答に、袈裟姿の男は小馬鹿にしたような表情を浮かべた。
ク、と喉の奥で笑い声を飲み込んで、花御に背を向けざまに低い声で呟いた。
「よく言うよ、呪霊風情が」
その、ほとんど、生温い初夏の風に混ざるような音量の独り言に返したのは、異形の方ではなかった。
「…お前がとやかく言えた義理か?それ」
振り返ってみれば、涼利が薄茶の目で、じ、と男を見やっている。暗闇の中ではほとんど色の分からない虹彩が、つかの間雲の隙間から顔を出した月によって淡い銀に光り、そしてまた暗がりに沈んだ。
「死体に泥を塗ることしか能のない寄生虫が。お前は呪霊を見下せるほどご大層なものじゃないだろ」
淡々と吐き出された言葉にもやはり熱量がなく、数学の公式を読み上げているような調子だった。罵倒と呼ぶにはあまりも平坦な響き。とはいえ、男への侮辱の意図がきちんと込められていることは明確なものである。男の唇は笑みの形のまま、剣呑に目が細まった。
両者の間に僅かに緊迫した空気が漂う。
「……恩師に対して酷い言いようだ。『彼』に口のきき方は教わらなかったようだね」
「事実の指摘でキレてんなよ。脳の血管破れるぞ」
煽るような口ぶりとは裏腹に、涼利の感情の読み取れない顔に嫌悪を乗せて男を睥睨していた。冷え冷えとした両者の目がかち合う。
厭悪、侮蔑、敵愾心、僅かな憐れみと懐古。
同じような感情を持って互いを見るその視線は、どこか似た印象を見るものに与えた。
「まあ、いい。ここで喧嘩を始めるのは私も本意ではないし、お互い肉体に傷を増やすのは本意じゃないだろう」
睨みあったのはほんの数秒のことだった。剣呑な空気を収めた男は、またあとで、とひらひら手を振って去っていった。
たっぷりとした五条袈裟と墨染めの法衣が夜闇に溶けて見えなくなるまで視線を外さなかった涼利は息をひとつ吐いて、花御の下へ近づいた。
「
「いや。特にそう言う意図は含んでいないから、その礼は的外れだ。私はあの男が嫌いで、あいつにでかい態度を取られるのはもっと嫌だったというだけ。──それは置いておくとして」
ぴ、と涼利は眼下の森を指さす。
「私は漏瑚の生死はどうでもいいが、お前たちの計画にはあいつが必要だろ。頭の回収と胴体の回収、どっちが行く?」
「
「確かにな。じゃ、私が体だ。あの寄生虫に五条悟の前に出たことをあとからねちねち言われるのも面倒だし」
花御がひとつ頷いたのを合図に、両者の姿が崖の上から消えた。夜更けのとっぷり暮れた闇は、その高さを足のすくむものに変えていたが、まるで怯む素振りさえない。よく訓練された動物のような速さで、影がふたつ、駆けて行った。
◇◆◇◆
–––––気づいたのは、虎杖悠仁だった。
あれよあれよと言う間に高専の地下室での映画鑑賞タイムから連れ出され、連れてこられたのは担任の教師と知らない特級呪霊との戦いの場。
何が何だか分からないうちに火山に囲まれ、宇宙が広がり、担任の教師が特級呪霊の首をもいでいた。
虎杖悠仁、15歳。
呪いの世界に足を踏み入れて間もない、宿儺の器。
未だに呪術の何たるかもよく分かっていないし、その扱いにも長けているのは言い難い。いわんや、先刻目の前で繰り広げられていた呪術の最奥のぶつかり合いとて。
とは言え、彼の肉体は特別製である。呪いの王を押さえ込み、時に天与のそれを凌ぐスペックを誇る。その常人より遥かに優れた五感が、夜空を背にして、彼の頭上を高く飛ぶ人影を捉えた。
ひら、と。まるで羽衣のようにその透明な裾がはためいた。
新たに現れた呪霊が生み出した植物に足を取られ、視界が反転した中の、ごく僅かな時間の間のこと。人型であると分かったのすら奇跡的な距離と移動速度だったが、不思議と虎杖にはそれが何か大きい荷物を抱えた人間であることをはっきりと確信していた。
(……え、あれ、人、だよな?それとも呪霊?どっちにしても何であんなとこにいるんだ?)
そう、人間である。普通の人間なら居ないような場所、時間帯、速度で頭上を通り過ぎはしたけれども、それは確かに人だった。
そして、見ていた。引き伸ばされた時間の中、ほんの一瞬だけ、ちらりと、それでいて確かに。森の上を飛び去っていくときに、少しだけ首をひねってこちらを見たのを、虎杖悠仁はスローモーションの映画を見るような心地で、見入ってしまった。何かを見つめているのを、見てしまった。
何を、見ていたのだろう?
–––そんな風な目で、一体、なにを………
「っう、わ、痛ッてぇ!」
一瞬それに気をつけ取られていた隙に、虎杖の足を掴んでいた植物の蔓が緩んでおり、受け身を取り損ねた彼はどしんと背中から落ちた。間抜けな声を上げてしまったことを恥じつつ振り返れば、既に下手人らしい呪霊の姿は遠く去ったあとで、五条の足蹴にされていた富士山頭の呪霊の生首は持ち去られていた。
「このレベルの呪霊が徒党を組んでるのか。これは楽しくなってきたねえ」
一人合点がいったようにふむふむと頷く五条が、ふと振り向いておや、という顔をした。虎杖悠仁は五条のほうではなく、頭上の夜空をじっと眺めており、何やら口がぽっかり空いている。彼にとっては何もかも急展開であろうことは承知の上だったが、それにしても妙な様子である。
「おーい悠仁、どしたの?大丈夫?」
目の前でひらひら手を振ってやると、やっと意識がこちらに向いたらしい彼が、ごにょごにょと口ごもった。
「あ、いや、今なんかあっちの方に…」
「あっちの方に?誰かいた感じ?」
「ウン。なんて言うか…レインコート着た…人?だと思う。多分。凄い勢いでどっか行っちゃったけど」
へえ、と五条は面白がるような声を上げた。
呪力や術式の類なら全て見通すことのできる彼の六眼には何も映っていなかった。つまりそれだけ高い隠蔽系の術式持ちか、気配の殺し方がよほど上手いのか。虎杖が多分人、と言ったのだからさっきの呪霊と組んでいる呪詛師だろうが、五条悟に気づかせなかったというだけで大した腕前の証明になる。
高い火力を持った富士山頭の呪霊。精霊に近い、気配の消し方の上手い呪霊。それから五条悟に気取られることなく去って行った謎の呪詛師。
ちょっと不穏な感じの組み合わせだな、と五条は内心でひとりごちた。五条の足元にも及ばない呪霊ではあったが、他の術師であれば即死していても何らおかしくない強さ。それが何かを企んで襲撃をかけてきたとなれば、何らかの思惑を感じずにはいられない。
マ、どちらにしても。
「悠仁……っていうか皆にはゆくゆくアレに勝てる位強くなってほしいんだよね」
「アレにかぁ!」
「目標は分かりやすい方がいいでしょ。そのために連れてきたんだし」
軽い調子で無茶を言い出す五条に、ちょっとばかし認識の差を感じはしたものの、そこは尊敬する担任のお言葉。精一杯やるしかないかな、と素直な虎杖少年は決意した。
燃え盛る火山の領域を思い出し、広がる無限の宇宙を思い出し、突如現れた敵意を削ぐ植物たちを思い出し、エッ俺これからああいうのと戦わないとダメなのぉ?と言いたくなったところで、虎杖はふと、もう一つ思い出したことがあった。
–––あのひと。一瞬だけこちらを見ていた、レインコートのひと。
(……結局何見てたんだろな?)
虎杖は一瞬とは言えあの呪詛師を確かに視認したが、両者の視線が合うことはなかった。つまり、あの人間は虎杖ではない何かを見ていた、ということになる。植物の呪霊が火山頭の呪霊を連れて逃げられるかを確かめていたのか、はたまた–––五条悟を見ていたのか。
その答えを確かめる術を虎杖は持たなかったし、この時点でそこまでの興味も無かったので、五条にそれを口に出して言うこともなかった。
少年の少しばかり興奮した脳裏が、今しがたの激闘と五条が口にした「交流戦」という新たな単語への興味に占められていたこともあり、すぐにその疑問は虎杖の中で大したことのない場所に追いやられてしまった。
なので、この夜に舞っていたレインコートの記憶が、脳の内側にある、昨日見た映画の内容とか、しばらく使っていないポイントカードのことが入っている場所から出てくるのは、もうしばらく先のこと。渋谷にて彼女と初めて対面した虎杖悠仁はこの忘却を後悔することになる。
いずれ五条悟に傷を負わせることになるその呪詛師の顔や名前を、まだ虎杖悠仁も、五条悟自身も知ることはない。それどころか、郡上が与する呪霊たちですらその未来は預かり知らぬものだった。その結末を知るのは郡上と、どこかの月の下で薄笑いをする、死人の皮を被った男だけである。
1998年6月21日生まれ。渋谷事変の時点で20歳の大学生兼呪詛師。苗字の由来は郡上ヴァカンス村スキー場から、名前の由来は「利を掠める」から。百鬼夜行より前に、夏油の傘下を脱退している。
※ちなみにスキー場の方は「ぐじょう」ですがそれだと五条先生と紛らわしいので「ぐんじょう」読みにしています。