換骨奪胎   作:メラニンEX

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今回の冒頭の呪霊は、小野不由美先生の『残穢』をモデルにしてます。また、3/4発売の公式ファンブックのネタバレとして、美々子と菜々子の苗字が出てきます。未読の方はご了承下さい。


第二話

あなたのことは好きなんだが、それはそれとしてあなたの大義は嫌い。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

断っておくが、郡上涼利に人を養う趣味はない。そのはずだ。

 

彼女は両親なし、都内でもそこそこ偏差値の高い国立大学に通い、東京都の郊外にある築40年の一軒家で暮らす大学2回生である。職業柄、その安っぽいドラマにありがちの、苦学生のような身の上でも金銭的に困ったことは最近ではほとんどない。が、だからといって他人に喜んで金を使うような慈しみの心は生憎と持ち合わせがなかった。それが自分にメリットをもたらさないのなら尚のこと。

 

「いい加減に起きろ。朝に惰眠を貪っていいのは家賃を納めたやつだけだぞ」

 

なので、涼利はここ最近の生活を一体何と呼ぶべきかについて考えるといつも戸惑うことになる。

義務ではない。別にやらなくても涼利は死なない。

仕事ではない。この愚かしい少女たちを自分の家に住まわせたところで一銭の得もない。出費が増えるだけである。

責任ではない……と言いたいところだが、これが1番近いのかもしれない。別に保護者でも何でもないが、彼女らより4歳年長であり、庇護を失った未成年に生活の糧を与えるのは1番付き合いのある成人

–––つまりは涼利の「責任」である、と世間は言いたがる。嫌な言葉だ、と涼利は考えた。

 

なので、特に容赦もしなかった。

カビでところどころ斑になった牡丹模様の襖を開いて、寝ている人物の被っている布団を勢いよく剥がし、部屋の障子と窓を全開にする。

床に化粧用品や服が散らばっている部屋はお世辞にも片付いているとは言い難い。ついでに空気も悪かった。古い畳の匂いで満ちていたはずの部屋は、今はオンナノコの香りで染められている。

 

「………うう、や、めてよぉ……。部屋はいってくんなって…」

「は?お前誰の家でもの言ってるんだ。まずお前の部屋じゃないから」

 

なかなかひどい寝ぼけ顔で睨んでくる金髪の少女とは反対に、黒髪の方は布団がないので無言でシーツにくるまろうとしている。寝汚いと言う言葉を辞書で引いたら例として挙げられてそうな光景だった。

朝の透明な日差しが、細かな埃の粒に反射して部屋の中で淡くぼやけ、靄がかった光を放っている。その眠たげな匂いのする部屋を元来据わっている目つきでじろっと見渡して、涼利は宣言した。

 

「いいか、お前たちがこの家に来てから既に20回は言ってるけど、遅くとも10時半までに起きろ。学校も仕事もしてないニートだろうが、最低限人間らしい生活時間に行動してくれ。私の生活リズムが乱れる」

「………ニートって言うなよ」

「ニートだ。小中高と碌に通ってなくて、バイト経験もなし。呪詛師として稼いでもいない。今、衣食住の面倒を見てるのは私。申し開きあるか?」

 

うぐ、と菜々子の口紅が薄く残った唇から悔しげな呻きが漏れたが、それ以上の言葉は紡がれなかった。涼利はずかずかと大股で黒髪の少女に近づき、しがみついている薄べったい敷布団を引っ張った。ぺいっと振り落とされた少女はくぐもった悲鳴を上げたが、涼利は一つも気にしなかった。

 

「ほら美々、お前もさっさと起きな。それから目が覚めたんなら2人とも布団干してこい。この部屋、化粧品臭いぞ」

返ってきたのはは舌打ちとため息が一回ずつ。あからさまでガキっぽい、その無礼を無条件に許されると思っている者の動作だ。ため息をつくべきは涼利の方だったが、それを口から出すことはしなかった。何せもう20歳のいい大人だから。そして、大人として行動したいから、そうしている。それ以上でもそれ以下でもない。

 

のろのろと庭に布団を干しに行く2人の後ろ姿を見送って、涼利は庭とは反対側の台所に足を向けた。先程まで蒸らしていた米がそろそろ良い頃合いのはずだ。それと昨日の残りのほうれん草のお浸し、あと一品か二品は欲しいところだ。大学が今日は四限からなので、朝と昼をまとめて一食で取ったほうが手間も増えずに済む。冷蔵庫に残っている食材で、何が期限切れに近かっただろうか、と涼利はぎしぎし危うい音のする縁側を歩きながら考えを巡らせた。

 

………ずず………すすす…ずざ……

静謐な朝の中で規則正しく響く足音に混じって、違う音がひとつ、加わった。ちょうど布地を引き摺るような、それ。長い上着が床に擦れるようなものより音と音との感覚が長く、また少し硬い質感を感じさせるものである。ちなみに、動きやすい服ばかり着る涼利も、高校に行ってないくせに制服ばかり着る美々子と菜々子も、床を引き摺るデザインや丈の服は誰一人、一着も持っていない。

 

音の出所は縁側の端、ちょうど太い梁が見える場所だった。年月を経て飴色になったそこから発されている音こそが、広さと安さしか取り柄のないこの家の、安さの原因の筆頭でもある。

 

–––女だった。

黒い留袖を着て、渋い金の帯で首を括って梁からぶら下がっている。顔は梁の影で見えづらく、足袋が片方脱げた足が妙に浮腫んで青く膨れている。帯というものは着る時に感じるより長く、またこの家は古いので天井が低い。従って、余った帯が床に着いており、女の体が風もないのに人間風鈴よろしく揺れるたびに、擦れた部分が音を立てている、と言うわけだ。有り体に言って、この家はどこに出しても恥ずかしくない幽霊屋敷だった。

 

ゆら、と揺れる女の首吊り死体もどきに、涼利は平然としていた。緞子の帯を平気で踏みつけ、すたすたと歩く足取りは軽やかだ。女の青く浮腫んだ素足が顔の真横をかすった時でさえ、顔色ひとつ変えない。見えていないわけではない。呪いに見えていることがバレないように、あえてこういう振る舞いをしている––わけでもない。普通に見えているし、むしろこの手のことに関して言えば、他人よりよく見えるための手段を有してすらいたが、涼利は単純に無視していた。ごくたまに首吊り死体をまじまじ見たいときには眺めることもあるが、今朝は別にそういう気分ではない。

 

なので、通り過ぎた少しあと、女の青黒く腐った手が涼利の後頭部にゆっくりと伸びたときも、後ろを振り返ることはしなかった。ただ、涼利の手の指全てに嵌ったシルバーリングの内、右手中指のものが消え、代わりに現れた短い槍で、女の首を吊った帯ごと後ろ向きに掻き切った。

 

一閃。

所要時間、およそ0.1秒。

ごとん、と首が、続けて胴体が落ちる音。同時に帯の擦れる音がぱたりと止む。最後まで一瞥すら貰えなかった女の体は、すぐに黒っぽい粉に変わって消えていった。

 

その光景を尻目に、槍を指輪に戻し、立て付けの悪いガラスの引き戸を開ける涼利の脳内からは既に女のことはない。朝ご飯の献立の方が、人型の呪いを殺したことより重要視なのだ。

………いや、意外とそうでもなかったのかもしれない。そのあとの遅めの朝食では白ご飯とほうれん草のお浸しと卵焼きと味噌汁、それから何故か出来合いの昆布巻きが出た。黒い昆布に黄色のかんぴょうが巻かれた、正月によく見るあれ。黒と、黄色。黒い留袖と、巻かれた金の帯。

 

そのカラーリングに一人だけ気づいた菜々子は嫌そうな顔をしたが、文句を言うことはなく黙って食べた。長年の付き合いの中で郡上涼利という人間の持つ図太さは嫌と言うほど知っていたし、これ以上何か言うと本気で家から叩き出されそうだったからである。

 

それに、3人に共通する数少ない価値観として「食べ物を粗末にしてはいけない」ということがある。自然と身についたものではない。教えられたものだ。

 

『出されたものは、残さず食べようね。』

 

今は亡き夏油傑が言った言葉だ。美々子と菜々子は彼への信仰ゆえに、涼利は師から教わった知識のひとつとして、それを身の内に留めている。

 

「姉さん……あの、めんつゆとって欲しい」

「嫌だ。それぐらい自分で取れよ、愚妹その1」

その事実は、年も、術師としての力量も、過去も、非術師への価値観も、かの人へ向ける感情も、何もかもが違う3人の奇妙な共同生活を、時々助けてくれたりくれなかったりする。

郡上涼利。枷場美々子、枷場菜々子。家族じゃないけど、姉と妹。幽霊屋敷に住む3人の朝はいつも通りだ。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

東京都郊外。

築40年、木造平屋建て、修繕が行われたのは40年間で何と2回のみ。風呂・水洗トイレ・庭付き、ガスは引かれている代わりにIH無し。日当たりは南向きなのでそれなりにいいが、庭の水捌けは悪い。60平米という広さと駅までおよそ20分と言うメリットに対して、過去に首吊り自殺をした住人を筆頭に呪霊が大量発生するというまるで釣り合っていないデメリットを抱えた、れっきとした事故物件である。

 

その玄関で、どこからか生えた白い手首がうごうごともがいている。それを、履いているアディダスNMD–R1V2モデルの、メタリックブルーの踵で思い切り踏みつけた涼利は、何故か少し先の廊下からこちらを見ている美々子に声をかけた。

 

「美々。私は今日5限までだけどその後用事あるから、遅くなる。晩飯は自分で適当に食べといてくれ。戸締りはしてもしなくてもいいけど、出かける時は貴重品持ってけよ」

 

うん、とかすかに頷いた黒髪の少女の顔はすこし強張っている。それが常に薄暗い家のせいなのか、着ている黒いセーラー服のせいなのか、はたまた別の理由なのか、涼利は判別がつかなかった。

ちかちかと、僅かな明滅を繰り返す白熱灯の下で、美々子の顔は不健康そうで、光の角度からこちらを睨んでいるようにも見えた。ぱくぱくと何度か、オレンジのリップが塗られた唇が物言いたげに開け閉めされた。

 

「姉さん、えっと、あの」

「何」

「…………あ、のね………」

 

話しかけてきたくせに口ごもって俯いた美々子の、伸び始めた黒髪を涼利は何となしに眺めた。その少し不揃いな毛先には、珍しく枝毛があった。一年以上前、夏油の下を涼利が出たときは、彼女の髪は今の涼利と同じくらいのベリーショートだったはずだ。それが今では、背中の半分より僅かに上ほどになっている。こいつ髪伸びたな、とふと涼利は思った。

 

一緒に暮らし始めてからそんなこと一度も思ったことは無かったのに、今初めて、双子と離れていた年月の長さを肌で感じたような心地だった。そしてその年月の間に、多くのものは変わった。そのひとつに、こういう会話の間を取り持ってくれていた人の喪失がある。

 

「……だからさ、これも何回も言ってるだろ。言わないと何も分からない。聞きたいことがあるんならちゃんと言え」

 

昔、涼利と口下手な美々子がもう少しまともに会話ができていたのは、両者の間に夏油傑がいたから、と言うのが大きな理由だ。彼がいない場では話が続かないのは、よくあることだった。

 

「………姉さん、今日の夜、出かけるんだよね」

むっつりと閉じていた口を開けて、美々子がぼそりと呟いた。

「…あいつらと?」

端的。明確。指示語じゃなければもっと良いんだけど。そのやたら時間のかかった問いかけに、涼利も短く返した。

「ああ。どこかで適当に作戦会議して、その後は依頼されてる別の仕事を片付けてから帰る予定」

 

美々子の眉間にきゅ、と皺が寄った。嫌そうな顔だった。黒目が落ち着かなく揺れている。その奥の方にごちゃごちゃした感情が押し込められているのが涼利にも分かった。これは恐怖、それは懇願、あれは疑問…。

口に出せばいい。音にして、形にしたらいい。それすらもできないのに、他人に分かって欲しいと思うのは怠惰だ。

結局少し待っても、そのどれも美々子の口から言葉として出てくることは無かったので、涼利は「行ってくる」とだけ声をかけてガラス戸を開けた。ついでに、まだもがいている白い手首だけの呪霊をもう一度しっかり踏みつける。ぐに、とした独特の感触が妙に生々しかった。死を踏み躙る行いだ。夏油傑が今されていることと、そう変わらない。

気をつけてね、と言う小さい声に返事はしなかった。

 

 

 

扉の外はきつい日差しと、見事な蒼穹が広がっていた。夏のじっとりした湿度の高い空気は、吸えば吸うほど肺の中が熱く蒸れていくような気分になる。正午過ぎのいまが、気温のピークだ。一歩屋外に出ただけで、毛穴から汗がてろりと垂れる感触に、不快指数がぐんと上がった。

涼利は、少しばかりうんざりした気分だった。それは何も気温のせいだけではない。暗い家の中でこちらを見ていた美々子の視線、踏んだ白い手首、提出期限の近いいくつかのレポート、頬に張ったガーゼの中のいつまでも固まらないかさぶた。袈裟姿の男の笑みがふたつ。

それらがどうにも、涼利の頭の中を静かにさせてくれない。

 

 

涼利はシンプルに生きていきたい。明確なもの、分かりやすいものを少し好ましく思い、そうでないものには興味が無くなってしまう。

 

やりたい事をやり、やりたくない事をできるだけしない。人生で心掛けているのはこれだけで、その決めた事を実行するためにはそれなりの力が必要だった。涼利が未だに好きでも嫌いでもない呪詛師なんて職業を辞めていない理由なんてそんなものだ。だと言うのに、ここのところずっと増え続けている気がする。

 

やる必要もないのに行うこと。好きと嫌いに分別できないもの。どうでも良いはずなのに捨てていないもの。そういう、明確でないものたち。

 

「くそ、あついな……」

 

ぼやくと、また温度が上がるような錯覚を覚える。髪が首筋に張り付く感覚が鬱陶しかった。早く冬にならないかな、とアスファルトから立ち上る陽炎を見て、現実逃避に涼利は夢想した。

 

冬。それも震えるほど寒くて、とびきり空気の澄んで星がよく見える、雪の降る夜。携帯越しにあの人の死を聞いて、夜中に一人でコンビニに線香を買いに行ったような、あの季節の訪れが恋しかった。

でも、そんな静かな冬は黙っていても来てくれない。それどころか、今や時間とともに、最悪の形で、物凄い速さでどんどん遠ざかっている。それが嫌だったから、涼利は今、やらなくても涼利は死なない事を、何も困らない事を、あの忌々しい男や呪霊と連んでやっている。

 

 

 

冬。今年の冬になったら、ちゃんと迎えられているのだろうか。

夏油傑は、物語の終わりを。

美々子と菜々子は、一年越しの喪失の始まりを。

涼利は–––涼利もまた、ひとつの物語の終わりを。

 

 

見上げた空はやはり青い。ぎらぎらした日差しを遮る雲はひとつもなく、目に痛いほど鮮やかな発色をしている。その突き抜けた晴天の青に、涼利は夏油傑にまつわる思い出をひとつ描いた。ほとんど空っぽに近い、彼のスマホのカメラロールのことだ。後生大事に一番古いところにあった、二人の青年の写真。その片方の青年の目は、今日の空を閉じ込めたような青だった。画質の良くない写真ですら、その美しさは明確だった。間近で見ることがあるなら、きっと格別なのだろうと涼利は考える。

 

かつて、夏油傑が見ていた青色。まだ涼利が見たことのない青色。

そして遠くない未来に、涼利が見ることになる色でもある。涼利は今年の初めの頃に、その未来を選び取ったから。

今年の冬に、五条悟は何も迎えずにいられるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

都内のとある大型河川の下、ぽかりと空いたトンネルの内部。人が通るためのもの、というよりは排水のためのものだろう。そういった機能や点検に使うのだろう足場や配管があり、ところどころにある地上と隣接した網目状の蓋から日の光が細く差し込んでいるので、完全な暗闇にはなっていない。

がらんどうで、地下にあるのに不思議と開放感のある場所だった。人が日常的に存在しないからか、見渡す限り何もないせいか、苔などが生えてはいてもあまり不潔な感じはしない。

 

その水路脇の足場を少し奥に進み、突き当たりにはより開けた空間が広がっていた。コンクリートの壁には誰が持ち込んだのか、謎のハンモックが掛かっている。

 

蒸し暑い夏から切り離されたように、ひんやりとした地下空間では現在青年の爆笑する声が反響していた。

 

「あっはははは!ひぃ、ぶ、はははは、ふふ、くくく」

 

笑いは基本的に快感によって生じるものだ。楽しい、面白い、理由はなんであれ、不快感から笑うものは少ないだろう。従って、笑い声が騒音だ、とか自分を馬鹿にして笑っていると文句を言うものはいても、笑うという行為そのものをいけないことだと批判するものもまたあまりいないに違いない。

 

ところが、げらげら笑う声の主がハンモックの上で寝そべる青年となると、話が変わってしまう。どうもこの青年が笑うと、どんな内容であろうが、楽しそうであろうが、明るい声だろうが、問答無用で人の神経を不愉快に逆撫でするのである。笑うと言う行為そのものが醜悪に思えてくるのだ。薄っぺらく無邪気、それでいて吐き気を催すような酷薄さが、その声には宿っている。笑えばいっそう、その性質が露わになった。

 

「無理、もう俺『ベニスに死す』が見れないよ……うくく」

未だ笑いの止む気配の無い青年の目尻には涙すら浮かんでいる。寝そべる体躯はすらりと長いが、その割にどこか幼い顔立ちをしている。顔や体には何本もの縫合痕が走っており、「継ぎ接いだ」という印象を見るものに与える青年だった。名を真人と言い、読んで字の如く人の呪霊である。限り無く人に似た姿を持ち、それでいてかけ離れたモノ。

 

「す、すみません…。初対面の人に失礼な事を」

「別に気にしていないから、謝る必要もない。君が私の容姿を褒めたのは理解してるしな」

 

不快な笑い声をBGMに、涼利にぺこぺこ謝るのは彼女よりいくつか年の若い少年だった。いかにも気の弱そうな少年と彼より背が高い涼利なので、完全にカツアゲみたいな光景が地下水路の開けた場所の上に広がっている。

 

涼利が指輪から出した短槍の峰の部分でハンモックを叩いた。ぶらぶらしていた真人はいきなり落とされそうになって、慌ててハンモックにしがみついた。

 

「で?お前が死ぬまで笑ってるんならそれでもいいが、そろそろ何の用か教えろ。年中暇してる呪霊と違ってこっちは忙しいんだが」

「あはは、それは大変だ。仕事だとか勉強だとか、人間ってそういうのにわざわざ縛られるの、ほんと好きだよねぇ」 

 

これ返すね、と青年は手元にあった本を投げ渡してきた。それをぱし、と受け取った涼利の目がやや険しいものになる。

 

「クソガキお前、この本の表紙はどこにやったんだ」

「そんなのあったっけ?忘れた。もしかしたら邪魔で捨てたのかも」

 

青年は至ってけろりとした調子である。涼利が先日真人に貸し、今しがた手元に返ってきた「カラマーゾフの兄弟3巻セット」は、飾り気のない裸の状態だった。本来付いている筈の表紙は影も形もない。しかも角に若干折り目がついてた。

見ていた吉野順平はウワ、と内心思った。人間社会でこれをやると、下手すれば友達を失うことになる行為である。まだ出会ったばかりの、偽名しか知らない女性に、そこそこ本好きの少年は同情した。

 

「それ、中々興味深かったよ。こういう血の繋がりなんかがテーマなの、人間ならではだよね。呪霊じゃそうはいかないし」

「そうか。どうでもいいが、次からお前に本を貸すことはないぞ。読みたかったら図書館にでも行くんだな」

「どうでもよくないんだろ、怒らないでよ"タージオ"。ぷぷ」

 

笑いの発作がぶり返したらしく震えている真人を他所に涼利の顔は終始無表情のままだったが、順平はそう言うわけにもいかず、その顔を真っ赤に染め上げた。

 

タージオ。トーマス・マン原作の「ベニスに死す」に登場する、老作曲家から想いを寄せられるポーランド貴族の美少年のことである。この作品はルキノ・ヴィスコンティ監督の手による映画化で多くの賞を獲得し、今も映画史に燦然と輝く名作となった。その映画の中でタージオを演じたのは、『世紀の美少年』と名高いスウェーデン人のビョルン・アンドレセンという俳優だった。彼の儚く中性的で、同性を傾かせるほど危うげな絶世の美貌は、この映画で一躍有名になった。

ここまでの情報を踏まえて、先程あった会話を参照。

 

『私の顔が、何か』

『いえ、あの………なんて言うか…』

––その、ビョルン・アンドレセンに似ているな、と思いまして。

 

ちなみにこれは、互いの自己紹介の後、涼利が自分の顔を何故かじっと見ている順平に対してした質問と、その答えである。うっかり口から出てしまったとは言え、普通に失言だった。まず持って涼利は女だったし、顔も全く似ていない。中性的な美貌をなんとか形容しようとしたのだろうが、全然上手いこといっていない。可哀想なくらい女性を褒めることに不慣れな、吉野順平少年の弊害だった。映画ファンとしても男としても駄目な部類の口説き文句である。

 

『こんなに物騒なタージオがいるわけないだろ!』

 

当初は、映画に造作が深いが俳優にまるで興味がないせいでぴんときていなかった真人だったが、それが「ベニスに死す」のタージオ役の俳優の名前だと聞かされるやいなや大爆笑し始めた、という訳である。それからずっと、この呪霊はその笑いを引きずっている。長い上にうるさい。

 

世紀の美少年に例えられてしまった涼利といえば慣れたものであった。幼少期から高身長と中性的な顔立ちのせいで、とにかく女子からモテまくり、数えきれないほどの逆ナンを断り、男に勘違いされてきた人生である。流石にビョルン・アンドレセンに似てると言われたのは初めてだったが、彼女にとってはそこまで笑うような話でもなかった。

ガーゼと包帯で隠れているこの顔の、どこをどう見たら絶世の美少年に見えるのか多少不思議には思ったが。

 

 

不快な笑い声を立てている継ぎ接ぎの呪霊。

レインコートを着て黙っている、中性的な風貌の女。

気の弱そうな童顔を真っ赤に染めた少年。

本来なら人の立ち入らないはずの地下空間は中々のカオスが広がっていた。

閑話休題。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

–––闇より出てて闇より黒く、その禊を祓いたまえ。

 

高校一年生で口にするには少し照れ臭い文言が、吉野順平の口から唱えられたのとほとんど同時に、ちょうど彼の真上を起点とした幕が広がった。透明度が高く、黒いベールに似たそれが下りていく速度は非常に遅く、完全に地面に到達することは無かった。その少し手前で、布地が綻びるように欠けて、形が保てなくなっている。

少年がぐっと力むのに合わせて地面に向かう動きは見せているものの、こちらが地面につけばあちらがつかず、といった具合に別の場所が欠け始めてしまうのだ。

 

「止め。そこまでにしといた方が良さそうだな」

 

その声に、ぱっと黒く薄い幕が搔き消える。集中していた様子の少年がこちらを向いて、疲れたように息を吐いた。

「どう、でしょう。さっきよりは黒色が濃くなってはいましたけど………」

「いや。きちんと覆い隠せないと帳とは言えない。あれだとせいぜい、一般人でも外から入れる強度だろ………報酬ケチってきたなこいつ。受けるの止めとこう」

 

貶しているわけでもないが、特に慰める気もないらしい、温度の低い講評に順平はちょっと方を落とした。ちら、と見上げた先の涼利は、あまり興味がなさそうに独り言を呟きながら、スマホの画面に視線を落としている。そろそろ薄暗くなってきた時間帯、地下水路の中もまたそこかしこから帳とは違う闇が濃くなってきていた。その中で、スマホの液晶の青い光がぼう、と浮き上がっている。

 

「とは言え、君の術式そのものは問題なく扱えていたんだ。真人と会ってまだそれほど経ってないんだよな」

「あ、はい。だいたい2週間くらいですかね…」

「なら、取り立てて出来ていない訳じゃない。初めから何もかもできる奴の方が稀だ」

 

つらつらと、淀みのない調子でそう言い切った女性は画面を何度か爪でタップし、それに合わせて軽やかな電子音が一度流れた。それを確認した彼女は「もうこんな時間か」と誰に言うでもなく呟いた。電源を落としたスマホを、洒落たデザインのレインコートに仕舞った女は、もたれかかっていた壁から離れて、すたすたと順平の方に歩いてきた。

 

先だって、順平がビョルン・アンドレセンに例えたその顔立ちは、薄暗がりの中でぞくりとするような雰囲気があった。かの俳優とは全くタイプの異なる(それどころか性別も違う)のだが、やはり相当な美形である。甘さが無く、どこか硬質な輝きがあって、鋭利だ。過不足や歪みがどこにも見当たらず、全てのパーツが正しい位置にある。ガーゼや包帯で顔の何割かが隠されてはいたが、それは彼女の持つ美しさを損なうことすらできていない。

順平の同級生の女の子にはとても真似できない、見るものを思わずたじろがせるような面差しだった。

 

 

「回数をこなせばすぐに帳は降ろせるようになる。同じ呪力操作でも反転術式は完全に相性やセンスの分野だから、出来ないなら諦めた方がいいし、それに時間を使うより術式を磨くのが有意義だろうな–––と言うか、おい、真人」

 

言葉を切って、涼利が奥の方に居る真人を見やった。

青年はちょうど作った改造人間を飴細工のようにして遊んでいる真っ最中で、どう見ても質量保存の法則が適応されていない変形を遂げたそれがどこかで限界を迎えたらしく、派手に吹き出した血がばしゃりと音を立てて真人の体を濡らしていた。

その呼びかけに、ペンキを頭から被ったような状態で、青年がきょとりとこちらを向く。

 

「お前が教えてやれっつったくせに一人遊びしてんなよ。彼みたいな使役系の術式持ちなら、作った改造人間と戦わせて慣れさせる方がいいんじゃないのか」

「え?あー、それもそうかもね。まあ、君もなかなか教えるの上手かったとは思うよ。同じ人間同士の方が感覚が掴みやすいのかなぁ」

「妙に上からだな、お前………」

「それにさあ、」

 

に、と真人の唇の端がゆっくり持ち上がる。先程ビョルン・アンドレセンのネタで散々笑っていたときとは違う笑みだった。嘲ってやろう、悪意を持って揺さぶってやろうと言う意図をわざわざ隠していない、露悪的で厭らしい表情。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・

「誰かに教えられたことのある奴の方が教えるのも上手いって、よく言うだろ?君もその類なのかと思って」

「かもな」

 

たっぷり込められた悪意に反して涼利の反応は薄い。相も変わらず感情の読みにくい、凪いだ顔で真人を見返している。青年は口を尖らせた。

 

聞いていた順平には何のことやらさっぱりだったが、恐らくは彼女の反応が真人の期待していたものではないのだろうな、と言うのは薄らと理解できた。多分彼は、涼利が怒ったり戸惑ったりするのを見たかったのだ。そういう、順平にも見覚えのある、いじめっ子のような表情だった。「心というものは存在しない」と言い切った彼にしてはずいぶん、似合わないようにも思える。

 

「えー、何その反応。君ってほんとつまんないなぁ。魂の代謝が少ないっていうか、揺れ幅が小さいっていうかさ………」

「そいつはどうも。お前を楽しませていないことが何より嬉しいぜ。じゃあ、そろそろ仕事の時間だし、私は先に戻るかな」

 

別れ際の挨拶とかは特に無いまま、彼女のすらりとした姿が瞬きの間にその場から消えていた。つい一秒前まで、確かにそのレインコートを着た長身が暗い地下水路の自身のすぐ近くで立っていたはずなのに、陰も形もない。ついでに、残穢も何故か残っていない。

漫画やアニメにあるような、煙や魔法陣や呪文や残像も無しに、元からそこには誰も居なかったかのように消え失せている。

 

–––まさに、神出鬼没。

ありがちなキャッチコピーが吉野順平の頭に浮かんだ。

 

もう少し彼の動体視力が良ければ、郡上涼利の肌の上に浮かんだ無数の赤い文字が見えたかもしれない。が、彼の目には薄赤い光がほんの僅かに映っていただけだった。

 

 

「………今のが、あの人の術式なんですか?」

「厳密には、そのひとつだね』

真人はまた、にやにやしている。楽しくてたまらないという顔だった。

「彼女、『シキトリ』って名乗っただろう?」

 

順平はこくりと、ひとつ頷く。郡上涼利と言う女の本名を、この少年は知らない。呼べるのは、彼女が堂々と『プライバシー保護の為の偽名だ』と冗談なのかどうか分からない口調で言ったそれひとつだけである。

「あれ、彼女の通り名みたいなものなんだよ。で、言葉遊びでもある」

人間だからそう言うの好きなんだろうね、と馬鹿にした口調で言いながら、真人は手にした小さな改造人間を放り投げては、またキャッチしている。

「言葉遊び?」

「そう、好きの反対を無関心と言い換えるのとはちょっと違うけど。『シキトリ』は意味のある漢字が当てられているんだ。それが分かれば彼女の術式も分かると思うよ」

 

ぽん、と目の前に飛んできた手乗りサイズの改造人間を慌てて受け取める。濃くなってきた闇の中で、暗い色をしたそれをきちんと視認できた自分自身に、順平はふ、と奇妙な成長のような、優越感のようなものを思った。暗闇の中で淡くひかる呪力。以前の自分には見えていなかったもの。他の方には見えないもの。暗がりに潜んでいるもの。

 

「俺は彼女の術式、なかなか好きだよ。知りうる限りじゃ2番目に、人間らしい術式だと思ってる」

「………ちなみに1番目は?」

 

後から思ってみてもそれは愚問だった。真人とシキトリと名乗った彼女がどんな関係であるとか、なぜ呪詛師と呪霊が組んでいるのか、とか聞いておけばよかったのかも知れない。なのにその下らない質問をしてしまったのは、映画館での出会いから続く、この残忍で魅力的な呪霊に吉野順平が少なからず惹かれていたのだろう。そして、この呪われた世界のことにも。

 

 

 

「もちろん、俺の無為転変だよ。人を呪う胎から生まれた俺の術式こそ、もっとも人間らしいものに他ならない」

 

地下水路の中は、今やほとんど闇に近かった。僅かに切れかけた電球の逆光で、真人のいるハンモックの上はより濃い闇がわだかまっている。その黒い空間の中に真人の顔も沈み、距離もあるからかその表情は定かではなかったが、笑っている、と順平は何故かそう感じた。

 

 

 

–––シキトリ。しきとり。術式を他者から盗むから、式盗り。

 

簡単で面白みの無い言葉遊び。そもそも呪いである真人にしてみれば、己を根幹を表す名を2つも持つと言うのが信じられない行為ではあるが、同じものをいくつもの側面からいくつもの言葉で表すと解釈すれば、案外面白いのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同時刻に、とある都内の廃ビルでレインコート姿の女が男の死体を蹴って転がした。ごろり、とされるがままの男のこめかみからは、矢尻が飛び出し、細く一筋の鮮血が流れ出していた。力の抜けて肉の塊になったそれに、涼利は手を当てる。まだ死んでさほど時間が経っていないからか生緩く、そして柔らかい感触だ。

 

–––ずる。ずるずる、ずるり。

 

何かが抜け出す音だった。這い上がる音だった。

初めは見た目に変化の無かった両者だが、徐々にそれが訪れる。涼利の手が触れた部分を中心に鈍い光を放つ赤い文字が浮き上がり、それが生き物のように集まって進んでいく。数秒もせずにそれは一つの文章になって、完全に涼利の体表に書かれたものになり、そしてふつりとその光が途絶えた。

 

 

 

 

 

式盗り。剥式呪法の担い手。

 

本来なら、生まれながら術師ひとりにつきひとつしか持ち得ないはずの術式を他者から剥奪し、自分のものとする術式だ。古代から隣人を妬み、憧れ、奪い取るために傷つけあう人間の変わらぬ営み。彼女の術式は、まさに人間の数ある悪性の、ひとつの現れとも言えるだろう。

そしてその持ち主である、レインコートを着て、ガーゼと包帯に顔を隠して、凪いだ目をした呪詛師。魂の代謝が他人と比べて少ない彼女のことを、真人は思いの外気に入っている。夏油傑とどう言う関係なのか、ちょっかいを出してやろうと考えるくらいには。

そんなよからぬことを真人が考えていたからか、廃ビルから出るところだった涼利は、小さいくしゃみをひとつした。




用語解説 

・郡上涼利
美々子と菜々子を養ってる。ビョルン・アンドレセンには似てない。シキトリと言う偽名は、身元バレを防ぐために名乗っており、大体は敷鳥という当て字を使う。中二の頃に自分で考えた。

・ミミナナ
主人公の家の居候。料理が上手いのは菜々子、掃除とかがマメなのは美々子。

・郡上家
激安事故物件。大学進学を期に主人公が買った。4〜2級呪霊が出る。一応人除けはしてるが、たまに心霊スポット凸とかされるときがある。盗むものが何もないので誰も施錠をしない。準一級以上が出現しないのは、出るとすぐさま涼利に術式を引っ剥がされるから。

・首吊ってるひと
前の前の前の住人の愛人と言う噂。地元でマイナーながら知名度があるので殺してもまた出る。2級くらい。

・シルバーリング
涼利の使ってる呪具。十種の武器を持ち運べる。メリケンサックとして使ってもいい。ごつい。

・ビョルン・アンドレセン
作者の推し俳優。一時期待ち受けにしてた。
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