換骨奪胎   作:メラニンEX

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切りどころが分からなくなって、めっちゃくちゃ長くなりました。ファンブックは買えなかったので、電子書籍にしました。作者は夏油さんと誕生日がいっしょだったので嬉しい限りです。


第三話

家は、テリトリーだ。

 

人間の生活の拠点であり、起点となる場所。自らのもっとも安全な、安心できる場所である。世界で最もセキュリティの厳しいシェルターにいるより自宅にいる方が、くつろげるという人間も多いだろう。

自分や信頼できる家族が選んだ家具や生活の道具、過ごしてきた時間の長さ、共に暮らす人間。そういうものが積み重なり、家というのはある種の領域になる。決して自分を脅かさない、安全で居心地のよい、自分の延長線上にある空間。

 

–––ならば今、この家は吉野順平のテリトリーではなくなりかけている。

彼は、玄関のドアを閉めながらそう考えた。バイバイ、と手を振る真人の後ろ姿が、夕闇の中の廊下の暗がりに消えて見えなくなるのを待って、閉めたドアに鍵を掛ける。

昔から、鍵を閉めるという動作は、好きだった。空間が完全に閉じられて、誰も入ってこない場所になる、儀式のような気がしていたから。でももう、そう考えることは順平にはできなかった。

 

フローリングの廊下を歩いて戻ると、相変わらず見慣れたリビングには唯一の同居人である母の死体と血の海が広がり、クーラーをかなり低い温度でかけているからか、ぞわりと順平の肌が震えた。今朝起きてもう何時間も経つのに、母の遺体ひとつによって順平の家はもう順平のものではなかった。世界で一番安心できる、居心地の良い空間はどこかに行ってしまった。別の、知らない人の家と言われた方がまだ納得がいくくらいだ。

 

 

 

そのリビングの中で、郡上涼利は中腰で順平の母の死体をまじまじ見ていた。明るい白熱灯に照らされて、レインコートのポケットに両手を突っ込んだまま、じろじろと上から下まで舐めるように眺めている。血溜まりを上手いこと避けた位置から、母の遺体の周りをゆっくりと歩き回っていた女は、廊下のドアを閉める前に順平が入ってきたことに気づいたようで、背を伸ばして少年の方を向いた。

 

「真人は帰ったか?」

「………はい。あの、お話って何ですか」

 

リビングの中に郡上涼利がいるだけで、順平の自宅は何となく安っぽい映画のセットのように見えた。海外の刑事物か、それでなかったら超能力者のでてくるSFもの。その導入部だ。ありがちな悲劇から、主人公の物語が始まる場面。それぐらいに、現実味のない光景だった。

 

そう言えば、物心ついた時から順平は女性を家に招いたことがなかったので、彼女は記念すべき第一号だった。その涼利は、真人と共に順平の自宅を訪れて死体を前にしてもあまり興味がなさそうな素振りを見せていたが、何故か真人が帰る頃になって順平に話がある、と言い出して青年を先に帰していた。真人もその彼女の話とやらに興味津々だったが、涼利が「今帰らなかったら、お前が読みたがっている本を大学の図書館からもう二度と借りてこない」と脅したので真人は順平の家を後にしていた。以前「カラマーゾフの兄弟」の表紙を剥がして返した彼に、涼利はまだ本を貸しているらしい。

 

 

「まず聞いておきたいんだが、吉野家は何宗だ?」

「えっ?」

 

母の死や、これから計画していることについて何かあるのか、という順平の予想に反して、全く関係の無い質問だった。ふざけているのか、と思って見上げた先の女の顔には特にそういう色は浮かんでおらず、順平の顔をじっと見ている。母の死体を見ているものと全く同じ、温度の低い目つきだった。

 

「え、あの何宗って、何がですか?」

「君の家が何の宗教を信じているか、ということ。無宗教でもいいが、要するにどういう形で葬儀をする予定なんだ」

 

ある意味では死体について真面目に考えてくれている、と受け取ってもいいが、間違いなく配慮に欠けた質問だった。実母を惨いやり口で殺されたばかりの思春期の少年に、「葬儀の予定は?」と聞く奴は世の中広しと言えどそういない。葬儀屋だってもうちょっとマシな聞き方をするだろう。澱月を出さなかったし、殴りかかりもしなかった吉野順平少年の忍耐はなかなかのものだった。単純に、そういう気力が順平の中には枯渇しており、何度かの付き合いの中で、彼女の悪意なくそういう物言いをする所に慣れていた、というのも理由のひとつだが。

 

「いや、ちょっと分からないです…最近はずっと親戚の葬式とかも無かったですし」

彼女の無神経さへの僅かな怒りと、質問の無稽さに戸惑いながらの順平の答えに、涼利はひとつ頷いた。

「特に気にする必要は無さそうだな。次だ。十中八九火葬だろうが、もしかして土葬の家柄だったりするか?」

「な、」

今度こそ順平は絶句してしまった。吹き上がるような怒りが、少年の臓腑を焦がす。

「何が言いたいんだ!母さんのし、死体を前にして火葬だの土葬だの、ふざけてるのか!?」

 

普段の順平なら考えられないような大声が、びりびりと部屋を揺らした。音量がうるさかったのか、隣室からドン、と壁を叩かれて、その音にまた順平の苛立ちが募る。目の前の涼利の無神経さもそうだったが、母を殺されたばかりの悲しみや混乱、殺したであろう呪詛師への怒り、無力感、理不尽さ、真人に囁かれた復讐によって押さえつけられていたそういう感情が一気に、毒のように順平の体内をめぐっていた。

 

涼利の白皙は、相変わらず能面然としたままだ。白い光に上から照らされて、ぴくりとも動いていない。整っているだけに、彼女の真顔はいつも怖いと感じていた順平だったが、今はその怖さも忘れて掴みかからんばかりの勢いだった。

 

「別にふざけてないが。それによってやり方も変わってくるから確認のために一応聞いてみただけ」

「やり方………何の?」

「修復だ。君の母親の死体の。流石にこの状態だと、色々不味いんじゃないのか」

「修復、って」

 

その言葉に、レインコートの女から目を外して、母の死体を見下ろす。何度見ても、その度に目を逸らしてしまうだけの惨い状態だった。順平の母・凪は背が高かった。高校に入ってからもまだ、れっきとした男子である順平は母より背が低いままだったほど。その、母も自慢にしていたすらりと長い足は、腰から丸ごとどこにもない。青褪めた上半身はまだマシな状態だったが、ところどころ肉が齧られた痕が残っており、黒く酸化した血液が付着している。腰の断面からは僅かに脊柱やどれがどれかも分からない内臓ががはみ出していた。そして、何より。もう人の匂いがしなかった。嗅ぎ慣れた母の香水ではなく、血と饐えた肉のそれが鼻をつくのが、どうしようもなく順平を虚しくさせた。

 

「シキトリさん、直せるんですか」

こんなに、ひどいのに。こんなに、ぐちゃぐちゃになってしまったのに。

その惨状に、涼利への怒りがすう、と引いた。彼女が母の死を悲しんでくれていないのは分かってはいたが、母の遺体の状態がひどいというのは確かな事実だった。死体を修復しても母は戻らないけれど、元の状態に戻せるのなら順平だって戻してやりたかった。

 

「できる。私はエンバーミングの本職じゃないが、それっぽいことなら呪術で可能だ。下半身を作るだけならそこまで時間もかからないだろ」

「体を切ったり、は」

「修復するのに何で解剖が必要なんだ。爪と髪が多少いるだけだ」

「………母さんは、元通りになるんですか」

 

言いながら初めて、順平は母の遺体をどうしてやるつもりだったのか、自分が考えていなかったことに気がついた。朝に母の遺体を見つけて、混乱して、真人に連絡をとって。ずっと、母がどうして殺されなければならなかったのか、殺した犯人を殺す計画を立てたりはしていたけれど、事切れた母をこの後どうしてやるのか考える余裕もなかった。

 

そうだ。人が死んだら、お葬式をして、悼んでやるのが普通なのに。どうして忘れていたんだろう。

 

順平の言葉に、床に座ってリュックサックを漁っていた涼利は「完全に元通りは無理だが」と言いながら、何やら取り出していた。ゴム手袋や、謎の大きな入れ物、ゴミ袋、マスクなどをぽいぽいと放る仕草は手慣れている。

 

「今よりマシにはなる。どうする、やるか?」

 

端的な質問だった。ここに至ってもなお、彼女には順平への気遣いや躊躇いと言ったものは、かけらも見せないまま、ひたすらに静かな目で彼を見ている。

沈黙が流れ、順平はシャツの裾をぎゅっと握った。いつだったか、母が買ってきてくれた、少しダサいデザインのそれに、皺が寄る。クーラーの音しか流れていない部屋が、ひどく嫌だった。この家にいれば沈黙だって心地よかったはずなのに、もうそれは一生戻ってこない。母の体のことなのに、母はもう自分で決めることすらできなくなってしまった。

 

「………はい。お願いします」

 

長い沈黙の後に、絞り出すような順平の答えに涼利はひとつ頷いて、彼に背を向けると、リュックサックから取り出したブルーシートをリビングに広げ出した。事故現場に引かれるようなそれの、目に痛いほど鮮やかな青色が、見慣れた家を侵食していく様子は、やはり現実味がない。

 

あ、と声を上げた涼利の白い顔には、僅かにブルーシートの青が照り映えていた。彼女の付けているシンプルなピアスが、白熱灯に反射しているのをぼんやりと眺めいた順平は、その声に意識を引き戻された。涼利を見ると、床にしゃがみながら順平を見上げている。

 

「言い忘れてた。有料だ」

 

金取るのかよ。順平が言おうと思っていたお礼や、大声を出したことに対する謝罪の言葉がすごい速さで喉の奥に引っ込んだ。

 

晩夏の落陽が、西から赤く差し込んでくるのを、涼利はカーテンを引いて遮ると、指に嵌めたシルバーリングを全て外してリュックサックにしまい、ゴム手袋をつけた手で順平の母の前髪を払い、瞼を閉じさせた。その無表情や気遣いの欠片もない発言にはひどく不釣り合いなほど、やさしい手つきだった。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

吉野家のリビングは猥雑としていた。

ブルーシートが広げ終わった瞬間に、もうそこは順平の家の中でありながら切り離された場所だったが、時間の経過とともにそれは加速度的に乖離していた。床だけに視線を落としていれば、そこが何のための場所なのか分かる人間はほとんどいないだろう。

 

青い地面の上には、ゴミ袋やバケツ、謎の札が数枚、サランラップ、2リットルのペットボトル、爪切りやハサミ、挙句の果てには何故かクイックルワイパーなどが整然と並べられている。その大半には血糊や謎の塊がべっとりこびりついていた。明らかにリュックサックの体積を大幅に超えたそれらの器具は、まとめてシートの一部分に寄せられており、床の大半を占めるのは全く別のものだった。

 

土。正確に言うと、赤みがかった粘土の固まり。すべて集めると洗濯物のカゴ一杯分よりまだ多いくらいのそれは、涼利がリュックサックから出してきた袋入りの大量の粘土に、クイックルワイパーで床を拭き取ってから絞った順平の母親の血を混ぜ込んだものである。

 

時間経過によって変わる電灯が、白からオレンジに切り替えた光の下で涼利はそれを一心にこねていた。ブルーシートの上、彼女の手の中にある粘土の固まりは小さいもので、床に置いた大型のタブレットに表示された精密な人体図と睨めっこしながら、それを整形して並べていく。

 

手伝えることは特にない、と申し出たときに断られていたし、さりとて母の遺体に手をつけているのを放って出かけるわけにもいかず、その光景をじっと見ていた順平の視線に気づいたのだろうか。涼利がふとこちらを向いた。オレンジの光に照らされた彼女の目は、その色に染まっているせいか、平素の冷たさが少し和らいでいるようにも見える。

 

「どうかしたか」

「いえ。何でも………あの、その方法で母さんの体は元に戻るんですよね?」

 

母の欠けた下半身の所を埋めるようにして、赤い粘土で形を模した骨らしきものが、人体模型のようにきっちりと、部分ごとに並べられている。骨盤、大腿骨、脛、足の指の一本一本にいたるまで、かなり細かく作り込まれた粘土の人体模型図はほとんど完成しかけており、残すのは左脚の一部分だけとなっていた。

そうは言っても、彼女が作業を始めてからやったことは部屋の掃除と粘土の整形のみで、術式らしいものは何一つ使ってもいない。真人からも「術師としてトップクラス」と言われていた涼利を疑うわけではないにせよ、不安は確かにあった。

 

「ああ。予定より時間はかかってるけど、問題ない。この調子でやればあと15分も要らないだろうな。ご要望通り火葬用だ、焼いても骨は残る仕様になってる」

「これは……そういう、死体を補う術式なんですか?」

 

順平の言葉に、涼利は首を一度だけ横に振った。一瞥も少年にはくれないまま、粘土をこね、タブレットの人体図と差異があったのか、また形を変えていく。

 

「いや。これは本来土から呪骸を作りだす術式だ。東洋版のゴーレムと言うとわかりやすいか。通常の呪骸より耐久性に難がある分、安価で簡単に作り直すことができるのは利点だな。加えて、土に混ぜるものや核の材料によって、何に比重を置くかは作り手の自由となる」

 

今回は人体の一部を混ぜることで外見を似せることを重視した形だ、と言いながら涼利は細長く整形した腓骨を当てはまる位置に置くと、全体のバランスが崩れていないか確かめるためにひょいと立ち上がった。

 

呪骸、と順平はつぶやいた。真人から自立する術式を刻まれた人形のようなもの、と聞いて自らの操る式神を思い描いていたが、こうして作られるところを見るとかなり違う。

 

「呪骸と、澱月みたいな式神は違うんですよね」

「材料と視認の有無の違いだな。君の式神は君の呪力で作られ、呪骸は現実にある物質を材料に作られる。従って式神は呪力なしの一般人には見ることが不可能たが、呪骸は猿でも見える。あとは術師なしでも動けるかどう、」

 

ぴたっと涼利の言葉が途切れた。見れば彼女の手も動きを止めている。ぎぎぎ、と後を立てそうな具合で彼女は首をひねって順平の方を向くと焦った様子でゴム手袋を嵌めたまま、マスクをした口を覆っている。沈黙の中でクーラーの可動する音と、遠くから聞こえる町の喧騒のみがつかの間部屋を流れた。

 

「………今、私なんて言った?」

「えっ、あ、術師なしでも動けるかどうか?って」

涼利は首を振った。砂色の瞳孔が見開かれていて、順平は初めて彼女が動揺したところを目撃していた。

「そこじゃない。その前だ」

「猿でも見える?」

「そう……………ウワ最悪。移ってるじゃねぇか」

 

乱暴な仕草で彼女は頬のガーゼを引っ掻いた。涼利がこうもはっきりと感情を表に出すようなことは、幾度かの付き合いのなかでも初めてだったので、物珍しい気分で彼女の白い顔や、顎の高さで揺れている黒髪を見やった。彼女は何度か、マスクを上げたり下ろしたりしてから、また鼻まで引っ張り上げる。

 

「あー、つまり、猿って言うのは呪術界のスラング、非術師を指すめちゃくちゃ下品な言い方だ。気分悪くしたならすまん」

「いえ、別に大丈夫ですけど…どの世界でもあるんですね、そういう差別用語みたいなの」

涼利は苦々しい顔で幾度か首を振ってため息をつくと、嫌そうに骨を一本また床に置いた。それからしばらく黙ったまま作業は進んでいき、10分ほどしてからこれでひと段落だ、と彼女は宣言して順平の母の遺体を離れた。

 

 

母の青褪めた上半身の下には、精密に組まれた赤い骨組みが出来上がっていた。足の踵などの細かい部分は、流石に全ての骨が再現されているわけではなくまとめて一つの部品のようになっているものもあったが、それでも全体の完成度は高い。小学校の頃に理科の実験室に置いてあった人体模型のそれとかなり近くなっていた。粘土でできているので質感は本物よりくにゃんと柔らかく、平面的ではあるが、暗赤色で色づけされているために妙な生々しさがある。

この1時間ほど見ても、母の生前と変わらない上半身の下に骨だけがある光景は、出来の悪いコラージュのようだ、と順平は思った。

 

ここから新しく肉付けにあたる作業をやるのか、と考えていると涼利はすぐに戻ってきた。ゴム手袋を外した手に、先程まで床に置いていた謎の札らしきものを手にしており、折り畳まれたそれは何かを包んでいるように盛り上がっていた。大きさは手のひらの半分くらいだろうか。それを赤黒い粘土で作られた骨盤の上に置くと、涼利は順平の方を振り返った。

 

「これで完成だな。今置いたのが呪骸の核だ。今回は君の母親の爪と髪を呪符で巻いただけのシンプルなものにした。本来はここに細かい術式なんかを書いたりして自立稼働させるんだが、それは省略だ。動かす必要ないからな」

–––始まるぞ。見たくなければ別にいいが。

 

涼利のその言葉が終わる頃に、順平の母の遺体は変化し始めていた。濃いオレンジの光の下、青い地面に寝た母の骨盤の呪符を中心として、ピンク色の肉が生み出されていた。本来そこにあるはずの血管や神経は存在しないまま、形容し難い音を立てて、ものすごい速さで腰、太腿、ふくらはぎと上から筋肉が骨にまとわりつき、その上に何層かの皮膚が貼られていく。最後に足の指に爪が生え終わるまでおよそ30秒程度で、順平の母の体はほとんど元通りのシルエットを取り戻していた。どこから持ってきたのか、涼利がゴソゴソと母の下半身に服を着せてやれば、母はまるで眠っているようにすら見えた。

 

「確認してみてくれ。違和感があれば直す」

 

恐る恐る母の足に触れると、滑らかですこし固い感触が伝わってきた。呪術に使う人形の作り方を流用しているからか、生きた人間そのものと同じ触感ではなかったが、それでも充分すぎるほどだった。穏やかな寝顔、上と下で分たれていない体。今日の朝起きて、きっと見られると思っていた順平の母の寝姿がそこには再現されていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

「あの………今日はありがとうございました」

廊下のドアを閉めた後、クーラーがかかっていないせいでむっとした熱気のこもる玄関の段差に腰掛け、口を動かしながらアディダスのスニーカーを履いている涼利に順平がそう礼を言うと、わずかに首を傾げられた。

 

「何が?」

「いや、母の体をわざわざ直してくれたことが、ですけど」

 

本気で分かっていないのかはぐらかしているのか、判別のつかない表情である。彼女は、食べていたコンビニのローストビーフサンドの最後の一口を飲み込み、黒いリュックサックを背負い直して、三和土に立ち上がった。

 

「そのことなら礼は要らない。私は遺体の修復を吉野に提案し、君はそれを受けた。私の技術と労力に対して、君は報酬も支払ってるしな」

涼利はレインコートのポケットに入った財布を外から叩いた。

「君の母親の下半身は、今のところ焼かれるか核を壊されるかしない限りは絶対に変わらない仕様にしておいたが、上半身にはあまり手を加えてない。腐る前に火葬場で焼くことをお勧めするぜ」

 

それだけ言って涼利はドアノブに手をかけて少し開いたところで、ふと顔だけ振り向いた。ドアの隙間からはとっぷり暮れた夜が覗いており、外廊下を挟んだ向こうの紺の空には、明るい月が昇っていた。都心の夏、そこまで澄んでいない空気とネオンでくっきりと映らないはずのその丸い金色は、今日に限って綺麗に見えた。蒸し暑い夜の熱気に、順平は少し息苦しさを覚える。

 

「そういや君は、母親殺した奴を殺しに行くんだったか。じゃ、しばらくは時間取れないかもしれないが、できるだけ早めにな」

「………止めないんですか、僕のこと」

「止めて欲しいのか?」

 

涼利の顔はやはり静かな色が浮かんでいた。作業中に猿、と言ってしまったときのような感情は何も浮かんでいない。彼女は順平の一段下の場所に立っているので目線がいつもより近くなっていた。砂色のたじろぐような光を孕んだ眼差しがよく見える。

 

「そう言うわけじゃない、ですけど…」

「けど?」

「メリットがない、くらいは言われるかと思ってました」

 

短い付き合いではあるが、彼女はメリットを重んじる性格をしているのは順平も承知していた。彼女に頼み事をするときは何らかの対価が必要だったし、無ければ大抵彼女は引き受けない。涼利はその効率性を他者にまで強要はしなかったが、順平自身にやろうとしている復讐が理にかなっていないことの自覚はあった為、結果として順平の口からはその台詞が自虐のように吐き出された。

 

「君が殺人によって被るメリットもデメリットも、私に何ら関係ない。口を出すほど興味もない」

だけど、まあ。彼女はドアノブから手を離して、腕を組んだ。ドアがバタン、と音を立てて締まる。

「君にメリットがないのは同感だ。君の殺人で母親は戻らないし、君は呪詛師として呪術界に追われることになる。この職種は稼ぎだけはいいが、こう言う危険もあるからな」

 

順平の視界の中央に、何かが突きつけられていた。ちょうど目と目の間にあるそれを寄り目でゆっくりと見れば、オレンジのライトを弾く、黒い銃口だった。

は、と声にならない声が順平の口から溢れた。映画のワンシーンのようなそれは眉間の皮膚の上で確かに冷たい温度をもって存在しており、目を逸らすことができない。その冷たさに、これが現実であるという実感が急速に湧いてきて、我知らず、奥歯がカタカタと震え始めた。

 

順平に銃口を向けた張本人は涼しい顔で、少年をじっと見ている。いつもと同じ温度の目つきで、さっきまで普通に話をしていたことと変わらない表情で、平然と引き金に手をかけた。そのあまりのシームレスさに順平は恐怖と同時に驚いてもいた。母が体験したばかりの死が、すぐそばに迫る気配。

–––圧倒的な恐怖を前に、毒のように体内にあった怒りが萎んでいく感触。

 

映画の中で何度も聞いた、がちゃりという安全装置が外される音が響き、ぎゅっと順平が目を瞑ったが、想像に反して順平の頭が吹き飛ぶことはなかった。

 

「こうやって銃をいきなり突きつけてくる私みたいな呪詛師は、掃いて捨てるほどいる。映画で見るより怖いだろ」

ちなみにこの銃、『ジョン・ウィック』の第1作で主人公が使ってたやつなんだ。淡々とした口調と、突きつけられている銃口という状況の差に、混乱の最中にある順平の頭はぐらぐらした。一体何が、起きている。

 

「呪殺にデメリットしかないとしても、どちらにしろ君の判断だ。復讐にメリットを求めるのも妙な話だし、私が説教できるようなご身分でもない。私のやってることだって側からみたら復讐みたいに見えるんだろうしな」

 

涼利は器用に肩をすくめてから拳銃を順平の眉間から下ろした。どっ、と止めていた呼吸が戻り、冷たい汗が顔からたらりと垂れた。未だに眉間に冷たい感触がのこっているような気がして、手で撫でる少年を前に全く悪びれないレインコートの呪詛師は銃の安全装置を戻してポケットに入れた。

 

「そう言うことだ。やるなともやれとも言わないが、やるなら危険性は分かっておいた方がいい。呪詛師としてのアドバイスだ」

「…ありがとうございます………?」

 

先程閉じたドアがもう一度開かれ、また蒸し暑い風がなだれ込む。いきなり銃口を向けたことに謝罪もないまま、涼利は「邪魔したな」とだけ言ってマンションの廊下を歩いて去っていった。スニーカーを履いた彼女は足音を立てることもなく、あっという間に暗闇に溶けた。

ばたん、とドアが締まり、その音と共に順平は膝が抜けて床に座り込んでしまった。

 

母の死。真人が囁いた復讐。呪詛師。赤い骨組み。母の眠ったように安らかな顔。肉が作られていく生々しい音。ブルーシートの青さ。

–––たった今向けられていた銃口の感触。

 

今日の朝起きてからの何もかもが走馬灯のように順平の頭をよぎり、頭を抱えた。何もかも順平のこれまでにはなかった出来事、抱いたこともないような感情ばかりがいきなり大群となって、この1日の間に体験してしまったものだから、少年の脳はいよいよ限界に近かった。その様々な感情が渦巻く、母を失ったばかりの順平には今日の全ては都合の悪い夢のように思えたが、ひとつだけ確かなこともあった。

 

「くそ、何がアドバイスだ………」

 

絶対普通に殺すつもりだっただろ。母の遺体を直してくれた涼利への恨みごとを聞くものはどこにもおらず、遠くの方でクーラーのごう、と風を吹き出す音が聞こえるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

–––昼を、偽の夜が塗り替えて行く。

 

 

いつだったか、吉野順平が地下水路で練習していたものとは、規模も密度もまるで違う帳が、文字通り空から里桜高校の敷地を包み、覆い被さってゆく。無から有が生まれる。その黒い天蓋の中には、月も星も、風すらもない。どこまでも厚い雲が続く、光のない不自然な夜空のみが広がっている。

 

現在、この高校の内部では呪力を持ったものには暗い夜が、そうでないものには変わりなく明るい昼が見えるようになっている。そして出入りは外からの一方通行のみが許され、中からは決して出られない。帳の作り手の経験の浅さに反比例して、ほとんど完璧に近い出来だった。

 

 

 

古びたコンクリート製の校舎のひとつ、その屋上。いかにも青春もののドラマに出てきそうな、簡素で無骨な造りのそこ。平素は厳重に鍵をかけられている筈の場所には、2人の男の姿があった。

似たような黒い服を着た2人の内、片方は継ぎ接ぎの青年で、残った方は黒髪の仏像じみた顔の、もういくばくか年嵩と見える男。真人と、以前五条悟と火山頭の呪霊が戦っていたときに居た、袈裟の男だった。

 

 

「うーん、できたはできたんだけどなぁ………」

 

何やら真人の顔は不満げだった。偽とはいえ十二分に暗い闇の中でもはっきりと分かるように、幼稚な口の尖らせ方である。今は袈裟ではない服に身を包んだ男が、唸っている真人を不思議そうに見た。

 

「おや、どうかしたのかい。初めて帳を下ろしたにしては充分な出来だと思うけどね」

真人は手をぐねぐね動かしながら男の方を向いた。

「いや、前に郡上が帳を下ろし方を順平に教えてたときに、応用として色んな効果つきの帳を作っててさ。俺にも出来るかな、と思ったんだけど。結構難しいもんだね」

 

薄暗い地下水路の中で、一定の速度より決して速くも遅くもならない、淡々とした説明を加えながら、黒い帳を自在に操るレインコートの女の姿が真人の脳裏には浮かんでいた。

この男『夏油傑』と名乗る男が一時的な協力者として連れてきた呪詛師・郡上涼利は、戦闘能力もさながら、帳を下ろす腕前に関しても一級品だった。

 

 

「数千種類の術式を扱うということは、数千種類の呪力の流し方を熟知することと同義だ。先天的な才能というより彼女の剥式呪法の都合上、後から身についたものだけど、こればかりは他人が容易く真似できるものじゃあないだろう」

「フーン。で、郡上、今日は来ないんだよね?」

 

真人は、帳にはもう興味を失ったようだった。彼の発音は時々幼い。「郡上」は「グンジョー」のように、妙に延びて間抜けっぽく聞こえる。そのまろやかな響きには似合わない、目つきの悪いレインコートの呪詛師は、屋上に姿が見当たらなかった。

 

「あぁ。今日は別件で仕事があるらしいね」

 

郡上涼利は、別に『夏油』の部下でもなければ、真人たち呪霊の思想に共感して動いているわけでもない。利害が途中まで一致しているということで、一時的に協力しているだけである。なので彼女個人でやっている仕事で、真人たちとは全く違う行動をとることはよくあった。むしろそこそこ知名度のある呪詛師であり、大学にも通っているだけあって、真人らと行動を共にする方が珍しいくらいだ。

 

 

「それは残念だ。せっかくだから順平が可哀想に死んでいくの、見せてやろうと思ったのに。郡上がどういう反応するか、ちょっと見てみたかったな。彼女、順平のこと結構気にかけてたみたいだったし」

 

真人は、暗闇の中で楽しげな笑みを浮かべていた。彼は不機嫌そうなときの方が少ない性質だが、今日は特ににやついている。誰かの誕生日パーティーをめちゃくちゃにしてやろうとする、意地の悪い悪役みたいな笑い方だ。

「おや。君も存外、あの子のこと気に入ってるみたいだね」

「まあね」

『夏油』があの子、と口にしたのを聞いて、真人はより笑みを深めた。彼自身気づいていないようだったが、その発音はじつに柔らかいものだった。聞きようによっては、人間がわずかな愛情なんかを見出しそうな響き。

 

 

 

 

郡上涼利という人間は、極めて安定している。平坦で冷静、ぶれが少ないと言い換えてもいい。軸がずれたり、他者からの影響を受けることがほとんどないのだ。彼女はいついかなる時も自らの価値基準のみにそって行動するし、彼女自身もそう公言して憚らない。

 

 

彼女はいつだか真人が出会った老人とは違う。植物のように、魂の代謝が無に等しかった老人とは異なり、真人の特別な目には小さく揺れ幅が少ないとは言え、彼女の魂が時折動く様子がはっきりと映っていた。だが不思議なことに、彼女の行動は魂の代謝に振り回されることが少ない。快感、不快感、僅かな嫌悪、好感。魂がそれぞれ違う動きを見せたとて、彼女は変わらないままだ。

 

人間が感情と呼びたがるそれは、彼女の内部にたしかに存在するが、まるでそんなものはないかのように彼女は行動する。どんな風に魂が代謝したとて、いつも同じ凪いだ目で世界を静かに睥睨し、淡々とした口調で話し、当たり前のように術式を使う。感情と全く異なる行動をする人間は、その軋轢にストレスを感じるものも多いが、彼女は全くそんな様子でもなかった。

 

知識欲の旺盛な真人は、この魂の代謝と肉体のとる行動が妙ちきりんな女について興味津々だった。代謝があまりにも微量だから行動にまで影響が及ばないのか、彼女は感情と行動を完全に切り分けることができるのか。知りたい、と考えた。

 

その答えのひとつが、横の男だった。真人の視線をよそに、男の黒髪が夜風にたなびいてる。時折、ほんの僅かな時間に、涼利の魂は夏油傑を目にして、不快感や嫌悪の類の代謝を行う。そして、その中でもごくたまに、彼女の眼差しは変化する。いつもの乾いた砂のようなそれから、踏まれた花を憐れむようなものにして、男を見ている。魂の代謝に引っ張られて、肉体が確かに影響を受けているのだ。常人より遥かに少ないけれど、彼女にもそれに振り回されるときが存在している。

 

それをもっと見たい、と真人は思っている。この男と涼利の関係を詳しく知っているわけでもないけれど、あの、安定した、いつも一定の温度で生きている女が、たかだか魂の代謝に振り回されて激情に駆られ、その情動のままに動く愚かな様を見て、心の底から嗤ってやりたい。それは、真人の密やかな望みの内のひとつでもあった。

 

 

 

 

 

眼下の校舎の端の方で、わあっと一度喧騒が広がり、そして一瞬でそれが静まった。感知した呪力は、確かに順平のものだ。どうやら講堂の制圧はつつがなく完了したらしい。なら、もうすぐ真人の出番になるだろう。そう判断して、屋上のコンクリートの縁から立ち上がると、傍の夏油は外套を被り直していた。

 

フードのに隠れた男の顔は、ちょうど影になっていることで、額の縫い目が見えなくなっている。その横顔は闇の中でもごく淡く笑いが浮かんでいる。真人の、どこか無垢の入り混じった酷薄を伺わせるものとはまた違った、匂い立つような邪悪が、その面差しには宿っている。

 

「そう言えばさ、10月31日のときに郡上は五条悟とぶつけるんだっけ?」

ふと、今後の予定について真人が気になっていたことを尋ねれば、夏油は首肯をした。

「ああ。君たちだけだと、民間人を巻き込んでも旗色は相当悪いからね。彼女には足止めに入ってもらうよ」

 

柔らかな声で紡がれる計画は、立板に水をかけるようにするすると流れていく。どれほど悪辣な内容であっても、男が話し出せば不思議と、説法や読経のようにも聞こえるような錯覚すら聞くものに与えた。

 

「郡上涼利は五条悟に勝つことはできないが、この現代において唯一、五条悟に傷を負わせうる術師だからね」

男の笑みは穏やかなままだった。以前漏瑚に『負けるよ』とごくあっさり言っていたのと同じ口ぶりだ。

「その言葉、漏瑚が聞いたら怒りそうだなぁ。『儂があの小娘より弱いだと!?』とか言っちゃって。随分期待してるんだね、郡上のこと」

 

–––それ、肉体から?それともこっちから生まれたものなのかな。

 

ぴ、と真人は親指で額を横切る仕草をしてみせた。ちょうど男の縫合痕をなぞるような手つき。揶揄いの意図が多分に込められたその動作に、夏油はしばし黙った。彼の魂がほんの僅かな時間、代謝し、また止まるのが真人の目には見えた。

 

「どちらも、だろう。この肉体の記憶によって私は彼女の強さを誰よりも知っているし、この脳で思考するから彼女の術式の持つ価値を理解する。まあ、それにね」

 

被ったフードの奥、男の唇が歪な形に変化した。その肉体がすでに死後硬直の先にある骸が故に、どうしても夏油の笑みはぎこちなく強張ったものになる。微笑むくらいならまだしも大笑しようとすると、その顔は何とも気持ちの悪いものにならざるを得ないのだ。

安寧の中の死骸を土足で踏みにじった墓荒らしの笑みは、顔の肉がひきつれて、酷くおぞましかった。

 

「郡上涼利はたった1人の愛弟子だ。師である私が彼女を信じてやらないわけにはいかないだろう?」

 

 

一拍おいて、屋上には真人の大爆笑が響き渡った。まるで空虚な言葉。魂がぴくりとも代謝していない、悪意以外何の感情の込められない台詞は、どんな賛美歌より呪いの耳にひどく心地がいい。人間はこうでなくちゃね、と真人は内心で呟いた。

 

月も星もない、暗いばかりの夜に沈んだ学校は、もう間も無く始まろうとする惨劇などまるで知らないように静かな顔で黙っている。夜闇、復讐、何も知らない少年の愚かさ、呪い合う人々。そのどれもが、真人にとって好ましく、いたぶるための玩具だ。極上の箱庭を上から見下ろして、人の胎から生まれた呪いは、いっそう破顔した。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

ピピピピ、ピピピピ、ガチャリ。

コール音のフレーズが2度繰り返された後、電話口の向こうから何度か金属がぶつかるような音に続いて話し出した声に、吉野順平は思わずぎょっとした。

 

『はい。仕事の依頼ならできればメールで頼む』

「………………あの。シキトリさん、ですか?」

『そうだが。–––あぁ、君、吉野か』

 

相変わらず淀みと疑問符がない、打てば響くような返事だったが、聴こえてくる声にまったく覚えがなかった。ついでに知らぬ間にスピーカーがオンになっていたようで、部屋中に響き渡った音量に、少年はあわててスマホの画面をタップして通常の状態に戻すと、誰か近づいてきてはいないか慎重に耳をそばだてたが、特にそう言うことはない。

白く飾り気のない内装と同じように、夜の静寂に閉ざされている。何もかもがひっくり返った日の続きとは思えないほど、静かだった。

 

「そうですけど……本物ですよね」

『そういえば電話は初めてだったな。これはボイスチェンジャー使ってるだけだ、今は声紋認証とかあるし』

 

順平は聞き間違いかと思ってスマホにもう一度耳をくっつけたが、やはり聞こえてくるのは刑事ドラマの犯人役みたいな機械音声である。キンキンしていて耳障りな声だ。声の主の口調は変わっていないので多分本人だとは思うが、別人だとしても分からないだろう、と順平は思った。

 

『何か用か?正直なところ電話をかけてこられても、仕事は受けられないんだが。君、今高専だろ』

「………はい」

何となく気まずい思いで順平は頷いた。

『真人が宿儺の器にぼこぼこにされたのは知ってるんだけどな。–––で、殺したのか?』

「……いえ、未遂で済み––済ませてもらいました」

 

順平は、あの日涼利が突きつけた危険性も分かった上で、復讐の実行に踏み切った。真人は命は全て無価値で無意味だと言った。だからこそ何をしてもいい、とも。順平もそう思った。ならばきっと、順平が母を殺した犯人を殺したとしても、無意味な命が無意味な命を殺しただけで、そこに大した意味もない。そう言い訳をして、高校の全生徒を昏倒させ、犯人だと思っていた同級生を殺しかけた。直前で虎杖悠仁が乱入しなければ、おそらくそのまま殺していただろう。

 

「それで虎杖くんに止められたあと………真人さんに、殺されそうになって」

『へえ』

「触られる前に、シキトリさんに銃を向けられたことを思い出しました」

 

自分でも何故かは分からなかった。ただ、階段をゆっくり降りてくる真人の姿が目に映り、その手が順平に優しく触れる前に脈絡もなく思い出したのは、あの日涼利が玄関で静かに突きつけた銃口の冷たさだった。

 

『ジョン・ウィックの第1作で、主人公が使ってた奴なんだ』

 

どくん。耳の裏の血管が跳ねる音が妙に響き、あの時と全く同じように怒りが急激に萎み、圧倒的な恐怖に動けなかった。

 

真人のことを疑ったことはなかった。人間に期待しない分だけ、人ではない彼に順平は信頼を寄せていたし、彼によって順平の見る世界は確かに変わった。あの時、順平が真人にやるべきは虎杖を殺さないように頼むことだけで、警戒などする理由がどこにもなかった。なのに、順平は思い出した。思い出して、反射で震えてしまった。

 

「–––気づいたら勝手に澱月が出て、それで」

 

そうして、順平は見た。彼の手にわだかまった呪力が、暗がりの中で淡く確かに光るのを。それは真人が無為天変を発動していた証に他ならず、その対象は間違いなく順平だった。彼が触れたのが、無意識に出した小さな式神でなければ、順平は今ここにはいなかっただろう。

 

『ふうん。それで助かって、高専に保護されたわけか』

ゆっくりとしたスピードで、所々飛び飛びに話された順平の説明を聞き終わって、涼利は大体の事情を察したようだった。

「はい。呪詛師候補としてどういう処分になるかはまだこれからですけど………」

 

順平は月以外に光源のない、暗い部屋の天井を、ぼんやり見上げた。白に近い色合いだが、明かりがつけば角に書かれた文字もはっきり見えるようになる。順平は現在、高専内の一室で軟禁状態に置かれていた。とは言っても施錠されていること、式神を呼び出せない部屋であること以外は特に厳しい環境でもなく、スマホもこうして取り上げられていない。殺人の一歩手前まで行ったにしては軽い処置だ、とは順平も思っていた。

 

『経緯は分かった。それで用件は?分かってると思うが、高専の保護下で呪詛師と長電話してる場合じゃないぞ。君が内通者疑惑を深めたいなら構わないが』

「–––お礼が、言いたかったんです」

『お礼?』

「ありがとうございました。あのとき銃を向けてくれて」

 

言いながら、こんな変なお礼を言うことはこれから一生ないだろうな、と順平は考えた。

涼利が善意で順平に銃口を向けたとは思わない。むしろ善意だった方が怖い。彼女はただ、復讐に付随するリスクを提示しただけで、そこに悪意も善意もなかったのだろう、と順平は思っていた。

だけど、その鮮烈すぎるほどの恐怖の代償として、順平は今ここにいる。真人に出会って呪術を始めて知り、その出会いが結果的に順平の命を脅かしたように、涼利が向けた銃口は、順平の延命に繋がっている。それは確かなことだ。

 

『君は相変わらず妙なことに礼を言うな。それは君が勝手に助かっただけで、私は何ら関係ない。別に君が死んでも生きても特に思うことはないし、むしろ今から色々喋られることを思って若干困ってるくらいだ。』

 

スマホの画面の向こうの声の調子も相変わらず、あけすけで無神経だった。それでも不思議と、悪い気分にはもうならなかった。

 

「分かってます。あなたは僕を助けようとしたわけじゃない。真人さんが僕を殺すことも、ご存知だったんですよね」

『あいつなら絶対やるだろうな、とは思ってた』

「母さんが死んだことに同情していたわけでもない」

『もちろん』

「ちゃんと、それも分かってます。でも、じゃあどうして、母さんの死体にあんな手間をかけて修復してくれたんですか?」

『–––遮って悪いんだが、もう火葬したか?』

 

彼女はまだ火葬にこだわっているようだった。それがなんだかおかしくて、順平はすこしだけ笑ってしまった。

ベッドから立ち上がってガラス窓を開くと、夏の終わりの風が吹き込んでくる。今夜の風はわずかに涼しくなり始めており、秋が近づいてきている気配を遠くに感じた。帳の中の偽のそれとは違う、星も月もある夜だ。郊外にあるからか、その光は一段とくっきりとして見えた。

 

「いえ……でも近いうちに、必ず」

『ならいい。で、疑問の答えだが。単純に、私が個人的に死体そのものに思うところがあるからだ』

「死体、そのもの?」

『あぁ。理由なんてそれだけだ。君の母親がどう死んだかも、今際の際にどんな苦しみを味わったのかにも–––おい、愚妹その2、電話中だ。向こう行ってろ』

 

スマホ越しの機械音声が少し離れて、ばたばたという足音、続いて女の子のものらしい声が何か言うのが順平の耳に聞こえてきた。はっきり何を喋っているかは聞き取れなかったが、涼利の口から出てきたその単語に順平は驚いた。

 

「…妹さんいるんですね、シキトリさん」

しかもその2ということは、最低2人以上いることになる。何となく独り暮らしのイメージがあり、家族の話を一切しない涼利に妹のいる姉の感じは無かったので、この人家族とかいるんだ、と順平は失礼なことを考えた。

『そんな可愛いものじゃない、妹と名のつくただのニートだ』  

きっぱりとした言い方に、順平はまた少し笑ってしまった。

 

『––とにかく。君の用件は私への礼と、今の疑問の答えで良かったか?ほかに言いたいことがなければ切るぞ』

「あ、はい。………あの。もう、会えませんよね」

『当たり前だ。どうあれ私は呪詛師かつ真人たちの一時的な協力者で、君は高専の保護下にいる人物だ。会うメリットがない』

 

いつも通りのそっけない口ぶりは、機械音声によって一層のこと冷たさを増していた。全くの事実ではあるのだが、その不変が順平には少し寂しかった。一ヶ月にも満たない期間ではあったが、帳や呪力操作について教えてくれていた涼利のことを順平なりに慕っていた。その期間の分くらい気にしてくれてもいいんじゃないか、と思ったのに。

 

すぐに切られるか、と思っていたが予想に反してスマホの向こうはつかの間の沈黙が続いた。それは多分数秒の間だったのだろうが、少ししてややボリュームの落ちた声で涼利は、真人は、と口を開いた。

 

『魂は肉体の先にあるとか何とか、よく言うだろ。私はあの御託を全く信じてないんだが、君はまだ信じてるか?』

「え。どう、でしょう………今はよく、分からなくなりました」

 

いつだか火葬か土葬か聞いてきたときのような脈絡のない質問に、順平は戸惑った。真人のことは、もうわからない。自分をこの世界に引き入れ、そして殺そうとしたあの呪霊の考えは、一時確かに順平を救ったこともあったけれど、今も全く変わらないかと言われると難しい。

 

『一応最後の土産話として、サービスだ。私はあのクソガキの視界をジャックしたことがある。結果として、それっぽいものは見えた』

「……じゃあ、やっぱり正しいんですか?真人さんの言ったことは」

心なんてなくて、みんな無価値で無意味であることが、この世の真理なのだろうか。

『何でそうなる。未だに脳や魂や術式がどういう仕組みで発生するか分からない以上、あいつの術式は魂じゃなくて肉体を弄るだけのものかもしれないし、そもそも見えているのが魂だとなぜ分かる?

あとは単純に真人の頭が狂ってる可能性もあるか』

 

そこはジャックしても分からなかったから、それ以降私は信じてない。涼利はそう言うと、ふ、とかすかに息を漏らした。

 

『君の一件もそうだ。君は考えるより先に、体に染み付いた私からの恐怖で、真人の攻撃を避けたんだろ』

「そうです」

『それは魂が代謝するからなのか、肉体に何かがあってそうなるのか。私は宗教家でも哲学者でもないから知らんが、少なくとも、体はただの肉の袋で魂が無ければ何の価値もない、とは思わない。肉体には肉体の価値がある、と私は考える。君が信じる必要も全くないが』

 

その言葉に順平は、あ、と気づいた。涼利はこうやって人の死や価値について考えおり、多分それは死体についても同じことなのだ。彼女は死体にも何らかの価値を見出し、その思考の一片として順平の母の遺体を修復してくれたのだろう。

 

同時に、ちか、と思考の片隅で浮かび上がるものがある。

死体の前髪を払って、瞼を閉じさせていた手つき。私のやってることだって、側からみたら復讐みたいに見えるんだろうな。火葬にやたら拘っていた。肉体の価値。誰かに教えられたものの方が教えるのも上手いって。猿。死体そのものに思うところが。

 

『まあ、真人にだけは、魂と肉体の真理みたいなものが分かってる可能性もある。だけどその真理とやらを–––長い間たくさんの人間に研究されてきた物事を、分かりやすく極端な話にするのはカルトにありがちなやり方だ。カルトっぽい所にいた奴としてそれは言えるよ』

 

涼利の機械音声を聞きながら、それらの断片が絡まりあって、順平の中で見たことのない映像が結ばれていくような感覚だった。思考が完全には纏まらないまま、順平は言葉を吐き出すために口を開けた。何故か聞かないといけない、とそう思ってしまったから。

 

 

 

「シキトリさん、もしかしてーーーーーーー?」

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

最初に気づいたのは、やはり虎杖悠仁だった。

 

 

 

 

夜の東京高専。その、外れ。

学校の名のつく割に、文化財の寺院と言ったほうが近いような其処は街灯がほとんどなく、暗闇に沈んだ敷地内を3人の人影が歩いていた。一角にある小ぶりな建物に足を踏み入れたところで、ぴたっと立ち止まったのはその内の虎杖だけだった。

 

「あれ。何か聞こえね?つか誰か喋ってない?」

 

虎杖は並んでいた残りの2人のうち、まず右の男性を見た。かっちりとしたスーツ姿の男性である。掘りが深く、薄い色の金髪も相まって異国の血を感じさせる彼は、きっぱり否定した。

 

「いいえ。私には、何も」

 

次に虎杖は左隣を見た。見上げるほど背の高い、夜に溶け込む黒服の男性。こちらは白髪に、何故か目隠しをしている。その特徴的な容姿はこの業界のトップスターこと、五条悟以外にはありえない。

 

「僕も聞こえなかったね。ここが忌庫ならただのホラーで済むんだけどなぁ」

「ここは留置館です、五条さん。分かりきったことかと思いますが」

「オイオイ七海ィ、分っかんないかなあ僕の小粋なジョークが」

 

呆れた様子で首を振った七海と、ウザ絡みをする五条には最初どうやら聞こえなかったようだったが、3人仲良く廊下を進む内にそれはどうやら本当だったらしい、と理解することになった。

 

留置館と呼ばれる、高専に捕まった危険度の低い呪詛師を一時的に置いておく施設はさほど広くない。生徒が普段通う校舎と変わらない、和洋折衷の造りではあるが規模がまるで違う。ここに長居をする人間が少ないからだ。

呪術界という年中人手不足の業界では、よほどの大量殺人をした呪詛師か、現行犯で呪術師に殺されるかでもしもない限り、処刑ということはあまりない。捕まえたら首根っこをつかんでとびきり危険な任務に放り込むことが多い。悪い呪詛師は単純にただ処刑をするより、危険な呪霊と戦って尊い犠牲になってもらったほうが効率いいよね、という中々黒い事情によるものだ。

 

ここに留め置かれた呪詛師の寿命は短く、割とすぐ死ぬことが多いので現在の住人は1人のみである。今日の午前中に里桜高校にて殺人未遂を起こしかけた少年–––吉野順平。3人は回復した彼から事情を聞くためにここを訪れており、声が聞こえるとしたら彼以外他にいない、のだが。

 

「やっぱ喋ってるよね?」

「そうですね」

「バッチリ喋っちゃってるねぇ」

 

細い少年の声が、電気の付いていない、静かな留置館の廊下にわずかに漏れていた。中で窓を開けているのか、時折ごうごうと吹く風の音にかき消されている音量ではあるが、その語尾が上がったりしている。それは疑問符がついた、つまり独り言ではないと言うことだ。イマジナリーフレンドと会話をしているのなら別だが、彼が特にそう言う精神的に病んだ様だったという報告は聞いていない。

 

「……中に人や呪いの気配はない。電話でしょう。まだ子供とは言え、連絡手段を取り上げるくらいはやっておくべきでしょうに」

「電話の相手によっちゃあ、色々まずいんだけどね。こっちも現場の後始末なんかでごたついてたからなぁ」

 

大人たちの懸念をよそに、虎杖はこそこそと施錠された扉の前まで近寄って耳をぺたりとくっつけた。冷たい感触とともに、彼の研ぎ澄まされた聴覚は、顔馴染みの少年の声を厚い扉越しにも聞き取れていた。

五条が面白がって虎杖の頭の上に自分の顎を乗せ、呆れた顔の七海は少し離れた所で用心深く耳を澄ませているので、虎杖は何だかスパイごっこでもしているような気分になった。

 

「どう、悠仁?何かヤバいこと言ってる?て言うかこのドア防音性高すぎでしょ、何言ってるか全然分かんないんですけど」

五条が囁き声でぶつぶつ文句を言った。流石に危険度が低いとはいえ呪詛師を置いておく場所である。多少のことでは破れない扉の頑丈性は、最強の聴覚をもちょっとだけ凌いでいた。

「いや、特には………ありがとう、とかお礼が?順平めっちゃ敬語だ………風強いし聞き取りづれぇな………でも、あんま家族とか友だちっぽくない感じ、かも」

「えー、じゃあ誰と電話してんのかな。七海、お前もちょっとこっち来なよ」

 

ため息をついた七海がドアに渋々耳をつけたところで、部屋のなかでは少しの間沈黙が流れていた。それから数秒おいて、今度ははっきりと3人の耳に聞こえる音量で、吉野順平の声が届いた。

 

『ーーーーさん、もしかして』

 

電話の相手の名前らしき部分は聞き取れなかった。ちょうど、一際つよく吹き込んだ晩夏の風と、それに煽られたらしいカーテンが動く音に飲み込まれていた。

 

 

 

 

『あなたの大切な人の死体は、大切に扱ってはもらえなかったんですか?』

 

 

 

静かな声だった。虎杖が聞いた、少しはにかむような細い声とも、激情に駆られていたときの大声とも違う。親しい誰かを心配するような、そんな声で、吉野順平は信じられないようなことを口にしていた。虎杖が反射的に動こうとしたのを五条が押さえて、七海に口の形だけで「鍵出して」と言った次の瞬間。

 

『待ってください、ちょっと、』

 

また少し置いて、相手の返事に戸惑うような順平の声は途中で切れた。どさり、と重い何かが床に落ちる音、続いて建物中に響き渡るような物凄い轟音が鳴った。

–––アラートだ。高専に登録されていない呪力を感知するためのシステムが作動していた。

音と同時に七海の鉈が鍵目掛けて振り落とされ、五条がドアを蹴破っていた。南京錠が容易くひしゃげるのももどかしく、虎杖が部屋の中に侵入する。

 

 

明かりの付いていない部屋の中では、窓側に細身の少年が倒れていた。崩れた吉野順平の体には外傷こそなかったが、力が全く入っていない。「順平!」と虎杖が声をかけるも反応はなく、駆け寄って揺り起した手から、ごろりとスマートフォンが落ちた。画面は暗く電源が切られた状態で、通話の痕跡は既に消えていた。

 

「落ち着きな、悠仁。視たところ呪言だろう、命に別状はないけど一応硝子に診てもらったほうがいい。七海、悪いけどついてやってくれる?」

「了解です。行きますよ、虎杖くん」

 

顔を青くしたまま、吉野順平を揺さぶっていた虎杖は、七海の声にはっとして、細い体を勢いよく担ぎ上げると足早に部屋を出ていった。夜の建物をバタバタと、2人分の足音が速いスピードで遠ざかり、瞬く間に消えていった。

 

 

1人部屋の中に残った五条は、長躯をかがめて床に落ちたスマートフォンを拾い上げた。先程呪いを吹き込まれたはずなのに、その痕跡がまるで残っていない。六眼で見ても残穢が一粒すら見えなかった。嫌な符号だな、と五条は思った。

 

吉野順平の家にあった、実母・凪の死体。その修復された下半身にも、本来あるべき残穢がなかった。そして、この電話越しの呪言。たった二件ではあるが、残穢を残さないというのはそれだけで脅威だ。何せ、その痕跡から分かるはずの、呪詛師の特定や追跡がすべて不可能になる。

 

二件で使われていた術式が全く異なることから、虎杖たちが遭遇した継ぎ接ぎの呪霊と組んでいる呪詛師は最低でも2名以上存在し、なおかつそのどちらも残穢を残すことなく犯行を行えることになる。

 

「吉野順平に呪力強化を教えてた呪詛師もやたら腕がいいみたいだったしなぁ。これ、なかなか難しい案件かもね」

 

ちなみにその3つとも郡上涼利がやったことなのだが、それを知るよしもない五条悟はぼんやり呟いた。

 

夜の静かな部屋の中で、五条はふと、手の中にある電源の落とされたスマートフォンに目をやった。前にもこんな光景を見たような、不思議な既視感に襲われたからだ。呪言などはまるで関係のない、ただの電話だったはずだが。数秒考えて、彼の優秀な記憶能力はすぐに答えを思い出した。

 

『あなたと連絡をとるのはこれで最後だ、五条悟。電話をしてきてくれたことに感謝してる。もちろん、それ以外のことにも』

 

電話の主が最後のときに電話をぷつりと切ったのも、こんな夜だった。底冷えのするような、薄墨色をした空の高い所に月が昇り始める時間帯、粉雪が降っているのに不思議と明るい日。あの時も、五条は暗い部屋にひとりで、通話の一方的に切られたスマホをしばらく見つめていた。

たわいもない思い出だ。それをすぐに頭から追い出してスマホをポケットに入れると、五条は虎杖たちに追いつくべく歩き出した。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

『–––私のことを忘れろ』

 

広い事故物件の台所、コトコトなる鍋の蓋の音に混じって、声が密やかに紡がれた。

 

 

 

菜々子が台所に戻ると、ちょうど涼利の眼球の色が変わるところだった。深い紫から、いつもの砂色に。ふらふらと定まっていなかった焦点が、ぴたりと絞られる。2度3度、ぱちぱちと目を瞬かせた涼利はスマートフォンから耳を離して、何度かタップするとスキニーのポケットに端末をしまって冷蔵庫を開けた。

 

「電話終わった?」

涼利は黙ってべ、と舌を見せた。そこには、さっきまで刻まれていた赤い文字は消えている。服から出ている肌にもそれらしきものはない。

「相手、だれだったの?」

「もう会うことないやつ」

 

それだけ言うと、涼利は取り出した缶を開けてぐびりと呷る。ストロングゼロのよく買っているダブルシークワーサー味。ご飯前にそんなものを飲むな、と何度言っても聞くことはないので、美々子も菜々子も諦めている。そもそも衣食住の面倒を見てもらっている身分なので、そんなことを偉そうに言えるわけでもない。

 

鍋をにかけた火を弱めながら、切れかけの電球に照らされた、見慣れた中性的な顔を菜々子はなんとはなしに見ていた。ずっと耳のあたりで長さを保っていた黒髪は、今は顎より少し下くらいでざんばらに揺れている。この人が髪があまり伸びない性質なのは長年の付き合いで知っているので、これでも伸びた方だった。いつも欠かせないガーゼは今は貼られておらず、額にぐるりと巻いた包帯のみとなっている。

 

その珍しい、肌面積が多く見える白皙はしばらく頬杖をついたまま遠くに視線をやっていたが、唐突に口を開いた。

 

「菜々。お前さ、初めて人殺したときって何歳だった?」

「はあ?何、いきなり」

「いいから」

「…去年か、一昨年か………忘れたけどそれぐらいだから、多分14とかだと思うけど」

 

菜々子の答えに、聞いてきたくせに興味がないような微妙な顔で、涼利はふうん、と頷いた。また缶を呷る。いつもと変わらない無表情だったが、彼女はその顔で人をムカつかせるのが大変上手く、菜々子はちょっと腹が立ったので逆に聞いてやった。

 

「じゃあ逆に聞くけど、すず姉は何歳だったわけ?」

「10歳の冬」

 

即答だった。まさかの小学生時代に初体験をしていたとは菜々子も知らなかったので普通に引いてしまったが、よく思い出してみれば初めて会った頃の彼女は、物凄く目つきの悪い子供だった。美々子も菜々子も学校に通っていなかったし、周りに子供は1人もいなかったので仕方なく彼女とは関わっていたが、夏油の口添えがあってもそれはそれは勇気のいることだった。あの頃の彼女が人殺しでした、と言われても正直違和感はない。

 

 

「ヤバ。それって猿?殺したの」

「いや、術師だった。–––まあこういう奴だよな、呪詛師やんのなんて。彼やっぱり向いてないな」

 

涼利は何とも言えない目つきで缶を潰すと、それを宙に放った。有り得ない軌道を描いた空き缶は空中でひとりでにぐしゃぐしゃと丸まり、隅に置いてあったゴミ袋へと吸い込まれた。涼利の肌を這う赤い文字が一瞬だけ浮き上がり、すぐに消えた。

鍋が吹きこぼれたのであわてて蓋を開け、中をかき混ぜていると後ろから「完成?」と声がかかった。菜々子が頷くと、涼利は美々呼んでくる、と言って椅子を引く音が台所に響いた。

 

湯気の立つ鍋を手袋越しに掴み、机の上に置いたところで向こうを見ると、暗い家に溶け込む涼利の後ろ姿が菜々子の目に映った。背の高い、黒い服を着た彼女の姿にはときどき別の人の面影が浮かぶ。特にさっきの電話のときのように、自分たちと話すより柔らかい口調で喋ると殊更そう思えてくるのが、たまらなく嫌だ。すず姉、と呼ぶと彼女が振り返った。

 

 

「さっきの電話さあ、めちゃくちゃキモかった。君とか言ってんの全然似合ってない。夏油さまの真似?やめといた方がいいよ」

 

その言葉に涼利は大して怒るでもなく、相変わらず何を考えているのかさっぱり分からない顔でじっとこちらを見た。いつもみたいに「ふざけんな」とか「あの差別主義者と一緒にするな」とか言ってくれたらいいのに、そう言ってくれたら噛みつけるのに、彼女の口から出てきたのは別の言葉だった。

 

「そんなつもりはないけど、意外とそうなのかもな。じっとしてるとあの人のこと忘れそうだから、どっかしら真似してる可能性はある」

 

––––お前もたまに、夏油先生に似てるときあるし。

 

彼女はあっさりそう言って、無駄に広い家の廊下をすたすた歩いて行ってしまった。台所に取り残された菜々子はその言葉に少し唇を噛んだ。切れかけの白熱灯がちかちかと瞬いている。夜の底みたいな窓の外とは対照的な、真っ白な光のある空間に鍋の煙がたゆたっている。食欲をそそるその匂いが何故か目にしみて、菜々子はマスカラがとれそうな気がしてならなかった。




用語解説

・郡上涼利
図らずも救済してたひと。デリカシーとオブラートがない。実母を失ったばかりの順平からお金を巻き上げ、銃口を向けた呪詛師。酔わないのでストロングゼロが好き。順平のことは無意識に弟子っぽい扱いだったため、そこそこサービスはしてた。

・リュックサック
無限ではないが、ウォークインクローゼットの半分くらいの空間と繋がっている。よほどでかい家電以外はここにいれてるせいで、家に私物が一個もない。

・吉野順平
ただただ可哀想。主人公にはキレていい。この後は高専で初犯かつ特級呪霊や呪詛師にそそのかされたことで抒情酌量となり、呪術師として更生させられることに。渋谷事変のときも謹慎中なので出てこない。記憶は消されたが火葬はした。ちなみにそこそこスパルタで涼利が教えていたため、原作に比べて呪力操作がわりと上手。

手持ちの内で使った術式

・順平ママを修復したやつ「土隷呪法」
呪骸作りの術式。パンダ先輩みたいな戦闘用より、人に近いものを作る方が向いてる。  

・真人の視界ジャックしたやつ「憑奪呪法」
ほぼ「SIREN」。極めると意識の乗っ取りまでできるが、涼利はそこまでは未到達。

・呪言
舌のみに印が出る。似たようなのは他にも持ってるが、こちらは対人用。

・目が紫になったやつ「千覗術式」
千里眼に近い。過去も未来も見えないが、射程がバカ。これで見てたのでナナミン達が来る前に記憶を消した。

・空き缶潰し「???術式」
これをある呪詛師からとったことで名前が売れた。

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