換骨奪胎   作:メラニンEX

4 / 8
時間がかかってしまいました。冥さんに沈黙はカネと言わせたいがためにこの話を書いたと言っても過言ではないです。


第四話

他者の為に本気で人殺しができる奴って、どうしてこうも気持ち悪く思えてしまうんだろう?

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

東京郊外、都立東京高専敷地内にて。

したたるような濃い緑の森が、眼下には延々と広がっている。日本では2校しか存在しない呪術師を育成するための教育機関の片割れであるこの場所は、従来の学校とは何もかもが違う。カリキュラムであったり、任務が存在することだったり、口を濁さずに言うなら死者が出ることだったり、あげつらえばキリがないが、その外観においても教育の場としては異色のひとことだった。

 

このご時世ではめっきり見なくなった海鼠壁の建物、五重の塔のようなものや鳥居、注連縄の垂らされた檜皮葺きの屋根など、全体として木造で年季のいった建物群が立ち並んでいる。その様子は学校と言うよりも文化財の神社や、由緒ある古刹という方がかなり近いだろう。

その端には広々とした森がある。夏の終わりごろの時期でも、その青さを失っていない常緑樹がどこまでも生い茂ってはいるが、所々に小道や建物が見え隠れしており、樹海や鬱蒼とした、という状態からは遠い。天然の森を切り開いて作った、実地の訓練場なのだろうか。

 

その森が見える位置、黒い瓦屋根の上で、不法侵入した郡上涼利は器用に胡座をかいてスマホの画面に目を落としていた。時刻はまだ日の高い頃、洒落たデザインの、透明なレインコートを着た涼利は見た目こそ涼しげに見えたが、長袖が生む暑さにややげんなりしていた。黒い短髪を灼く残暑の陽射しは、じりじりと焦げるようだった。

 

画面の中では、暗い夜の中を目にも止まらぬ速さで駆け回る男と、それに殴られたり蹴られたり、サッカーボールよろしく行ったり来たりしている呪霊が一体。本来後者は撮影器具に映り込むことはあり得ないのだが、彼女の所有する術式のひとつによって撮られたそれは、くっきりはっきり高画質で漏瑚がぶちのめされているシーンを涼利に提供していた。  

 

耳にワイヤレスイヤホンを突っ込み、スマホからちらりとも視線を上げることのない涼利の顔から、ぽたりと一筋汗が流れた。頬、顎と伝っていた透明な一雫は、唐突な振動によってスマホの画面に落下した。振動、というか下手人は涼利をゆさゆさと揺らそうとしたのだろうが、体幹が尋常ではなく鍛えられている彼女はびくともしなかった。液晶の上に水分が乗っかったことに不快指数が若干上昇した涼利は、それでもしばらく無視を決め込んでいたが、約1分ほど経っても止まらないので、黙って銀の指輪から一本の曲刀を出現させた。

 

–––はら、と。柄頭に巻いた赤い房が揺れた。

出すが早いか、涼利は揺さぶってきた男の膝裏を手刀でしたたかに打ち、体勢を崩したところに足でくるりとひっくり返すと、屋根瓦の上にうつ伏せの状態に持ち込んで首の後ろに曲刀を当てた。涼利のアディダスのスニーカーに背中を踏まれて、屋根にぶつかった男の顎が鈍い音を立てた。それだけで、彼女の武芸に携わる者としての年月と才能が伺える、滑らかな動作だった。

文明社会で着るものとは思えない服を纏っているせいで、剥き出しになった男の背中は肉付きが薄い。背骨の感覚が涼利の靴越しにも明確なほどである。

 

「お前、さっきから鬱陶しいぞ。いちいち絡んでくるな」

日光の当たっている屋根瓦が、肌に直接触れているのが熱いのだろう。男は涼利の靴の下でもがもがとうごめきながら、何とか起きあがろうとしている。が、上半身をしっかり押さえられているせいで、起き上がることは不可能になっていた。

「熱ッ、イタッ、ちょっとやめてよお。呼んでみただけじゃん」

「それを1分無視したということは、お前と話す気がないという意思表示だ。いま動画見てんだよ」

 

男も涼利の同業者だけあってそれなりに鍛えてはいるのだろうが、いかんせん細い。日本人男性の平均と同じくらいの涼利より、身長が低いこともあって抵抗はまるで意味を為していなかった。ぐりぐりと、アディダスのスニーカーで的確に肺の後ろ側を圧迫され、熱々の屋根瓦に押しつけられた男はひどく哀れっぽい。けほ、と男が咽せこんだ。

色の抜けた金髪をサイドテールに括り、仏像が着ているような簡素な黒の袈裟だけを纏う、華奢な男だった。顔立ちはどちらかというと可愛い系だったが、呪詛師という職業に就く人間特有の、薄汚れた感じのする目がぎらぎらしている。

 

「えぇー、いいじゃん、せっかくなんだしお喋りしようよ。まさかこんな所で本物の『式盗り』に会えるなんて思ってなかったし。俺、ついてるなあ!」

 

身動きの取れない状況で、重面春太はにこにことした顔で首をひねって涼利の方を向いた。どことなくうっとりしたような口振りだ。自己紹介するべきじゃなかったか、涼利は少しだけ後悔していた。

 

 

 

 

『式盗り』という、郡上涼利の偽名であり呪詛師としての名義のひとつでもあるそれは、呪詛師業界でもそこそこ名が通っている。彼女は術式の特異性はもちろん、顔や声についても厳しく隠してはいたのだが、それでも涼利も歴の長い呪詛師である。かれこれ10年近い年月の間、呪詛師を続けられる人間はそう多くない。結果として、何もかもが白日のもとに晒されたわけでもなかったが、何もかも秘密のままと言うわけにも行かなかった。

 

今現在、『式盗り』と言う名前は業界でも半ば都市伝説のような扱いを受けていた。確かに実在する呪詛師らしいが、顔も本名も年齢も性別も分からず、声を聞いたものもおらず、ただ他者の術式を奪い取る術式持ちということが、畏怖や嫌悪とともに独り歩きしていた。連絡先を知るものもごくわずかだがその仕事ぶりには間違いがなく、相応の対価を支払えばどんなことでもやってくれる。ちなみに平日はあまり受けてくれないことが多いので、呪詛師は副業か、もしくは学生という噂がまことしやかに囁かれている。

 

そう言う扱いの涼利なので、今回の襲撃に際して現地で落ち合い、簡単な自己紹介を済ませた瞬間から「本物!?本物!?」とうるさい男に絡みつかれていたわけである。

 

「まさか、悪名高い式盗りの素顔がこんなにかわい–––」

重面は、自分のことを踏んづけている涼利を上目遣いでじっと見た。レインコートに、中には黒い服とスキニー。ピアスとごつい10本のシルバーリング。長身痩躯で、顔は相当整っているのだが、ガーゼと包帯で隠れていることも相まって人相が悪い。可愛いとはどう口が裂けても言えない部類の女である。

「……若い女の子だとは思わなかったなぁ」

「セクハラやめろ」

涼利は足に体重をかけた。晩夏の昼空に、みしりという嫌な音とともに男の情け無い悲鳴が上がった。涼利自身、自分が可愛いという言葉からかけ離れた人間であることに自覚があり、可愛くなりたいと思ったことはかつて一度もないが、この男の言葉には僅かな生理的嫌悪があった。菜々子なら多分「まじ無理なんですけど」とでも言っていただろう。

 

「でも、顔、特に隠してないんだね。みんな顔知らないって言うから、お面でも被ってるのかと思ってたよ」

「今回が特例なだけだ。いつもは隠してる」

 

涼利は自分の素性を他人に知られることを警戒していた。もちろんその術式の特異性も理由のひとつだったが、そもそも呪詛師はみな犯罪者である。呪術師はもちろん、一般の警察に捕まったとしても後ろ暗いところしか無い御身分なので、涼利は顔や名前や、声や指紋といったところをこの情報社会で大っぴらにしている同業者に疑問しか感じなかった。

残穢を残さないレインコートも同様の目的のものだし、手袋やボイスチェンジャーだって、個人情報を流出させないために使っている。

 

現在の案件は、人間相手に情報を漏らすことがない呪霊と、素顔どころか涼利の11歳から付き合いがあり彼女が師と仰ぐ夏油傑––の、死体を乗っ取った男という、顔を隠す意味が大してない相手だからやっていないのであって、これは完全な例外だった。

 

「へえー、そっかそっか、特例なんだぁ。ってことは式盗りの素顔知ってるやつ、やっぱり少ないんだよね?」

重面の笑顔がにぱっと弾けた。この界隈では珍しい、明るい色が満面に散らされたものではあるのだが、無邪気さとは程遠い欲が滲んでいる。

「ああ」

「ふふふ。じゃあ、俺もその数少ない奴の1人なんだ。女の子の特別扱いってなんか嬉しいね」

「お前、気持ち悪い奴だな……」

 

涼利は僅かに眉を寄せた。他人には分からないほど微かな変化ではあったが、彼女は内心で「こう言うヤツ大学の合コンに1人はいるタイプだな」とこっそり考えていた。自意識過剰で、相手が自分に気があると勘違いしがちな人間。この手合いは、人の話の聞きたい部分しか聞かないので、話が通じないのだ。

これ以上話していても泥沼にハマりそうだったので涼利は口を閉じ、曲刀を重面の首筋から外して指輪に戻すと、ごり、と余分に背骨を踏みつけてから足を退かした。

 

熱々の瓦屋根から開放された重面の剥き出しの肌はあちこち赤くひりついており、その部分をさすりながら彼は、少し離れた場所に座って斧を磨いている男に声をかけた。

 

「そう言えば、鞣造は全然びっくりしてなかったよね?鞣造、もしかして式盗りの素顔、前に見たことあったの?」

「いや、ない。初対面だ」

 

否定したのは、大柄な男である。つるりと毛の無い頭からエプロンとズボン以外何も纏っていない体躯までしっかりと日焼けしており、それだけ見れば海の家で焼きそばでも作っていそうな格好だった。とは言え、男の斧を触る手つきは慣れている。どう扱えば人を殺すのに最適なのか、分かっている者にしかできない仕草だった。

 

「俺は式盗りだろうと誰だろうと、人間の顔になど興味はない。驚かなかったのはそれだけだ。俺が気にするのはただひとつ–––そいつの体から何が作れるか、だからな。」

 

男は、陽光に斧をかざしながらそう宣った。黒く縁取られた目が、鏡のように磨き上げられたその鋼に映り込んでいる。俗っぽい欲の滲んだ重面のそれとは異なり、ある種の無垢さを感じさせる目だった。

 

「式盗り。お前、身長は何cmだ?目測だと175くらいか」

「176だ」

「惜しいな………あと4cmあればそこそこのハンガーラック候補だったんだが。女でその骨格、その身長……ふむ」

 

男は斧から視線を外して、じろじろと涼利の体を見た。エド・ゲインみたいなことを言い出した男は、興味深そうに顎に手をやって何やら頷いている。

 

「足もそれなりに長い…そう、お前であれば良いバーチェアができるだろうな。どうだ式盗り、極上のバーチェアになる気はないか?」

「セクハラやめろ」

 

何がバーチェアだ。

涼利は馬鹿馬鹿しくなったので、屋根に腰を下ろすともう一度スマホを取り出して動画を見始めた。顔だの足だの、涼利の肉体を一体何だと思っているのだろうか。

 

(しかし、まあ。五条悟をハンガーラックに、な)

イヤホンの音声越しにも僅かに聞こえる、エプロン男の蘊蓄を聞き流しながら、涼利は大柄な呪詛師の自己紹介を思い出していた。開口一番、そんな世迷いごとを言い出したときには、涼利は危ないお薬でもやっているのか疑ってしまったが、どうやらそうでもないらしい。少なくとも味方の涼利に対してこの見境のなさなので、男は本気で五条悟を殺害のち加工してやるつもりで、今回の襲撃に参加したようだった。

 

呪詛師という、呪術界の犯罪者たる職業に就く以上、涼利も含めて倫理観に欠けた人間の巣窟なのだが、そうは言っても限度がある。この世界に身を置く術師は、五条悟という人間の恐ろしさを直に体験せずとも、遅かれ早かれ知ることになる。それが呪詛師をやっていく上で、必要不可欠な常識だからだ。

この男はそれを本当に知らないのか、知った上で信じていないのか、よほど自分の実力に自身があるのか。

 

涼利には判別しようのないことだったし、興味もないことだった。ただ二つ言えることとして、この業界で無知と蛮勇は決して通用しない。それができないのなら、この男は長く呪詛師として生きることは不可能だろう、ということだった。

 

(………動いたな)

 

そこまで動画を見ながら考えたところで、涼利は不意に濃い緑の目を上げた。先程からスマホを見ながら使っていた『もう一つの視界』は、長らく森や木の風景しか映し出していなかったが、そこに変化が訪れていた。涼利はスマホの電源を落として、そちらに視点を切り替えた。ざざあ、と焦点がぶれる。

 

『しゃけいくら、明太子』

 

–––細身の少年だ。甘い茶色の髪に紫の瞳をして此方を–––つまりは涼利が視界を共有している花御のことを睨んでいる。音の消えた視界で、口が何事か動いている。高専の生徒の証である黒の詰襟に身を包んだ彼は、油断なく構えた姿勢で、口元を覆うジッパーを下げた。木漏れ日の差し込まない暗い森の中、やや荒くノイズ混じりの画質でも、少年の口元にある印は問題なく涼利にも確認できた。呪言師だ。東京校に在籍していると言う、狗巻家の人間だろう。

 

「真人、時間だ。花御が生徒の1人と接敵したぞ」

「お。もうそんな頃かぁ」

 

視点を涼利の本来のものに戻して、屋根で寝転がっている真人に声を掛けると、人の呪霊は気だるそうに起き上がって伸びをした。その体は、この前吉野順平の一件で宿儺によって完膚なきまでにぼろぼろにされていた面影はほとんどなく、相変わらず人を不快な気持ちにさせるような笑みが戻っている。

 

「さて。俺らも仕事を始めよう。俺は高専の忌庫に、君たちは帳の内側で呪術師たちと」

 

真人の言葉に返事を返した3人の呪詛師も、それぞれ立ち上がった。

 

本日、2018年9月下旬。東京・京都の呪術高専両校の交流会が、ここ東京高専にて開催されている真っ最中である。その隙をつく形で、真人ら呪霊一派及びそこに属する涼利ら呪詛師たちは高専に侵入していた。真正面からの戦闘や不意打ちが目的ではなく、真人が忍び込む忌庫のほうが本命のため、その他の面子は主に陽動が担当となる。

 

「一応聞いとくが、真人」

「ん?」

 

涼利が帳を下ろす前に動き出そうとしていた真人は、ちらりと振り返った。花御との視覚の接続を切ったのか、その目の色は既に薄い茶に戻っていた。トーンの低い涼利の声は、やはり淡々としている。あいつ、と涼利は軽く顎をしゃくって、上機嫌に斧を撫でている男を指した。

                 

「あのエプロン男。昨日視た感じだと、9割くらいの確率で五条悟と接触してやられるぞ。多分死んで無かったから、口割るまでは生かされるんだろうが、どうする。口封じ用に何か仕込んどくか?」

「あー、どうしようかな。夏油は捨て置いていいって言ってたけど。まあ、そうだね。君に任せるよ」

「了解」

 

そう言うと真人は軽やかな足取りで屋根を降りて行った。陽動担当の呪詛師3人は時間に若干の余裕があるために、まだ屋根の上に残っていた。ごくあっさりと交わされた、エプロン男こと組屋鞣造の足切りを聞いてしまった重面春太はちょっと顔をしかめた。びびるほど綺麗な顔した女の子とはいえ、業界でも都市伝説扱いされている式盗りの名前は流石に伊達ではないらしい。

 

「ウワ、えっぐいね式盗り。それ、未来視かなんかの術式?」

「そんな感じだな。詳しくは企業秘密だが」

「視えてるんなら、助けてあげないの?鞣造のこと」

 

その潜めた声の問いに、涼利はひとつ瞬きをした。重面より頭半個分ほど背の高い彼女の顔はキャップのつばで翳っており、ガーゼや包帯も相まって表情は分かりにくくなっている。ただその砂色の瞳孔が、夏の陽射しの下で、得体の知れない光を帯びて彼を見つめていた。

 

「呪詛師何年目だ、お前。足切りも口封じも、この業界じゃ珍しいことでもないだろ。現代最強とわざわざ戦って逃してやるほど、あのエプロン男は私にとっての価値がない。やりたいんなら自分でやれ」

 

ぎらぎらした、透明で湿度の高い空気の中、そのシャープな顎のラインをぼんやり見ていた重面は彼女の言葉を反芻して、それもそうか、と思い直した。

この業界はとにかく命が軽い。呪術師たちも大概だが、そこからさらに自分で好き好んで犯罪に手を染めている分、呪詛師のそれはときにティッシュ以下の価値しかないのだ。昨日敵だったやつと手を組むこともあるし、味方だったやつと次の日から殺し合いなんてこともザラにある。そんな所で他人の命を背負ってやるほど重面も暇ではない。剣を作ってくれたのは鞣造なので、その分はちょっとカワイソウだなあ、とは思ったものの特にそれ以上の感想が湧くことはなかった。

機嫌良く流れている組屋鞣造の鼻歌が、どことなく滑稽な空気を3人の間に醸し出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

–––ややあって。

帳が高専の森の上空から、恐ろしいほどの速さで降りていく。

誰もが見慣れた暗黒のそれではない。外は確かに黒いのだが、内側には夕闇にほど近い、薄明るい空が広がっていた。この前の里桜高校の一件で、中も夜になっていたものとは確実に異なっている。

午前の夏空の、綿雲がひとつふたつ浮いていた鮮やかな青を塗り潰して、橙がかった鬱金色の光がどこからか差している。僅かに翳りのあるその空模様はややくすんでおり、時刻としては夕暮れどきのように見えるのに、太陽がどこにもない。とは言え、内側にいる者の身を取り巻くのは相変わらず残暑厳しい午前中の気温。見ている光景と、肌で感じる温度にはあり得ない差が存在し、拭いがたい違和感を生み出していた。

 

空の一点から、それが地面に到達するまでおよそ30秒もいらなかった。帳の内側で、黄昏の天蓋が完成しきったのを確認した涼利は、ひとつ頷く。

「掌印なしでも帳ってできるもんだねぇ」

感心したように呟いた重面を他所に、女は冷めた目を向けた。

「そもそも必要あるか?『五条悟だけ』を弾くように設定してはいるが、それでも呪力操作の応用だろ。領域を開く訳じゃない」

 

その言葉に、重面は大仰に肩をすくめて見せた。大いに必要だ、普通なら。帳や反転術式と言った呪力操作の類は、完全に使用者のセンスがものを言う分野である。読んで字の如く、どちらも呪力さえ有れば誰でも使えるはずなのだが、反転術式を会得している術師はそう多くない。逆に帳は、補助監督のような非戦闘員でも扱える難易度だが、今涼利が作り出したもののように、ここまで一般の帳とは効果の異なるものを果たして帳と読んでいいかも分からなかった。

 

通常、呪術師たちが扱う帳の効果は二つ。出入りの制限と、外界からの視覚の遮断。つまりは、入ることはできるが出ることはできなくなり、外からは帳の内側の様子は見えなくなる。中には電波が途切れる場合もある。これが殆どだ。

ところが、今降ろされたものは全く違う。外から見えなくなることは同じだが、電波は途切れず、出入りもほほ自由になる。誰でも入れるし、誰でも出られる。–––五条悟を除いたこの世の全ての人間が。この帳は、五条悟以外には何の効果ももたらさない張りぼてだが、五条悟の前だけ盤石な壁となって立ち塞がることになる。つまりこれは、もはや帳というより五条悟専用の障壁というほうが正しかった。

 

ここまで限定的かつ専門的なものを、掌印なし、言霊による宣言なし、呪具による補助もなしに使いこなしていると言うだけで、郡上涼利の持つ頭抜けたセンスの高さが垣間見えていた。呪詛師業界内でも嫌われているだけの実力はあるんだなぁ、と重面は改めて引いてしまった。

 

 

「ま、これあと25分弱で破られるけどな」

「あれ、そういう時間縛りで強化してる感じなの?」

なんでもないように、腕時計を見ながらきっぱり言い切った彼女に、重面が不思議そうに尋ねると、涼利は首を横に振った。

「いや、単純に五条悟に力づくで押し負ける。今回のこの帳は渋谷のときの為のテストだから、破られてもそこまで問題ないように、掌印なしで強度は落としてるんだ」

 

そう答えた涼利は口を閉じて、重面の頭上を仰ぎ見るように鳶色の目を細めた。彼が振り返っても何もなく、背後には翠緑の森が広がっているだけだが、涼利はどこか遠く、帳をも透かして見るような眼差しである。

 

「どうかした?」

「–––何も。私はそろそろ花御のサポートに入るし、お前も散った方がいい。ちんたらしてると『烏』に見つかるぞ」

 

そう言うと、彼女はすたすたと迷いなく森の中に入っていき、そのレインコートを纏った長身はすぐに見えなくなった。ぼんやりと、その黒い短髪に巻かれた包帯の残像を見送っていた重面だったが、少しして、言葉通り本当に烏が一羽、二羽と薄金色の空を飛び始めたのを見て、あわてて持ち場の方に走って行った。

  

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

深い森のなかで、柏手ではなく舌打ちが響いた。

その音に、じっと油断なく腰を落として辺りを見回していた虎杖悠仁が舌打ちの主を見上げる。

「しくじったな。俺の術式を解禁したはいいが、これではろくに使うこともできん」

 

ドレッドヘアの巨漢である。この業界には運動量の激しさからかはたまた別の理由からか、長身の持ち主に事欠かないが、この男はその中でもとびきりだった。鍛え抜かれた鋼の鎧のような筋肉がその巨躯を覆っており、実際の身長より威圧を増して見える。

その剥き出しの筋肉は、現在2人を取り巻く光景とはまったく似合っておらず、周囲から浮いていた。とは言え、それは虎杖も同じなのだが。

 

–––カーテンのような、乳白色の霧。含まれた水分によって辺りの気温はぐんと下がって肌寒いほどになり、しっとりと両者の着ている衣服を湿らせていた。そして何より、その異常なほどの霧の濃さによって、先程まで見ていた森の木々や川べりの様子は全く見えなくなっていた。かろうじて足の裏に触れる感触で、地面が分かる程度。視界は1メートルあるかどうかも怪しいほどである。

虎杖の優れた五感でもそれは同様で、むしろ常人より優れている分、その感覚が上手く働かないのは酷く不快だった。目を凝らせば凝らすほど、距離感が狂っていくような気さえする。

 

「この霧……あの特級呪霊の術式なのか?」

「十中八九新手だろう。植物と霧では系統が違い過ぎる。それにこんなものが使えるのなら、もっと早くに出すのが妥当だ。呪霊か、はたまた呪詛師か」

どちらにせよ、先程姿をくらませた特級呪霊に加えてこの霧の作り手を警戒する必要ができてしまった。東堂の顔は不満げだった。

 

先刻、交流会に突如として乱入してきた、植物を操る特級呪霊および複数の呪詛師。五条悟を通さない帳によって、内側の生徒たちは高専側の最大戦力といまだ分断されたまま乱戦に持ち込まれていた。

その中で特級呪霊によって、生徒側は伏黒や禪院真希ら怪我人を出しながらも死傷者は出ておらず、虎杖と東堂のコンビが『黒閃』の連撃と術式の使用で優勢になり、あと一歩––というところで、この濃霧の出現である。せっかく虎杖といい所まで追い込んだのをみすみす邪魔された東堂は、不満を抱えながらも冷静に頭を働かせていた。

 

ともあれ、毒や幻覚の類がないのは幸いだった。霧が広がる速度からして広範囲に及んでいるだろうし、脱出は相当困難だろう、との東堂の分析に虎杖はふんふんと頷いた。

辺りは霧によって音まで吸い込まれたように静まりかえっている。

 

「さっきの奴、霧に紛れて逃げた感じ?」

花御という虎杖が知るよしもない名の呪霊は、霧が出始めたときから直ぐに姿を眩ませており、虎杖と東堂は霧が薄そうな場所を探しながら追っていたが、この数分全く影も形も見えなかった。

「いや……あの特級呪霊はまだ致命傷は負っていない。逃げるよりも––」

 

言葉を切った東堂が、同時に虎杖の口を押さえた。その緊迫した様子に気圧された虎杖が何事か、と聞こうとした時である。

–––ぱきん、と。軽い音が霧に包まれた静寂の中で響く。両者が見れば虎杖の靴が、地面に生えた枯れた蕾のような何かを踏んでいた。それが何かを認識するより早く、東堂が虎杖の襟首を引っ掴み、虎杖がその動きに合わせて跳躍する。

 

先程まで虎杖の頭があった場所を、太く尖った木の枝が、うぞうぞとひとりでに動いていた。意思をもつようなそれは、徐々に巨大なその全容を霧の中から現してきており、標的を逃した枝はぴたりと動きを止めたのち、虎杖と東堂の方に狙いを定めた。

 

ばきばき、めき、と音を立ててものすごい勢いで霧の中を伸び進み、複雑な動きを見せるそれを、虎杖は飛び下がって避け、東堂は紙一重でかわした。

 

「思ったとおりだ!ブラザー、あまり離れてくれるなよ、この視界では最悪同士討ちになりかねん!」

了解!と元気よく発された返答に、東堂はにやりと不敵に笑った。相変わらず視界は劣悪。この状況下では彼の術式「不義遊戯」はほとんど使用不可だ。この術式が有する柏手による位置の強制入れ替え効果は自動ではなく、入れ替えるもの同士の選択やその間の距離を測り、術師本人が計算する必要があるからだ。従って、相手との距離が正確に算出できない今の環境は、東堂にとって相性が悪い。

だが。それが一体何だと言うのだろう?

 

「どうやら見えていないのはあちらも同じようだ!地面だけ気をつけて、向かってきたものを叩くぞ!」

 

そう、今しがた虎杖が踏んだような植物の罠を使ってこちらの位置を測った、ということはあちらも視界を遮られているということの証拠だ。見えているのならわざわざこんなことをしてくる意味がない。

視界の条件が同じならば、東堂たちにも勝機は十二分にある。その手応えに虎杖も気付いたのだろう、にっと口の端が上がるのが東堂の目にはっにりと見えた。『馴染みのある』いい笑顔だ。

 

「全中を制した俺たちの力、存分に味わってもらうとしよう!」

「いや、それは全く記憶にないんだけど!」

 

虎杖の呪力を纏った拳が霧を裂いて、太い枝をへし折る音とともに、困惑混じりの否定の声が響いていた。

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

高専の木造建築群を取り巻く空は、薄く夕暮れの気配を滲ませていた。空色に一滴オレンジを垂らしたような色。そのグラデーションの光に照らされた校舎は、いっそう古びていて、年代がかった暗いもののように映る。その暗い色の中で、鮮やかな白衣を着た女がふと足を止めた。浮き上がる真白が、夕風にさあ、と揺れる。

 

名を呼ばれて振り返ると、ちょうど人影が2つ並んでこちらへと歩いてくるところだった。黒衣に身を包んだ男女は、家入にも見慣れたものだったので、彼女は立ち止まって会釈をした。

 

「硝子。どうだった?」

家入は頭を横に振った。その仕草だけで大方の事情は察したのだろう、尋ねた男は重たげな溜息を口から吐いた。

サングラスと厳つい体格が相まって、ヤのつく自由業にしか見えない男なのだが、不思議とどこか疲れたような雰囲気が漂っている。

「無理でした。反転術式を阻害する術式があらかじめかけられてたようで、両手の方もしっかり同じようにされてましたよ」

 

家入は肩をすくめた。何のことはない、特級呪霊と呪詛師によって起こされた今回の襲撃事件が終わって、高専側が捕らえた唯一の呪詛師のことだった。調べによって組屋鞣造という名が判明したその男から、いざ情報を引き出そうとしたところで、それは唐突に不可能になっていた。

 

特級呪霊に傷を負わされた生徒たちの治療が終わり、やっとお役御免かと思っていた家入は何故か青い顔をした補助監督に連れられて、尋問用の部屋に足を運ぶはめになっていた。少し前のことである。

 

家入が部屋に足を踏み入れたときには既に、男は情報源としての価値を全く失っていた。窓の無い部屋、太い縄に胴体を括られて膝立ちの状態で床に座していた男は、あまりの痛みに体をよじってめちゃくちゃに暴れており、縄が今にも引きちぎれんばかりに軋んでいた。声も出さないまま、口からはだらだらと唾液と血が流れており、白目をむいた目がぴくぴくと痙攣している。何やら小さな肉片が男の前に落ちているのに気づいた家入は、一目みてそれが何であるかを理解し、自分がなぜここに呼ばれたのかを悟った。

 

–––落ちていたのは、男の舌だった。

 

断面がまだ乾いておらず、床には少量の血が流れ出していた。間違いなく目の前の男のものだった。舌は感覚器官の中でも敏感な神経を多く持つ。麻酔も無しに切り落とされたのだから、男のこの暴れようも納得がいく。むしろショック死していないだけ頑丈だとすら言えた。

 

「そうか……腕もその状態なら筆談も無理だな。記憶を覗ける術師に依頼するか何か、別の方法を考えんといかんな」

 

フウ、と夜蛾はまた溜息をついた。

せっかく五条が殺さないまま捕らえたというのに、これだ。おそらくは特定の言葉をトリガーに発動する術式だったのだろうが、何にせよ今回の襲撃事件の裏側に何があるのか、高専側が知るすべは完全に絶たれたということになる。他の呪霊や呪詛師は全て逃亡済みで、報告によれば敵側には大した傷を負ったものもいない。対して高専側には、忌庫近くにいた補助監督数名の死者と、生徒側に負傷者が出ている。その上に情報を吐かせることも、今しがた不可能になったのだから、今回に限って言うなら高専側の敗北に近い形であった。

 

「おまけに『また』残穢ナシです。探すのも難航するでしょうね」

「ふふ。学長もお気の毒だ」

薄い笑みの滲んだ、艶やかな声音だった。声の主は歳の頃を推し量りづらい容姿の女だ。編んだ白髪を顔の前で垂らした妙な髪型なのだが、ぴたりとあつらえたようにそれが似合っている。濃い色のルージュが塗られた唇が、たおやかに持ち上がった。冥々。不思議な響きの偽名を名乗る女はすこし楽しげだった。

 

ここ最近、特級呪霊がらみの事件で数件続いていた残穢を残さない呪詛師–––複数いると思われる彼ら彼女らは、今回の襲撃事件にも参加していたようで、冥々の操る烏の群れの目にすら映っていなかったが、その『残穢の不在』こそがその存在の他ならぬ証拠だった。

 

「ああ、全くだ。悟だけを拒む帳、東堂たちを迷わせた霧、それからあの呪詛師の口封じ。里桜高校のことも含めれば、吉野凪の遺体や吉野順平への呪言。分かっているだけでも5件に上る」

重面春太と並行して、こいつらの捜索も本腰を入れるべきだろうな。

 

呟かれた言葉はしかし、実現させるのにどれほどかかることか。残穢が残らない以上、過去の呪詛師のデータと照らし合わせることができないのだ。どのように残穢を消しているのか、実体として何人いるのか、どれほどの力を有した術師たちなのか……何一つ分からないものを一体どうして探し出すことができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

家入が去っていった後で、冥、と低い声で夜蛾が女を呼んだ。冥々は振り向きもせずに、ヒールを履いた足を止めた。女の纏う優美な黒衣が、とろりとした橙色の夕闇にとけこんでいる。

「はい?」

「お前、この残穢を残さない呪詛師に心当たりがあるんじゃないのか」

 

夜蛾のそれは詰問口調ではなかったが、半ばほど確信しているかのような、疑問符のつかない言い方だった。いかついスクエアのサングラスの向こう、意外と可愛い目が疑念を宿しているのを知りながら、冥々はふっと微笑んだ。

 

「参りましたね、どこで分かったんです?」

「途中からだ。今日のお前は、妙に口数が少なかった」

「おや、私の『沈黙は(カネ)』という信条が裏目にでたようですね。これは」

「いや、(きん)の間違いだろう、それは………」

微妙にアレンジされたことわざを口にした女術師は、ひょいと肩をすくめて見せた。普通の人間がやれば気障ったらしく見えそうなところが、上背に恵まれ、蠱惑的な雰囲気のこの女がやると、まるで映画のワンシーンのように様になっていた。

 

「ふふ。五条くんがさっき言っていたでしょう、『もしかするとこの残穢を残さない呪詛師は複数ではなく、一人の可能性がある』と。あれが本当なら、該当者はたしかに思いつきますね」

 

はぐらかすような、はっきりしない口ぶりだった。

高専所属ではなく、フリーの術師の冥々は、職業柄グレーゾーンの術師たちともそれなりの付き合いがある。その幅はただ高専に把握されていないだけの零細から、呪詛師まがいの連中まで様々だが、ともかく高専に所属する術師たちよりはずっと顔が広い。彼女自身、高専に知られれば多少まずいことも、いくつか抱える身である。夜蛾もそのことは知った上での質問だった。

 

「そうか。冥、お前ならその呪詛師を追えそうか?」

「可能は可能でしょう。本当に私の想像通りの人物なら、かなり時間はかかることになるでしょうが」

「なら、一応当たってみてくれ。金額はお前の言い値で出す」

 

その言葉ににっこりして、委細承知、と頷いた冥々はしかし、胸中で釈然としない思いだった。夜蛾には仮定のこととして話をしてはいるものの、この一件で冥々の中ではほとんど犯人の目星はついたも同然だった。残穢がない以上確定はできないが、そもそも残穢を完全に消す手段を持つ呪詛師は極めて稀だ。その上で、複数の全く系統の違う術式が見られている。この二つの符号から言っても、あのレインコートの呪詛師が––『式盗り』が一枚噛んでいる可能性が高い。

 

(それはそうとしても、彼女は高専に真正面から喧嘩を売る真似をするようなタイプじゃあない)

 

この狭い呪術界で、高専と面と向かって敵対することのリスクや損を知らないような愚かな人間では、決してないはずなのに。よほどの理由があったのか、宗旨替えでもしたのか………。少し冥々は考えて、すぐにそれを打ち切った。どちらにせよその答えを知ることはないし、知ったところで一円の得もない。わざわざ余分な思考に時間を割くのは、彼女の嫌うところだった。タイム・イズ・マネー。これもまた、冥々の信条のひとつである。




用語解説

郡上涼利
呪詛師界隈の都市伝説みたいな奴。術式のおかげで界隈ではビビられてる。現代っ子として個人情報の流出に気をつけてたらいつの間にかそんに扱いになってた。冥さんとはフリーの仕事で敵対したときに烏を撃ち落としたおかげで、後からえげつない額を要求されたことがある。
次の話で居候があと3人増えることになる。

レインコート
残穢を吸収してくれるメチャメチャ有能な呪具。一級。これの作者はあとで登場する予定。呪詛師界隈では「式盗り」の代名詞でもある。

重面春太
初対面で踏まれた人。主人公とはこれから特に絡まない。

組屋鞣造
舌を切られた人。主人公とは怒っていい。未来視でどの路線でも五条先生に真っ先にやられるため、早めに処理された。

冥々さん
あとちょっと先で絡む人。主人公が夏油の弟子であることは知らないが、金にドライなところで馬は合うため付き合いが謎に続いている。高専外の仕事で敵対したこともあるし、協力したこともある。



使った術式

未来視
「自分の視界限定」の未来が見える術式。最長で1週間先まで。ただし視界の中に無いものは全く見えないため、例えば1週間先の自分の、視界の外で死ぬ人がいたとしてもそれは全く予知できない。

霧出したやつ 「水操呪法」
霧を作るだけではなく、水分の操作や状態変化を可能とするもの。呪力を纏っていない人間なら、一発でミイラにするくらいはできる。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。