換骨奪胎   作:メラニンEX

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バトルシーンを入れると長すぎるので一端切ります。ほんとは上下2話で終わる予定だったんですが、予想以上のボリュームになりました。展開遅くてすみません。なお、今の時間軸としては交流会から八十八橋までの期間が間延びした期間となっております。


第二話「むしかんなぎ 中」

郡上家のつくりは至ってシンプルだ。

全体として、やたらと広い長方形の中庭を囲む、漢字の「口」を横に引き伸ばしたような形であり、短辺の片方に台所と居間が、もう片方の短辺に風呂とトイレ、長辺の片方に和室が4つ、もう片方の長辺に広い座敷が2つという構造だった。出入り口は台所のすぐ隣になる。風呂とトイレを除いた全ての部屋が中庭に面しており、どの部屋からも襖を開けると、縁側とその次にガラス戸を挟んで中庭が見えるようになっている。

 

中央にある中庭は家の中でもそこそこ美しく、白砂を敷き詰めた地面の上に飛び石がいくつかと丈の低い植木が置かれていた。残念ながらその簡素に整った光景をぶち壊すように、中庭にそそり立つ物干し竿には洗濯物が揺れているし、欄間にはハンガーがかけられているし、なんといっても端っこの梁からは留袖の女呪霊が首を括っている。和の美しさと生活感、そして本当にあった怪談みたいな要素が混在する、なんとも言い難いのが郡上家のいつもの風景だ。

 

 

「………分かった、大丈夫…うん。また買ったもののレシート置いとくね」

 

–––んにぃ。

高い声で鳴きながら、黒い猫が台所でスマホをいじっていた菜々子の足にすり寄ってきた。柔らかくてふわふわした毛並みは、スリッパを履いただけの素足にひどく気持ちがいい。いつもこのしなやかで小柄な生き物を目の当たりにするたびに、菜々子はちょっとむずむずとした気分になる。あったかくて、抱き心地がよくて、気まぐれで優美。こんなに可愛くってお前は大丈夫なのか、みたいな。

手を伸ばして抱き上げてやると、菜々子たちが涼利の家に来たころよりかなり重くなっており、ずしりとした生き物の確かな質感が腕に伝わってくる。ごろごろごろ、と喉を鳴らす猫の様子は至って機嫌が良さそうで、羨ましいほど悠々自適である。もっとも、この家に来てから10ヶ月近くの期間の中で、この猫の機嫌が悪そうなところはあまり見たことがない。菜々子と美々子が「ジジ」と呼んでいる黒猫は、いつだって楽しそうにくつろいで、のびのびとしていて、この世で一番ストレスという言葉と無縁な毛玉だ。

 

 

ジジは、涼利が家で飼っている猫である。具体的にいつごろ飼い始めたのかは菜々子も美々子も知らないが、2018年の初めに双子が涼利の家に来たときには既にいて、我が物顔で日当たりのいい縁側に寝そべっていた。時々どこかへふらりと出かけて1週間も帰ってこないこともあるので飼い猫、というにはちょっと微妙だが、とにかくこの家を根城にしていることには違いない。

 

涼利がぽろりと漏らしたことには、なんでも夏油の下を出てから引き受けた、「報酬は現物支給」の仕事で騙されたとのことである。見知った人物が相手だったので、未来視でいちいち視ていなかったのが仇になり、報酬は呪具か術式かと思って行ってみれば、ケージに入った仔猫を押し付けられたらしい。猫だって「現物」には間違いないし、その言葉を確かめなかったのは涼利なので捨てるのも寝覚めが悪い、ということで姉は里親を探すも結局見つからず、今に至っているわけだ。

 

菜々子も美々子もこの可愛らしく、人懐っこい黒猫に喜んだが、同時に猫を飼う涼利という取り合わせに違和感しか覚えなかった。何せ郡上涼利である。双子が7歳のときからもうすぐで16歳になる今までの9年間の付き合いだが、涼利は全然動物が好きではなかった。他者に関心が薄く、お金に細かいタイプで、生き物を嫌ってはいないがお金をかけるなど嫌がりそうな人間なのだ。非常食用に飼ってる、とでも言われた方がまだ似合うくらいである。

 

そんな彼女は意外にもきちんと猫の面倒を見ていた。菜々子たちがつけるまで猫は「お前」「猫」呼びのままだったし、1週間家からいなくなっても探したりしないけれど、涼利はジジが頭の上に乗っても怒らないし家にチュールは常備されている。その光景を目にしたとき、菜々子も美々子も涼利が頭でも打ったのか心配になった。それくらい慈愛の精神から程遠い人なのだ。

 

 

「………うん、うん。じゃあね」

スマホを切った美々子がそれを置くと、待ちかねたようにジジが菜々子の腕からするりと抜け出して、テーブルの上から美々子の肩まで伸び上がって抱っこをせがんだ。美々子はその喉を軽くくすぐりはしたものの、片手にぬいぐるみを持っているので抱き上げることはなく、ジジはちょっぴり不満そうに一度鳴いた。意外にもこの菜々子の片割れは、ジジをべたべたと甘やかさない。どちらかと言うと、溺愛しているのは菜々子の方である。

「すず姉、なんて?」

「仕事先でトラブルが起こって長引きそうだから、夜ご飯いらないって。帰りも遅くなるみたい」

「そっか。何時になるかは言ってた?」

「ううん」

 

ふるふると、美々子は首を横に振った。菜々子とは全然違う、ツヤツヤの黒髪がそれにつられて左右に動く。片割れの黒髪に浮かび上がった、淡い天使の輪っかを見ながら菜々子はもう一度、そっか、と呟いた。

 

この広く古い家の主である彼女は1週間のほとんどを、大学か仕事で留守にしている。夏油の下にいたときからせわしなく動き回っていないと気が済まない人だったが、こうして一緒の家で暮らし始めてからなお一層、その傾向は増しているように見えた。

もとより、その特異な術式を保有する涼利は、できることの幅が他人とは比較にならないほど広い。制限はあれど、ほとんど「何でも1人でできる」と言って差し支えないだろう。そのせいか依頼される仕事内容もてんでばらばらで、今日のような術式の買い取り、暗殺、人探し、呪物の買い付けの代理、護衛、物品の運び屋………と上げればその種類に限りがない。涼利が仕事を選ばないこともあって、半ば万屋のような有様だった。

 

そういう多忙な涼利なので、一緒に暮らす前と後で食卓を囲む機会はさほど変わらなかった。この、古めかしく、凝った和風建築の事故物件はいつもがらんとしていて、双子だけで時間を過ごすには持て余してしまうほどである。–––いや、持て余していた、と言う方が正解か。今のこの家は、どこかにいつも緊張感が張っていて、菜々子たちはその張り巡らされた透明な糸を気にしながら暮らしてるような感覚を味わっていた。

 

 

 

 

 

菜々子はこの家唯一の洋式である、居間のテーブルにぺたんと頬をくっつけて、あかるい光がさしている中庭を睨んだ。じっとりとした菜々子の視線の先には、座敷の前にある縁側に腰掛けて何だかくっちゃべっている2つの影がある。

1人は大柄な男で、前髪だけ残したスキンヘッドのような独特の髪型をしている。ボンテージに似た、明らかにコスプレにしか見えない格好をしていて、鍛え上げられた筋肉が全身を覆っており、ただでさえ露出の多い衣服が今にもはちきれそうな具合だった。

もう一方は、もはや人型ですらない。菜々子の知っている語彙に何とか当てはめようとすると、ぎりぎり「カービィ」になる。身の丈は双子とそう変わらないのだが、輪郭が梨のようにいびつに膨れた胴体から手と足が出ていて、そのまんなかに巨大な口が開いており、彼(たぶん男だろう)が笑うたびにそこから成人男性の拳2つ分ほどもある乱杭歯が覗いた。口の上には人の目鼻口を思わせる穴が4つ空いており、そこから流れる血が、いっそう不気味である。

 

 

この2人とすら言えないような彼らに、今は涼利と出かけている1人を加えた3人が、涼利に連れられて郡上家にやってきたのはつい最近のことだった。姉の「今日から10月31日までここに泊めるから」の一言で、美々子にも菜々子にも何の相談もなくそれは決定事項となり、彼ら3兄弟との強制的な共同生活を双子は余儀なくされていた。

 

「美々子」

「うん」

 

あいつらさぁ、とテーブルに顔をくっつけたままの菜々子がだらんとした姿勢で指差したのを見て、美々子がこっくり頷いた。生まれたときからずっと一緒の双子でも、菜々子と美々子は表情の作り方が全然違う。むしろこういう、表情に欠けていて冷たく見える感じは、涼利と美々子に似通っていた。その共通点にふっと不思議な気持ちになることが時おり訪れる。菜々子にもあるのだろうか。血の繋がりも考えも異なるのに、過ごした年月だけで、涼利と似てしまったどこかが。

 

「すず姉、なんでわざわざウチに連れてきたんだろ」

「分かんない」

「………あの偽物野郎に何か言われたのかな」

 

美々子が押し黙った。中庭から吹き込んできた初秋の薄甘く香ばしい風が、ほどいていた菜々子の金髪をふうっと舞い上げ、動くものに目のないジジがそれをを一度、二度と猫パンチする。

美々子はジジの前足を握ってそれをやめさせると、ふにふにとした肉球を弄りながら、口を閉じたり開けたりして何かを言い淀んでいた。

 

「……それもやっぱり分かんないよ。でも、あの姉さんだし、あいつに言われただけで動いたりしない。姉さんなりに何か考えがあってやってるんだと思うよ」

 

とつとつと切れ切れに、それでもきっぱりとした言い方に閉口したのは今度は菜々子の方だった。

菜々子は美々子ほど、涼利を何もかも信頼しているわけではない。特にこの夏油傑の遺体や、それにまつわる件に関して涼利は双子に何も話してはくれないのだから。今月末のハロウィンの日に、夏油の死体を乗っ取ったあの男や呪霊共が大がかりな計画を起こすつもりで、涼利がその計画の要であるということ––それから、その計画で五条悟と交戦するということ。涼利は偽夏油と何らかの縛りを結んでいること。2人が知っているのはそれくらいで、あとは何を聞いても答えてすらくれない。

 

涼利がどういう方法で、夏油の死体を取り戻すつもりなのか。五条悟と戦って、どうするのか。何も教えてはくれない涼利のことを考えるたびに、薄皮をゆっくりと一枚いちまい剥がされるような、形のない不安や疑念というものはむくむくと菜々子のこころの内側に湧き上がるのだった。

 

 

 

 

ちょうどそのとき、菜々子の腕の中で気持ち良さそうにとろけていたジジが飛び起き、腕の中から素早い動きで抜け出すと居間のフローリングの床を駆けて、ぴょい、と中庭に飛び降りた。飛び起きたときに、抱えていた菜々子が驚いてテーブルに顎を打ちつけたのも知らぬ、軽やかな足取りだった。

向かった先は縁側に腰掛けている壊相と血塗である。呪いと人の混血児たちが来た初日から珍しく人見知りをしなかったジジは、人の形をしていない血塗のことがたいへん気になるらしく、彼の姿を見るとときどき近づいては、フンフンと彼を嗅いだり撫でることを要求しているのはここ数日で美々子も菜々子も見慣れたことだった。

 

「涼利の飼ってる畜生だ!お前、今日もちいさいなあ」

青緑の肌をした、3兄弟の末子はその異形の外見には似合わず猫を可愛いと思う感性はあるらしく、そのダミ声にはうれしそうな響きが確かにあった。

「あまり不用意に触ってはいけないよ、血塗。この大きさの獣は、我々であればうっかり殺してしまうかもしれないから」

「ウン、分かってるよお」

元気よく返事をした血塗は、おそるおそるその指先でジジの頭をつついてやり、それに気を良くしたジジが指に頭をこすりつけたのに驚いてちょっぴり身を引いた。逆に弟を優しい目で見る壊相は猫にはさほど興味がないようで、ちらりとも触れようとはしなかった。

「そう言えば兄者、こいつなんて名前だったっけ?あいつ、何だか変な呼び方してたよなあ?」

「ああ……確か爺、じゃなかった?」

「そうだった!流石は兄者だなぁ」

 

ジジだっつの。

爺、爺、と惜しいと言うには嫌な響きの名前を連呼する受肉体の兄弟たちを眺める菜々子は、お腹の底から深いため息を長く吐き出した。

菜々子たちは、個人的にあの兄弟たちを嫌う理由を持ってはいない。

彼らは『視える』側の生き物で、憎むべき非術師ではない。人間の術師ではないが、かと言って非術師が生み出す呪霊でもない。菜々子や美々子たちを傷つけたわけでもない。極端な好き嫌いで人を判断してきた双子にとって、彼らを分ける区分はあまりにも曖昧でグレーゾーンだった。

 

涼利が自分たちに相談もなく連れてきたことは気に入らなかったし、姉妹3人の生活空間を邪魔されたのは癪だったけれど、菜々子が彼らを同居人として認めたくないのは全く別の理由だった。

 

(…なんか、本当になっちゃう気がする)

 

渋谷での大がかりな作戦まであと1ヶ月を切っている。その日に、菜々子たちはあのひとの体を、ちゃんと取り戻せているのか。その時に涼利は何をしようとしていて、無事でいてくれるのか。今はまだ訪れていない、それでいて刻一刻と近づいてくる未来への不安。

漠然と胸にわだかまった形のないそれらは、唐突に九相図の3人が郡上家に来たことで妙な予感を伴って菜々子の胸を重くさせた。

あと一月もないうちに、何かが決定的に変わろうとしている。渋谷で、自分たちの計画が成功するか否かに関わらず、取り返しのつかない変化を迎えようとしている。そんな予感がどうしても消えない。彼らはその不穏な未来の使者のように思えてならなかったのだ。

 

「‥すず姉、早く帰ってこないかな」

「ね。今日はお土産、買ってきてくれると思う?」

「どうだろ。信玄餅買ってきてほしいな」

「さっき頼めばよかったかも」

 

菜々子の言葉にしない不安を察知したのだろうか、美々子がぎゅ、と手を握ってきたので、菜々子もまた同じだけの強さで握り返した。同じ大きさの、同じ温度の手のひら。菜々子はポケットからスマホを取り出した。LINEを開いて一番上に表示されたアイコンには、相変わらずのアンソニー・ホプキンスの横顔が映っている。「帰りに信玄餅買ってきて」のメッセージを送ると、なぜかすぐに既読がついたので菜々子はまた机に顔をくっつけて、仕事しろよ、と小さい声で呟いた。たぶん、返事は帰ってこないだろう。郡上涼利は既読スルーの常習犯だ。これはお互いLINEを交換したときから変わらないこと。

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

講堂の中は薄暗かった。元来現代的な光とは縁遠い場所で、小学校の体育館ほどある大きさの内部を照らすものは、祭壇のように前方に開けたところに設置された柱状の電灯と、戸口の鯨幕を透かして入ってくる初秋の陽光だけである。それだけの光源だけではとても端々まで完全に明るくさせるには足りず、ずらずらと並べられた椅子に座す参列客の間や、何やら忙しげに動き回っている家人たちの顔や、飴色の壁や、高すぎてよく見えない天井のあちこちには、濃淡さまざまの闇が凝っていた。

 

簡素な折りたたみ式の椅子に座った、明るい茶髪をした黒い上下の青年は、きょろきょろと人相の悪い参列客や薄暗い講堂の中を見回し、それから高い天井をぼうっと見上げた。

天井というものは、ある一定の高さを超えると感心するという度合いを文字通り飛び抜けて、眩暈がしてくるようになる。生部野家のこの講堂もその類で、いかめしく芸術的に湾曲した木製の梁はあまりの高さ故に、その一等高く暗いところをじっと見ていると、何だかヘンテコな妄想が掻き立てられるような具合だった。あっちの暗いところからこの家で飼われている呪霊が見張っているんじゃないか、いやこっちの影で今何かが動かなかったか、というある種の想像力豊かな子供のように。実際にそんなことは全くなく、それらはまとめて青年の心配性の生み出す産物なのだが、どちらにせよそう言ったことを考えるほどに、この講堂が彼にとって居心地悪く落ち着かない場所であることは確かだった。

 

 

「そんなにきょろきょろするものじゃないよ、猪野くん」

「えっ、そんなに分かりやすかったっすか。気付かれないように観察に努めてたつもりなんすけど」

「ふふ。残念ながら、いかにもお上りさん、という感じだったね」

 

くすくすと、薄暗がりに溶け込むような女がとろけるような声で笑った。こちらもまた、葬儀に参列するものとしてはやや奇抜なデザインの黒衣に身を包んでいたが、この場においてはさほど目立っていない。むしろ、女の持つ月の光を集めたような白髪の方が、周囲から浮き上がってあわく光っていた。ちらちらと女の方を見ては、決して視線を合わせないように俯くものも何人かいる。女の肩に乗った烏が、その視線を嫌がるように首を振った。

 

「我々術師家系生まれなら、個人差はあれど金持ちの家には嫌でも慣れるだろうけれど。流石にこの規模は、君は初めてだったかな?」

「まあ、そうっすね」

 

この2人–––高専に所属する二級術師猪野琢磨も、フリーの術師である冥々も、どちらも生まれは代々呪術師を輩出する家柄である。この業界というのはとかく命の危険と反比例して報酬がよいので、長く続けるうちに不思議と金に困らないものも多い。その財産を有効に利用できるほど長生きできるか、というのはまた別問題としても、歴の浅い家柄ですら金回りのよいところが殆どだった。修行場としての機能を兼ね備えるために、家が広いというのも決して珍しくない。

 

「少なめに見ても、うちの本家の3倍以上はありそうだなぁ…ここの連中、どうやって敷地の中移動してるんですかね。車とか?」

「さあ?もしかして虫に乗ったりしているのかも–––というのは冗談だけれど、ここら一帯の山は全て生部野家の私有地だというのだから参るね。近頃は衰退していようと、呪術界の名門と呼ばれる家のほとんどは、この家の足元にも及ばないだろうさ」

 

衰退している、のところで冥々は少し声をひそめた。いかにも面白がっているふうだ。衰退してこうなら、栄えていたころは一体どれほどの権勢を誇っていたのか、名家というほどでもない中流家系出身の猪野にはとんと見当もつかなかった。

その広大でほの暗い講堂の中を、指摘されてしまったので、今更隠す意味もないだろうと猪野は首ごとぐるぐると辺りを見回したけれど、冥々が先刻口にしたような特徴の人物はやはり見当たらない。

 

「例の奴、黒いキャップとレインコートに、銀の指輪10本嵌めて、ピアス開けた背の高い女、でしたよね。いなくないっすか」

「そう。まあ性別については骨格からの推測に過ぎないけれどね。どちらにせよこの中にはいないよ」

冥々は肩に乗せた一羽の烏を指の背で優しく撫ぜた。その烏といえば、プルプルと小柄な体躯全体で怯えたように震えており、哀れっぽい風体である。

「式盗りがこの子を射たのは外だった。家人に連れられて講堂から出てきていたから、今はこの邸宅のどこかにいると考えるのが妥当だろう。可哀想に、この子もすっかり怯えてしまって…彼女はどうも、暴力に躊躇いがなさすぎていけない」

その口ぶりはどこか親しげで、猪野は改めてこの守銭奴と名高い一級術師が呪詛師とも付き合いのある人物なのだ、という認識に現実感を深めた。

「聞く限りめちゃくちゃ目立ちそうな外見ですけど、そんなんでも捕まらないもんなんすね。その式盗りとかいう呪詛師」

「彼女の素顔も声も指紋すら我々が知らない以上、レインコートや指輪を外してしまえばそれまでだよ。実際彼女、それを全部外して私から逃げおおせたこともあったしね」

あのときは困ってしまったよ、と冥々がひょいと肩をすくめる。乗っていた烏が傾いて、足を慌てて組み替えるのがなんだか可愛らしかった。

 

 

 

 

2人がこの田舎にある生部野家までやってきたのは他でもない、「式盗り」と呼ばれる呪詛師の追跡を目的としてのことだった。以前の高専の交流会を襲撃し、その隙をついて忌庫から呪物を強奪した呪霊および呪詛師たち。その内の1人として容疑がかかったのが、彼女だった。呪詛師界隈では有名だというその呪詛師が、本当に襲撃に参加していたようならば捕まえて高専に連行しろ、とのオーダーを受けた冥々は「式盗り」が生部野家の葬儀に参加するらしいという情報を掴んで、呪詛師がたむろする葬儀場くんだりまで足を運んだわけである。

 

 

「しかし、遅いね」

冥々が手首の内側にある、腕時計の文字盤を見ながらぽつりと呟いた。一目見て高価なものだと分かるそれを縁取る、シャンパンゴールドの輪が薄暗い講堂の中できらり、とひかめく。

両の針は葬儀が始まるはずの時刻をとっくに過ぎており、集まった周囲の呪詛師たちもそのことに気づいているのだろう。どこか苛立っているもの、時計を頻繁に見ては焦ったような顔をするもの、そわついたもの、と枚挙にいとまがない。

 

「2時からでしたっけ?」

「ああ。この家の人間は時間に厳しいのだけど…もしかするとトラブルがあったのかもね。それも遺体がらみの」

冥々は後ろ側を振り返った。視線の先にいる、「羽化する蝶」の紋を染め抜いた、揃いの黒の着物を纏う生部野家の家人と思わしき集団は何やら険しい表情で顔を突き合わせており、途切れながら聴こえてくる声もどこかただならぬ響きがあった。

どこか分かりきったことだ、とでもいうふうな意図を言外に滲ませた女の言葉に、猪野はその真意を図りかねてきょとりと首を真横に倒した。

 

「生部野で執り行われる葬儀は、呪詛師にとっても呪術師にとっても貴重なチャンスなのさ。門外不出の『赤尸(せきし)』が未完成とはいえ手に入るのだからね。この中で大人しく座って待てるものもいれば、そうじゃないものもいる。式盗りも参加しているし、どうやら今回の葬儀は荒れそうな予感がするよ」

 

くすくすと、冥々はまた笑みを深めた。その白い面は薄暗い講堂の中でとろりと濃い陰翳に彩られて、いっそう凄絶に見える。ちょうどそのとき、強い勢いで吹いた初秋の風が入り口の鯨幕を巻き上げ、淀んだような暗い講堂に一瞬、あかるい光を投げ込んだ。椅子やそれに座った人々の遠い向こう、開けた場所の真ん中はぽかりと空いている。恐らくは棺が置かれる場所なのだろう。未だあるべきものが、そこにはまだ置かれていない。どことなく間が抜けて、欠け落ちたまま、講堂はすぐにまた薄暗く閉じられた箱に逆戻りした。

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

その部屋にもやはり、あるべきものは足りていなかった。講堂から少し離れ、歴史の教科書に出てくる貴族の邸宅を彷彿とさせるような、寝殿造に近い生部野家の屋敷。この季節には肌寒い温度の冷房、風に触らないところに置かれた蝋燭、死臭を消すための香が焚きしめられた一室。その中央には、錦織の布団が引かれていたが、それはこんもりと布団だけが盛り上がったまま、その中身がない。少し前まで寝ていたひとがちょっと用を足しに抜け出たような有り様である。無論、そんなことはありえないのだが。

 

「ないな。死体」

部屋の障子を開けたときから流れた重たい沈黙を破って、涼利がきっぱりと言い切った。つまりは、端的に言ってそういうことだった。涼利が既に前金を支払い、今から奪い取る術式の持ち主である遺体はこの部屋のどこにもない。二十畳ほどの空間のどこを見渡しても、部屋にあるのは冷えた空気だけである。

 

「最初に確認だ。私は先週、生部野家の銀行口座に金額の半分を振り込み、君たちはそれを受け取っている。間違ってないか?」

機械音声の淡々とした温度の低い質問に、案内役の少年は顔を青ざめさせてこくこくと何度も首を縦に振った。つい先程まで、年頃にあわず落ち着いて聡そうだった雰囲気は霧散して、今にも泣き出すのではないか、といった具合で黒い袴をぎゅっとにぎっていた。

「予定では今から私は故人の術式を取り込み、それが終わった後に残りの半分を支払うはずだった。これも間違ってないか?」

「そ、相違ありません。式盗りさまへのご依頼は姉–––今代当主が僕に一任しておりました。振り込みは僕の目で確かに」

「そう。じゃ、その上で故人の術式を私に渡すのが惜しくなったとかいうわけじゃないよな」

「…いいえ、まさかそのようなことは…!」

 

しどろもどろに口籠もった少年は俯いてしまい、ちょっとやり過ぎたかと反省した涼利は、何だか責めるような目で見てくる脹相を見て、空っぽの錦布団を見て、あー、と口を開いた。今は平凡そうな女のものに変わった薄茶の瞳がぐるりと一周する。

 

「冗談だ。どうせどこかの呪詛師が未完成の『赤尸』欲しさに死体を盗んだんだろ。君たち生部野が人間相手に嘘つくほど、興味がないことくらい知ってる」

 

そう言った涼利は部屋の敷居を跨いで入ると、リモコンを拾ってクーラーを停止させた。そうしてリュックサック(この短期間の間あまりにもこの中から大量のものが出てくるので、脹相は世のリュックは全てこういうものだと勘違いしていた)から取り出したのは、呪符ではなく白い和紙を綴じた束である。それを何枚も重ねたまま、ためらいなくびりびりと豪快に、破いていく。ほろほろと部屋の畳に落ちた紙吹雪は、あっという間に小ぶりな山となって積み上がった。少年はぎょっとしたようにその光景に目を見開いたが静止するには至らず、止めかけた手を下ろした。

 

束を丸ごと紙片の山に変えた涼利の肌にはやはり、赤い文字列が群れをなして浮かび上がっており、その緋文字の出現に伴って積もった山がひとりでに動いた。初めは部屋の外から吹いた風で宙に舞い上がったのか、と勘違いするほどゆっくりとした動きは次第に速くなり、渦巻きながら何かをかたどりはじめている。ぐるぐる、竜巻に飲み込まれる木々のように。

 

やがて真っ白だったそれらの紙片はうすらと色づき、今や完全に人のような形を成して立ち上がった。ところどころ綻び、絶え間なく動く紙吹雪がより集まった人影はぼやけていて、ピントの合わないカメラのように輪郭がぶれている。

その不安定ながら結ばれた像をよく観察すれば、脹相も見覚えがあった。服こそ違うが、左手にひと抱えもあるケースをぶら下げている。その中にはスイカ大の肌色が、顔の作りもわからぬほど曖昧に見えた。取り巻く薄い緑。–––揺れる、淡いみどりの水。

 

(先ほど講堂で見かけた、生首持ちの男…?)

 

「–––巻き戻れ」

 

呪言ではない。硬い声がそう命じると、人影を映す紙吹雪はざざあ、と驚くほど滑らかに動き出した。ちょうど動画の逆再生をかけたときのように、敷居のすぐ前にいた男の影が後ろ歩きで布団の前にしゃがむと、肩に担いだ何かを布団に戻し、また後ろ歩きで視界の前まで戻ってくる。そして、きょろきょろと部屋の中を見渡したのちに襖をしめるような動きをして廊下に出た。布団の中から死体を奪ったらしき動作を見るに、この男が犯人で間違いないのだろう。

 

「もういい。停止しろ」

 

発された言葉に、ぴたりと、人型の紙吹雪の群れが止まった。それを確認した涼利は、息をついて少年の方に向き直った。高い位置にある薄茶の目に見下された少年が、僅かに怯えたようにぴくりと震える。

「………これは、一体…」

「過客再来。『トリックぶち壊し術式』と嫌われてるが、要するに起こった過去を擬似再現することに極めて長けた術式だ。今回はトリックもクソもないが、その点においては信用してくれて構わない。…いやしかし、まさかこいつだったとはな」

 

涼利は自分の横側にあちこち欠けた形で、ぼやけた輪郭を隠しもせずに茫洋と立つ男を流し見た。当然ながらこの人形に人格なぞ存在しない。あくまでこの場所で行われた行動をなぞるだけの術式。過去の亡霊とすら呼べないほど淡い影は、ひどく虚ろな顔をしている。

 

「帯戸川も落ちたもんだ。生部野に喧嘩売るような真似をするとは」

「それは…はい、そうですね。とにかく僕は姉に伝えて参ります。申し訳ありませんが式盗りさま、死体が戻ってくるまで術式の引き渡しはしばしお待ち願えませんか。遅れたことに対する埋め合わせについても、姉上であれば色よい答えがいただけるかと」

 

ようやく落ち着いてきた少年の言葉に鷹揚に頷いた涼利はしかし、それは構わないが、と口を開いた。同時に小さく何か呟くとともに廊下に出ていた紙吹雪の人形が先程とは逆に、早送りのように動き出した。きょろきょろと見回すような動きののちに布団の前でしゃがみ、遺体を担ぎ上げたポーズで敷居の前までやってくる。一連の流れは全て、通じての4倍速ほどのせかせかした調子だった。

 

「私も自分で死体泥棒を追ってくる。こいつを使えば後を追うのは簡単だしな」

涼利はちょっと紙吹雪の群れをつついた。

「い、いえ、式盗りさまのお手を煩わせることはありません。元はと言えば僕ら生部野の不手際です。その上に犯人の捕獲を手伝ってもらうなど…」

「勘違いしないでほしいんだが、別に君たちを思って言い出してるんじゃないぞ。君たちだけに任せるより自分でやった方が効率がいいし、万が一それで逃げられたら払った前金が無駄になる。それが嫌なだけだ」

 

きっぱり言い切った涼利は「姉君にはそう伝えといてくれ」と付け加えるとすたすたと部屋を出て行ってしまい、脹相は慌ててそのあとを追った。少年はしばらく思い詰めたような顔をしていたが、顔を上げると、玄関に靴を取りに行った涼利たちとは逆方向の廊下を、足早に歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

これほどの空間をとる必要があるのか、はたして疑問に思うほどの玄関でいつものアディダスのスニーカーではなく、バックルのついたローファーを履く女の横顔を見ながら脹相は、涼利、と呼んだ。一度脱ぐともう一度履くのが非常に面倒な、脹相の革のワーキングブーツは少しばかりしっとりとしている。ブーツの紐を固く結ぶのは、未だ脹相にとっては箸の正しい持ち方と同じくらい難しいことだった。

 

「あ?何だ」

ガラの悪い反応を返した涼利は、若干手間取っている脹相を見て嫌そうな顔をした。

「お前、あの死体が盗まれること分かってたんじゃないのか。昨日の夜に、お前は未来視の術式を使っていなかったか?」

涼利はその僅かに自信なげな言葉に、器用に片眉を上げてちょっと驚いたような顔をすると、玄関の三和土から立ち上がって膝を払った。黒いスラックスはいつものジーンズと違ってこう言うところがやり辛くて敵わない。

 

「声量落とせよ長男、ここで何が聞いてるか分かんないだから。–––ま、でもお前の言ってることは正しいぜ。私は1週間前から高確率であの遺体が盗まれるのは知ってた。わざと生部野には黙ってたんだ」

「何故だ?」

全く理解不能だ、と言いたげな顔で脹相は目の前の凡庸で特徴のない顔を見た。座る脹相を上から見下ろす淡い茶色の瞳孔はいつも通り、僅かに開いているよう具合で彼を睥睨している。

 

「実は私、ここの当主に頼みたいことがあってな。とは言え、簡単に了承してもらえるような案件じゃないから『大事な遺体を盗んだ犯人を捕らえました』、くらいの恩を売ったら飲んでくれると思って。死体が盗まれないと、売れる恩も売れないから黙ってたんだ。あとは、まあ–––」

 

涼利はまだ靴紐結びに手間取る脹相の前にしゃがみ込むと、素早い動作でバランスの良い蝶結びを作って引っ張った。その短く機能的に切られた爪の俊敏な動きを脹相がぼんやりと眺める上から、微かに楽しげな調子の声がひとりごちた。

 

「あの犯人–––お前も見た生首野郎。あいつの持ってる術式がなかなかいいやつで、前々から欲しかったんだ。とは言え理由もなしに同業者から奪えば角が立つが、あいつの方から生部野に喧嘩売ったんなら、特に咎められることもないだろ。つまり今日は上手くいけば、故人の術式と死体泥棒の術式が手に入って、なおかつ生部野に頼み事ができる。一石二鳥のチャンスなんだよ」

 

渋谷の前哨戦には物足りないだろうが、とせせら笑うように低い声で呟いた女は、そう言うと脹相のきちんと紐の結ばれたブーツから手を離して立ち上がり、もう一度神経質に膝の砂を払って玄関の引き戸を開けた。葬式の当日にはいささか不釣り合いなほど彩度の高い青の空が、外には広々と続いており、扉を開けたことによってじっとりとしたぬるい空気が押し寄せてきた。

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 

 

生部野家の所有する山は、屋敷に通じる部分を除いてほとんど整備されていない。よく見れば何人もの人間が通る内に踏み固められたのであろう、獣道がいくつか見受けられるのみとなっている。屋敷から離れるほどその道も細く分かりづらさは一段と増してゆき、屋敷を出てそれほど経っていない今ですら、初めて訪れる脹相は振り返ってもどこを歩いてきたのか、さだかには思い出せなくなりそうな様子である。人が歩いたり、暮らすためではない山というのが、歩くものは嫌でも理解できた。かといって人の手が全く入っていない、という訳でもないのがこの山の妙なところである。

 

(山の様子が先程までと違う……?)

 

脹相は迷いなく深い山の斜面を走る涼利を追いかけながら、木々の上方を見上げた。濃い針葉樹が立ち並ぶここいらは昼間でも、日光が多少遮られてしまうが故に薄暗く、地表に届く光は淡くか細い。黒く柔らかな感触の土にはくっきりとした足跡が2人分残されている。先程抜けてきた、落ち葉が絨毯のように広がっていた地面とはまるで違っていた。

 

そう、先程まで走っていた山の一部はここよりもっも明るく、葉が赤く染まった広葉樹が群生していたはずなのに、がらりとそれが切り替わっている。まるで、区画ごとに植生が精密に管理されているような風だ。あいも変わらず生き物の気配はひとつとしてなく、人が住むような痕跡もまるでないのに、人間の手で整えられている。

見上げた木々もまた枝同士が触れ合って折れることのないよう剪定された跡があり、その遥か高みから遠い木漏れ日が差していた。初秋の午後の透明なその光を、瞬きの間顔に受けた脹相は目を眇めた。

–––この広大な山は、一体何のために使われるのだろう。誰のためにここまで手を入れて管理されているのだろう。ふと、脹相はそんなことを考えた。

 

「止まれ」

 

短い制止に足を止めれば、涼利の少し前を早送りされながら浮遊していた紙吹雪が、いよいよその姿を保てなくなって風に散るところだった。映し出されていた男も、すぐにとろけて秋の風に弄ばれる紙片に変化する。それを燃やした涼利は、ちょっと残念そうな顔をした。

 

「時間切れか?」

「そう。まあここまで使えたからいいけど、やっぱり長期の探し物なんかには向かないな」

 

分かりきったことだけど、と言いつつもその顔は普段と比べればずっとあからさまに不満げだった。その顔が今は、いかにも平凡そうな、特徴のない女のものであるせいかもしれない。

 

 

 

式取りと悪名高い郡上涼利の剥式呪法は、「他者の術式を奪う」という破格の効果を持つが、それと比例していくつかの制限もまた存在する。術者である涼利が縛りとしてかけているわけではなく、元来備わった機能である。

そのひとつが時間制限だった。涼利の所有するほとんどの術式を展開できる時間は、およそ3分から5分と極めて短い時間に限られていた。これを超えると術式は自動的に終了され、再使用には1時間以上かかる。この再使用までのクールタイムは術式によっても異なり、中には1日1回しか使えないものもある。また、時間制限以内に展開している術式を別のものに切り替えたとしても、再使用には同じだけの時間がかかるなど、ハイリスク・ハイリターンを体現するものとなっていた。

「ほとんどなんでもできる」が、「なんでもできる状態を維持する」ことが不可能な涼利は、それ故にバトルスタイルが基本的に短期決戦向けとなる。

 

つまるところ、今のようなある程度時間のかかることをやろうとすると、途中で術式が中断されてしまうというのは彼女の大きな弱点でもあった。

 

 

「ここからならいい具合に見えそうだな。脹相、ちょっと」

涼利は山の斜面に生えた、針葉樹の隙間を覗き込むと脹相を手招きした。彼がそこから眺めた下にはやはり静かな秋の山並みが広がっているばかりで、人影などどこにもない。金色のイチョウが、その葉群れを秋風に揺らしているだけだ。

あそこが見えるか、と涼利が指差した場所は斜面のずっと下、イチョウの林が途切れて小ぶりな池がある場所だった。深い緑色をした水は、遥か上から見下ろしても綺麗に澄んでいて、その水面に黄色い葉がひらひらと散っていた。

 

「あの池のところに、あと14分したら生首野郎が来る。ある程度は遠距離で削れるといいんだが。お前の穿血はあそこまで届くか?」

「いや…無理だろう。流石に遠すぎる」

速度・威力・範囲を兼ね備えた脹相の得意技『穿血』でも、距離が遠ければ次第に速度が落ちてしまう。この距離ではほとんど攻撃の意味をなさないだろう。脹相のその返答に涼利は頷いた。

「だよな。死体に万が一当たってもことだし…どうするかな」

 

ぶつぶつ独り言を溢しながら考え始めた涼利は、顎に手を当てた。男のように手首の表側につけた腕時計を眺めた彼女の顔には、細い木漏れ日が射している。秋の光によって、ほとんど淡い金色のように見えるその目が、規則正しく瞬くのを見ながら、脹相はふと口を開いた。

 

「涼利、先程言っていた『セキシ』とはいったい何なんだ?死体が盗まれたことと何か関係がある–––というか何故そもそも死体が盗まれたんだ」

先刻空っぽだった和室で涼利が口にしていた、耳慣れない単語が頭の隅に引っかかっていたもので聞いてみると、涼利は一拍おいて、ああ、と頷いた。頷く振動に合わせてマイクが揺れ、機械音声に軽いハウリングが混じる。

「そういや説明してなかったな。死体泥棒が来るまでまだ時間はあるし、一応教えとこうか。セキシっていうのは生部野家で作られてる特殊な呪霊のことだ。で、蠱毒の一種でもある。字はこう」

涼利は中腰になって、落ちていた枝で地面をがりがり引っ掻いて、その文字を書いた。セキシ。赤尸。–––あかい、かばね。何とも不吉な字面に、脹相は首を傾げた。

 

「ちなみに一個体を指す言葉じゃない。生部野の管理下にある成体は全部で百体以上いるはずだが、それらを纏めた名称だな。文字通り見た目が赤いこととか、あとは道教の三尸の虫が由来のはずだ」

 

地面に脈絡なく三尸だの何だのと適当な文字を書き足していた涼利は、持っていた枝をぽいと放った。「スプレー貸せ」の言葉に鞄にいれていたスプレー缶を渡すと、白く薬くさいそれを噴霧しながら涼利はじろりと脹相を見た。

 

「と言うか、赤尸の幼体ならお前もう見てるぞ」

「どこでだ?覚えがないが…」

「ついさっきだ。案内してた子供の首から出てきた蜘蛛、いただろ。あれだ。あれが成長して赤尸と呼ばれるようになる。ちなみにあれは1人につき3匹飼ってるはずだから、お前が見たのはそのうちの1匹だけだな」

 

その言葉に、脹相の脳裏をよぎったのは、少年の皮を破って出てきた灰色の蜘蛛の姿だった。脹相とたしかに目線があったような、よく肥えた親指大の、蜘蛛。尻に赤い二本線のはいった、不気味な生き物が袖の中に入っていく光景。

 

「…赤くなくないか?」

「成長したら全身真っ赤になる。気持ち悪いくらいな。話を戻すと、赤尸はさっきも言った通り蠱毒…生き物や呪霊同士をお互い殺し合わせて、生き残ったものを強化していくやり方だ。これは別に術式でもなんでもないから、生部野家以外でやってるとこもある。赤尸が特殊なのは育てる環境と手順でな」

 

少しばかり意味深に言葉を切った涼利は、唐突に「蠱毒はどこでやるものだと思う」と問うた。甘い金色に染まった瞳孔が瞬きもせずに、じいっと、脹相を見据えていた。

 

「は?どこ、だと?」

さっきも言ったけど、蠱毒とは百足やら蜘蛛やら蛇やら大小様々の虫や生き物を、お互いに食い合わせて、生き残ったものを使う代物だ。ここまではいい。それをやるのはどこか、という問題だ。虫たちを『何』に閉じ込めて殺し合わせる?」

「何って…壺だとか箱なんかじゃないのか」

「そう、大概想像するのは壺だろうな。だが面白いことに、大元の中国でも日本でも、使う容器や、閉じ込める虫の種類は明確に定められてる訳じゃないんだ」

使う種類によって蛇毒だったり、虱毒と呼んだりするけど。

そう付け加えた涼利は、また枝をつかって、地面になんだか絵を描き始めた。がりがりと迷いなく、一筆書きに描かれたそれは、ごく簡単な–––

 

「つまり蠱毒をやる場所は何でもいい。壺、箱、筒、檻、家、庭…そして、この家で使うのは」

–––人間の体だ。

涼利は、こつこつと枝で地面に描いた人の絵を叩いてそう嘯いた。クッキーの型のように簡略化されたそれに、涼利はまた付け加えていく。胴体の真ん中、等間隔に並んだ3つの丸。

 

「生部野の人間は全員男女関係なく、生まれた後すぐ体内に蠅頭のような弱い呪霊を3匹入れられる。こいつらは宿主の血や肉を食って成長していき、やがて体内でお互い殺し合うようになる。どれか1匹でも欠けたらまた補充して、それを繰り返すうちに段々と体内の呪霊は成長していく訳だ。そして宿主が50の誕生日を迎えた瞬間に、最後まで勝ち残った1匹は」

 

胴体に並んだ3つの丸を線で繋ぎ、それを太く雑に伸ばした楕円を涼利はどんどんと大きくしていき、やがて楕円は地面に描かれた人型をも貫いた。ただの土に描かれた簡素な絵であるはずが、なんとも不気味かつ、聞こえてくる話の邪悪さに脹相は質問したことを若干後悔した。自分たちの生い立ちも気分のよいものではないという自覚もあるが、生部野家の赤尸とやらのおぞましさもたいがいだった。

 

「–––宿主を内側から食い殺す。骨の一欠片、血の一滴も残さずに食ったら、そこで赤尸はやっと完成だ。要は生部野家の人間の体内で、宿主の血肉をたらふく貪り、呪霊同士50年殺し合い続けた極上の蠱毒だ。宿主を食い殺して生まれた瞬間から、高い知能と呪力、戦闘能力、生部野への絶対的な忠誠心を誇る優秀な兵士。これを赤尸と呼ぶのさ」

 

描いた絵をぐしゃぐしゃと足で擦って消すと、涼利は枝を投げ捨てた。

脹相は簡潔に纏められたその説明に、ふと先程まで案内してくれていた少年の幼い顔と中から現れた蜘蛛のことを思い出した。いずれ成長した暁にはあの少年もまた、内側から巨大な赤い蜘蛛に食い破られて死を迎えることになるのだろうか。そんな不吉な未来が青年の頭をよぎった。いずれにせよ脹相にはどうしようもないことであるし、そんな気もまるでなかったにせよ、微かな憐れみは彼の心の中の裡に沸き起こっていた。

 

(………いや、待てよ)

その時になって脹相はおかしなことに気づいた。涼利の説明が正しければ、赤尸の幼体を宿した生部野家の人間は、50の誕生日に内側から食い殺されれ、宿主の肉体を全て食らうことで赤尸は成体となる。ならば今回、「遺体が残っている」という事実がおかしい。本来なら残らないはずの遺体が、なぜ盗まれるというのだろう。

 

「だが、それだと辻褄が合わな–––」

「脹相、静かに」

 

言いかけた質問は、硬い機械音声に制止された。有無を言わせない圧に口を閉ざせば、すでに涼利の視線は下方に向けられている。すなわち2人が立っている山の斜面の遥か下、小ぶりで澄んだ池。先刻「下手人が現れる」と言っていた地点を、その凄絶な光を宿した琥珀色の瞳が凝視していた。

 

–––その出現は一瞬のことだった。

池を取り囲む、一面の金色のイチョウの林から弾丸のように放たれた黒い影が、勢いを全く殺さぬまま飛び出し、そのまま一気呵成に駆け抜けた。左肩に肩に黒く大きい人型の荷物を担ぎ、右手にガラスケースを携えているのすら、脹相の目になんとか納まるほどの速度。走る人影が、現れたのとは逆側のイチョウの林にまた姿を消したところで、涼利はわずかに口角を上げて呟いた。

 

「お出ましだ。どうやら生部野には見つかっていなかったらしい。じゃ、脹相、予定通り死体泥棒退治といくか」

 

言うが早いか脹相のベルトを掴んだ涼利は斜面から、躊躇いなく飛び降りた。イチョウの舞う青い空を背景に、準備する間もなく空中浮遊を味わわされた脹相は内心で言いたいことはたくさんあったが、彼にできることは着地の衝撃に備えて口を閉じておくことだけなので、黙ったまま彼は眉根をぎゅっと寄せた。




用語解説
 
郡上涼利
短期決戦向きの呪詛師。人様の葬式でよからぬことを企んでいる。信玄餅は買えなかったので「通販でいいだろ」とか言って怒られる。お兄ちゃんが予想以上に重かったため、あとでちょっとだけ腕を痛めた。

脹相
よからぬ知識ばっかり与えられている人。涼利にベルトを掴まれたためズボンが脱げそうになった。疑われないための演技とは言え、いたいけな少年を責めた涼利に引いた。

ミミナナ
渋谷事変の計画をあんまり話してくれない姉に苛立ったり、いきなりの共同生活に戸惑う思春期。涼利への信頼度にはちょっぴり差がある。

壊相&血塗
家の外にはあんまり出られないけど、人間生活にいそしんでいる。ジジの名前をちゃんと呼ぶのにはもうちょっとかかる。

ジジ
郡上家の飼い猫。涼利が騙されて押し付けられた。家でのヒエラルキーは涼利に続いて2番目に高い。

少年
案内役。当主の弟くん。頑張って50年生きてほしい。悪徳大学生呪詛師に責められた可哀想な少年。実は螢太くんという名前がある。

猪野琢磨
涼利の追跡に来たひと。詳しくは秘密ですが涼利は使役系の術式を奪えはしても使用できないため、万が一のことを考慮して冥さんが連れてきた。

冥々さん
引き続き追跡に来たひとpart2。今回の相方が憂々くんではないのは、涼利が彼の術式を欲しがってるのと、憂々くんは涼利がめっちゃ嫌いだから。

赤尸
あとで成体も出てくる。50年経った奴は基本特級の最底辺〜一級上位クラスとして生まれてくる。全ての個体に共通する点として、差はあれど人間の言葉が話せる上に忠誠心が高いので、生部野家の大事な戦力。やり方自体は割とシンプルだけど、生部野家が極端な近親婚家系なことと相伝術式が深く関わっているため他の家では真似できない。

剥式呪法
デメリットが開示された。時間制限の他にもいくつもできないことがあるため、基本スペックとして百鬼夜行時の乙骨パイセンの劣化と考えてもらって大丈夫。とは言え乙骨パイセンにはできない(であろう)ことで可能なこともあるため、色々ピーキー。
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