凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~遥side~
日記の始まりは、両親が海を出た翌日の事だった。
そこには、俺と別れてしまったことへの後悔と、俺が着いて行くのを選ばなかったことへの怨嗟が書かれてあった。
『今日目覚めて、そこに改めて遥がいないことを思い知った。・・・嫌がってでも連れてくるべきだったと今になって思う。今ここに、かつて存在していた三人の世界が存在しないことが、俺にはたまならく悲しいことだと思える』
少なくとも二人は、俺のことを嫌いになったわけではないということをこの文章にて思い知る。それだけで、少しだけ心が救われたような気がした。
本当は、二人がはなから俺を置いて行く気で、俺が海に残る選択をすることを読んで海から逃げ出す選択をしたのではないかと、心のどこかでそう思ってしまっていた。
慌てて次のページをめくる。
そこからしばらくは、変わりゆく生活に順応していく二人の奮闘が描かれていた。その間、何度か俺の名前こそ書いてあったが特別なことは書いていなかった。
ただ、その間でも「恋しい」だとか「元気にやっているか」など、そんなことばかり書いてあった。二人は俺のことを思ってくれていたんだと思うと、どうも涙が零れそうになる。
しかし、その日記の歯車が狂い始めたのは、二人の命日の四か月ほど前からだった。
日記を記すのが父のほうだけになった。しかも見たところ、この前日に二人は壮大な喧嘩をしてしまっていたみたいだ。
『まなみと喧嘩をしてしまった。・・・遥を見ることが無くなってはや何か月が過ぎたことだろう。あいつが遥に会いたがっているその気持ちは十分に分かる。・・・でも、もう戻れない。戻れるなら、いつでも戻っているのに』
俺と離れてしまったことを本格的に悔い始めたのか、母さんはこの頃から癇癪を起すようになってしまったようだ。
それでも日記には次のように書いてあった。
『それでも、ここに来たこと自体を後悔しているわけではない。・・・確かに、ルールに縛られすぎたあの海村で過ごすよりは遥かにましな生活を送れている。仕事も順調に進んでいることを考えると、一概に否定するわけにはいかない』
父親は翻訳家としての仕事をこなしていた。陸とコンタクトを取ることが多い仕事だっただけに、陸を拠点にするほうが格段に効率が上がるのは明白だ。
『ただ・・・せめてまなみには遥の傍にいるように言った方がよかったのかもしれないと、今はそう思っている』
父さん、それは違うよ。
母さんは、俺と父さんを天秤にかけて父さんを選んだんだ。
逆に言うと俺は選ばれなかったことになる。・・・けれど、選ばれなかったことを今悔いることはしない。
だって・・・俺が後々美海と千夏、どちらと未来を歩んでいくか選ぶことは、あの日母さんに迫られた選択と似たようなものなのだから。
母さんは、自分が腹を痛めてまで生んだ子供より、自分が最初に愛した男について行くことを決めたんだ。それが、母さんの愛なんだ。
息子の俺は、ちゃんとそれを理解している。
日記は一か月飛んだ。父さんの仕事が忙しかったみたいだ。久方ぶりに書かれた日記から分かるように、父さんと母さんは、ずいぶんとやつれてしまっていたみたいだ。
『最近、仕事が忙しくていよいよまなみとの時間も減ってしまった。・・・仕事が順調なのはいいことだ。それはかつて俺の望んでいたことだった。・・・なのに、心に空いた穴が一生埋まらない。どうしてあの日・・・』
綴られる後悔はだんだんと大きくなっていく。その傷は目を閉じてもはっきりと分かるようだった。
日記を読んでいる俺も同じように胸を痛める。俺は、「やめてくれ」と思いながらも日記を捲る手を止めなかった。
そうして、ページは終末の日へ進んでいく。
『まなみが、病気になった』
そう書かれたのは、二人の命日から一ヶ月ほど前の事だった。しかも読んでいる感じ、母さんが患った病気は治ることのない難病だったらしい。
『医者が言うには、現在の医療でこれを治すことは不可能らしい。・・・奇跡は起こらない。奇跡を信じようにも、俺は信じる事は出来なかった。全てを諦めたまなみの表情を見るたび、たちまち俺の心もしおれていったからだ』
そのページには、無数のシミがついていた。
シミの正体はすぐに分かった。これは父さんの涙だ。
文字を綴りながら、母さんに迫りくる「死」を改めて認めたのだろう。それが悲しくて父さんは泣いていたのだと、十数年経った後に読み返す俺も分かる。
それからまた日記は止んだ。
何度か書こうとしていた形跡はある。けれどそのたびに大粒のシミがそれを邪魔していた。手を付けようとペンを持っては涙していたのだろう。
そして久方ぶりにインクが染みたページがやって来る。それは、二人の命日の前日だった。
そのページは、これまでの日記の文章とは違い、恐ろしく丁寧な文字で、息苦しいほど長いものだった。
ここに全てが詰まっていることを俺は悟り、一度天を仰いだ。二人が何を残したかったのか、その思いに向き合うには少しの準備が必要だった。
そして呼吸を整えて、俺は視線をページに落とす。
日記には、こう書いてあった。
『遥へ』
母さんの病気が発覚してからしばらくこの日記に手を付けることが出来なかったが、今日はちゃんと、思いの全てを書き記そうと思う。
そしてこれが、俺たちの最後の言葉になる。・・・この日記を遥がいつ読むか、それは俺たちには分からないけれど、出来ればちゃんと伝わって欲しいと願っている。
結局、俺もまなみも、陸に上がったことを後悔している。
といっても、陸の人たちを嫌いになったわけじゃない。むしろ行き場を失くした俺たちを助けてくれた人も多くいた。そこには多大なる感謝しかない。
それでも、遥。お前を残して行ったことは今日の今日まで後悔している。・・・なんであの日、お前を選ぶことが出来なかったのか、俺たちは分からない。
・・・全く、親失格な話だよな。息子の一人思えないで、人生をかき乱すことになったんだ。この日記を読んでいるお前が何歳か分からないが、きっと沢山大変なことがあっただろうと思う。だから、この場を持って謝らせて欲しい。・・・すまん。
それで、これから俺たちがどうするか、だけど。
俺たちは、一緒に逝くことにした。
まなみはもう心身ともに限界が来ている。在宅療養でなんとかしているが、精神がやつれてしまった今、また病院に戻ることになるだろう。その日は遠くない。
その日が来る前に、母さんは死にたいと言った。最後はせめて、自分の愛した海が見える場所で死にたいと、そんな注文を付けて。
許したくなかった。けれど、俺が止めてもまなみはきっと一人でも逝くだろうと思った。それほどまでに、その目はまっすぐだった。
だからと言って、俺もそれをむざむざと見過ごすわけにはいかない。・・・俺だって、まなみとお前が好きだ。その両方を失ってまで生きる価値は、この世にないと思っている。・・・だから、一緒に逝くと決めたんだ。
だから遥・・・。せめてこれだけは覚えてて欲しい。
俺は、最後までお前を、まなみを愛していた。そしてまたまなみも、お前と俺を愛してくれていた。
俺は明日、まなみを手にかけることになる。だけどそれが愛ゆえの行動だということを、お前にも分かって欲しい。愛を抱いたまま死ねるなら、まだ少しはマシだと思うんだ。
きっと、この一連のことでお前は沢山苦しんだと思う。愛というものがどういうものか分からなくことだってあっただろう。
でも、そんなお前に、親失格の俺たちから最後の言葉を贈らせてほしい。
俺とまなみは最後まで「愛する心」だけは失わなかった。・・・だからせめてお前も、誰かを思う気持ちだけは忘れないで欲しい。
その終わり方がどんなに不格好でも、愛に生きた人生なら誇れるだろうから。
・・・最後になるけど、遥。
どうにか元気で、やってくれ。
日記を読み終えた俺の目から落ちてくる雫は、たちまち日記に新しいシミを作り出す。
悲しさもあった。けれどそれ以上に、二人の最後を知れたということが、俺の中では大きかったのかもしれない。
二人は最後まで愛し合っていた。そして、曲がりなりにも俺のことを愛してくれていた。その感情は、俺が抱えていた十年来の心の凍結を終わらせてくれた。
「そっか・・・二人は・・・最後まで・・・!」
本当に不器用な親だと思う。そして俺も、その血を引いていることを再確認させられた。
こんな形でしか、愛を伝えられなかった。そんなに不器用なものなのかと苦笑してしまう位だ。
でも・・・ちゃんと伝わったよ。父さん、母さん。
日記を畳む。空を仰いで、唇をゆっくりと動かす。そこに言葉を乗せて、そこにいるであろう二人に向かって言葉を解き放つ。
「父さん、母さん。・・・大丈夫、愛の気持ち、もう間違えないよ」
これが、今日まで生きてきた俺の答えだった。
『今日の座談会コーナー』
ハーメルンの書体で日記書くのまあまあ難しいんですよね・・・。前にもいろんな作品でやったことがあるような気がするのですが、久しぶりにやってみると結構苦戦しました。
さて、そんな話はおいといて内容に触れましょう。今回は遥の父親が綴った日記をメインに取り上げました。初出ですが、遥の母親の名前は「まなみ」です。書いていてなんですが、遥の父親はまさしく「選択を間違えた遥」って感じなんですよね。面倒くささまでそっくりです。だからこそ、遥は間違えないように生きようと思ったわけですね。
といったところで、今回はこの辺で。
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また会おうね(定期)