凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~遥side~
最後の子供が帰るのを見送って、千夏はようやくこっちに戻って来る。沢山遊んだのだろう。疲れ切って、満足そうな顔をずっとしていた。その笑顔はどこまでも眩しく、みずみずしい。毎日こんな思いでこの場所に来ているのだろう。邪念を持った俺なんて不純物質というほかない。
「お疲れ様」
「やっぱり小学生って元気だね。・・・私も同じくらいの歳の時、ああやって遊びたかったんだろうなって思うよ」
かつてはその体の弱さがために過度な運動をすることを禁じられてきた千夏だ。そこにかける思いは人一倍強いのだろう。
だからこそ目の前の現実の一秒一秒を大切に出来る。それこそが千夏の強さに相違ない。
ひとつ深呼吸を置いて、千夏は何か頼み込もうとこちらを見つめてきた。
「でー、それでなんですけど」
「どうした?」
「今から遥君の家、戻っても大丈夫、だったりする?」
「俺は構わないよ。・・・けど、もう結構暗いぞ? 門限までに二人のところに帰れるのか?」
その返答に、千夏はしばらくの間無言を貫いた。言い出そうか、言い出すまいか。悩んだ末に千夏は強気に踏み込んできた。
「今日さ、二人とも旅行に出かけてて、家に誰もいないの。一人は嫌だからさ、もしよければ、泊めてもらえたりする・・・、かな?」
「マジか・・・。それはちょっと予想外だったな」
夏帆さん辺りが助言したのではないかと思ってしまうが、そんな背景事情などどうでもいい。今考えるべきは、これから俺が千夏とどうするべきか。
・・・なんて、拒む理由なんて何一つないよな。千夏と一緒にいたい。その一心に変わりはないのだから。
「分かった。本来俺があっちに泊まりに行くべきなんだろうけど、これもまた何かの巡り合わせだろ」
「ありがと」
「礼なんていらねえよ。それよりほら、さっさと帰ろうぜ」
気持ちをごまかすための御託はもういらない。自分の心と真摯に向き合うため、俺は何よりも先に行動を起こすことにした。それが俺の好きな「水瀬千夏」の生き方だから。
俺の家に戻るなり、千夏は荷物を抱えてさっさと風呂場に向かっていった。・・・やっぱり、最初っから泊まる気満々だったんだろうな。俺が拒まない前提で来る辺り、とんでもない強かさだ。
・・・まあ、そのしたたかさが好きなんだけど。
その間に俺は夕飯の仕込みを始める。冷蔵庫の中にあまり食材が入っていないが、どうにか組み合わせればなんとかなるだろう。いざという時に簡単に買いに行けないのがこっちの家の不便なところではある。
うんうんと唸りながら、料理を作ってみる。あり合わせで煮物を作ってみるものの、どうもどこかしっくりこない。作り慣れたもののはずなのに、今日はどうも手がすぐに止まってしまっていた。
その時、後ろから声がかかる。タオルで頭を拭きながら、匂いにつられた千夏がこっちにやってきていたみたいだった。
「どしたの?」
「ああ、上がってたのか。・・・煮物作ってるんだけどさ、なんか今日のは上手くいってなくて」
「失敗した?」
「いや、そこまで大げさじゃないんだけど、何か足りないっていうか・・・」
「ちょっともらうね」
千夏はずいっと身を乗り出すなり、お玉で煮汁をすくい上げて味を測った。少し首をかしげて、調味料の棚を眺めて呟いた。
「・・・砂糖」
「砂糖か、分かった」
「あと醤油ももう少しあっていいかも」
言われるがままに俺は調味料を入れていく。しばらく待機、その後にまた味見。そこには先ほどの物足りなさが解消された煮物が出来上がっていた。
「・・・ばっちりだな。サンキュ、千夏」
「いえいえ、どういたしまして。・・・前々から思ってたんだけどさ、遥くんの料理、ちょっと味付けが薄い感じがするんだよね。もちろん、美味しいって前提の上でだよ?」
「んなもん気づいた時に言ってくれよ・・・。そんなことでプライド傷つけるような俺じゃないんだからさ」
確かに「素材の味」にこだわりすぎるあまり最近は味の足し引きが大雑把になっていたような気がする。ここ最近の物足りなさはこのせいか。
そういうことは、誰かに言われないと自覚できない。つくづく自分が一人では何も出来ない存在だと知る。
・・・だから、こうやって傍にいて欲しいって思うんだろうな。
「それより、そろそろ出来上がる感じだと思うんだけど、皿これでいいかな?」
「ああ、助かる。そっちの深い皿はこっち置いててくれ。箸は・・・、ああそう、そこ。テキトーに二膳持ってってくれ」
気が付けば熟年夫婦のようなやり取りで準備を進めていく。昔あの家でそうしていたように、俺たちはまた息の合った連携で食事の準備を進めていた。結局場所なんてどこでもいいものなのだと気づかされる。
・・・あれだけの時間、一緒にいたんだよな。
ふと、脳裏にここまで水瀬家で過ごしてきた日のことを思い出す。上手くいったこといかなかったこと、衝突、和解、そして毎日変わらない日常の連続。その全てが今でも鮮明に思い出せる。
それほどまでに、俺はあの場所を愛していた。そして離れた今、その愛はより大きなものになる。ぬくもりに溢れたあの家が、やっぱりたまらなく愛おしい。
俺はそれと決別しようとしてこの場所にいる。・・・もし、千夏を選ばないのであればもう二度とあそこには立ち寄れないだろう。覚悟はしていても、辛いものは辛い。
俺に、あの場所を捨てる勇気があるか。あの場所で結んだ縁を切り裂く勇気があるか。嫌いになれば簡単だろうが、そんなことを俺は許さない。
そして思わされる。・・・そこが、最後に俺が越えるべき壁なのだと。
もちろん、越えなくてもいい。それが答えという可能性だってあるのだから。
「・・・おーい、手が止まってますよ」
物思いにふけっていると後ろから小突かれた。千夏の抜けた声で俺はようやく現実に連れ戻される。
・・・そうだよな。理屈がどうこうじゃない。俺がどうしたいかだけ、その思いを信じればいいんだよな。
「悪い、準備の途中だったな。んじゃ、さっさと片付けちまうか」
今はこの現実に浸る。理屈じゃない、生きているこの瞬間を。
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食事を終え、身辺を整えて、俺も手短に風呂を済ませる。リビングに帰ってきた時、千夏は随分と眠たそうに眼を細めてテレビを見ていた。時折うつらうつらと船をこぐ。針は十時半を回ったところだ。
「眠たいのか?」
「ん? ・・・まあ、ちょっと疲れたからね。けどこの番組面白いし途中で見るのをやめたくないな。あと、せっかくこんな時間過ごせてるんだもん。一緒にいる時間を、無駄にしたくないよ」
「かといって無理をされてもなぁ・・・」
一緒にいることを大事にしてくれているというのは俺としても嬉しい。けど、そのために体を張るのはどこか違う。・・・義務になってしまったら、その喜びだって半減してしまう。
なら、歩みを寄せるべきは俺のほう。
千夏の俺への思いを信じて、俺は思い切った提案を起こしてみる。
「・・・なあ、千夏。お前さえよければ、ここで寝ないか?」
「ここで? いいの?」
「生憎この家の今の家主は俺でさ、好き勝手する権限も俺にあるんだよ。それにそうすれば千夏が気に入ってるこの番組を途中で切らずに済むだろ」
「・・・じゃ、お言葉に甘えちゃおっかな」
千夏は恥ずかしがる素振りも見せず、客間に出していた布団をいそいそとこっちに持ってきた。それを確認して俺も自分の寝室の布団をリビングまで持って来る。
テーブルなどの邪魔なものを取っ払って出来上がった空間にそれを並べる。
「なんか新鮮だね」
「ああ。・・・少なくともこんなことはやったことないし」
そして自然と布団は隣り合う。引いた布団の上で、千夏はボーっとテレビを見ていた。正直俺にその面白さは分からないが、千夏が喜んでるならなんだっていい。
・・・ただ、この時間だって有限だ。今のうちに、ちゃんと伝えとかないとな。
「なあ、千夏」
「どしたの?」
「・・・言葉選ぶの下手糞だから率直に言うけどさ・・・。・・・俺、近いうちに答えを出すよ」
「そっか。・・・うん、私もそうしてくれるのを待ってたよ」
千夏は少し目を細めただけで、特に表情を変えることなくそう答えた。いつ答えを出されてもいいような準備がとっくに出来ていたのだろう。・・・最後まで時間がかかっていたのは俺だったようだ。
「だから、最後に沢山悩ませてくれ。・・・悩んで悩んで、答えを出させてほしい。あと一週間、それくらいの時間があれば、多分・・・、いや、絶対に出せるはずなんだ」
「私は大丈夫だよ。この髪を切った瞬間から、戦う覚悟は出来てたから」
「・・・そうか」
そう言って千夏は短くした自分の髪をふわりと撫でた。そこには俺の計り知れない思いが眠っていたことだろう。
息を飲む俺をよそに千夏は大きなあくびをした。それからテレビのスイッチに手を伸ばして電源を落とす。
「もういいのか?」
「ここから面白くないコーナーだしね。それに、遥くんがここにいてくれるなら、もう寝ちゃってもいいかなって」
「そっか」
仕方ないなと俺は微笑む。千夏も同じように笑って、しっかりと布団をかぶった。俺も電気を落として、いそいそと布団に潜り込む。
隣り合う布団の方に寝返りを打つ。千夏はそこで、待ってましたと言わんばかりにこっちを向いていた。
それから小さく唇を動かして、声量を落として話し始める。
「・・・ずっとさ、こうしてみたかったんだよね」
「まあ、なかなか出来ないことだしさ」
「それだけじゃなくて・・・。・・・遥くんと、って話」
「千夏・・・」
暗がりの向こうで千夏が顔を赤らめていた。その瞬間、向こうから伸びてきた手が俺の手に触れる。俺は何も言わないままその手を自分の手と絡めた。おそらく千夏がやりたかったことはこういう事だろうと。
それは当たりだったようで、満足そうな笑顔で答え合わせをした。
「どっちかが眠るまで、こうやってつないでていいかな」
「もちろん。・・・でも、これだけでいいのか?」
「うん。・・・ここから先は、付き合ってからのお楽しみだと思ってるから、ね」
そう言って意地悪な言葉を残して千夏は笑った。それから間もなく目を伏せて深い呼吸を始める。
・・・言いたい放題言って寝入りやがって。
なんていう俺もまんざらな気持ちではなかった。どこまでも穏やかで凪のような愛。その心地よさに、だんだんと自分がまどろんでいくのが分かった。
そして意識は、遠く沈んでいく。
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~千夏side~
眠れない。心の奥の鼓動はいつもの二倍、三倍にも高鳴っていた。
・・・ダメだなぁ、私。もっと大胆に行動してもいいって分かってるはずなのに。
遥くんがそれを受け入れてくれると分かっていても、踏み込めない弱さがそこにある。
自分でも恨みたくなるくらいの臆病さ。多分これは一生付きまとってくるに違いない。ひょっとしなくても私の心だ。分かってる。
でも、だからと言って、このままじゃ終わりたくない。
この場所にこうして私がいる意味。それをちゃんと、私の思い出の中に刻みたい。そして出来るなら、臆病な自分の心に抗いたい。
言葉じゃ伝えきれない、「大好き」があるから。
・・・だから、こんな手しか使えないけど。こんな形でしか送れないけど。
眠りについた愛しい人。刹那、その唇に自分の唇を重ねる。
割れて壊れそうなほどの愛を伝えるために。・・・臆病な自分を殺すために。
『今日の座談会コーナー』
終焉と向かっていくこの作品に何を思えばいいんでしょうね・・・。後半があまりにも怒涛の展開過ぎて感傷に浸る暇も中々ないってもんです。
さてお気づきになられている方がどれくらいいらっしゃるかは分かりませんがこの作品はとにかく「対比」に重きを置いて書いています。だから作中、美海と千夏が「同じように」遥に接したシーンは少ないはずです。同じような展開も感情も少ないと思います。よければ比べてみてください。
と言ったところで、今回はこの辺で。
感想、評価等お待ちしております。
また会おうね(定期)