凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
第百七十九話β 全てを壊す刃
~遥side~
電車に飛び乗ったのは、朝早くのこと。最後の最後まで悩みぬいたこの答えにもう迷いはない。あとは、これを早く伝えなけばと思った。
・・・たとえ多くの物を失おうとも、俺は美海を選ぶ。ただその言葉を、伝えなければと思った。
何度も確かめた。俺の本当の居場所はどこか、俺が誰を愛しているか。その答えは、一緒に隙間を埋め合ったあの五年間に出ていたのかもしれない。
けれど、帰るまでは、戻ってくるまではと答えを先延ばしにしているうちに揺らいでしまったのだろう。本当は、もっと早くに出すべき答えだった。
そうして急いで家に帰る道中、俺がこの三日間会いたいと思っていた人物は駅の柱にもたれかかっていた。俺を待ってくれていたのだろう。
「あ、遥?」
「・・・待っててくれたのか?」
「なんとなく街から帰って来るの今日かもって気がしてたの」
「そうか」
いたって無機質なままの表情で、俺は感情を殺して淡々と美海に語る。
・・・本当は今すぐにでも、好きと言って抱きしめたい。だけど、そうするためには俺は抱えすぎてしまっている。
両手にいっぱいの感情と荷物を抱えて抱きしめられるほど、美海はか細い存在ではない。だから俺は、持っていたはずの大切なものを全部手放す必要があるのだ。
それを手放すまでは、俺に愛は語れない。
歯を食いしばって、俺は美海に向き合った。
「・・・悪い、美海。ちょっと今は、話す余裕ないかも」
「そっか。・・・また、あってくれるんだよね?」
「ああ。だからそれまで待っててくれ」
「いいよ、待つ。もうずっと長い事待ってるからね。今更一日二日くらいどうってことない」
美海は悲しみ素振りの一つも見せないで、淡々とそう返した。その善意に今は甘えて、俺は勢いそのままに実家に帰り、急いで荷物をほどいた。
それから三十分くらい経つと、呼吸が落ち着いてきた。俺は震える指を落ち着かせて、電話のボタンを押す。
これから別れを告げに行くことを伝えるために。
「・・・もしもし、保さん」
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水瀬家に向かったのは夜の事。
千夏は今日も学校へ手伝いに行っていたようで、俺は運よく先に二人だけと話すことが出来た。
本当に助かった。・・・千夏へは、この場では語り切れない想いで溢れるだろう。それに、この二人とのやり取りを千夏に見られたくもなかった。
「おじゃまします」
インターホンを鳴らして、俺は水瀬家へ乗り込む。扉を開ける夏帆さんはいつもと変わらない表情、声音で俺を出迎えた。
「いらっしゃい。一人?」
「ええ、ちょっと」
「そっか」
当然のことだけど、知らないのだろう。・・・これから俺が、二人に残酷な答えを伝えようとしていることを。
そう思うと胸は次第に締め付けられる。この人たちを前にして、俺はちゃんと、俺が決めた答えを言い切ることが出来るのだろうか。
けれど時間は待ってくれない。俺は腹を決めて一人で二人の世界へ乗り込む。・・・あてがわれた席に座るのも、今日で最後だ。
対面に座る二人を前に、俺は一度小さく深呼吸を行った。そして頭が冴えた時、保さんと目を合わせていった。
「・・・保さん、話があります」
「ああ、聞こう。・・・でも、そういう事なんだろう?」
俺の目を見るだけで、この人は俺が何を言おうとしているか分かっていたみたいだった。どこまでも寂しそうな瞳に、俺までやられそうになる。
でも、ダメだ。ちゃんとこれを言葉にしなければ・・・!
頷いて、震える言葉を繋ぎ合わせる。
「今日を持って、俺は島波遥に戻ります。・・・ここに『家族のようなもの』として来るのも、今日を最後にします。・・・急な報告で、すみません」
「・・・ついに来てしまったんだな、この日が」
叱ることも抵抗することもせず、ただ全てを諦め、受け入れるように保さんはそう吐き捨てた。夏帆さんは目を反らして少し俯いている。それでも俺は心を無にして続けた。
「これまで長い事お世話になって、こんなことを口にする資格なんて本当にあるかどうか分からないですけど・・・。けど、今の俺の夢を叶えるのに、俺はちゃんと島波遥に戻るしかないんです。二人の子供には、なれません」
次第に感情は氷点下へと落ちていく。
けれど、目の前にはどこまでも温度が下がらない太陽があった。
「そう、か。・・・辛かっただろう、よく答えを出してくれたな」
「・・・っ!」
クソッ、なんでそんな事言うんだよ・・・!
この時、俺は初めて保さんに憤りを覚えた。その憤りの原点は優しさにある。
こんなに最低な行動を行っているというのに、どうしてこの人たちは文句や嫌味の一つも言わないんだ。もっと嫌ったっていいはずなのに・・・!
恨まれれば、もっと楽になると思っていた。だからこそ、この言葉の一つ一つが痛みとなって襲ってくる。優しさは時に毒であると、身に染みて伝わる。
けれど、それで俺が声を荒げることに何の意味もない。逆ギレ、逆恨みもいいところだ。だからせめて俺は、最後まで優等生でなければいけない。
少しでも二人の子供になろうとしていた気があったことを、ちゃんと伝えてここを去ろう。思い出は全部置いていく。
「・・・本当に、楽しかったです。嬉しかったです。二人のもとで過ごせたこと。あの時、救っていただいて本当にありがとうございました」
「・・・それなら」
「夏帆。・・・いいんだ」
俯いたまま、何かを言いかけようとしていた夏帆さんに対して保さんが手を伸ばし言葉をかけて牽制する。俺の決断が揺るがないように、保さんは手を貸してくれたのだろう。その善意がどこまでも痛くて、吐き気すら覚えてしまう。
次第に目頭が熱くなる。ダメだ、泣くな・・・! 泣くな・・・っ!!
ギリギリと音を立てながら歯を食いしばる俺に、保さんは最後の言葉を投げかけた。
「他に何か、言い残すことはないか?」
「・・・約束、叶えられなくてごめんなさい」
「・・・気にするな。これはみんなが選んだ道だ、誰も悪くない。誰も、な」
保さんは表情を見せないまま、そう呟いていよいよ黙り込んでしまった。・・・ここいらが潮時だ。俺はたった今を持って、約束通り島波の人間に戻る。二人は、ただの友人の親だ。
それでもせめて、礼だけは忘れないように。
俺は椅子から立ち上がるなり一度深々と頭を下げ、長年肌身離さず持っていた合鍵を机の上に置いた。
「・・・本当に、ありがとうございました」
「ああ。・・・頑張れよ」
はい、と言ったつもりが、言葉は掠れて音にならなかった。苦し紛れに俺は一度頷いて、二人に背を向ける。崩れかけているその表情を見ることは、今の俺には出来なかった。
少しだけ扉の開いた客間を一瞥する。そこはかつての俺の住処。もう二度と戻ることはない。思い出を閉ざすように、俺は少しだけ開いていた扉を閉めた。
それから玄関の向こうへと歩みだし、家を後にする。少し離れたところで、玄関の鍵が閉まる音が聞こえた。その扉を開けることは、もう二度と出来ない。
その時、積み上げてきたすべての思い出が崩れる音がした。呼吸は二倍三倍に加速し、それに追いついていない胸がキリキリと痛みだす。嗚咽に混じって、涙はあふれ出した。
俺は・・・それほどまでに大切だった場所を手放したんだ。自分の意志で、自分のために。分かってていても・・・辛すぎる。
「俺は・・・俺はぁ・・・!!」
人目のつかない暗い道に出てようやく言葉は現れた。
悲しい。苦しい。そうした全ての感情は今こうしてこの場所で言葉になる。全部吐き出すつもりで、俺はただただ泣き続けた。膝をついて、握りこぶしを地面にたたきつける。
憎まれてもおかしくないと思っていた。むしろ憎まれた方が踏ん切りが付けれると思っていた。あの場所は、利己的なことしか考えていなかったんだと思い込むことが出来た。
それだというのに、恨みどころか怒りの言葉すらなかった。あの場所は俺が信じていたように、最後まで優しさに溢れた場所だったのだ。
俺は、そんな大好きな場所を切り捨てた。思い出に火をつけて焼き払おうとしている。心は今も、あの場所を思ったまま。
愛を越えるために失うものの重さは、自分が想像している以上のものだった。
けれど、これですら第一歩。俺が美海と歩き出すためには、まだまだ失わなければいけないものがたくさんある。
正直、もうたくさんだ。精神的に参ってしまうのも時間の問題かもしれない。休みたいと思ってしまうが、そうする猶予なんてない。進んでしまった道は、もう引き返せないのだから。
だから、俺は残酷な刃を周りに振り続ける。ただ一度、大好きというその瞬間の為だけに。
『今日の座談会コーナー』
分かっちゃいるんですけど、いざ文章に起こしてみると結構辛い事ばかりですね・・・この√。まず第一に切り捨てるべきなのが水瀬家との関りという訳ですから。自分を肯定してくれた場所を真っ先に否定し、また一人の道に戻る。決断してもその心は辛いと思います。・・・が、こんなところじゃ止まりませんよこのルートは。ぜひ最後までお楽しみください。
といったところで、今回はこの辺で。
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また会おうね(定期)