凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~遥side~
今日一日の仕事を終え、俺は家路に着く。病院からは凡そ歩いて十五分くらいのところにあるアパートは、鷲大師にもそう遠くない。我ながらいいところを選んだと思う。
今の家に引っ越してからは、人と会う回数も少なくなった。遠くないとは言ったものの、鷲大師からは少し外れたところに住んでいるのが大きいだろう。
けれど今日は人に出会ってしまう。それも、とびきり因縁の深い相手に。
「あっ・・・」
かつて俺が親と仰ごうとした存在。保さんは俺の目の前で車を止めた。
「久しぶりだな、遥くん」
「お疲れ様です。今から帰りですか?」
「いや、今日は仕事が休みだったからな。気分転換に車を走らせてたんだ。・・・よければ、どうだ?」
あの頃と何一つ違和感のない態度で、保さんは自分を曝け出してその領域に俺を誘った。
この人と話すのは久しぶりだ。話したいこともいっぱいある。
ただそれだけを思った俺は、迷わず車に乗り込んだ。
カーラジオも、音楽も流れない静かな空間が車内に広がる。俺がかつて愛し、馴染んだ時間だ。今はただ、それを懐かしむことが出来る。
地面と摩擦を繰り返し続けていたタイヤが一度止まった時、口を開いたのは保さんだった。
「遥君が社会人になってからもう四カ月くらいか。カウンセリングの仕事はどうだ?」
「随分と慣れましたよ。・・・けどやっぱり骨は折れますよね。自分の言葉が相手に影響を与えるという事を常に頭に思いながら話をしないといけないですから」
「それが分かっているうちは大丈夫だろうな。それを理解せずに、ただ無責任な発言ばかりを繰り返す人間が、社会にどれだけいることか」
「影響力のある立場ならではの悩みですよね・・・」
保さんは漁協の中でもかなり発言力が強い立場だと聞いてきた。現に八年前のあの会議の場を諫めたのも保さんだ。自分の立ち居振る舞いには人一倍敏感なのだろう。
親だったとか、大切な人だったとか、そういう感情を抜きにしても、この人の話は一人の大人の意見としてとても俺の糧になってくれている。だからまっすぐに聞いておきたかった。
「責任が強くなればなるほど、周りの視線を気にしないといけなくなる。それが負荷になることも、遥君は知っているだろう?」
「ええ、分かってます。だからこうやって誰かに打ち明ける時間が必要なだってことも、知っています」
「そうか、ならいいんだ」
俺がちゃんと成長していることを確かめて、保さんは少し名残惜しそうに笑った。・・・そう。もう、この人の下じゃなくても成長していける。それを言葉と態度にして俺は示した。それが、この人たちとの関りを捨てた俺に出来る事だから。
そう思い、俺は屈託ない笑みを貼り付ける。
それでもどこか異様な空気が流れる空間に、俺は違和感を覚えた。・・・発生源は、俺じゃないはずだ。
答え合わせはすぐ後のこと。保さんは心の穴を触りながら、結論から言葉にした。
「・・・千夏を、救ってくれないか?」
「え?」
「すまない、君にこんなことを頼める立場じゃないというのに」
保さんは空いた片手で頭を抱える。それからようやく言われた言葉の意味を理解した。
・・・俺が千夏の違和感に気づいているというのだ。両親である二人が気が付かないはずがない。
「やっぱり、二人から見ても今の千夏は変、なんですか?」
「ああ。・・・最初は気づかなかったが、この一年間のあいつはどこからどう見ても空元気を続けてきただけだったんだ。その上、不満だとか自分の弱みを打ち明けなくなった。・・・俺たちだけじゃ、もうどうにも出来ない」
それを伝えている相手が、千夏がそうなった原因である存在だという自覚は、果たして保さんにはあるのだろうか。
今の千夏がこうなっているのは、俺たちの関係がだんだんと歪になっていることに起因している。
・・・多分、千夏からは「上手くやっている」としか聞いていないのだろう。空元気を続けるあいつならそれをやりかねない。
残念だが、真実はどこまでも非情だ。今のままではどうやっても戻ることは出来ない。この歪な関係に終止符を打たない限りは。
それを包み隠さず、俺は保さんに答える。
「あいつとは、長いこと友達としてやってきました。だからもちろん、困ってるなら助けたいし、歪んでいるのなら前を向かせてやりたいと思ってます。・・・でも、もし歪んだものをもとに戻すために友達をやめなければならないのなら、俺はそうします」
「・・・そうか」
「もとはと言えば、全部俺が原因なんです。あいつを歪めてしまったのも、ここまで拗れてしまったのも。違和感に気づいていながら、気づかないふりをしてたんです。突き放すことも、向き合うことも、しなかった・・・」
懺悔に心が痛む。何もそこまで言う必要はないと分かっていながらも、これから俺が責任を取るためには、まずはその全てを打ち明ける必要があると思った。
俺は、あの日から逃げていた。千夏の存在をなかったものにしようとして、どうにかのらりくらりと毎日を紡いでいた。
けれど、それで誰も幸せにならないというのなら、俺は今度こそ千夏を突き放す必要がある。決断に美海が悲しもうとも、それが俺たちのためにならないのなら、俺は千夏を「敵」と定める。
愛を捨てた気でいながら、俺はまだ、それが手元に残っていて欲しいと願っていたのだ。・・・そんな甘い覚悟じゃ、俺は美海に、俺に顔向けできない。
帰ってくると信じるのは突き放してからのこと。今はただあいつを敵として、俺たちの世界から排除する。
「・・・保さん。俺はこれから、千夏に酷いことをするかもしれません。暴力は絶対にしないですけど、多分、傷つけてしまうと思います。関係だって保さんが望むようなものにはならないでしょう。・・・それでも俺は、あいつを救おうとしていいんですか?」
「君にしか出来ないことだ。・・・何より、君にはそうするだけの理由があるんだろう? 俺たちは何年も遥君のことを見てきた。だからその行動を信じる」
「・・・ありがとうございます」
この人の優しさを俺への罰と思うことも、もうなくなった。
だから遠慮などしない。千夏から言葉を聞きだした上で、その上で俺は、千夏を突き放す。・・・その先に、これまでと同じような関係構築が出来ればいいけれど、そんなものはしょせん夢物語に過ぎない。
あの日約束したように、俺においての最大はいつまでも美海だ。その障害のなるのであれば、容赦などしない。
あいつが俺たちの世界に本当の姿で帰れるなら、それに越したことはないが、そうならなくても俺たちは生きていく。・・・信じてはいるが、裏切られても嘆かない。
「さて、そろそろ遥君の家の近くか。どうする?」
「ここら辺で降ろしてもらっていいですか?」
「分かった。それじゃまた何かあったら話してくれ」
保さんは道路の脇に車を止め、俺は下車して遠ざかっていく保さんの車を見送った。
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夏だというのに、肌に染みる夜風は冷たい。
けれど、遠目に見えるアパートの明かりに、俺の心は温度を覚えた。今日も美海が来てくれているみたいだ。
歩調を少し早くして、急いで家へと戻る。ドアを開ける前から良い匂いが漂っていた。
「ただいま。・・・サンキュな。晩御飯作ってくれて」
「ううん。好きでやってることだから。それより、次の休みは明後日だっけ?」
「ああ」
そんなやり取りを玄関でした後、俺は自室に荷物を放り投げる。それからリビングのソファに座って、ぼーっと白塗りの壁を見つめた。
その様子がおかしかったのか、料理の片手間で美海が声を掛ける。
「疲れた?」
「まーな。樹の件、まだまだ時間がかかりそうだし」
「ああ、あの昔の遥そっくりの」
「昔の俺にそっくりってことは、どうすればいいかそれだけ分かってるってことなんだよ。・・・んでもって、あの状態から前を向いて進みだすには結構な時間がいる」
前を向き、ましてや進みだす。それが一年二年で済む話かどうか・・・。
そんな風に思い悩んでいると、ふと首筋に冷たい感触が伝わる。料理にひと段落ついた美海の手だ。
「冷たっ!?」
「遥はどう? 進みだして、どこまでたどり着いた?」
「んー・・・。どこまでたどり着いたか、なんて言われてもなかなか実感は湧かねえよな。ただ、少なくとも去年美海と結ばれたあの日からは確実に進んできた。自分を卑下しまくる癖だって治ってきたさ」
「そうだね。罪悪感とかはまだ抱えてるだろうけど、遥はちゃんと自分のことを思って動けるようになったと思う。自分のこと大事にしながら、千夏ちゃんの両親とも、千夏ちゃんともうまくやれてるしね」
「・・・まあ、な」
二人はともかく、千夏は別だ。和解こそしたけれど、何一つ変わっちゃいない。
それを美海に伝えるべきかどうか俺は悩んだ。これから千夏を突き放そうとしていることを、今この場所で言っていいのか。
けれど、逃げないと決めた。それは紛れもない俺のために。
これから千夏を突き放そうというのだ。それを何の事前相談もなしに行いたくない。ちゃんと二人で選んだ結果として、俺は自分の行動に責任を持ちたい。俺の為であって、俺たちの未来のためなのだから。
だから、俺は覚悟を決める。水で冷えた美海の手を取って、決意を構えて言葉にした。
「美海、聞いてくれ」
「? うん」
「俺は・・・千夏と友達であることを、止めようと思う」
『今日の座談会コーナー』
優しさが正しさではない、とはよく言ったものだと思います。分かってはいても、自分の好きな人には嫌われたくなかったりとかそう思ったりすることはよくあります。けれどそれがお互いのためにならないなら、人は「正しく」あるべきなんです。怒りや不満をぶつけることが「負」のものだとしても、それが正しさである場面は必ずいつか現実世界でもおこるんじゃないですかね。
といったところで、今回はこの辺で。
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また会おうね(定期)