凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~遥side~
それはなんの変哲もない平日の夜のこと。学生たちの夏休みが始まろうとするほんの数日前のこと。
仕事帰りに寄り道をして、俺は海を見渡せるいつもの堤防へ向かった。昔から千夏はことあるごとにこの場所に来る。俺という存在が手元から離れた今でも、懐かしむようにその場所に佇んでいることがある。
そして今日もまた、千夏はそこにいた。海の学校の手伝いの帰りだろうか。仄かに濡れた髪がそれを物語っている。
俺が声を掛けるより早く、千夏は俺の存在に気が付いた。
「あっ、遥くん。どしたの? 今日は」
「いや、仕事帰りの寄り道だよ。これから帰る所」
「そっかー。社会人はやっぱり大変?」
なんてことないはずの単純な質問ですら癪に思えてしまう。俺の知る千夏はそんなことを聞かなくても俺がどう返すか分かっていたはずだろうに。
ただ会話のきっかけを作ろうとしているだけかもしれない。・・・けれど、そんな生産性のない会話に何一つ意味がない事を、千夏は知っているはずだ。
心のどこかで、それに気が付いてほしいと願っていた俺は、一応話を合わせることにした。
「大変っちゃ大変だよ。ただそれ以上に毎日が充実してる。困難ばかりだった人生だから分かることって沢山あってな。そんな俺だから、同じ悩みを抱えてる人間と歩幅を合わせて歩いていけると思うんだ」
「ほんと強いよね、遥くんは」
その時、全てがダメだと悟った。
むやみやたらに「強い」という言葉を使うなと昔諫めたのは千夏の方だった。それなのに、空元気を貼り付けた今の千夏はもう、言葉の重さも理解できていなくなっている。・・・それは、誰も望んでいないはずだ。
だから・・・ここが終着点。
悩んでいたはずだったのに、決心は急に固まる。今の千夏は俺たちの世界にとって・・・邪魔でしかない。
冷めた心は言葉を吐いた。
「・・・千夏、お願いがある」
「ん? 何?」
「・・・もう、俺たちに関わらないでくれ」
予想だにしていなかったその言葉に、千夏は少しだけ眉をひくつかせて、動揺に溢れた声音で尋ねた。
「な、なに言ってるの・・・?」
「関わらないでくれって言ったんだ。・・・今のお前といても、誰も幸せになれない。・・・もう、友達でもなんでもなくていい」
「おかしいよ!? 急にそんなこと言うなんて! 本当に遥くんなの!?」
「この街に義足を付けた奴は俺しかいないだろ?」
そして、そうしたのもお前だろ? 分かっているのに、現実から逃げるようなことを言うなよ・・・!
千夏はわなわなと震えて怒れる瞳を俺にぶつけた。心を鉄にした俺は逃げることなくその目に向き合う。
「・・・なんで? なんでそんなこと言い出すの・・・!?」
「それをお前が分かってないから、こうなったんだよ。・・・お前は友達だったよ、確かに。だけどそれは昔の話。・・・そうだな、さっき千夏は俺のこと本物かどうか聞いたろ? 俺からも言わせてくれ。今のお前は、誰なんだよ」
「・・・っ!」
こんな空元気に身を任せ、周りが見えなくなるような奴は、俺や美海の知る水瀬千夏じゃない。似て非なる誰かにすぎない存在だ。
俺は、そんな奴と友愛を結んだ覚えはない。
「無理やり張ったような笑みも、空回りばかりの会話も、正直もううんざりなんだよ。・・・お前、そんな奴じゃなかっただろ」
「・・・分からないよ。分からないよ! 私だって、毎日懸命に生きてて、振り落とされないように頑張ってるのに!」
「だとしたら、振り落とされないために自分がどうすべきかを履き違えてる。お前は、そんなことも分からないような奴だったか?」
履き違えた優しさは毒。今の千夏は、自分が大切にしている優しさが毒だということを知らずに振りまいている。最終的には周りも自分もその毒にやられて終わりだ。
俺は美海と幸せになりたい。だから、こんな毒が周りにあるというのなら、排除しなければならない。
一番いいのは、千夏自身がその毒に気がつくことだが、もう待つには遅すぎるだけの時間を費やした。これが最後のチャンス、ヒント。それでだめなようなら、一人で頑張ってもらうしかない。
千夏は自分の感情に整理がつかないまま、ポツリと呟いた。
「・・・なんか、変わっちゃったね。遥くん」
「変わった? どこが?」
「私の知る遥くんはもっと優しかったよ。こんなこと言う人じゃないって信じてた。・・・なのに、こうなっちゃうなんてね」
頭の方の血管が、一つプツリと切れたような気がした。
次第に苛立ちが体を支配する。俺はそれを喉元でなんとか引き留めた。こんなところで感情的になって声を挙げても、何の意味もない。
だから、出来るだけ感情を抑え込んだ声で、俺は千夏に問いかける。
「・・・千夏の言う優しさってなんだよ」
「それは・・・」
「下手に出て周りの人と接することか? その人を傷つけまいと努力することか? ・・・お前は、それを本当に優しいと思ってるのか?」
「・・・」
「いい加減にしろよ、お前」
いつまでも続く的外れな言葉に、いよいよ感情が昂る。俺や美海が思う以上に、今のこいつは壊れている。自分たちの世界に戻ってきてくれれば、なんて思っていた自分がバカに思えてしまうほどに、今の千夏には嫌悪感を覚えてしまう。
失ってしまえば、もう二度ともとに戻ることはないだろう。・・・それでも今の俺は、それでいいと思った。
こんなどうしようもない毒をいつまでも友達だと思っていられない。
けれど、千夏はここまで言われても主張を譲らないみたいだった。
「・・・嫌だよ。私、まだ友達でいたい」
「あのなぁ・・・」
「そうだ、美海ちゃんは? なんて言ってるの?」
そこに救いを求めようとする姿がまた惨めで、俺は歯を食いしばり感情を無にして呟いた。
「俺と同じだよ。今の千夏には、関わって欲しくないって言ってる」
「そん、な・・・」
「だって千夏。・・・俺たちの事、祝福なんてしてないだろ」
千夏は、度々俺たちのことを応援するだとか祝福するだとか言っていた。
けれどそれは空元気の上での話。本心なんてそこには存在していなかった。
どうやらそれは当たりだったのか、千夏は目元を隠しながら俯いて答えた。
「そう、なのかもしれないね。遥くんから見てそうなら、多分今の私ってそうなんだと思う」
「千夏・・・」
「認めるよ。私、おかしくなっちゃってるね。もう私が私のこと、分からなくなってる。どこがおかしいのか気づけないけど、おかしくなっちゃってるんだ」
顔を上げて笑う。その顔に浮かんでいたものは空元気の作り笑いなどではなく、悲痛に塗れたはかなげな笑みだった。狂った歯車に嘆くその表情は、少なくともあの日から一度も見ていなかったものだ。
「・・・一週間」
「あん?」
「一週間だけ、チャンスをくれないかな。そこまでに、私はちゃんと私に戻るから。・・・その上で、二人の友達でいられるかどうか、もう一回考えさせてほしい」
「・・・ああ、分かった」
それから俺は千夏に背中を向けて歩き出す。言いたいことは言った。ある程度の答えまでたどり着いた。それは俺たちが真に望むものではなかったけれど、ちゃんと伝えきったんだ。満足している。
一週間、本当に短い期間だ。
だけど、最後にもう一回だけ、俺は、俺たちは千夏を信じてみる。
だからそれまでの間・・・心からのお別れだ。
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~千夏side~
遠くなっていく背中を見送ったあと、私は胸を抑えてその場に崩れ落ちた。
痛い。苦しい。呼吸が乱れて頭が痛い。目がちかちかして、時折色を失くす。
私、どうしてたんだっけ。私は何を思って生きていたんだっけ。遥くんが、美海ちゃんが望んでる私って、どんな人間なんだったっけ。
問いかけても誰も助けてくれない。そしてまた孤独の海に沈んでいく。
迷惑をかけたくなかった。暗い感情を抱えて生きてても幸せになれないから明るく振舞うのなんて、誰だってやってるでしょ?
なのに・・・。
「どうすればいいの・・・?」
突き落とされた井戸は深く深く、地上の光は見えない。誰の助けもない世界で、私はどうやって這い上がればいいの?
感情の逆流で、心がまた痛む。苦痛は想像より遥かにひどく、吐き気も覚える。
「帰らなきゃ・・・。こんなところにいても、変わらないでしょ・・・」
ぶつぶつと呟きながら立ち上がる。棒のような足を動かして、家へ帰る。
・・・あ、でも、こんな顔じゃ二人に心配されちゃうよね。
力を振り絞って、口角を上げる。そうすれば少しだけ心が落ち着いた。
そうしてまた、私は私に帰る。あの日からの私に。
『今日の座談会コーナー』
主人格が狂っていくシーンって書くの結構難しいですよね・・・。記憶を失っていた千夏とかも結構書くのには苦戦した覚えがあります。さて、ここからどう落としどころを作るか・・・。草案自体は出来ているんですけど、最後の最後まで迷ってしまいそうで。ただ、βはβらしく、αとは違う雰囲気のアフターを展開していきますので、もう少しの間お付き合い宜しくお願いします。
といったところで、今回はこの辺で。
感想、評価等お待ちしております。
また会おうね(定期)