凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~聡side~
この街に来たのは、ちょうど半年前のことだった。
なんてことない、海村が近いのどかな街。少なくとも、僕が住んでいた以前の街なんかよりは静かだし、そして住みやすそうだと思った。
ただ、そんなことを考える余裕はその時の僕にはなかった。
当時の僕は、逃げるように前の街を出た。理由はなんてことない。結婚を控えていた彼女の浮気が原因だ。
これからもっと幸せになれると思って浮足立っていた矢先に訪れる絶望。それでも、なんとかつなぎとめようと思った僕は、彼女に聞いた。何がダメだったのか、やり直せないのかと。
彼女からの回答は、こうだった。
「あなたは優しすぎるだけで・・・つまらないのよ。せめて私は、もっとあなたの我儘が見たかった」
それは、修復不可能のサインでもあった。
慰謝料だとか、裁判だとか、そんなものはもうどうでもよくて、最低限の荷物と金だけ抱えて、僕はあの街を抜け出した。両親には悪いと思うけど、こんな醜態を晒して今更どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
そして、流れ着いたのがこの街だった。
とはいえ、遊びに来たわけじゃない。生きていくためには食い扶持も必要だと仕事を探して回って、最終的にたどり着いたのはこの街近辺の運送会社だった。
よそ者の僕を、何の偏見もなく受け入れてくれたのは、この場所が最初だった。それが嬉しくて、僕はここに尽くそうと腹を決めた。
そして、この街での最初の夏が来た。
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日差しの照る朝八時頃、少し早く着いた僕は会社の門周辺を掃除していた。
挨拶は好きだ。交わすことで、誰かと繋がっている気分を味わえる。・・・といっても、この会社の従業員、ざっと五人くらいしかいないけど・・・。
そして一番最初に入ってきたのは社長だった。
「おはようございます、社長」
「ああ、おはよう松原君。・・・暑いのに精が出るねぇ」
「いえ、好きでやってることなので」
それに潮風もあるから、この街の夏の方がよっぽど涼しい。遠くに見える海も、また綺麗だ。
サッサと箒で掃き続けていると、社長は思い出したように声を挙げた。
「あ、そうだ松原君。君宛に手紙が来ているんだが」
「僕宛に、ですか・・・。それ、ひょっとして美浜って名前の差出人じゃないですか?」
「・・・すごいな、正解だが」
一番聞きたくなかった名前を聞いてしまい、少し唇を噛みしめ、表情を歪ませてしまう。忘れるためにここに来たのに、一体どこでこの場所を嗅ぎつけたのだろうか。・・・ひょっとして、僕の両親かもしれないな、全く。
「で、この美浜って言う奴は誰なんだ?」
「・・・婚約直前に浮気で別れた相手ですよ」
「そうか。・・・なんか、悪いことを聞いたな」
「いえ、終わったことなんで」
ただ、この手紙の中身はひょっとしたら美浜が復縁を迫る内容なのかもしれない。ああいう奴だ。浮気相手と上手くいってる保証はない。・・・万が一、普通に上手くいっていて、結婚式の招待なんてことをやられたら、ホントに大したもんだけど。
期待しないまま、僕は手紙を受け取る。別に欲しくもないし、今すぐ破り捨てたいところだけど、せっかく社長が預かってくれていた手前、無下にすることはしたくなかった。
「それよりどうだ、ちょうど今日で半年くらいだったか、松原君がここにきて」
「本当にいいところですよ。さっきの件もありますけど、ちょっと都会の喧騒に疲れていたところなんで。・・・なんかこう、肌に合うって言うか、ずっと昔からここにいたような気分になれるって言うか」
「そうか。この会社はどうだ? 君の期待に沿えているか?」
「沿えるもなにも! ・・・本当に感謝してるんです。流浪ものの僕を拾ってくれて。もうちょっと拒絶されると思っていましたから」
この街ではないけど、この近くにあった海村が街を閉ざしていたことは何度もニュースで見ていた。だからもっと排他的で封鎖的な街でもおかしくないと腹は括っていた。
ただ、この街は僕の想像するより遥かにいいところだった。
まだ、海の人とは出会ったことがないけれど、おそらくきっとこの街の人と何も変わることはないだろう。自分を中心として、周りの環境は変わっていくのなら、鷲大師の様子から、海村の事情を把握できる。
「それより、そろそろ時間だ。掃除を切り上げて中に入らないか?」
社長が腕時計を一瞥し、俺にそう告げる。正直物足りないけれど、こんなことはいつでもできることだ。ただ・・・。
「あれ、他の社員は今日は来ないんですか?」
「磯村は今日休み、室戸が外回りですでに現地に行っていて・・・、伊勢は遅刻だな、こりゃ」
「またですか、あの人・・・」
僕の四つ上の先輩にあたる伊勢さんだが、どうしてもこういうところがあるみたいだ。親身になって話は聞いてくれるし、人当たりもよいけれど、いかんせん就業態度に難ありで、社長も困っているらしい。
「その気になれば一番仕事が出来るから雇ってはいるんだけどな・・・。まあいい、今日は件数そこまで立て込んでいないからな。最悪最初二人でも回る」
「分かりました。それじゃ行きましょう」
社長に促されて、会社の屋内へ入る。自分のデスクについて、卓上のカレンダーを捲った。今日は8月2日だ。
朝礼という朝礼は特になく、社長は淡々と今日の業務を言い渡す。それを確認して、僕はトラックの準備に取り掛かろうとする。
その時、ついさっき手渡された手紙のことを思いだした。・・・今見るべきじゃないような気はするけれど、その中に何が書いてあるのか、ただそれだけが気になって仕方がなかった。
今更どうするつもりもないけれど・・・、そう思って封を切る。
中身は・・・まあ、予想通りだった。
浮気をして手に入れた彼氏と別れたこと、それ以降人が寄り憑かないこと、ただそんなことが延々と書かれていた。そして最後には、復縁したいという希望を綴っている。
・・・今更帰ったって、また同じようになるだけだ。僕が美浜の傍にいる必要はない。そっちの方が多分互いの為だろう。
手紙をロッカーに仕舞って、今度こそ僕は車庫の方へと向かった。
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整備を終え、荷物の確認を終えるころ、遠くから人影が近づいてきた。伊勢さんがやっと職場にやって来たみたいだ。
「うぃーす、おはよ」
「おはようございます。・・・また寝坊ですか」
「またってなんだよ、今月はまだ一回目だぞ」
「今日がまだ今月始まって二日目なんですけどね」
8月2日で一回遅刻なら、同ペースだと15回は遅刻することになる。この人なら本気でやりかねないのがまた頭が痛くなる話だ。
「で、どうしたんだ? 浮かない顔して」
「えっ?」
急に振られたその話に思わず硬直する。意識はしていなかったけど、そんな表情を浮かべていたという事だろうか。それとも、この人の観察眼が優れているだけなのだろうか。
「・・・ちょっと、旧縁から嫌な手紙がありまして」
「女か」
「女です」
伊勢さんは神妙な顔つきでうんうんと頷いた。自分の経験からか、はたまた人からの伝聞での知識か、僕の話に理解を示した。
「ちゃんと分かれたはずなのに、意外としがみついてくるんだよな。何回そんな目にあったことか」
「さすが自称プレイボーイ」
「自称じゃねえよ、周りが勝手にそう言ってんだ。大体、自分からプレイボーイって名乗るのはダサすぎるだろ」
「そうですね」
などと雑談をしていると、まだ屋内にいる社長と目が合った。それは伊勢さんも感じ取っていたようで、「やべっ」と小さく呟いて、駆け足で建物に向かっていった。
「早く行かないと社長にどやされるし、俺は行くわ」
「分かりました。・・・といっても、どやされるのは確定ですけど」
「それでも、ここで道草喰って罪の上塗りをすることだけはしないようにするよ」
手をひらひらと振りながら遠ざかる伊勢さんの背中を見送って、僕はトラックに乗り込む。エンジンをかけ、車外カメラの電源を入れ、シートベルトを締める。
ここから先、私情は無し。今はただ目の前の仕事に集中する。
前を見て、アクセルを踏む。スピードを出しすぎてしまうと後々怒られることは分かっているから、極力暴走しないようにメーターも確認する。この街は歩道がないところもぼちぼちあるから、気をつけないと・・・。
と、いちいち神経質になりながら僕は目的地を目指して走る。会社から離れると、海を左手に移す緩やかな下り坂がやって来た。近くの歩道には少女が歩いている。
・・・え?
ふと、視界がおかしくなったかと思った。世界がスローモーションになったような気がした。
けれど、間違いない。少女は歩道を越えて、車道へ倒れこんできた。意識を失っているのか、持ち直す様子もない。
「まずいっ・・・!!」
精一杯の力でブレーキを踏み、サイドブレーキを引く。空いた手で車を右によけようとハンドルを回す。
それでも、遅くなっていたのは僕の体感の世界だけ。世界の時計の巡りはいつも通りで・・・。
トラックは無慈悲に少女にぶつかった。
『今日の座談会コーナー』
松原聡という人間は、島波遥とは似て非なる存在なんですよね。別に幼少期に親を失っているわけではないので、性格の尖りの部分は小さいですが、根本的な自己犠牲の部分だとか、根は誠実な部分だとか。だから、お互いの小さな差異をこの外伝では楽しんでほしいです。・・・いや、なんで外伝書き始めたんでしょうね。どんだけこの作品が好きなのか・・・。
といったところで、今回はこの辺で。
感想、評価等お待ちしております。
また会おうね(定期)