凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~聡side~
あの一件から千夏ちゃんは生きることに随分前向きになってくれたみたいだった。だからこそ僕も後ろから背中を押されるような気分を味わうし、それに殉じたいと思うようにもなる。
やる気があればなんでも出来る、とは過言に思えるかもしれないがその通りで、千夏ちゃんは事故から二か月もしないうちに自分の足で立てるようになった。歩くためにはまだ補助が必要だったりするが、それでもこれは大きな一歩だ。
そうして、僕と千夏ちゃんは一歩ずつ前に進んでいる。
・・・けれど、それじゃダメなんだ。僕と千夏ちゃんだけが前に進むだけでは。
心に霞が見え始めたある日、いつも通り千夏ちゃんのリハビリに向かおうとしていたその時、ふと後ろから僕の名を呼ぶ声があった。・・・思えばそれは、この場所では初めてのことだったかもしれない。
「松原さん、少々お時間、いいですか?」
「夏帆さん。・・・お仕事の休憩時間ですか?」
「はい。一時間ほど。・・・それで、いいですか?」
「いいですよ、付き合います。幸い、僕も今日は休みですし」
千夏ちゃんが目覚めてからも何度かこの人たちとも同じ時間を過ごしているが、千夏ちゃんが目覚めるより二人の関係は悪化しているし、二人ともずっと浮かない顔を続けている。・・・僕は、この人たちにも前に進んでほしかった。
だから、今日、この時間は僥倖だったのかもしれない。
スタスタと進んでいく夏帆さんの背中を追いかけながら、僕は同じくらいのスピードで付いていく。追いつくことがないよう、追い越すことがないよう。
そして誰もいない、鈍く光る秋の曇天の屋上で夏帆さんは立ち止まる。
「ここなら、多分、誰も来ないでしょうから」
「そうですね。・・・せっかくだし、座りましょうか」
きっとこれは、長話になるだろう。・・・というより、抱えている暗い感情を、簡単な、手短な言葉なんかで片付けて良いはずもない。
僕の言葉に納得して、夏帆さんは人1人分のスペースを開けて僕の隣に座る。それから二、三回呼吸を挟んで、僕に語り掛けた。
「・・・松原さん。今のあなたにとって、千夏は何ですか?」
「何、ですか・・・」
「分かってるんです。あなたは精一杯千夏のためになろうとしてくれている。そして、私たちの事も思ってくれている。・・・だけどもし、千夏がちゃんと回復したら、その先はどうするんですか? まだ、あなたからその答えを聞いていません」
「それは・・・確かに、まだ言っていなかったですね」
夏帆さんは悲痛な目をして空を仰ぐ。おそらく、裏切られた過去に心を痛めているのだろう。・・・誰も悪くなかったとしても、夏帆さんが裏切られたという気持ちを抱くのは、不自然な話ではない。
「もし、何も考えることが出来てないのなら・・・もうこれ以上、私たちに近づかないでください。安易に、あの子の人生に関わらないでください。いっそ、忘れてくれた方が、私たちも楽でしょうから」
その言葉は、いつか聞いた言葉の裏側の世界だった。
島波さんは、償うことを「忘れないこと」と言った。だけど、償われるべき対象のこの人たちは、「忘れられること」を望んでいる。傷が広がらないうちに。
・・・忘れるなんて、出来るはずがない。
今日までこの街で過ごしてきた日々が、空っぽだった僕を満たしてくれた。その恩は簡単に捨てられるものではない。
それに、こう言われると益々思ってしまう。僕が思う以上に千夏ちゃんに惹かれているということを。
ただ、それを口にしてこの人が許してくれるかどうか、だけど・・・。
「夏帆さん、最初の質問、お答えしていいですか?」
「はい」
「僕にとって千夏ちゃんが何なのか、ですけど・・・。はっきり言います。僕は今、とても千夏ちゃんに惹かれていますよ」
「え?」
僕の答えがあまりにも真っすぐ過ぎたのか、しばらくの間夏帆さんは呆気にとられた表情をしていた。良いも悪いも言わないまま。
「できれば、事故なんてきっかけなしに、僕は千夏ちゃんに出会いたかったです。・・・あんなに素直な子だって事、もっと早くに知っていたかったですよ」
「出鱈目を言ってる?」
「これがあ出鱈目に見えますか? ・・・それにまだ、夏帆さんには僕が罪悪感だけで千夏ちゃんに接しているように見えますか?」
「・・・」
その沈黙は、否定を物語っていた。
二人でいる時間は、僕が今過ごしている毎日の中で一番楽しい。事故というきっかけがない出会い方をしたかった。これらの感情は、全部、全部、本当だ。
あの日虚ろな目をして現実を呪った僕は、今はもうここにはいない。僕は心から千夏ちゃんに惹かれて、千夏ちゃんのことを知りたいと思っている。
・・・好き、なんだ。絶対、間違いなく。
ただ、それを伝えるためにはどうしても被害者と加害者という垣根を越えなければならない。事故によって生まれたすべての哀しみを克服しなきゃならない。
だから今、こうして中途半端なところで立ち止まってしまっているんだ。
「分かってますよ。今、安易に千夏ちゃんに好きだと伝えてはいけないこと。それがみんなをかき乱すことは知っています。・・・だけど、僕のこの気持ちに嘘はないんです。・・・やっぱり、怖いですか?」
「怖い、に決まってるじゃないですか。・・・過去って、そう簡単に拭えるものじゃないんですよ。・・・あなただって、いつ心変わりをするか」
瞳は常に後ろを向いて、現実のいる前の方を向こうとしない。
それにだんだんと腹が立ってきて、呆れた僕はつい口を滑らせてしまう。
「・・・千夏ちゃん、困ってますよ」
「あ・・・」
「この間、千夏ちゃんがこんなこと言ってたんですけど・・・聞きますか?」
頷いた夏帆さんに、僕はゆっくりと先日のことを語りだす。
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~過去~
足が動くようになった千夏ちゃんは、もう曇った瞳を浮かべることはなかった。明日はどこまで行けるかと、ワクワクしながら日の出を待っている旅人のようだ。
目を窓の外の夕焼けに向けて、千夏ちゃんは僕に語り掛ける。
「あーあ、早く退院したいんだけどなぁ」
「ご両親のことは、いいんですか?」
「・・・あー、そう言えばそうでしたね。なんかもう、すっかり忘れてて」
どうやらそれは本当のようで、千夏ちゃんは悪びれる仕草の一つも見せなかった。目の前ばかり見ていると、周りのことなど気にならなくなるみたいだ。
「お父さんとお母さんには悪いけど、私もう、遥くんの事どうでもいいんです。そりゃ、大切な友達だけど、それまで。悔しいとか、大好きだとか、そんな気持ち、もうないんですよ。・・・ただ、まだそれを伝えられてなくて」
「伝えても二人がはいそうですかって分かってくれますかね?」
首を横に振りながら、千夏ちゃんはため息を吐く。
「無理でしょうねー・・・。けど、いい加減前に進まないとダメだと思うんですよ、二人も。だからせめて、私がもう引きずっていないことを分かってほしくて」
「そうですね。・・・僕も、そう思います」
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~現在~
「あの子が、そんなことを・・・」
「信じられないのなら後で本人の所で確かめてあげてください。・・・けれど確かに、今の千夏ちゃんはとっくに前を向いて進んでいますよ。本当に強い子です」
夏帆さんは少しの間考え込むように黙り込んだ。それは一分ほどに及び、そして僕にある言葉を漏らした。
「・・・あなたは、千夏のことが、好きなんですか?」
「好きって言ったら、夏帆さんは認めてくれるんですか?」
その確証がないから黙っていたが、夏帆さんが認めてくれるなら話は別だ。
・・・が、現実はそう甘くない。それを示すだけの答えを夏帆さんは告げた。
「・・・やっぱり、すぐには」
「まあそうですよね」
「・・・ですが、あなたの気持ちは信じます。もう少し、千夏の隣にいてあげてください。そして、・・・全てが終わったその時に、まだ千夏が好きだと言うのなら私はあなたを受け入れます」
「ありがとうございます」
少しだけ、夏帆さんの雲の切れ端から太陽が見えた気がした。すぐに陰ってしまうかもしれないそれは、うかつに障ることが出来ないだろう。
だから僕は待ち続ける。きっと夏帆さんが前を向いてくれる日は、そう遠くないかもしれないから。
そして、事故というきっかけすら超えた時、僕はもう一度、千夏ちゃんに思いを伝えたい。それが僕の持つ答え。人生を賭けるという事。
僕は、千夏ちゃんとずっと歩いていきたい。
『今日の座談会コーナー』
着々と外伝にも終わりが近づいてきましたね・・・。実際書いてて思うんですけど、こうしたきっかけで出会った二人が結ばれようとする時、加害者側は本当にこれでいいのかとなると思うんですよね。あくまで自分の恋愛におけるスタンスは「双方の納得」なので、きっかけはどうでもいい部分がありますけど、現実社会はそう簡単にいくものではないでしょう。創作だからこそ出来る話ですね。
といったところで、今回はこの辺で。
感想、評価等お待ちしております。
また会おうね(定期)