凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~夏帆side~
あの人は、遥君と同じではない。
ずっと分かっていたはずなのに、理解もしていたはずなのに、どうしても心がそれを受け入れなかった。また、振り回すだけ振り回して、全てをばっさりと断ち切るのではないかと、そんな未来が雲を生む。
いつからか、私は心から人を信じる事が出来なくなりつつあった。それは多分、千夏に対しても、保さんに対しても。
こんなことに何の意味もないと分かっているのに、意地を張ったみたいに思いだけが暴れている。
・・・けど、もういい加減にしないと、みんな一生幸せになれない。全ての足を引っ張っているのは私だ。
だから、この現状と、彼の気持ちをちゃんと受け入れたい。信じてみたい。それはとても怖くて仕方がないけれど、何もしないでいるならダメもとで期待してみた方がいいのかもしれない。
そのために・・・この胸中をどうしても伝えたい人がいる。
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仕事から帰る。物寂しいリビングにいつものように保さんはいた。
あれから会話もずいぶんと減ってしまった。二人だけの食卓は常にお通夜みたいな状態で、寝る時も背中合わせ。人1人分開いてしまった空白を埋められない日々が何日も続いていた。
・・・それでも、保さんはずっと変わらないでいてくれた。
「・・・ん、帰ったのか? お帰り」
「・・・ただいま」
なぜかふと、目頭が熱くなった。私がどこまでも周りをかき乱していたというのにずっと変わらずにいてくれたこの人の優しさがどこまでも身に染みた。私を信じて、待ち続けてくれているのだと、やっと気づいたのだろう。
身体はふらふらと保さんの方に向かって歩き出す。そしてそのまま、その胸に飛び込むように保さんに抱き着く。
「夏帆?」
「・・・分からないんです」
「・・・」
「彼を信じたいのに・・・私がどうすればいいか・・・分からないんです」
私の口からそう零れることが意外だったのだろう。保さんは少し黙り込んだ後、空いている手で私の頭を撫でた。ごつごつとしていながらも、柔らかい手だ。
「信じたいと、そう思ってくれたんだな」
「・・・あの人と一緒にいる時の千夏、幸せそうなんです。リハビリも、これまで以上に懸命にやっていて。・・・まるで全部、あの人が変えてくれたみたいで」
「実際、そうなんだろうな。・・・俺たちじゃ、目覚めてすぐの千夏を支えることが出来なかっただろう」
少し歯がゆそうに保さんは言う。事故から目覚めて今日この日まで、一番千夏の支えになってくれたのは松原さん、その事実に間違いはない。ずっと同じ場所で見てきた私だからこそ分かる。
だから、託してみたい。千夏を幸せにしてほしい。
なのにその勇気が出ない。認めることが出来ないで、何をすればいいか分からないでいる。
こんな歳にもなって、私は無力さに打ちひしがれていた。
「私は・・・何を」
「なあ、夏帆」
ふと、保さんの声が私の吐露を遮る。そこから繰り出されたのは、私が今何をするべきかという問いに対する真っすぐな答えだった。
「確認だが・・・、夏帆は今、松原君のことを信じたいと思っているのか?」
「はい。・・・最後にもう一度だけ、あの子のことを誰かに託したいと思っています。・・・千夏のことを、幸せにしてほしいと思っています。彼は・・・千夏に惹かれていると、はっきりそう言いましたから」
「なら、もう答えは出ているじゃないか」
「え?」
少なくとも、私は気持ちの部分しか喋っていない。それのどこに答えがあったんだろうか。
答えはすぐに保さんが語ってくれた。
「信じたいと思ったなら、後は待つだけ。それでいいじゃないか」
「・・・あ」
「今まで俺たちはずっとそうして来ただろう? たまたまそれが上手くいかなかっただけで、急に自分が何か出来るわけじゃないんだ。・・・俺はそうして、最初から全てを彼に託していたつもりだ」
「でも、どうしてそんな簡単に人を信じられたんですか?」
顔を上げた私の問いに、保さんは首を横に振って応じる。
「簡単じゃなかった。だから、長い時間を使って確かめたんじゃないか。松原君が、俺たちの事をどう思ってくれているか、千夏のことをどう思っているか」
「そういえば・・・」
「彼は底抜けに優しい。けれど優しいだけじゃない。今はちゃんと、自分だけの誇りと、自分だけの願いをもって俺たちに接してくれている。そしてその自分の願いの中に千夏がいることも、俺は分かっているつもりだ」
初めにこの人と出会った時に思ったことを思い出す。
保さんは、どこまでも人を見る目があった。その人の弱みと強みと、いいところと悪いところを全部見つけ出すのが上手かった。そして、それに応じて人に接することも上手かった。
私は保さんの、そんなところが好きになったはずだ。だから今もこうして、あの日々と同じように惹かれている。
保さんなら、信じられる。その保さんが信じているものを、私は信じたい。
それが「夫婦」であるということ。同じものを見て、同じ思いを共有できる生き物。時々すれ違いや衝突もあるだろうけれど、最後は同じ場所に辿り着く。
そう考えてみると、私はあの人に全てを託してみたくなった。仮に結ばれない道を取ったとしても、彼はきっと、千夏を傷つけない選択をするだろう。そう思えてきた。人間は、考え方一つでどうとでもなる生き物みたいだ。
「・・・親、だからな。千夏の思いを信じてやらんといかんだろう」
「そうですね。・・・これまで私がどうしてきたか、ようやく思い出したような気がします」
千夏が五年間の眠りに着いた時も、上手くいっていない時も、ずっと子である「千夏」を信じて生きてきた。今更それを覆す事なんてできはしないから。
私はこれからも親であり続けたい。だから、もう一度、何度でも、千夏と、その周りにある想いを信じることにする。
答えなんて、それだけでよかった。
そう思うと心の緊張は急にほどけて、飾らない言葉が現れてきた。
「・・・保さん」
「今度はなんだ?」
「好きです」
保さんは突然のそれに驚いたように息を漏らす。だけどそれを受け入れてくれるのも保さんで、少し恥ずかしそうにしながらではあるがちゃんと答えてくれた。
「・・・ああ、俺もだ」
「これからもずっと、お願いしますね。同じ景色を見て、同じものを信じて・・・」
「分かってる。ずっと一緒にいてくれないと、俺も困るからな」
そこからしばらく時が止まったような気がした。この柔らかい二人だけの時間はいつぶりだろうか。初恋の頃に戻ったような感覚に、私も少しだけ苦笑した。
結局今日この日まで進めなかったことを謝ることが出来なかったが、多分それでいいのだろう。謝罪よりも、明日を見ることの方がきっと素晴らしい。
・・・私はもう大丈夫だから、いつでも戻っておいで、千夏。
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数日後、いつも通りの職務中。
千夏は私の心に動きがあったことを見抜いていたようで、柔らかな笑みで一度「そっか」と呟いた。きっと謝ったら千夏は怒るだろうと思って、私は敢えて何も言わない。
ただ、一つだけ「リハビリ、頑張ってね」とだけ伝えて。
そして廊下に戻った時、久しぶりに彼とすれ違った。・・・因縁の、彼だ。同じ職場にいながらこうもすれ違うことが無かったのはきっと、私から避けていたからなんだろうけど。
「あ、夏帆さん」
「お疲れ様、遥君」
募る想いはいくらでもある。この災禍を生んだ原因の一部でもある彼のことは、まだ少し怖く思えてしまうけれど。
それでも私は、もういつも通りの私だった。
「これから、千夏の所へ?」
「はい。・・・えっと、その」
「何?」
「・・・いえ、何もないです」
何度か苦しそうな表情を見せたが、結局遥君は何も言うことはなかった。
分かっている。私が彼に抱いていた感情を、彼は知っているのだろう。そして、それを確かめようとして、やめた。
けれど、それを沈黙のままにされても少々気分が悪い。だから私は、少しだけ意地悪してみることにした。
「遥君は、今、幸せですか?」
「え? ・・・はい、幸せですよ」
戸惑いながらも、迷いない答え。千夏を切り捨てて得た彼の人生には、ちゃんと光が当たっているみたいだった。
だから私は笑顔で言う。それを損なうことなかれ、と。
「なら、どうか最後まで幸せになってくださいね。・・・私も、応援していますから」
かつて、我が子と同じように愛情を注ぎこんだ子。今となってはもう手が届かないところにいる他人。憎い気持ちがないわけではないけれど。
それでも、応援していると送った言葉に嘘はない。子はいつだって親の元を離れていく生き物だ。離れていった存在を、いつまでも睨みつけてはいけない。
頷いた彼は千夏の部屋へと向かっていく。これからも、彼は千夏にとっての「友人」であり続けるのだろう。私はただ、その行く末を見守る。
おそらくそれが、私の憧れた「親」なんだろうね。
『今日の座談会コーナー』
こうしてみて思いますけど、水瀬保という存在、めちゃくちゃメンタルが強いんですよね。多分この作中屈指だと思います。さて、小説は作者の思いの反映と言いますが、水瀬保に至っては私の憧れる「親」の像そのものと言っても過言ではないと思います。子を信じる芯の強さ、全てを包括、許容する優しさ、目の前の出来事をまっすぐ捉えられる胆力。そうしたものを兼ね備えた人間を、私はどこか尊敬しているのかもしれないですね。
といったところで、今回はこの辺で。
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また会おうね(定期)