凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~千夏side~
リハビリが始まって三か月が過ぎる。窓の外に見えていた紅葉は深紅に染まり、今にも燃え尽きようとしている。もうじき寒い寒い冬がやって来るだろう。
しかし、私にとっての春が近いこともまた事実だった。リハビリは比較的順調に進み、杖を使って自分で歩けるくらいには足も回復した。もう一か月もすれば退院に迎えると先生も言ってくれている。
そんな最近だからこそ・・・私は、私の夢と、秘密をそろそろ松原さんに打ち明けないといけない気がした。
私の思いは常に海にあること、私が海に干渉出来る存在であること。・・・松原さんとは、住む世界が違う事。それら全てを打ち明けないといけない日が、多分すぐそこまで迫っていた。
あの人への好意が明確な恋に変わってしまう前に、それを伝えないといけない。悲惨な終わり方だけは、もうごめんだから。
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いつものように松原さんは仕事の昼休憩にやってきた。手に握っているスチールの缶コーヒーが、外の肌寒さを思わせた。
「寒いんですか? 外」
「ええ。これから冬になりますけど、僕がこの街に来てから初めての冬なんです。だから、どんなものか分かってなくて」
「昔はすごかったらしいですよ? ・・・私が眠っていた、五年間は」
「・・・眠っていた?」
ここから先は、私が初めて松原さんに伝える真実。これからさらに、同じような反応をするだろう。それでも伝える。それが優しさだという事を、私はもう知っている。
「・・・松原さん、今日、私はあなたに伝えなきゃいけないこと全部伝えます。それは絶対、簡単には想像できないことでしょうし、受け入れることもままならないと思います。・・・だけど、伝えさせてください。私が、あなたと距離を縮めるためには、必要なんです」
「・・・それほどの事なら、聞かない方がバカでしょう。聞かせてください」
松原さんは、全てを受け入れる覚悟を持った目をして私を見つめ返してきた。その視線が歪まないことを願いながら、私は一つ一つを語っていくことにした。
「私の実年齢、何歳だと思います?」
「実年齢、ですか? ・・・確か今、高校三年生でしたよね? ・・・それに、二年の昏睡期間を足して、20・・・」
「はい。見た目年齢は20であってます。・・・ただ、私は生まれてから25年経っているんですよ」
「・・・え?」
どうしてそうなっているのか、理由が想像できないのだろう。しばしの間、松原さんは口を開けたまま頭に手を当てて何かを考えていた。
しかしそれはまとまりきらない。当然だ。エナを持っていて、冬眠に巻き込まれて、なんてことを、根っからの陸の人間であるこの人が知る由はないのだ。
「・・・千夏ちゃん、あなたは」
「目が覚めて三か月間、ずっとあなたに言ってなかったことがあります。・・・それは、私にはエナがあること、海で生きることが出来る人間であること。そして、数年前の海村の冬眠に巻き込まれて五年の時を過ごしたということです」
「エナ・・・冬眠・・・?」
「松原さんは外の街から来たので、聞き覚えがありませんよね。エナは、海の中でも呼吸が出来る性質です。私はそれを持っているんですよ」
予想もしていなかった真実だろう。私が眠っていた二年間、誰の口からも聞かされていなかったみたいだ。
表情は苦悶のような葛藤のような感情で歪んでいく。ただまっすぐ、視線だけを私の方に残しながら。
「まあ、ぶっちゃけ五年の冬眠についてはこの際どうでもいいんです。もう終わってしまったことですし。・・・問題はここからなんです」
それは、私が海に心を引っ張られているという事。
海のために生きたい。海で仕事をしたい。それが私の夢である事。
松原さんとは"住む世界が違う"ということを私は伝えなければならなかった。
これだけよくしてもらった。思いさえ伝えてもらった。
だけど・・・だからこそ、この話をしなければならない。棘で締め付けられた心がジンジンと痛む。けれど逃げることが優しさではないことを、沢山の人に教えられたから。
大きく吸った息と引き換えに、確かな言葉が産声を上げる。
「松原さん。・・・私は将来、海で仕事をしたいと思っています。これは、誰にも邪魔されたくない、私だけの夢なんです。愛より、恋より、私はこの夢を大事にしたい」
「・・・」
「やっと叶いそうなんです。海と陸の隔たりがなくなって、私も大きくなって、ようやく昔から抱いていた夢が叶いそうなんです」
「そう、ですか」
落胆しているようには見えなかった。それよりは先ほどから続いていた葛藤の色が増したと言うべきか。松原さんはずっと何かを考え込むような表情を続けていた。
下心など微塵もない、純粋に私のことを考えてくれているのだろう。それほどまでに、この人の誠意は真っすぐだった。
だからこそ、私も意識してしまう。どうしてもこの人を傷つけたくないと。
それでも譲れないものはある。それにこの人の性格だ。中途半端に私が夢を投げ出す方がよほど嫌なのだろう。
部屋には、居心地の悪い無言が続く。
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~聡side~
打ち明けられる事実は、停滞していた現状をどこまでも壊していく鋭い一撃だった。そしてそのどれもが僕にとって残酷なもの。
今、千夏ちゃんは明確に"住む世界が違う"ということを突き付けてきた。予想だにしていなかったその言葉に、胸が苦しくなる。
・・・僕の一番の望みはなんだ?
あの日からずっと抱いていた疑念を、何度も問いかけた言葉を、もう一度自分に問いかける。
僕は、あの人たちに幸せになって欲しい。そして、出来るならそこに自分もいたい。ずっとそれを願ってきたはずだ。
そして、千夏ちゃんはもうすぐ夢を叶えようとしている。それは幸せになることそのもので、背中を押してあげるべきことだ。
それで、いいはずなのに・・・。
そこでようやく僕は、我儘が行き過ぎてしまっていたことを知る。
自分の叶えたい望みが前に出てきたことで、今こうして相反する二つのものがぶつかり合っていることを知った。その狭間で自分が何を一番大切にすればいいか分からなくなっている。
だんだんと頭が真っ白になっていく。どうすればいいか、その解は今すぐ出るものでもなさそうだ。
深く、深く悩みこんでいると千夏ちゃんが沈黙を切り裂く。
「・・・もう、終わりにしませんか?」
「え?」
「私のリハビリも順調に進んでいます。もう二か月もしないうちに退院できるって先生も言ってました。・・・もう、松原さんが手を加えなくても、私は歩いて行けるんです」
明確に"いらない"と口に出されたのは初めてだった。それがあまりにも唐突すぎて、思わず僕は聞き返してしまう。
「僕は・・・もう邪魔ですか?」
「そんなことはないです! ・・・ないですよ、そんなこと」
一度声を張り上げて、千夏ちゃんは俯く。その反応が見れただけで、僕は今日までやってきたことが無駄ではなかったと思い込むことが出来た。
でも、だからこそ、距離を取ることに踏ん切りがつかない。
「私の夢のある場所に、松原さんが介在することは出来ない。それなのにズルズルと関係を続けても、お互い辛いだけなはずです。だから、もう・・・」
言葉はもう耳に入ってこなかった。言っていることが何一つ変わっていないからだ。
それを差し置いて僕はただ、「これからどうすればいいか」だけを考えていた。夏帆さんとの約束、島波さんに言われた言葉、僕の、千夏ちゃんの願い、それをうまく擦り合わせて答えを探す。
けれど、辿りついた答えは、逃げの一手と言っても過言ではなかった。
「・・・半年だけ、猶予をくれませんか?」
「え?」
「前にお誘いしましたよね? 旅にでも出てみないかって。そこで僕はもっと千夏ちゃんを知りたい。今の話を受けても、その気持ちに変わりはありません」
「・・・行きたいですよ、私も。でも、いいんですか?」
何が、とは問われないが分かっている。仲を深めれば深めるほどすれ違った時の痛みが大きくなるという事だ。
ただ、覚悟は最初から決まっていた。痛みを受け入れることを、今更拒む必要もない。それに、旅に出てみればまた何かが変わるはずだ。僕はそれを信じている。
「僕は、後悔しない自信しかないですよ? それでも千夏ちゃんが嫌というならやめますけど」
「・・・いえ、私も行きたいです。それが、遠慮なんかじゃない私の気持ちです」
それから千夏ちゃんは、どこから吹っ切れた笑みを浮かべて、冗談めかしくとんでもないことを口にした。
「・・・松原さん、ちょっと提案、いいですか?」
「はい?」
「付き合ってみませんか? 私たち」
「・・・はい?」
確かに僕は惹かれていると口にしたけれど、千夏ちゃんの全貌のまだ数割しか理解できていない。それで好きなんて言っていいものだろうかとずっと葛藤していたというのに、千夏ちゃんは何のためらいもなくそれを口にして見せた。
そしてそれからクスクスと笑いながら続ける。
「ただ、普通にするのもなんなので、仮契約、みたいな形はどうですか? 仮恋人、みたいな」
「なんでまたそんな回りくどいことを・・・」
「多分松原さんのことだから、ちゃんとお互いを知ってからにしたいとか言うんだろうなって思ったので、この提案です」
バレていたみたいだ。
「恋人という関係になってしまったら、私たちは嫌でもお互いのことを意識しないといけなくなるでしょう? 半年も猶予を取るなら、忘れることが出来ない日々にしたい、そう思いませんか?」
「違いないです」
「・・・夢は譲りたくありませんけど、私はことが上手いように運ぶことを信じているので。きっと旅の途中でその答えが見えたら、なんて」
「ありがとうございます。・・・そう言ってもらえて」
本当に芯の出来上がった人だ。お母さん譲りの思慮深さと、お父さん譲りの優しさを千夏ちゃんは兼ね備えている。
「じゃあ、契約成立ってことで」
「はい。喜んで」
「それじゃ、一つ契約に組み込みたいのが・・・」
「?」
「恋人が台頭な間柄というのなら、敬語はなしで。私はそうしたいの」
「・・・なるほど。確かに、遠慮して話すのも堅苦しいか」
ずっと、大切にしなければと思っていた。それは自然と言葉にも表れていて、僕はどこまでもへりくだることに慣れた存在になっていた。
けれど、それを終わりにしたい、していいと向こうが望むなら、僕は改めて、一人の女性として目の前の千夏ちゃんを認識しよう。
「じゃあ千夏ちゃん、これからもよろしく」
「うん、よろしく。松原さん」
「・・・呼び方は変わらないんだ」
「それはもうちょっと時間を置いてから、ってことで」
前途多難なのか、順風満帆なのか分からない前進。
けれど確かにそれは僕にとっても、千夏ちゃんにとっても大きな一歩だと確信して、僕は心の底から笑って見せた。
・・・今はただ、この日々を楽しもう。僕達は、仮とはいえ糸を結んでしまったのだから。
『今日の座談会コーナー』
書いててなんですけど、この二人のコンビの空気って遥×千夏とはまた違ってくるんですよね。歳の差というのもあると思いますけど、そうした差がありながらお互い押しまくるというところが本編二人と違うように思います。というより、覚醒後千夏は悟りを開いていると言っても過言ではないので、本編のどの状態よりもしっかりしているんですよね。それがこの二人の距離感に繋がっているのではないかなという風に思います。
と言ったところで、今回はこの辺で。
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また会おうね(定期)